「いかすみ丸ごと缶」で炊き込みご飯をつくる

以前に当ブログでも紹介した「いかすみ丸ごと缶」の缶詰は、360円というリーズナブルな価格でありながら、本格的なイカ墨料理が丸ごと味わえるのだが、本日はそれを使って創作料理、その名も「いかすみ丸ごと炊き込みご飯」にチャレンジしたのでした。

レシピはいたって簡単である。お米を研ぎ、その米を炊く煮汁に、「いかすみ丸ごと」缶詰の汁を使うのだ。研いだお米と缶詰の汁とを合わせて小1時間ほど置き、炊き上げればよいというだけのものである。こだわったポイントといえば、おいらの家にはご飯炊き用の専用土鍋があるのでそれを使った。普通の炊飯器でももちろん問題なく炊き上げることが出来るので心配無用なり。そしてもう1品を加えたこと。その1品を何にしようか? 何が良いか? と考えた末に、夏野菜の主役でもあるゴーヤ(にがうり)を使用することにした。苦いイカ墨の煮汁に張り合えるのがゴーヤであると考えたのであった。

そして結果は見事といって良いくらいに正解であった。イカ墨炊き込みご飯のワイルドな味わいに、さらにワイルドなゴーヤの苦味が加わったことにより、そのワイルドさ、気品ある野生の苦味は、2倍ならぬ2乗にも深まって舌と喉とを愉しませてくれたのである。極めて苦々しい炊き込みご飯の味わいこそ、猛暑酷暑の日にはことさらに似合うものなのでありました。

加藤智大がはまったネット掲示板の罠

秋葉原での連続殺傷事件の犯人こと加藤智大の被告尋問が行なわれている。加藤被告本人は神妙な反省の弁などとともに、自らが犯行に至った理由を幾つかの理由を挙げて述べているという。マスコミでも大きく取り上げられているその理由とは以下の三つである。

1.私(加藤智大)自身の考え方
2.掲示板での嫌がらせ
3.掲示板に依存していた生活のあり方

何とも驚くのだが、その理由のおおよそを「掲示板」が占めていると加藤智大は述べたのである。かつてはおいらも掲示板を主宰などしていたこともあり、この発言は看過できないものであった。擬似社会としてのネット掲示板を取り巻く遣り取りが、いまや実社会と擬似社会、似非社会との区別さえをもつかなくさせていたのであったようなのである。ネット社会に依存しながら真っ当な現実感覚を喪失していた加藤智大という男が居たという現実は、決して遠い世界の事柄では無くして身近なものとして迫ってくる。だがそんな一般論で遣り取りされるものとは異質の犯罪が勃発してしまったのであった。そんな男の日常とは、果たしてどのようなものであったのか?

平凡な日常、凡庸な毎日から逃避して、ネット社会に依存する人間たちは決して少なくない。実はおいらの周りにもごまんと居るのだ。これはかつて、名プロデューサーとももてはやされた小室哲哉が作詞した歌謡曲の歌詞に示されていた現象としても示されているものでもある。小室哲哉的な現実逃避、非現実的な「幻風景」への誘いというものが、犯罪の底流を形づくったというのは、果たして暴論であろうか?

もとより、匿名書き込みを基本としているネット社会、ネット掲示板という処においては、現実社会のたがが外れた「全能感」というものが羽根を拡げていくものである。小さな自分、ちっぽけな存在という「現実社会」から逃避し乖離した「全能的な」自己というものを主張したがる。そんな欲望が羽根を拡げたがるメディアなのである。それは、かつて数年間において掲示板の管理人を行なっていたおいらの体験から云える事実でもある。

ところで、加藤智大がスレッドを立ち上げて「管理」していた掲示板とは、某携帯サイトのものであった。この場合の「管理」というものは曖昧である。大手のネット掲示板の一部を拝借するといったものでしかない。お山の大将にもならないのだ。云わば、派遣社員として階級社会の底辺に彷徨う人間が、少し上の、中間管理職の夢を見た末の犯行だったとすれば、この巨大な「ずれ」を笑い飛ばしたりすることも出来ない。ただただ情けない犯罪の一端がここに垣間見えるのである。

久しぶりに自家製のモツ煮込みにチャレンジ

地元のスーパーにてモツの盛り合わせが出ていた。それを見たら無性に自家製のモツ煮込みがつくりたくなって、久しぶりにチャレンジしたのでした。新鮮なモツが手に入れば旨いモツ煮込みが出来たも同然だが、あわせて煮込む食材選びも重要だ。あわせて買い求めたのは、蒟蒻と牛蒡である。蒟蒻はもちろん群馬の下仁田産。

