パウル・クレーの「子供の領分」と谷川俊太郎の「選ばれた場所」

新潟・福島を襲った豪雨の影響で昨夜から激しい雨が続いていたので、本日は外出することも避けて、アクリル画の制作に没頭していたのだ。2〜3年前から続いている制作意欲を何かのかたちにしたいと考えているのだが、昨年初夏頃のチャンスを逃して以来、具体的な道筋は見えてこない。かといって受動的態度で時を過ごすことも出来ないので、日頃の制作活動の時間は、たとえ少々なりともとるようにしている。

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夕刻を過ぎて雨も上がり、街に出て駅前の古書店を覗いていると、パウル・クレーの「子供の領分」という画集が目に付き衝動的に購入した。1997年に「ニューオータニ美術館」というところで開催されたパウル・クレー展で頒布された展覧会の図録であるようだ。

本年開催されたクレーの「おわらないアトリエ」展の出品作品とはまた違った傾向の作品が収められており、つまりは幼児画的パウル・クレー作品とその創造の背景にスポットが当てられ纏められており、至極興趣をそそられているところだ。幼き時の制作スタイルを常に踏襲しながら、名声を博した後も常に幼児の目線を制作の根本に据えていたクレー師の偉大さは図録を一瞥するだけで漂ってきており、その創造の原点の逞しい息遣いを感じ取らざるを得ないのである。

この図録には谷川俊太郎さんの「選ばれた場所」というポエムが収められている。

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選ばれた場所
谷川俊太郎
そこへゆこうとして
ことばはつまずき
ことばをおいこそうとして
たましいはあえぎ
けれどそのたましいのさきに
かすかなともしびのようなものがみえる
そこへゆこうとして
ゆめはばくはつし
ゆめをつらぬこうとして
くらやみはかがやき
けれどそのくらやみのさきに
まだおおきなあなのようなものがみえる
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夢は爆発し、暗闇は輝き、暗闇の先に大きな穴の様なものが…とうたっている、その俊太郎さんの思いは、今のこの時代における最も今日的な課題に立ち向かっている詩人の魂の言葉であろう。

サバの味噌煮をつまみで食べたらとても良かった

サバを使った定番メニューとくれば、サバの味噌煮、しめサバ、サバの文化干し、蒲焼き、等々となるが、サバの味噌煮は特に昼の定食屋で定番のメニューであり、注文度がかなり高い。そうかといっても夜の居酒屋で注文してみればまた新たな感動が発生したのであり、昼食メニューとはちと違う、一風違った趣だったのでここにレポートしておきたいと思ったのである。

定食屋のサバ味噌の切り口とは違い、背骨をざっくりと残して寸胴切りにしてある。見た目の美味しさが引き立っている。そして箸を付けて一口。う~む、なかなか味噌味が利いているようでありグッドな出来栄え。サバに味噌は良く似合うのは当然だが、塩味が程よく中和される味噌という絶妙な調味料の仕事の様については改めて尊崇の思いを強くしたのだ。

そもそもサバは足が速いので、生食されることは滅多に無い。その代わりに保存食として古今東西より珍重されきており、サバ味噌などはそんな珍重的文化メニューの代表格なのだ。そんな珍重的文化メニューを昼の定食のみに押し付けていたことの不条理は、これから明らかになっていくだろうが、それはともあれ夕食のつまみ的食としてのサバ味噌が絶品であることを今日は逸早くキャッチしたのであるから、ラッキーだったと云うべきであろう。

造反無理政局の行方5 海江田万里の三文芝居に惑わされてはならない

海江田万里という経産大臣は色々なパフォーマンスを駆使して政局の混乱に拍車を掛けている。絶句してみたり涙の無い嗚咽を演じてみたりと、まるで三文役者そのものである。もともと役者の自覚があるならば、本物の涙を流すくらいの演技的訓練はしておくべきだがそれさえも無い、ただ単に付け焼刃的パフォーマンスの醜い光景を見せられるばかりである。

海江田が意図すべきは菅直人総理大臣の追い落としに間違いないが、ここに来てまるで、勲功章を目指しているのではないかと勘繰られる動きが見られるほどであるからいいかげんにして欲しいのだ。くだらないタレント政治家の最後のパフォーマンスを黙って見過ごしていくわけにはいかないのだ。

