パウル・クレーの「子供の領分」と谷川俊太郎の「選ばれた場所」

新潟・福島を襲った豪雨の影響で昨夜から激しい雨が続いていたので、本日は外出することも避けて、アクリル画の制作に没頭していたのだ。2〜3年前から続いている制作意欲を何かのかたちにしたいと考えているのだが、昨年初夏頃のチャンスを逃して以来、具体的な道筋は見えてこない。かといって受動的態度で時を過ごすことも出来ないので、日頃の制作活動の時間は、たとえ少々なりともとるようにしている。

[エラー: isbn:4938710137 というアイテムは見つかりませんでした]

夕刻を過ぎて雨も上がり、街に出て駅前の古書店を覗いていると、パウル・クレーの「子供の領分」という画集が目に付き衝動的に購入した。1997年に「ニューオータニ美術館」というところで開催されたパウル・クレー展で頒布された展覧会の図録であるようだ。

本年開催されたクレーの「おわらないアトリエ」展の出品作品とはまた違った傾向の作品が収められており、つまりは幼児画的パウル・クレー作品とその創造の背景にスポットが当てられ纏められており、至極興趣をそそられているところだ。幼き時の制作スタイルを常に踏襲しながら、名声を博した後も常に幼児の目線を制作の根本に据えていたクレー師の偉大さは図録を一瞥するだけで漂ってきており、その創造の原点の逞しい息遣いを感じ取らざるを得ないのである。

この図録には谷川俊太郎さんの「選ばれた場所」というポエムが収められている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
選ばれた場所
谷川俊太郎
そこへゆこうとして
ことばはつまずき
ことばをおいこそうとして
たましいはあえぎ
けれどそのたましいのさきに
かすかなともしびのようなものがみえる
そこへゆこうとして
ゆめはばくはつし
ゆめをつらぬこうとして
くらやみはかがやき
けれどそのくらやみのさきに
まだおおきなあなのようなものがみえる
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

夢は爆発し、暗闇は輝き、暗闇の先に大きな穴の様なものが…とうたっている、その俊太郎さんの思いは、今のこの時代における最も今日的な課題に立ち向かっている詩人の魂の言葉であろう。

サバの味噌煮をつまみで食べたらとても良かった

サバを使った定番メニューとくれば、サバの味噌煮、しめサバ、サバの文化干し、蒲焼き、等々となるが、サバの味噌煮は特に昼の定食屋で定番のメニューであり、注文度がかなり高い。そうかといっても夜の居酒屋で注文してみればまた新たな感動が発生したのであり、昼食メニューとはちと違う、一風違った趣だったのでここにレポートしておきたいと思ったのである。

定食屋のサバ味噌の切り口とは違い、背骨をざっくりと残して寸胴切りにしてある。見た目の美味しさが引き立っている。そして箸を付けて一口。う~む、なかなか味噌味が利いているようでありグッドな出来栄え。サバに味噌は良く似合うのは当然だが、塩味が程よく中和される味噌という絶妙な調味料の仕事の様については改めて尊崇の思いを強くしたのだ。

そもそもサバは足が速いので、生食されることは滅多に無い。その代わりに保存食として古今東西より珍重されきており、サバ味噌などはそんな珍重的文化メニューの代表格なのだ。そんな珍重的文化メニューを昼の定食のみに押し付けていたことの不条理は、これから明らかになっていくだろうが、それはともあれ夕食のつまみ的食としてのサバ味噌が絶品であることを今日は逸早くキャッチしたのであるから、ラッキーだったと云うべきであろう。

造反無理政局の行方5 海江田万里の三文芝居に惑わされてはならない

海江田万里という経産大臣は色々なパフォーマンスを駆使して政局の混乱に拍車を掛けている。絶句してみたり涙の無い嗚咽を演じてみたりと、まるで三文役者そのものである。もともと役者の自覚があるならば、本物の涙を流すくらいの演技的訓練はしておくべきだがそれさえも無い、ただ単に付け焼刃的パフォーマンスの醜い光景を見せられるばかりである。

海江田が意図すべきは菅直人総理大臣の追い落としに間違いないが、ここに来てまるで、勲功章を目指しているのではないかと勘繰られる動きが見られるほどであるからいいかげんにして欲しいのだ。くだらないタレント政治家の最後のパフォーマンスを黙って見過ごしていくわけにはいかないのだ。

現政局にあっては造反無理的政局の動きに加担する政治家は須らく、こそこそ政局を嗅ぎまわる政治屋風情に過ぎないことは明らかであり、今後の菅直人内閣の意義が浮かび上がってくるのである。