選んだ食材は圧力鍋で煮込む。強火で沸騰したところで弱火にし、約10分。これだけでモツと牛蒡と蒟蒻が程よく柔らかく煮込まれる。最後の決め手は群馬県産須川味噌なり。

村上春樹的ビールの飲み方の虚実

夏の猛暑日になくてはならないのが冷やしたビールであるが、こう猛暑日が続くと、胃袋も悲鳴を上げている。かといって猛暑をビール無しで済ますことはできないので厄介なのである。暑さを冷やすというよりも、暑さを誤魔化す、紛らわすといった効果を期待してビール缶に手が伸びる。

かつて、村上春樹さんは処女作「風の詩を聴け」にて、登場人物の鼠に次のように語らせている。

―――――――【以下「風の詩を聴け」からの引用】
「ビールの良いところはね、全部小便になって出ちまうことだね。ワン・アウト一塁ダブル・プレー、何も残りゃしない。」
―――――――【引用終了】

ずっと若いときは、名句だと感じて疑うことが無かった。ただ最近になって、必ずしも真実とは云えないということを感じとっている。ビールは飲めば飲んだぶんだけ、確実に身体に溜まる。小便として出て行くなどとは決して云えないのである。

うなぎの名産地、三島の不二美の「うな重」で夏バテ予防

本日は丑の日ということもあり、尚且つ伊豆に旅行中だということもあったので、首尾良く絶品の、三島のうな重にありつくことができたのでした。

静岡県の三島といえば、富士の雪解け水が流れ込む名水の地として有名だが、絶品のうなぎを置いて語ることなどできないのである。良き水のあるところに良きうなぎが育つという。すなわち美味しいうなぎを育てるには、そんじょそこらには無いくらいに良き水が必要であるということ。三島には、そんな良き美味しいうなぎが育つ条件が揃っている。全国的に有名な浜松と比べても決して引けをとることのない絶品のうなぎを味わうことが出来るのである。

開店間際の暖簾をくぐったのは「うなぎの不二美」。三島には「うなぎ横町」という専門街もあるくらいであり、その街中の名店である。いくつかあるメニューのうち迷わず「うな重」を注文した。

重箱の蓋を開けると、いつもの整ったうな重の姿が目に飛び込んできた。東京で食べている「うな重」との、とりたてて違いは無いようにみえる。だが箸でうなぎを刻んでご飯とともに口に頬張れば、その違いは歴然としていたのである。箸で刻んだうなぎの蒲焼は柔らかで、ふっくらと蒸しあげたということを示している。蒸して焼くのが関東風の基本であるからとても基本に忠実なことが判る。かつうなぎの味が苦味を含んで濃い味である。たれの味ではなくてうなぎの味がこれ程に染み渡る「うな重」は、滅多に有るものではないのだ。

数年ぶりに見た石部の棚田は絶景なり

本日は伊豆の天城ドームで「Folk Song Festival 伊豆」というイベントが行なわれており、とりあえずは会場に足を運んでみたのだが、ステージに立って歌っていた西荻窪在住のるりちゃんという女の子の音程が滅茶苦茶で、こんな場所に居ることが耐えがたく思い出したので、さっさと会場をあとにしていた。

向かっていたのは西伊豆の石部温泉。そう遠くはない昔に何度か足を運んだことのある港町である。此処の「棚田」が評判なのだ。何度も訪れた好きな漁港でもあり、棚田の場所は知っていた。当時のその場所は荒れた天然野という風景であり、過去にはそこが棚田であったことを示していた。その場所がどうなっているのか、非常に興味があったのである。

小さな港がある海岸から30分くらい丘を登ると目指す場所がある。いまだ猛暑の続く夏の日に丘登りするのはつらいものがある。体中から汗が吹き出ていた。棚田の場所までずっと民家が並んでいる。生活圏の中にその棚田があることを示しているのだ。そして何年ぶりかで眺めた棚田の風景は圧巻だった。棚田に生える緑の稲の幹葉は生命力がはじけるようにピンピンとしていたのだ。

沼津で途中下車してかもめ丸の「ぬまづ丼」を食したのです

伊豆の修善寺に旅しているのだが、ここに来る前の旅の途中で沼津港に立ち寄ったのです。そこには駿河湾で収穫された魚介類が豊富に陸上げされ、港周囲に立ち並ぶ市場には朝どれされた食材をふんだんに使ったメニューが提供されている。十数年ぶりの訪問の、今回の最大の目当ては駿河湾の名物「桜エビ」であった。過去に由比ガ浜で食べた「桜エビのかき揚げ」の味が忘れられないのである。

十数年前に来たときにはこんな賑わいは無かった。港周辺の風景は一変していたのだ。港町にも色々あり、例えば千葉の勝浦がいつでも長閑な港町風情を示してくれているのとは対照的に、常に前のめりに変化し続けているさまを呈示するかのようだ。