現政局にあっては造反無理的政局の動きに加担する政治家は須らく、こそこそ政局を嗅ぎまわる政治屋風情に過ぎないことは明らかであり、今後の菅直人内閣の意義が浮かび上がってくるのである。

マスコミはほどよく傀儡されている。傀儡する主語的存在は、日本の軍産複合体である。抽象的に云えばそうなのだが、もっと具体的な姿が明らかになろうとしている。東電をはじめとする電力産業複合体である。電産複合体はピエロやポチ犬を雇っていて、ときどき誰彼がそんな役目を買って出ている。彼らにとって三文芝居役者の海江田万里を操ることなどは至極簡単なるオペレーションのひとつに過ぎないのである。

町田康氏の新著「ゴランノスポン」

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一部ではカリスマ的な人気を誇るパンク小説家、町田康氏の新著「ゴランノスポン」を読了した。7つの小・中編による作品集で、表紙カバーにはこれまたカリスマ的アーティスト、奈良美智氏の新作「Atomkraft Baby」が採用されており、至極目を惹かれることとなっていた。この表紙によって購入を決めたと云っても良いくらいだ。

表題作「ゴランノスポン」は雑誌「群像」2006年10月号にて「ホワイトハッピー・ご覧のスポン」として発表されたものを改題してある。タイトルだけ見たら何を意味しているか見当もつかない様な可笑しなタイトルだが、かつての「群像」での作品名を知り、漸くその意味するところの合点がいったのだった。なった訳だが作者のほうは何故だか知らぬが、一般人には韜晦の至りかのごとくのチンプンカンプンな表題に変えて、敢えてその「意味の無さ、希薄さ」を表出させて愉しんでみたのではないかと睨んでみたところだ。こんな表題作に出来るのがパンク作家としての面目躍如といったところだろう。ご覧の様にスポンと落ちる。落ちます、落とします。スポンという擬態の音…。底を見せぬ闇の中へと連れ去って行ってしまいそうな、厳粛かつ滑稽な擬態の音だ。天使か悪魔かは知らぬが大きく両手を広げて手招いているかのようである。

少し前までは独特なボキャブラリと俗的世界の話題を操るパンク兄ちゃん、過剰な才能を持て余している一人よがりの空回り的存在、的な評価を抱いていた町田氏だったが、色々とこの世間とやらに対して挑発する様は勇ましくもあり、可能性をも伝えて来るものがある。

ある種の三文小説の落ちとも変わらないプロットやそうぞうしいばかりの展開やらには辟易していたが、つまりは、小説一つ一つの評価は、あまり点数を付けにくいのだが、読み終わってみればそれらを含めて現代作家たる才能を撒き散らしているということなのだろう。

西荻窪「戎」の邪道系旨メニュー「イワシコロッケ」

居酒屋メニューの中にはウケを狙って顔を出すだけの邪道メニューが少なくない。特に激安を売りにしたチェーン店のメニューには、毎月毎月品を換えてそういた邪道系料理がメニューブックを飾っている。これは駄目だと思いつつも、1度くらいは試してみようかと、ついつい注文してしまうもののようなのだ。ほとんどが月単位、季節の変わり目には姿を消すが、ある一定の比率でこうした料理が店舗の売り上げを支えていることは疑いないのである。

ところがこうした邪道系メニューの中でも一定の、ユーザーの舌を捉えたものもたまに在る。西荻窪「戎」の「イワシコロッケ」は、地元の呑兵衛たちに支持された珍しい料理と呼んでも過言ではないだろう。

■イワシコロッケ
コロッケの具材の脇役は、牛肉、タマネギ、人参、あるいは山芋、茸、等々数在れどもあくまで主役はジャガイモである、とずっとそう思い込んでいた固定観念を覆させるかも知れないメニューである。レシピは簡単であり、通常のコロッケの具材のジャガイモにイワシがプラスされたというもの。半分がコロッケ、もう半分がイワシフライの味なのだが、妙にイワシの味がとんがっている。コロッケの主役がジャガイモではいけないのだと主張しているかのように、妙に口の中で生き生きとして主張するのである。イワシフライばかり食べていても、イワシの主張のトンガツタ様を感じることは無かったであろうが意外な味覚の主役となって、イワシの存在感を知らしめたのだと云うことになるのだろう。

