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いつもは自転車で通り過ぎる花屋の前でふと目を止めて立ち寄った店頭にあったのが、この「四季なり いちご ファーストラブ」だった。

些か大袈裟に長く受け狙いの商品名であることは明らかである。小振りな鉢の中を眺めれば、イチゴの花とも思える赤き花弁(なのだろうな?)が、喩えてみれば、奈良美智の目線でおいらなどの消費者にコンタクトを取っているらしく思えた。コンタクトと云うのは表現の綾でもあり、実は挑戦的に喧嘩を売られていたのかもしれないくらいの状況であった。本当にいちごの実はなるのか? といった疑問を、徹底して撥ねつけるかのごとくに、その視線は尖っておいらに突き刺さってきていたのだった。

共喰い

昨日、田中慎弥氏による芥川賞受賞作品の「共喰い」を書店で入手し、早速読み進めていた。集英社刊、定価1000円+税、p144、上製本なり。

先日には田中慎弥氏の既刊本「切れた鎖」を読んだ時とは裏腹に、遅滞なく、ほとんど何もの違和感などなく読み進めることができた。云わば小説の体を成していて極めてオーソドックスなつくり、構成がそうさせていたのであろう。翻ってみれば、「切れた鎖」を読んでいて感じた、実験的要素はほとんど影を無くしていた。ちょっとした期待外れの印象を禁じ得なかった。

様々なサイトやブログ上で、本作品のプロットについては述べられているので、ここでは最小限度のそれに留めておきたいと思うが、それにしてもこのプロットは、極めてオーソドックス過ぎるくらいに意外性を持つことがなかったのである。

おそらくは作家の故郷である下関市内であろう、糞の臭いのする海沿いの町を舞台に物語りは進んで行く。主な登場人物は高校生の遠馬と、彼の父、別れて暮らす彼の母、ガールフレレンドの千種、そして父と暮らす今の愛人たちだ。限定された人間関係の中から、とても濃密でおぞましい物語が紡ぎ出されていく。

遠馬の父は相手の女性を殴ることによってしか満足を得ることができないという、云わば性行為における変態性欲の持ち主として描かれる。父の血を継いでガールフレンドと向かい合う遠馬にもまた同様の嗜好性があり、高校生は其れ故の葛藤におののくのだ。父と対峙しつつ、父と子供という対決へとは向かわずに、物語は横道に逸れたように、主役以外の人間へとバトンタッチさせられてしまうというのも、的外れ、期待外れの念を禁じ得ない。

今回の選考を最後に芥川賞選考委員を辞退した石原慎太郎氏は「馬鹿みたいな作品だらけだ」と感想を述べていたが、「共喰い」に関しては頷けるものがある。つまりはこの作品のプロットが作り込まれた極めて「人工的」なものであるという所以から、発せられる感想でもあるからだ。変態性欲やそれが元になる事件を純文学で扱うことへの抵抗感がおいらの中に芽生えていた。特殊な性欲をあたかも当たり前に扱うことへの抵抗感とでも云おうか。

作家の身体性に基づくものではなく、小説のプロット構築の為に作り話を組み上げていく作業というものは、果たして純文学に必要なる仕業だろうかという疑問に、ひどく蔓延とさせられているおいらなのであった。

大衆寿司店にて久々の熱燗を一献

日本酒を飲むのは月に1度程度と決めている。生活習慣病対策においては残念ながらではあるが欠かせないこととなってしまった。

おいらはそもそも、日本酒、ことに熱燗を口にしたときの、先ずは湯気と日本酒特有のあまさが相俟って鼻からそそって入り来る得も云えぬ香りに感激する。ことに今日この頃のような寒気に被われている日々においては尚更である。

月に一度の掟破りの贅沢だから、つまみは何にしようかと思案したのだったが、結局は大衆寿司店の寿司と決めた。懐も寒いこの節には大衆寿司店も通い慣れた店となっている。

名古屋料理を提供する居酒屋チェーンの「世界の山ちゃん」八王子店にて、「きしめんタリアーナ」なるメニューを食した。名古屋特産の麺である「きしめん」を、イタリアン風にアレンジ味付けして提供されている。「タリアーナ」とは「イタリアーナ」の省略形かと思われるが、店内にそのような説明はなかった。

帰宅してネットで調べているのだが、「タリアーナ」と検索して出てくるのは奈良のイタリアン専門店ばかり。相当有名なイタリアンの店だと見え、アクセス方だとか様々な派生的項目がヒットしてくる。そんな名店であろう、奈良のタリアーナのパスタの味わいにはほど遠いが、名古屋きしめんを素材にアレンジして調理されたイタリア風きしめん料理も、そう悪くはない味わいだった。

イタリアンなのだろうが、大葉を散らしていて和風の味わい。考えてみれば近頃のパスタも、明太子パスタだか野沢菜パスタたかというくらいに日本食材を取り入れて日本人好みにあれんじされているのであるから、別段に「きしめんパスタ」がメニューに載っていたからと云って驚くには当たらないということなのであろう。

本日も北日本や日本海側新潟地方等では大雪が降り積もって、冬の真っ盛りの様子なり。そんな季節においらは、春の風物詩でもある「菜の花」を一足先に味わって、春気分に浸っていたのだった。

