琥珀色した浅草神谷バーの「電気ブラン」

浅草の名店「神谷バー」にて電気ブランを飲んだ。独特な琥珀色した佇まいにまずは魅了された。

昔々に新宿ゴールデン街にて飲んだ電気ブランで悪酔いしてしまったことがあった。基本はブランデーベースだというがゴールデン街のそれは違っていた。飲み方が悪かったのかもしれないという思いをずっと抱いていた。

浅草「神谷バー」の「電気ブラン」は、アルコール度30%という程の強さを感じさせぬにとてもまろやかであったのであり、添えて出された氷水の助けを借りることもなかった。

夏バテ防止の昼食には「沖縄チャンプルそば」がお勧め

昨日に引き続き、沖縄チャンプル料理の話題をひとつ。

昼のころにふと沖縄専門店に立ち寄ったらば「チャンプルそば」というメニューに出くわしたのでした。昨日の話題に引き続き沖縄パワーがおいら近辺にて充満していることを、充分に納得させる状況ではある。

ゴーヤをはじめとする夏野菜を充分に炒めてから沖縄のそば(ソーキそば)の上にかけて提出される。ソーキそばの上にゴーヤチャンプルの具が乗ったというかたち、格好となっている。

野菜がどっさりと沢山乗っていて、一目見ると長崎の「ちゃんぽん」を連想させていた。「ちゃんぽん」と「チャンプル」の関係は、今ここでつまびらかにすることは不可能だが、何らかの関連性が存在することは明らかではあり、チャンプルあってこその「長崎ちゃんぽん」なのかなと夢想していた次第なり候。

夏料理の定番「ゴーヤチャンプル」は極めて日本的な料理である

夏になって夏野菜のゴーヤが実るころから「ゴーヤチャンプル」は日本人の国民食となっている。そのルーツは云うまでもなく、沖縄の郷土食としてのチャンプル料理の歴史は長いのではあるが、今となっては日本全土に亘る郷土食と云っても過言ではないだろう。

台湾や中国本土に近いという地理的背景から、「ゴーヤチャンプル」があたかも中華料理の亜流と捉える見方が無い訳ではない。けれども決して中華の亜流では無いことを、その味わいやら食材やらが物語っている。

まずその出汁の基本が、鰹の削り節からとられていること。沖縄での肉は「SPAM」等のランチョンミート、本州等の他県では豚肉の切り身が用いられている。そしてカツオ出汁に卵とじの行程で全体が一つの料理として交わっていくのであり、チャンプル料理本来の円やかさが広がっていく。最後に削り節をたっぷりとかけて皿に盛られる。更にと云うべきカツオの底力が皿一杯に広がっていくのである。

八王子で口にした至極美味なるフランスパン

八王子駅南口の再開発事業で南口界隈は様相が一変した。ビッグカメラが入ったビルに寄り添うような現代的モダンなロータリーが中心に陣取っていて、おいらは実はあまり好きな風景として感じ取ることは出来ないでいる。

それでも度々足を運んでいると、とても魅力的な店舗等のスペースが在ることに気づいていだ。

南口を歩いてすぐのところにある「Delifrance」という店舗はフランスパンの専門店であり、フランス人観光客が大勢訪れていることを目にするくらいに本格派のフランスパン専門店なのだ。おいらが好きなのは季節の食材をトッピングした限定メニューなのだ。

シメジや椎茸、エノキ茸、等々のきのこ類が大量にトッピングされた秋の季節のフランスパンなのだった。とても柔らかい生地の中から、鮮度も満点のきのこ類が顔をのぞかせている。きのこきのこがとても美味いのだということを、ストレートにアピールしている。
フランスパンよ、侮れないとの心持ちなのだ。

