蜷川実花監督「さくらん」、そのレッドとピンクの大きな乖離。

 

散り行く桜を惜しみつつ、映画「さくらん」の話題を少々。ビートたけし映画の基調色を「たけしブルー」と呼ぶなら、蜷川実花映画の基調色は「蜷川レッド」である。鮮やかな天然色の中でもレッドは飛び抜けて存在感を示す基調色となっているのである。それくらいに彼女の撮る映画の色調は独特であり個性的である。写真家としてすでに著名な彼女であるが、ちょうど写真にて写し取られる色彩の世界を、映画という大衆娯楽映画の世界に持ち込んで成功させているのである。

映画「さくらん」は蜷川実花の初監督作品ということだが、まさしくこれだけ自分自身の「カラー」を出せるのであるから、実力も相当なものである。しかしながら不満がない訳では決してない。彼女が描く色使いは基本的に計算づくに仕組まれたものであり、それゆえに、無意識裡の欲望やら無常観やら激情やら憤怒やら…その他諸々の情念からすると距離をかんじさせるもなのである。

一例を挙げるならば、ピンクの不在が挙げられる。レッドが薄まったところにピンクが存在するという認識は誤りである。レッドは豊富に存在していながらピンクの不在がこの映画に顕著なのである。当代きっての新進気鋭女性監督と女性漫画家、女性脚本家、そして今をときめく女優陣たちといった強力な布陣、これが当映画の売りであったと想像する。だがその目論見は成功しているとは云えないだろう。

光の三原色、あるいは絵の具の四色といった色彩原論に根拠を置く映像の制作スタイルは、とても計算づくであり、どこか潤いに欠けている。男性の目からというより人間の視線を真っ当に受け止めていないと感じてしまうのだが、思い過ごしだろうか?

蜷川実花監督「さくらん」、そのレッドとピンクの大きな乖離。」への1件のフィードバック

  1. ぼくたちは子供の頃からビートルズ的なものが嫌いなので、
    村上春樹とか、ビートたけしとか
    入りづらいです。

    ビートルズ的なものを舞台装置にする時点でアウトです。

    いま考えると
    カシオペアやプリズム
    フュージョンギタリスト
    野呂一生をモデルにして
    小説を書いた
    田中康夫って人は
    たいへんな努力家だったんじゃないか、いや努力家ですと断定できます。

    ただフュージョンの鍵盤は理論を理解して、なぞって弾くだけだと、
    三重県の町工場風情、工場の機械音以下のつまらないものになった、毎日いろんな掲示板を追放される、追放ジプシーになる可能性大です。

    へんなたとえですが
    三重のセミプロリーグで
    193勝で名球会に入れなかった
    松岡監督みたいな立場かな・・

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