美味い「ヤマメ」は日本の自然が育てたものだ

しつこいようだが奥鬼怒関係の最後のネタである。奥鬼怒に滞在中には、マスやヤマメなどの川魚の焼き物を味わうことが出来た。特にヤマメは川魚の中でも希少な分類のものであり、東京都内ではなかなか味わうことも出来なくなっている代物だ。

漢字では「山女魚」と記す。山の清らかな水の中に生息する魚と云う意を汲んでいるのだろう。たしかにそれなりの厳かな食味を味わうこととなった。若干なりとも濁った水の中では棲息することのない清らかな川魚の代表選手なのである。

遠火の炭の炎でじっくりと時間を掛けて焼かれた「ヤマメの炭焼き」は、これ以上の評価がないくらいの絶品の川魚料理である。美しいとされる日本の自然の賜物でもある。変梃りんな保守派政治家たちの言葉に惑わされることのないように、一口一口味わったのだ。

この妙なる味わいはといえば、変梃りんな政治家たちが口にするほどのえぐみも無く、とても清々しい川魚の味わいだったのである。

奥鬼怒で鹿刺しを食べて感じ取ったマタギ讃歌なのだ

奥鬼怒を旅して今は東京に舞い戻っている。都会的市民生活にまた埋没しているのだが、奥鬼怒の「食」については極めて大切な知見を得ることとなつたのであり、しつこいようだがここに記しておきたいと思うのだ。栃木県の北部地域には、マタギと呼ばれる狩猟の民達、すなわち土着の人々達が存在している。彼らの食事の多くは、鹿や猪等々の野生動物の肉に依っているところが大きいようである。

マタギとは、古来からの方法を用いて集団で狩猟を行う狩猟者集団たちのことを指すとされている。北海道や東北地方の伝統的な狩猟民族のことを指して云うことが多いが、それのみならず関東圏内でもまたぎは今なお存在しており、栃木の奥鬼怒でもまたぎの生業を続けている人々は多いのである。このようにして関東にも居るマタギたちによって、里山の維持、管理がなされていることを思い知ったのである。森林に居住する熊をはじめイノシシ、カモシカ、シカ、等々の野生動物たちとの共生共存を維持していくことは並大抵のことではない。地域の人々による古来からの伝統的な狩猟方法等を含めた生業によつて、人間と世界との関係が保たれてきたということなのである。人間が大手を振るって自然界を支配しようとするのではなくして、野生動物やその他諸々の存在との調和を図ろうとして築いてきた人々の営みの印を感じ取ったのである。

宿で食した「鹿の刺身」は、冷凍していたものが解凍されて出されていたことは明らかだった。冷々しくて食感は良かったが、少々ガサガサとしたシャーベットを食する時の感じが思い出されてもいたのだった。これくらいに冷やせば食中毒等も防止できるのであろう。文明の利器の存在理由(レゾンデートル)もまたそのときには実感として感じ取ることにもなったのである。マタギ頑張れ! マタギ万歳! なのである。

奥鬼怒旅のスナップ

慣れない登山で足はよれよれになったが、普段の都会の生活では出遭うことの無い光景に遭遇した。途中、蛇に出遭ってどきつとしたり、道を間違えて歩き続けていたりしていたのだが、道草していたルートの丘陵からの眺めは特別なシーンを幾つか見せてくれ、日頃の気持ちのもやもやなどを晴らしてくれたようである。

奧鬼怒の旅の宿から

ぶらり旅にて奧鬼怒に滞在中。ノートバソコンのネット用ツールは電波の圏外だが、ソフトバンクの携帯はかろうじて使用可。慣れないスマホのキーボードをいじっている。若者みたくスラスラ出来る筈もなく悪戦苦闘中なり。時間に追いたてられることの無いこうした旅の時間をいつしかとても愛おしく感じとることが増えて、携帯電話にも馴染み初めているのかもしれない。ちなみにブログ投稿用のアイフォンアプリまで有ることを知り、更に身近なツールになりつつある。