■Delifrance 八王子店
東京都八王子市旭町1-17 セレオ八王子2F

夏の終わりに逸品的「鱧の湯引き」料理にありついた

まだまだ残暑が厳しいがときはもう夏の終わりである。こんな夏の終わりの時季に味わったのが、夏の季節感を漂わす鱧料理なのだった。確かメニューには、鱧の湯引き梅肉添え等とか書かれていたようだ。その味わいは繊細で淡白な独特なしろものではあり、他の高級食材等の白身の魚であってもこんな味わいは出せないのだろう。

全長1mくらい、もっと巨きいものでは2m以上はあるという巨型魚の鱧は、ウナギ目・ハモ科に分類される魚の一種だという。鰻ほど脂は乗っていないので、その栄養素については軽視されているが、実はこれがとても生命力溢れる魚の一種なのである。鱧の顔はその顎と歯の発達した形相において特徴的である。同じ魚類の中では獰猛且つ個性的な種類として特筆できるのであり、その生命力から得られる食材としてのパワーについては注目に値するものなのである。

そもそも鱧の湯引きと云うのは、関西地方ではポピュラーだが、関東地域に於いてはとても特殊なメニューとなっている。新鮮な鱧の身を湯引きする前にとても繊細な「骨切り」という調理工程を必要とする。この骨切りを上手に出来る調理人は関東地域にはあまり多くはないのだろう。だからこそ本日の鱧の湯引き料理には何時になく満足感を味わっていたのだった。

アップル勝利、サムスンに825億円支払い命令で、日本のスマホ市場も異変必至との観測

アップルが特許訴訟で勝利し、サムスンに825億円支払い命令がなされたという。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120825-00000014-reut-bus_all

少し前までのアップル「iPhone」ユーザーであったおいらにとっては、至極自然な成り行きに感じている。「iPhone」とその直後に発売されていたサムソン社製のスマホは、その真似事製だという印象を色濃く抱いていたのであり、訴訟沙汰の成り行きに関心は薄かったが、無関心ではいなかったのである。「iPhone」のコピー的マシンがサムソン社製のスマホであるという認識ではあった。

おいらが数か月前に購入した「Android」製ドコモの製品は、国産の富士通製ではあるが、サムソン社製マシンほどではないが、とても「iPhone」に似通っている。しかもそれを悪く剽窃しているような面が存在するのだから、おいらも国産製を購入して良かった等と安心してばかりはいられないのだ。

猛暑に痛めつけられるこの時期こそ「茄子の素揚げ」メニューで精力補強

夏の猛暑がなかなか去る様子を見せないでいる。天気予報でも猛暑は来月までは続くという。おいらの体調も先週の旅行の疲れなどが重なって、不良の状態が続いている。冷房機能との悪相性も手伝ってか、くしゃみと鼻水が絶えないという最悪の体調不良が襲っている。

こんな時には基本的体調の維持を求めて、夏には夏野菜の助けを借りることしているのであり、先ずは茄子の素揚げ料理に助けを求めていた。そもそも茄子という食材は、トマトとともに夏の代表的な野菜類であり、身体を冷やす効能が存在している。

揚げ物料理の、特に素揚げに向いているのだ。瑞々しい水分を含んだ茄子は油料理ととても相性が良く、適度に水分を吸っていく。熱を通すことにより、その身にも適度のモチモチ感やこくを付け加えてくれるのだから有難い。本日に限らず機を見ては茄子揚げ料理は口にしている。天ぷら等が身近であるが、夏の麺類のトッピングには、揚げ茄子がとても相性が良いのだ。

揚げ茄子は油を吸ってコクを出すが、決して油もたれをもたらすことなく、あっさりと調理可能なのだから、天ぷら、フライ等々の定番的料理をうっちゃって、ナンバー1の地位を確立していると云えるのである。

浅草「ニュー浅草本店」の新規邪道的メニュー

最近の職場が下町界隈にあるせいか、最近は浅草界隈に出没することが多くなっている。夜はやはり居酒屋に立ち寄って一献というパターンが常なれども、落ち着いて居られる居酒屋は多くは無い。「ニュー浅草本店」はと云えばまさに落ち着いて酒が飲めて食事が出来る縄張りではある。