わざとお腹を空にして市場の食堂「かもめ丸」に到着した。メニューを眺めてみると「ぬまづ丼」が視界に飛び込んできた。桜エビに加えて生シラス、鯵が載っている。一目見てそれに決めた。10分くらい待たされただろうか、目の前のテーブルに出された「ぬまづ丼」は、桜エビ、、生シラス、鯵刺し、がキラキラと宝石のように光って視界に飛び込んできた。口に頬張ればますますその感動は高まっていた。一つひとつの食材がキラキラと舌と目を愉しませてくれる。どんぶりのご飯にもまた一味が加わっていることに気付いた。炊き込みご飯を使っているようなのだ。酢飯ではこうはいかない。旅の天晴れがここにあった。

猛暑によく効く「麻婆(マーボー)トマト」はたしかに美味かった

本日は「大暑」だという。こんな猛暑に打ち勝つには夏野菜を摂ることが肝心である。夏野菜料理には様々あるが、中華の麻婆料理に夏野菜を取り入れてみれば、これがまた美味かったのです。

麻婆料理といえば「麻婆豆腐」「麻婆茄子」「麻婆春雨」などが知られているが、夏には夏の食材を取り入れることは基本中の基本。殊にトマトの存在を忘れてはならない。

「麻婆トマト」の調理方法は「麻婆茄子」のレシピと基本的に違いは無い。食材としてトマト、茄子、ピーマン、そして夏の常備菜の茗荷を用意する。ひき肉を少々加えるのが中華風だが無くてもかまわない。調味料は豆板醤、甜麺醤、とろみの片栗粉が基本、これに味噌を少々加えれば日本人向けのこくが出る。

まずは茄子とピーマンを少量のサラダ油でじっくり炒める。それに水と調味料、それにトマト、茗荷を加えて煮込み、最後に片栗粉でとろみを出せば完成である。至極簡単であり、トマトの酸味と麻婆の辛味とがよくマッチして食欲を刺激するのである。いちどお試しあれです。

ブリの照り焼きこそ日本の食卓の原点を示していると想う

昼間は定食屋をやっている居酒屋に立ち寄って、「ブリの照り焼き」を注文したところ、その懐かしい味わいにとても染み入っていたのです。

そもそもブリの照り焼きというメニューは、おいらの田舎ではそれほどポピュラーとはいえないものであったが、その後上京し、このしっとりした脂が乗ったブリの照り焼きに出合った。その甘辛の調理の妙こそは、日本食の原点を示していると云っても過言ではなかろうという、いわばある時点でのおいらの思い込みにて、当時そればかり作っていたものである。週に何度も同じメニューを試行錯誤して調理し、そして口にしていたブリは、おいらに調理の楽しみを発見させるきっかけにもなっていた。苦学生の時代の古き良き記憶でもある。そんな特別のメニューを、知らぬ間に口にしながら、懐かしい気分に満喫していた今宵なのです。

ご存知のように「照り焼き」という調理法は、醤油、砂糖、味醂等を調合した甘辛の調味料を食材に塗り、上面から炎を炙って焼くというものである。まずは時間がかかる。ガスコンロもそれなりのものが必要である。おいらの学生時代のアパートにあったコンロは、いい加減なものであったが故、ほとんど満足すべきメニューの完成をみないままであった。そんなほろ苦い想い出も混在するのだ。

地元の食堂で出された「ブリの照り焼き」は、その点でも満足できるものであった。ブリの皮は焦げて黒く、それを剥いでみれば、甘辛味の染み込んで香ばしいブリの身が嗅覚、味覚を刺激したのでありました。

人間の都合で銀座にオープンされた「沖縄美ら海水族館」の巨大ザメ

東京銀座の「ソニービル」前には、「沖縄美ら海水族館」がオープン。それほど大きくは無い、否、沖縄を取り巻く海洋に比べては極端に矮小な水槽の周りには老若男女が取り囲み、甚平ザメなどの巨大魚たちの姿かたちに見とれている。行き交う人々は足を止めては水槽に見入っている。

ビルの内側に回って水槽の中を観察してみると、巨大なサメが可愛い目をこちらにむけて近付いてきた。瞬きもせずに道行く人間たち生態を観察するかのごとくである。36度を越えたという猛暑の東京だが、甚平ザメたちは東京都民をどのように観察しているのか? 逆に知りたいところでもある。それにしても人間の勝手な都合で極小の水槽に閉じ込められた南洋巨大魚たちにとってはいい迷惑この上ないのである。

吉本隆明が「貧困と思想」で嘆いた現代日本の現状

[エラー: isbn:9784791764617 というアイテムは見つかりませんでした]