さて、奧鬼怒温泉郷の中で最も奧には四軒の宿が存在するが、加仁湯、八丁湯に予約していない客が襲ってそこに行くには片道1.5時間もの登山道を歩かねばならない。おいらはこの山道を歩いて目指すことにした。露天風呂に浸かってひと息ついたはずが、慣れないことをしたつけでモモがつって歩行困難となっていた。この地域は月のわグマの生殖地域であり、登山道にも出現するらしい。熊よけの鈴も何も用意していなかったので少々恐くなったのだが、幸いに遭遇することなく悪戦苦闘の時間を終えたのだった。

今年は特に希少品となった「ほや」のつまみ

東北大震災の影響で、海産物の流通が悪い。八戸、気仙沼などの大漁港は営業を再開させているが、沿岸の小さな港町は例年のようにはいかないようだ。

東北の味覚を象徴する「ほや」といえば、居酒屋の看板メニューになっているところが少なくないが、今年は中々入手が難しいようで、いつもの店にもなかなか出されることはなかった。メニューを外すのも出来ずに苦労も少なくないようなのだ。

そんな状況の中、ぶらりと入った居酒屋のボードメニューで「ほやの漬物」とあるのを見つけたので慌てて注文。「漬物」というくらいで生に比べて鮮度は落ちるが、ほやの懐かしい味であった。地元の漁港関係者も希少な海産物を漬物のにして流通させようと、知恵を絞っているかに見える。しっかり塩味が効いていて、これはこれで悪くない味だ。

夏野菜、ズッキーニ、パプリカ入りのグラタンはおすすめ

乳製品の品薄感も収まったようであり、牛乳を使った料理が食べたくなった。スーパーで茄子やきのこに加えてズッキーニ、パプリカ等の夏野菜を購入した。一度に夏野菜を味わえるメニューとしてグラタンにして食することにした。

夏には夏の夏野菜というのはありきたりの法則ではあるが、特にこの時期、夏野菜を摂取して身体を冷やすことは長期的な体調維持において極めて重要である。夏になったらば充分に汗をかいて、そして身体の中からクールダウンできる体質を身に付けておくのが肝腎だ。そういう意味で夏野菜を充分に摂取していくことが重要なのは、これまでの自分の身体によって学んでいる。

ズッキーニ、パプリカといった云わば新種の夏野菜を使ってみたのだが、これがなかなかのマッチングだったのだ。ズッキーニはキュウリよりも熱を加えた調理に適するし、パプリカはピーマンよりも甘味と旨みとが滲み出ていて程よく夏の味を謳歌できる。何しろオレンジ、黄色、赤色といった彩りも鮮やかに添えられるのであり、この時期には欠かせなくなる気配が濃厚。料理には見た目も大切なのである。

石川セリの「八月の濡れた砂」テーマ曲を聴いて想い出すことは、そのオリジナリティーの凄さだろう

先日逝去した原田芳雄さんが出演した映画「八月の濡れた砂」について、昨晩は書き損なったことがあるので、しつこい様だが併せて書き記しておきます。

上に紹介した動画に登場する石川セリさんは、まるで肝っ玉母さんのように迫力満点ですが、その昔はクリッとしたその瞳の眼差しやその他諸々で人気であり、ニューミュージックのアイドルとして世の男性陣の羨望の的となり、いつしか井上陽水さんの奥さんとなってしまったので、おいらを含めて男性陣の失望を買ったという凄い人なのです。

そこで今更ながら、何を云いたいのかといえば、原田芳雄さんの代表的な映画を支えていたのが、藤田監督やその他諸々の人々が居る中でも、石川セリさんのこの映画にかなえたものの重量面積その他諸々は限りなく凄かったのだろうと云うことだ。このテーマ曲無くしては「八月の濡れた砂」の絶大なる評価は成り立たなかったのだろうと感じているのだ。