そんな「ニュー浅草本店」の新規メニューというものの中に「油揚げの和風ピザ」というのがあったので注文してみた。既に同店にはお餅のピザなるメニューが大手を振るっておりそんな邪道的メニューの一種なのだろうという予感はあったのではある。敵の術中に入りこむような気分にて、このメニューを注文したのだ。

やはりというのか、食してみたものは邪道的メニューの一種であった。お餅のピザ以上に安易なものであったのである。お餅のピザはお腹にたらふく感を満悦させてとてもハッピーなのだが、そんなハッピー感も味わうことが出来なかったのである。お外れ的メニューの一つではある。

本日にて営業を終止する「セブンイレブン」の店内

地元の某「セブンイレブン」に立ち寄ったところ、本日の23日23時にて閉店のアナウンスがなされていた。陳列されていた商品は店内を見る限り4分の1程度かそれ以下に縮減しており、いつものセブンイレブン店内とは様相を一変させていたのである。商品の乗っていない陳列棚は、あたかも商店がシャッターを閉じた商店街の光景がだぶって見えた。セブンイレブンと云う流通界のガリバーがこのような店舗の閉鎖に追いやられる、其の背景について思いを巡らせていた。

「明日葉の胡麻和え」をつまみに一献


途中下車した武蔵小金井の「百薬の長」では「明日葉の胡麻和え」というメニューが踊っており、早速此れを注文した。

若々しい生命力溢れる明日葉のお浸しに、胡麻の奥深さが加味されて、一食で二度美味しいというくらいに嬉しい味に仕上がっていた。

またいつかこの味を求めて「百薬の長」に立ち寄る予感が大なのであった。

■もつ焼き百薬の長
東京都小金井市本町5-12-15

猛暑の夏だからこそ味わえる「夏素麺(そーめん)」なのだ

夏の猛暑のこんな時期こそ素麺が美味い季節である。おいらはこの時期は常に美味い素麺を求めていると云ってよく、昼食時はもとよりであるが、夕食時やその後の〆の素麺にも特別な思いや愛着を抱いているのだ。夕食、晩食、晩餐、の後の素麺は、その条件が整えたならば絶品の風流の食物となってくるのであるからして、侮れないのだ。

先ずはツルツル喉越しの細めの素麺が必須である。そしてトッピングされるのは、ミニトマトやナスの揚げ物などが相応しいであろう。氷が添えてあれば汁に移して夏的汁の完成である。然るに氷もまた必須と云えよう。そしてまた、細切れにされた胡瓜や錦糸卵が添えられていれば申し分が無い。何はともあれ猛暑で麻痺した喉越しを正常のそれに返していくような役割を果たしているのだから、決してこの夏の時期の素麺を侮ってはいけないのである。

「酒にまじわれば」(なぎら健壱著)でも特記されていた高田渡先生の存在感

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東北旅行に旅立っていた途中に買い求めた一冊がこの「酒にまじわれば」(なぎら健壱著)であった。予想していたとおりに丁度軽いノリの彼是に、旅の途中の暇潰し的時間的利用術としてはもってこいではあった。

酒にまじわってしまった人々の滑稽なる仕草やエピソードを、色々な人間観察的視点で描いている。だが実際には酒にまじわった人々をそのままに著すのではなくて、可也の脚色を施していることが、その鮮やかなる落ちの切れ味にて見て取れる。事実的にはこれは、なぎら的お馬鹿な呑兵衛達への仲間意識から記された一冊ではある。

脚色によって面白可笑しく記されていた呑兵衛たちの姿であるが、同著の後半に或る一章にては、なぎら氏にとっての師匠でありおいらにとっての師匠でもある高田渡先生のエピソードが記されていた。同著の中での呑兵衛達は、某氏等の匿名的記述に満ちていて、其れこそが脚色的背景を明らかにしているのだが、こと高田渡さんの節こと「忘却とは……」においては、特記的に実名で記されていた。曰く…、渡さんは時として、朝7時ごろに酔っぱらってフォーク仲間に電話をかけることが良くあったという。機嫌が良い日は喋り続けて、そのうちに眠ってしまったという。電話の相手は「渡さん、渡さん」と呼びかけるのだが、返事はない。やっと声が返ってきてほっとしたところで、渡さんの一言があったと云う。