マスコミはほどよく傀儡されている。傀儡する主語的存在は、日本の軍産複合体である。抽象的に云えばそうなのだが、もっと具体的な姿が明らかになろうとしている。東電をはじめとする電力産業複合体である。電産複合体はピエロやポチ犬を雇っていて、ときどき誰彼がそんな役目を買って出ている。彼らにとって三文芝居役者の海江田万里を操ることなどは至極簡単なるオペレーションのひとつに過ぎないのである。

町田康氏の新著「ゴランノスポン」

[エラー: isbn:9784104215027 というアイテムは見つかりませんでした]

一部ではカリスマ的な人気を誇るパンク小説家、町田康氏の新著「ゴランノスポン」を読了した。7つの小・中編による作品集で、表紙カバーにはこれまたカリスマ的アーティスト、奈良美智氏の新作「Atomkraft Baby」が採用されており、至極目を惹かれることとなっていた。この表紙によって購入を決めたと云っても良いくらいだ。

表題作「ゴランノスポン」は雑誌「群像」2006年10月号にて「ホワイトハッピー・ご覧のスポン」として発表されたものを改題してある。タイトルだけ見たら何を意味しているか見当もつかない様な可笑しなタイトルだが、かつての「群像」での作品名を知り、漸くその意味するところの合点がいったのだった。なった訳だが作者のほうは何故だか知らぬが、一般人には韜晦の至りかのごとくのチンプンカンプンな表題に変えて、敢えてその「意味の無さ、希薄さ」を表出させて愉しんでみたのではないかと睨んでみたところだ。こんな表題作に出来るのがパンク作家としての面目躍如といったところだろう。ご覧の様にスポンと落ちる。落ちます、落とします。スポンという擬態の音…。底を見せぬ闇の中へと連れ去って行ってしまいそうな、厳粛かつ滑稽な擬態の音だ。天使か悪魔かは知らぬが大きく両手を広げて手招いているかのようである。

少し前までは独特なボキャブラリと俗的世界の話題を操るパンク兄ちゃん、過剰な才能を持て余している一人よがりの空回り的存在、的な評価を抱いていた町田氏だったが、色々とこの世間とやらに対して挑発する様は勇ましくもあり、可能性をも伝えて来るものがある。

ある種の三文小説の落ちとも変わらないプロットやそうぞうしいばかりの展開やらには辟易していたが、つまりは、小説一つ一つの評価は、あまり点数を付けにくいのだが、読み終わってみればそれらを含めて現代作家たる才能を撒き散らしているということなのだろう。

西荻窪「戎」の邪道系旨メニュー「イワシコロッケ」

居酒屋メニューの中にはウケを狙って顔を出すだけの邪道メニューが少なくない。特に激安を売りにしたチェーン店のメニューには、毎月毎月品を換えてそういた邪道系料理がメニューブックを飾っている。これは駄目だと思いつつも、1度くらいは試してみようかと、ついつい注文してしまうもののようなのだ。ほとんどが月単位、季節の変わり目には姿を消すが、ある一定の比率でこうした料理が店舗の売り上げを支えていることは疑いないのである。

ところがこうした邪道系メニューの中でも一定の、ユーザーの舌を捉えたものもたまに在る。西荻窪「戎」の「イワシコロッケ」は、地元の呑兵衛たちに支持された珍しい料理と呼んでも過言ではないだろう。

■イワシコロッケ
コロッケの具材の脇役は、牛肉、タマネギ、人参、あるいは山芋、茸、等々数在れどもあくまで主役はジャガイモである、とずっとそう思い込んでいた固定観念を覆させるかも知れないメニューである。レシピは簡単であり、通常のコロッケの具材のジャガイモにイワシがプラスされたというもの。半分がコロッケ、もう半分がイワシフライの味なのだが、妙にイワシの味がとんがっている。コロッケの主役がジャガイモではいけないのだと主張しているかのように、妙に口の中で生き生きとして主張するのである。イワシフライばかり食べていても、イワシの主張のトンガツタ様を感じることは無かったであろうが意外な味覚の主役となって、イワシの存在感を知らしめたのだと云うことになるのだろう。

美味い「ヤマメ」は日本の自然が育てたものだ

しつこいようだが奥鬼怒関係の最後のネタである。奥鬼怒に滞在中には、マスやヤマメなどの川魚の焼き物を味わうことが出来た。特にヤマメは川魚の中でも希少な分類のものであり、東京都内ではなかなか味わうことも出来なくなっている代物だ。

漢字では「山女魚」と記す。山の清らかな水の中に生息する魚と云う意を汲んでいるのだろう。たしかにそれなりの厳かな食味を味わうこととなった。若干なりとも濁った水の中では棲息することのない清らかな川魚の代表選手なのである。