日本映画のアウトローこと原田芳雄さん逝く

井上陽水、栗田ひろみに対するオマージュの言葉、メッッセージ等を整理しようとしていたら、いきなり原田芳雄さん逝去のニュースが飛び込んできた。先日は原田さんが主演した映画「大鹿村騒動記」の試写会に、やせ細った姿で出席をしたというニュースもあったので気にはなっていたのであるが、まさかこれほど早く逝ってしまうとは思わなかった。死因は誤嚥性の肺炎によるものだという。

原田芳雄さんが出演した多数の映画には、おいらにも強烈な印象や記憶が刻まれている。中でも強烈だったのが「八月の濡れた砂」であった。学生時代に3度は鑑賞し、これまで4〜5回はその映画のドラマに接しているという最も鑑賞度の高い作品の重要な役者なのだ。けっして原田さんが主役という訳ではなく存在感ある中堅どころの出演者であったが、この時代のアバンギャルドを体現する役者としては、原田芳雄以上の存在を探すことが難しい。

実際に、同映画で主演したテレサ野田という女優のことはその後の活躍やエピソードを耳にしないし興味も生じさせることがないし、今では有名人の村野武範という役者の印象も薄いものである。それに対して原田さんは強烈なる存在感で映画館の視聴者たちを圧倒していたのだ。

その後、ある意味での牧歌的な学生時代を終えた後のおいらは、芸能記者としてのときを過ごしていたのだが、当時も原田さんの存在はぴか一に光っていたと云えよう。

アウトロー的な役を演じることが多かった原田さんだが、当時、悪童、異端児として恐れられていた松田優作が、原田さんだけは先輩役者として恭順の意を通したということで、原田さんの評価は一挙に上昇することになっていた。何しろ当時の松田優作と云えば記者泣かせで有名であり、文字通りパンチを食らわされて泣き寝入りした記者が相当数存在していたのである。文学界の中上健次先生とも並んで恐れられていた松田優作氏だが、原田芳雄さんの前では素直にしおらしく云うことを聞いていたのだという。腕力だけではおさえきれないものを原田さんには感じとつていたのであろう。「優作も原田さんには適わないな」といった評価が浸透して、原田さんはまた存在感を増していたのであったのである。

今日はここで原田芳雄さんへの哀悼の意を表するとともに、遺作となった映画「大鹿村騒動記」への興味関心がとても高まっていて是非観に行かねばという気持ちを強くしていることを添えておきます。

♪いつの間にか、なでしこは~

朝方いつもの最寄り駅へ向かっていると、女子サッカーの「なでしこジャパン」がアメリカを破って優勝という、快挙の知らせが「号外新聞」の紙面から飛び込んできた。このところほとんどテレビに遠のいていたおいらにとってそのニュースはとても新鮮であり、日本の底力を感じ取るものでもあった。

「なでしこ」等という名札を付けられてはさぞかし戦い難いだろうとも推察したが、結果オーライであった。優勝の美を飾ったのだからこれ以上の賞賛は必要ないということなのだろう。いつかしら知らないうちに彼女たちはびっくりするほどに強くなっていた。

井上陽水さんの名曲を口ずさんでこの快挙を喜びたい。

♪いつのまにか~

本当は栗田ひろみさんの動画があればよかったんですけど、見つかりませんでしたので、よく知らない人のバージョンをリンクしました。ちなみにおいらのアイドル1号とも云うべきは栗田ひろみさんであり、いつか栗田さんや陽水さんへのオマージュを開陳したいと考えているところです。

夏の逸品メニューに成長したゴーヤのかき揚げ天ぷら

夏の野菜の中でもゴーヤはとても個性的だ。元はと云えば沖縄料理に欠かせない地域色豊かな夏野菜だったのだが、いつの間にか日本の夏には欠かせない「夏野菜」のポジションを得た。

その独特の苦みは、初めて口にするものに対してきわめて衝撃的なインパクトを与えうるに充分であり、かてて加えて生食の和え物から炒め物、揚げ物、煮物、等々といった様々な調理法にも対応する夏のオールラウンドプレーヤー的評化を得るに至っているのだ。