ピリ辛醤油で控えめに味付けされていたその春の「菜の花」はと云えば、それこそまったく凍えた気配などなくとても鮮やかな春の味覚を呈していたと云えよう。

例えれば、蕾が花を凌駕するという形容が成り立つとすれば、春間近の蕾ばかりの春の「菜の花」の香り、味わいは、まさに花の其れをも凌駕すると云って良いのだろう。

冬に美味しい里芋を、皮付きのまま蒸し上げて出される居酒屋メニューである。「きぬかづき」と云うメニューを見たこともあるが、どうやらどちらかが誤謬のようなのだが、我国には2つの説が飛び交っておる状況にあり、果たしてどちらが誤謬なのかは今のところ判然としていない。

あまり大きくならない小芋を調理するのが一般的であり、指で里芋の皮をなでるだけでつるんと剥ける。これが楽しい。

そして白身を露にした里芋の身を口に頬張れば得も云えぬとろんとした味わいに酔いしれるのだ。これが食せる季節はそう長くはないのであり、今度は自宅の料理にてチャレンジしてみたいと思ったのであった。

切れた鎖 (新潮文庫)

1月27日には芥川賞作家の受賞作、田中慎弥氏の「共喰い」が発行されていたのだが、おいらはそんなことも知らずその日に赴いた書店にて「切れた鎖」を買って帰った。書店には「売り切れ」の貼り紙も無く、何時発売されるのかも知らなかったので、田中慎弥ブースに陳列していた中から「切れた鎖」を選んでいたに他ならなく、出版社や書店の思惑とは無関係な場所にておいらの読書体験が進行していたと云うことのみではある。

さてそんな経緯から「切れた鎖」を読了したのだったが、これが結構、稀有な読書体験を齎してくれたのだった。表題作の「切れた鎖」は、或る名家の三代にわたる妻による確執がテーマとなっており、刺身のつまのようにて、夫なり彼氏なりの男性が登場している。それに加えて傍流のシチュエーションとしての在日人による教会との確執が描かれていく。小説のテーマは混在しており、どれがメインの其れかは人夫々の判断に委ねられている。純文学に相応しい構成であると云えるのかも知れない。ただし、物語は時系列に則って進んでいくわけではないので、時々留まっては物語の筋道の整理をする必要などが生じてくる。これもまた物語の読書体験としては稀有なものであった。

巻末の「解説」にて、安藤礼二氏は書いている。

―――(引用開始)―――

田中慎弥は、コミュニケーションの即時性と即効性が求められる現代において、きわめて特異な地位を占めつつある作家である。わかりやすい伝達性や物語性とは縁を切ってしまい、自身の無意識から発してくる原型的なイメージの群れを、その強度のまま、表現として定着させようとしている。そこで問われるのは、無意識の破壊的なイメージ、すなわち妄想の主体となる、閉じられた「私」の問題であり、そのような「私」を可能とした家族の問題――特に、いったんは時間の外に失われながら、ついに亡霊のように回帰してきては「私」を脅かす「父」の問題――である。

―――(以下略)―――

バナナの朝食を摂ったのだ

朝食にバナナとヨーグルトを食した。最近はダイエット志向も手伝って、このパターンの朝食が増えている。たしか数あるダイエット法の中には「バナナダイエット」があったはずだとググってみたところ、あるわるはの大盛況だ。特に朝食にバナナという「朝バナナダイエット」に注目が集まっている。

バナナは胃に優しいとかカリウム豊富だとか、そんな当然のことが、「公式サイト」やらに書かれている。おいらは決して、そんなものを見てバナナ朝食を始めたのではないぞっ。

こんな薄っぺらなブームに乗せられたらせっかくのバナナが台無しだね。今度はバナナともう少しバランスを考えた朝食をとることにしようと考えている次第である。

本日未明の「朝まで生TV」にて、橋下徹を囲んでの「大阪都構想」に関する云々の議論がなされていたのだが、けだし厚かましくも思い上がりによる橋下徹の議論展開に対してはとても胸糞悪き思いを充満させてしまったのであり、稀にみるほどのTV番組の如何わしさを露呈させるものであったと云わねばならない。

メインコメンテータの橋下に配慮して生番組の撮影は大阪にてなされていた。それは敵陣に乗り込んで行なった撮影とは云い難く、敵陣に塩を送ってなおかつもTV局自らの防衛力の放棄を示した行為にも異ならなかったのである。司会者田原の表面上は威勢の良い司会っぷりとは裏腹に、番組構成上の様々な汚点が垣間見える、悪しき典型の番組と成り下がってしまっていたのであった。

定食屋で「ワカサギのフライ」を食べる機会に遭遇した。これがまた、ワカサギの苦味やエグミを取り込んでいてなかなかの味わい。フライとして調理されるべき食材であると、新たな認識を得たものでもある。

つまりは少々くどくなるが、キスなどの淡白小魚などとは異なり、ワカサギは淡水魚特有のエグミ、苦味、アクの強さを有しており、これが天ぷらにすると少々物足りない料理となってしまう。フライが上等なのである。洋食よりも和食を好むおいらだが、ワカサギ関係においては洋食系フライ料理に軍配を挙げてしまうのだ。これもまた仕方がない浮世の道理と云うものか。

野性味溢れるワカサギフライをがぶりと噛めば、口中に至福のエグミがまんいつしてくる。フライを食べた後で卵とじにしてどんぶりにかければ、これまた至福の「ワカサギ丼」の出来上がりである。上州榛名湖の氷上で釣ったワカサギを丼にして食べたときの感動は、感動の食材との邂逅であり、ずっと忘れることはない。美味い「ワカサギのフライ」にありつくと故郷が恋しくなる由縁である。

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