遠火の炭の炎でじっくりと時間を掛けて焼かれた「ヤマメの炭焼き」は、これ以上の評価がないくらいの絶品の川魚料理である。美しいとされる日本の自然の賜物でもある。変梃りんな保守派政治家たちの言葉に惑わされることのないように、一口一口味わったのだ。

この妙なる味わいはといえば、変梃りんな政治家たちが口にするほどのえぐみも無く、とても清々しい川魚の味わいだったのである。

奥鬼怒で鹿刺しを食べて感じ取ったマタギ讃歌なのだ

奥鬼怒を旅して今は東京に舞い戻っている。都会的市民生活にまた埋没しているのだが、奥鬼怒の「食」については極めて大切な知見を得ることとなつたのであり、しつこいようだがここに記しておきたいと思うのだ。栃木県の北部地域には、マタギと呼ばれる狩猟の民達、すなわち土着の人々達が存在している。彼らの食事の多くは、鹿や猪等々の野生動物の肉に依っているところが大きいようである。

マタギとは、古来からの方法を用いて集団で狩猟を行う狩猟者集団たちのことを指すとされている。北海道や東北地方の伝統的な狩猟民族のことを指して云うことが多いが、それのみならず関東圏内でもまたぎは今なお存在しており、栃木の奥鬼怒でもまたぎの生業を続けている人々は多いのである。このようにして関東にも居るマタギたちによって、里山の維持、管理がなされていることを思い知ったのである。森林に居住する熊をはじめイノシシ、カモシカ、シカ、等々の野生動物たちとの共生共存を維持していくことは並大抵のことではない。地域の人々による古来からの伝統的な狩猟方法等を含めた生業によつて、人間と世界との関係が保たれてきたということなのである。人間が大手を振るって自然界を支配しようとするのではなくして、野生動物やその他諸々の存在との調和を図ろうとして築いてきた人々の営みの印を感じ取ったのである。

宿で食した「鹿の刺身」は、冷凍していたものが解凍されて出されていたことは明らかだった。冷々しくて食感は良かったが、少々ガサガサとしたシャーベットを食する時の感じが思い出されてもいたのだった。これくらいに冷やせば食中毒等も防止できるのであろう。文明の利器の存在理由(レゾンデートル)もまたそのときには実感として感じ取ることにもなったのである。マタギ頑張れ! マタギ万歳! なのである。

奥鬼怒旅のスナップ

慣れない登山で足はよれよれになったが、普段の都会の生活では出遭うことの無い光景に遭遇した。途中、蛇に出遭ってどきつとしたり、道を間違えて歩き続けていたりしていたのだが、道草していたルートの丘陵からの眺めは特別なシーンを幾つか見せてくれ、日頃の気持ちのもやもやなどを晴らしてくれたようである。

奧鬼怒の旅の宿から

ぶらり旅にて奧鬼怒に滞在中。ノートバソコンのネット用ツールは電波の圏外だが、ソフトバンクの携帯はかろうじて使用可。慣れないスマホのキーボードをいじっている。若者みたくスラスラ出来る筈もなく悪戦苦闘中なり。時間に追いたてられることの無いこうした旅の時間をいつしかとても愛おしく感じとることが増えて、携帯電話にも馴染み初めているのかもしれない。ちなみにブログ投稿用のアイフォンアプリまで有ることを知り、更に身近なツールになりつつある。

さて、奧鬼怒温泉郷の中で最も奧には四軒の宿が存在するが、加仁湯、八丁湯に予約していない客が襲ってそこに行くには片道1.5時間もの登山道を歩かねばならない。おいらはこの山道を歩いて目指すことにした。露天風呂に浸かってひと息ついたはずが、慣れないことをしたつけでモモがつって歩行困難となっていた。この地域は月のわグマの生殖地域であり、登山道にも出現するらしい。熊よけの鈴も何も用意していなかったので少々恐くなったのだが、幸いに遭遇することなく悪戦苦闘の時間を終えたのだった。

今年は特に希少品となった「ほや」のつまみ

東北大震災の影響で、海産物の流通が悪い。八戸、気仙沼などの大漁港は営業を再開させているが、沿岸の小さな港町は例年のようにはいかないようだ。

東北の味覚を象徴する「ほや」といえば、居酒屋の看板メニューになっているところが少なくないが、今年は中々入手が難しいようで、いつもの店にもなかなか出されることはなかった。メニューを外すのも出来ずに苦労も少なくないようなのだ。

そんな状況の中、ぶらりと入った居酒屋のボードメニューで「ほやの漬物」とあるのを見つけたので慌てて注文。「漬物」というくらいで生に比べて鮮度は落ちるが、ほやの懐かしい味であった。地元の漁港関係者も希少な海産物を漬物のにして流通させようと、知恵を絞っているかに見える。しっかり塩味が効いていて、これはこれで悪くない味だ。