本日味わったのは「ゴーヤのかき揚げ天ぷら」。タマネギとゴーヤによるかき揚げといったシンプルな料理だ。個性的な食材を天ぷらという料理法が程よく調和して、夏の逸品としてまとめているという印象だ。あれこれ混ぜずにタマネギにゴーヤといった取り合わせが、ゴーヤ天ぷららしさを際立てており好感が持てたのだった。

今日摘んでも明日には芽を開く「明日葉」のおひたし

今日摘んでも明日には芽や葉を開くということから「明日葉」と命名されたと云う。それほどの生命力を持った青菜として知られた健康食材。だが実際にはそれほどの(名前ほどの生命力)が存在するわけではない。それでも都内をはじめとする居酒屋にはこの「明日葉」メニューが人気だ。

多少癖のあるアクがあることから天ぷらにして出される店が多いようだが、おいらの好物は素直に湯掻いただけの「明日葉のおひたし」だ。アクはあってもそんな野生の風味をこそ味わえるのがおひたしなのだから、無理して天ぷらにして揚げる必要は無いのである。何かといえば「アクをとって…」等と云う料理研究家たちのコメントが目に付くが、そんなものは日本料理のマイナス的要因であり、決して肯定すべきものではないと云うことを主張しておきたい。

ともあれこの時期に「明日葉」を食べないと云う手は無い。モロヘイヤなどと云うライバルも存在するが、モロヘイヤ以上に明日葉の効能は高いと思う。積極的に摂取すべき食材なのだ。

暑い夏への清涼材となるユニークなトマトのメニュー

夏とくれば「トマト」が食材の主役になる。旬には旬の食材を味わうのがスローフード、スローライフの基本なのだ。トマトはこの季節に欠かせない。

我が国には未だにトマト料理が不足していると感じているおいらだが、この季節の世の中のメニューに目を見張らせていれば、いろいろトマトを使ったメニューが飛び込んできたのだ。

■トマトの串焼き

主にミニトマトを串に刺して炭火などで焼くというシンプルなスタイルながら、味の方は折り紙付であり、外れはほぼ無い。炭火で熱するだけで、酸っぱい刺激のトマトが甘味を帯びてくる。その点だけでも特別な調理メニューの資格を持つ。よく「ベーコン巻き」「豚肉巻き」等にして提供されるが、トマトだけでも立派な逸品料理だ。

■トマトカレー


小さかった頃は、トマトの入った甘いカレーのことを「ハヤシライス」と云うのかと勘違いしていたが、トマトのカレーを目にするようになったのは、そう遠くない最近のことの様に思える。夏になればカレー専門店などではよく見かけるメニューとなっている。カレーの色も赤みが増して食欲も増すという具合である。夏には涼しく酸っぱくホットなカレーで夏バテ解消できることを知った。

■トマト餃子

餃子の具にはトマトとチーズが練り込まれている。皮にも赤みがかかっていてトマト風味だ。醤油やラー油、酢等を付けずにそのままいただく。欧風中華料理といった風味が漂うメニューである。

気象庁史上初「高温注意報」発令の日の「冷汁」

気象庁が初めて「高温注意報」を発令した。関東甲信、東海、近畿、九州北部(山口県含む)の各地方で、最高気温35度以上の猛暑日になるとして出された。東京23区内は外れているようだが、猛暑に近かった。コンクリートジャングルにおけるヒートアイランド現象は、毎日が充分に暑い。雨が降るなどしなければ今後毎日は続いていくことだろう。

昼食時には定食屋で、宮崎流の「冷汁」とやらを味わった。ご飯と汁とが別々にして出されたその冷汁は、5mm四方程度の氷が入っていたので、その氷だけでもご飯にかけて食べれば冷たいご飯となる。実際に味わった「冷汁」風ご飯はひんやりしていて喉を潤してくれたのだ。

だがその味わいというものは冷やした味噌汁そのものであり、何ともお粗末だった。普通に口に入れて流したが、とてもいただけるものではなかったのだ。何よりも夏のメニューに必須の薬味が入っていない。茗荷、大葉をはじめとする薬味が冷汁メニューにとって大切なことは云うまでも無いが、胡瓜と豆腐が具材の味噌汁を「冷汁」と云い張るにはとても無理が有ることだろう。