「え~っと、私は一体誰に電話をしているんでしょうか?」

なぎら氏は同節を「なんという、正しい呑兵衛の姿であろうか。」と〆ている。まさしく高田先生の存在感が際立っている、微笑ましいエピソードではある。

新花巻の宮沢賢治のテーマパーク的エリアを訪問


昨晩は宮沢賢治さんが愛してやまなかった花巻市郊外の「大沢温泉」に宿泊した。名物の露天風呂ではこの時期矢鱈に発生するアブに襲われ、とてものんびり温泉浴とはいかなかったのであり、しかも起床したときからずっとおいらの顔面は、昨日に刺された影響でおいらの左目の上瞼は腫れ上がってしまっていたので、見開くことの出来ない半開きの不自由な視覚にて一日を過ごさねばならなくなっていた。

あまり気乗りせぬまま、新花巻駅から「宮沢賢治童話村」へと向かった。この地域には他に様々な賢治関連施設が立ち並んでいて、宮沢賢治のテーマパーク的エリアと呼べる一帯である。もう十数年前に「宮沢賢治記念館」を訪れて以来の、久しぶりの訪問となっていた。「宮沢賢治童話村」には「賢治の学校」という施設があるが、子供向けにあしらえた賢治テーマパーク的存在であり、なにかと押し付けがましくあり、おいらは好きではない。賢治ファンとしてはこのような施設が賢治ワールドの普及に役立たないどころか、安直な切り口による賢治さんの思想のガレージセールなのではないかと気が気でないのだ。相当昔に訪れたとき「宮沢賢治記念館」にて遭遇し、強烈なインパクトを受けた賢治さんの「日輪と山」という水彩画に再会するのを楽しみにしていたが、なんと展示されていたのは巨大なパネルの複製画であり、とてもがっかりしたのであった。こんな事象こそをガレージセールと呼ぶのではないだろうか?

捏ねて寝かせてちぎるという正しい工程を経た「ひっつみ」

昨日は二戸市内の某和風旅館に宿泊した。そもそもぶらり旅の常としては宿の当たり外れは毎度の賭け事ではあって、お盆シーズンのピークに電話予約が取れたのは幸いであり、しかも当館は素泊まり3500円と格安料金なのである。実は内心「ラッキー」と一人ごちていたのではある。

投宿し、数分も経つか経たぬかのうちに、格安料金の理由は氷解していた。古くて奥ゆかしい佇まいがその理由を物語っていたのである。すなわち、古の日本旅館の風情が強く蔓延っているために、現代的旅人の感性やニーズやらとの乖離が見て取れたのである。事実、こんなお盆のハイシーズンと云うのに、外来の客はおいら一人であったのだった。相当な伝統的時間を誇る作りの旅館が、いシーズンにおいて旅行客をおいら一人しか持たないという不条理は、日本人の均一的価値観としてのグローバリズムの悪しき進入が背景にあることが考えられるのだ。

さてさて宿の値踏みをするのが当ブログのテーマではないのである。当ブログ本来の主要テーマのひとつとしての「食」について記していくことにする。

東北で食した地元食の中で、おいらがもっとも気に掛けていたのが「ひっつみ」である。東京でも或いは盛岡の居酒屋のメニューでも食することはできていたが、サイドメニューとしての域を超えてはいなかった。詰まりはひっつみという料理に満足したことが無かったということだ。

それが今回の旅にて「ひっつみ」の肝とでも呼ぶものが溶け出てきたのである。「ひっつみ」の具は関東の「すいとん」のそれとは異なっているということ。その肝は、捏ねて寝かせてちぎるという工程である。小麦粉等の素材を塩水で捏ねてから寝かして、それをちぎって出汁に投入するのが「ひっつみ」の正しいつくりかたである。そんな正しい「ひっつみ」のメニューを味わっていたのであった。