造反無理政局の行方4 菅直人総理の目指すべき展望について

ここへ来て「電力」を取り巻く利権絡みの異常な実態が漸く明らかになってきている。それかあらぬか電力利権にあずかってきた一部人間達による、菅直人総理の追い落としをはかったあれやこれやの企みは異様を極めていると云って良い。

経団連会長だか、大学の学長だかが、菅直人氏をののしっている報道映像等を映像で見れば、「電力関係者」たちの浮き足立った様が目に透き通る映像として明らかになっているのである。

まさに「裸の王様」にも例えられる菅直人総理には、もうひと踏ん張りして頑張ってもらって、我国の「脱原発」への確かな道筋をつけてもらいたいと希望している。「大連立」などというもっともらしい政治的駆け引きは、電力絡みの守旧派を利することは明らかであり、絶対に阻止しなくてはならない。これは民主、自民、公明、その他諸々の政党を横切って侵食した邪悪的政局のパワーを阻止しなければならないことをも意味しているのだ。

猛暑に突入する中で関東圏その他の国民は、きちんと電力のコントロールを維持している。「電力不足」といった仮想の危機を煽り立てているのは、東電をはじめとする電力関係者であることは、時間の経過と共により一層明らかになっていくことだろう。

誰かが菅直人氏を称して「バルカン政治家」と述べていた。決して褒め言葉ではないが、当たらずといえども遠からずの評価が与えられているということだ。こんな評価も逆手にとって、菅直人氏にはまだまだ「脱原発」の確固たる道筋を付けてもらいたいと思うのである。

マスコミ先行で取り沙汰されている「脱原発解散」もありだ。こういう時期において、このくらいの政治的パフォーマンスは必要である。民主党が下野するくらいの矮小な展望を吹っ切って「脱原発解散」すれば、その先の展望も見えてくると云うものなのである。

思いがけない「ウナギ三昧」の日だった

今更のように梅雨があけて猛暑が都内を襲撃している。こんな日は道を歩くだけでも直射する陽射しに為す術もなく、流れ出る発汗をくい止める方策さえ判らず、ただ体力の消耗におびえるばかりだ。

経験的に「うなぎ」が夏の体力消耗に効果ありということを知って/いるおいらは、無意識裡にうなぎを求めていたのだろう。今年の土用の丑の日は7/21と8/2の日だというから未だ少々先の話ではあるのかもしれないが、強烈なうなぎに対する渇望が襲いかかってきたのが今日だったという訳なのだ。

土用の丑の日にはうなぎを食べるという習慣は、文政時代に平賀源内さんが提唱したという説が一般的だが、ただ体力の落ちる夏場に栄養補強するという意味合いばかりではなさそうなのである。かえって、夏場にはうなぎが売れない業者達の苦肉の策として、土用の丑の日が提唱されたという珍説もあるくらいであり、二百年もの時代をさかのぼって時代考証を行おうとしても無理な話であり、ここはそっと、うなぎと平賀源内さんとの個人的な相性の良さを思い浮かべてみるくらいが宜しいのだろう。

さてそうして帰宅途中の街中を歩いていると、立ち寄った居酒屋のメニューに「うなぎ蒲焼」「うなぎ肝焼き」というメニューが視界に襲ってきた、というのは少々大袈裟だが、視界に程よく飛び込んできていたのだった。思わずそのメニューを注文したのは云うまでもない。うなぎ専門店や高級料亭ではなく大衆居酒屋にてうなぎを食せるのは、思いがけない幸運だったというべきだろう。このところうなぎの取引価格は上昇の一途を辿っているというニュースを、つい数日前に目にしたばかりだ。

このうなぎが国産品か海外からの輸入物かを確認することはできなかった。しようとしたところで店員が知って居る訳でもなく、たとえ知っていようとも答えようともしないだろう。だからその解答は不明ということでしかない。

特筆すべきなのはそのうなぎが体幅5センチはあろうかというくらいに大振りでいて、工場での調理仕込みのものではなく、蒸して焼いて出されたものだったということだ。人の手間をかけた料理と工場にて大量生産された調達品との違いであるが、今宵のうなぎは手の込んで提供された旨みを味わうに充分なものであった。