復旧復興のシンボルになるだろうの「JR八戸線」に乗車

八戸からJR八戸線に乗って久慈へと向かった。JR八戸線といえば、東日本大震災で埋没し、全面ストップとなっていた路線である。昨年のこのころに旅したときには八戸から鮫駅までの限定的開通であった。其の時の鮫駅周辺はといえば未だ津波の甚大な被害を色濃く残していた。特に八戸港周辺の住居等の建物は其のほとんどが津波の餌食となり、地域の根幹を無くしてしまっていた。津波の猛威に潰されたのは、例えば、ガソリンスタンド店舗であり、漁業関係者のコミュニケーション広場であり、八戸市民との交流の広場であった。これらの修羅場的スポットを巡りつつ、おいらは言葉を失っていたといえるのだろう。

そして再度の乗車となったわけである。2時間あまりの乗車時間のほとんどは、山間谷間を突き進むばかりではあったが、其の中で瞬間的にも写り行く稀有なる光景の其れあれという光景を、おいらはキャッチしていきたいと希っていた。

そんなことからおいらは、穏やかな東海岸の風景を先ずはキャッチしていた。これまでは通常の電車による通過的事象でしかなかったことが、これだけに重大な意味と重みとを担っているのだから、おいらもしゃきっとしていたことは間違いない。これからは、特に南北リアス線をウォッチして近いいつか乗車したいと思う。

古き床しき軽米町の風景

東北新幹線が青森まで伸びて高速化が進んだ反面で、軽米町を取り巻く交通事情は不便となっている。少し前までは盛岡から高速道を使っての高速直行便こと高速バス「ウインディ号」は廃止されてしまって、軽米インターの降車場から町まで、てくてくと歩かねばならない。かつて久慈行き何度も利用した久慈行きのバス便も今は無い。陸中大野というバス停まで行って乗り換えねばならないのであり、そこで待たされる時間を思えば何だか億劫になることこのうえないのだ。

あり余る時間をとにかく歩き回った。東北も猛暑のまっ只中と見え、汗が滲み出している。まるで蒸し風呂の中にいるようだ。後からチェックしたら「16283歩」という堂々の1位のステップ数を記録したのだ。歩くということが日常生活の中での最も大切な健康法であることを再認識したのである。

軽米には古くて床しき景色が残されており、そんな風景に接すると、なんともいえない満たされた気持ちで一杯になる。宿をチェックアウトして、定期バスに乗車するまでの4時間あまりを散策して過ごすことになった訳であるが、古くて懐かしい土地の有難さに満たされていたのだ。

岩手県軽米町のアマランサス畑に見惚れていた

東北への旅に出掛けている。夕刻前には岩手県の軽米町に到着。この町は亡くなった妻の出身地であり、心の故郷である。懐かしい町なかを散策していると、いつもの事だが季節の花々が四季の顔でもって迎えてくれた。丘を登っていると目にしたのは赤々として重量感あるアマランサスの畑であった。この地は「雑穀」の故郷としても有名であり、もう少ししたら収穫のときを迎える。もうすでに刈り取りも始まっている畑もあるという。

軽米のアマランサスは「アマランサスうどん」として商品化もされており、おいらもときに触れてこの地のアマランサスを食してきた。濃赤色のその鶏のトサカにも似た姿から、「ケイトウ(鶏頭)」という名前がある。南米由来の穀物という説があり、さらには軽米町にて江戸時代から栽培されていたという記録もあり、その優れた栄養価等から「仙人穀(センニンコク)」とも呼ばれている。アマランサスは精白米に比べても、カルシウム約30倍、鉄分約50倍、繊維質約8倍を含んだ、いま注目の高栄養価穀物である。

ずっと気になる乙一氏の「平面いぬ。」を読んだ

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現在、現役作家としてとても気になる作家の筆頭が乙一氏であるといえるのかもしれない。あまり近頃は読んでいなかったのであるが、先日ふと目にした「平面いぬ。」を購入し、本日読了したのである。

ふとした思いから子犬の刺青を入れた少女と、タトー子犬とのやり取りが、コミカルに展開される。絆を得た彼女たちは、周囲の人間を巻き込んで更なる冒険をはじめるのである。

過去のデビュー作品としての「ZOO」や「GOTH」等から受けたインパクトは薄まって、かえって軽い気持ちで彼の作品に没頭している。そんな逆転的現象を受けて、さらに乙一氏への思いは強まっていると云ってよいのだろう。

芥川賞受賞作「冥土めぐり」(鹿島田真希著)

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鹿島田真希氏の芥川賞受賞作「冥土めぐり」を読んだ。400字原稿用紙にして110枚程度の作品で、一気に読み終えていた。前回の受賞作2作品に比べてみれば、わかりやすく正攻法な作品である。そもそも作家の邪気溢れるはったりやら、自己満足にしかないストーリーに付き合わされる読者の身としては、これほどの徒労感はないのであり、そんな文学愛好家の徒労感に些かなりとも芥川賞が関与して欲しくは無いのである。

作者の鹿島田真希氏を連想させる主人公の女性には、「病的」というのが適切であろう物欲の塊のような母親と弟が存在する。その母親の祖父というのが過去に一財産を築いた資産家であり、母親は過去のバブリーな生活の延長として、極めて病的な日常に埋没しているということである。

こんな家庭一族の悲喜劇模様を、バブル崩壊後の日本の縮図だと称する選評者もいるようだ。

――高樹のぶ子氏による選評

経済的な豊かさを剥ぎ取られてもなお虚飾と虚栄の夢を捨てられない浅ましい人たちを描くことで、経済力以外のアイデンティティをもち得ていない日本の縮図としても読める。女性主人公の母親と弟は、金銭の奴隷として描かれ、主人公は家族の荒廃した桎梏から逃げ出すように、頭に病を持つ夫を連れて一泊の旅行に出かける。

――

頭に病を持つ夫の描き方には、ある種の違和感を持っていた。無垢なるものとしての脳の疾患患者に対して殊更に天使の役割を担わせるには無理があると感じていた。

近頃IT界を席巻しつつある「タブレット」についての考察

先日は、さる中国料理のグループ店舗からの依頼により、中華料理メニューのタブレット化に取り組んでいたのだった。通常は紙ベースがベースとなるメニュー表、メニュー・アイテムなのではあるが、其れの代替としての、タブレット版のメニューにて案内しようという訳である。此のアイディアをおいらに示していたのは、某中国料理店グループ会長であり、会長はタイ国高級ホテル等のレストランにてこんなタブレットメニューに接し、是非此れを取り入れようという考えに至ったということである。

そんな事情もあり、近頃は「タブレット」を持ち歩く日々が続いている。ちなみに持ち歩いているタブレットは、ソニー製の「SGPT111JP/S」という機種である。結構頻繁に見かける機種であり、「iPad」に次ぐくらいの人気機種のようであると思われる。

ところでおいらはかつて、等ブログにて「iPad」について「暇つぶしの贅なる機器」等と書いたことがあった。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=1458
http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=1560

基本的な思いは変わることは無いが、日常的メディアの一つとして認識するにつれて、幾つかの特徴としての、メリット且つデメリットが目につくようになってきた。以下に幾つかを記してみる。

[メリット]
●「パソコン」に比較して電池の持ちが長いので、持ち運んで外出先にてネットにアクセスするには便利である。
●ポータブルを売りとするパソコンよりも軽量であり、鞄の中に忍ばせて、その重みを感じさせられることもない。

[デメリット]
●受動的に受け取るには良いが、能動的にネットへアクセスするには物足りない。
●ソフト、アプリ制作者として、「フリック」等、タブレット固有の機能を取り入れることが難しい。