不況不況の大合唱は鳴りをひそめたとは云え、先の見えない状況はいっこうに変わる気配など無い。数年前から小林多喜二の「蟹工船」のブームがさかんに取りざたされているのだが、かつて「蟹工船」が発表されていた時代に於ける新しい息吹きさえもが見えてはこないのである。見えているものと云えば、いまだ横行するリストラという名の不当解雇、ワーキングプアの増大、そして時代が共犯者となって引き起こされる大量の凶悪犯罪、等々といった暗澹たる世界。

このような状況を目の前にして、思想家、吉本隆明氏が述べている言葉は、重くしっかりと状況を見据えている。「貧すれば鈍する」といった類いの浅薄な通俗論議とは、真逆の論調なのである。

さて、同書の中で吉本氏は、現代文学の世界に於いて「蟹工船」を越えるくらいの作品が現役作家から生まれてこないことを嘆いていた。たしかにそうだろう。同様の思いは常々感じているところである。

純文学作家たちが「文壇」という名の閉ざされた村社会で胡坐をかいている。そうした状況からは真に感動的な文学作品など生まれ得る余地など無いのかもしれない。誰が今の状況に突破口を開いて、あるいは描いていくのだろうか? はたしてそれは可能なのだろうか?

今年初めての群馬風「冷や汁」をつくる

梅雨も明け、今年一番の猛暑だそうである。食欲もいっこうに湧く気配などない。こんなときにはさっとつくれて胃袋にも優しい「冷や汁」が経験的に、舌にも咽にも胃袋にもぴったし来る。日本人に味噌汁が似合うように、これがあれば間違いないのだ。

マスコミ的に「冷や汁」といえば宮崎県が本場とされるが、全国的な夏の料理であり、おいらの出身地、群馬県にも歴として「冷や汁」は存在する。今日は今年初めての「冷や汁」をつくったので、記念に写真に撮っておきました。

ネットや料理本やその他で調べれば様々な冷や汁レシピが載っているが、肝要なのは、いかに美味い味噌を材料に使うかということ。味噌選びににかかっていると云って過言ではない。おいらが年中使用している群馬の須川味噌こそは、季節にかかわらず味噌料理の基本ともなっている必須の食材なり。そして味噌以外の食材やらは、自分の舌や咽や胃袋に相談しながら時々の体調に合ったものを選べば良い。

群馬の須川味噌は「豊楽味噌」として市販されている。
http://takuminosato.or.jp/horaku/shoping1.html

まずは、豆腐となめこ茸を用意。これだけで立派な味噌汁がつくれる。それにみょうがとシラス、すりゴマ。宮崎風冷や汁には定番のきゅうりが無かったので、代わりに漬物を細かく刻んで加えてみた。想像通りにびりっとした酸味が効いて良い塩梅である。それにしてもこれからの季節は、冷や汁の材料となる食材を切らさぬよう注意しなくてはいけないな。

中華料理の「ピータン」を自宅で喰らう

中華料理の食材店にて、美味しそうな「ピータン」が出ていたので、購入して自宅で調理してみたのです。

卵の殻の周りにまとわり付いているのはいわゆる雑穀なのか、外面に付きまとっているあれやこれやの素材やらがいやにワイルドである。けれども気品がある。この気品が世界中の美食家たちの興趣をそそるのであろうと想えば、このピータンが持ち得ている外観も天晴である。これだけ味わい深い食材なのであるからして、外見上にもいわくが無いはずが無いのである。

生のままのピータンを、殻を取って食してみた。う~む。流石に気合が篭っている。食べようとするこちらの目線を気にするような佇まいなり。いっそのこと一遍に頬に放り込みたくなるような衝動にとらわれたのです。

馬喰町のアートビル「アガタ竹澤ビル」を探索

昔から職人の町として栄えた馬喰町界隈を探索した。目指したのは「アガタ竹澤ビル」。年季の入った商用ビルといったつくりだが、今流行のリノベーションとやらでビル全体が改装され、アート作品や雑貨類を扱うショップの集合基地といった趣である。

食事もできる2階の「ART+EAT」では「諸橋明香展」を開催中。ウォーターアートなるものを標榜し、ホースから水を通して会場全体に水の音を響かせたり、ストローを素材にポップな動植物を表現したりしている。美術館、博物館といった類の大仰な会場ではなく、このような場所にこそ相応しく、作家の表現力も発揮されるのだ。

また他のブースでは、創作靴下のブランドを展開する作家が、週末だけ実店舗をオープンしてユーザーとの交流を図っている。いろいろ実験と創作意欲とが交錯している、なかなかユニークな空間であった。

■東京都千代田区東神田1-2-11

これまであまり無かった「生ダコ」の刺身

タコの刺身といえば、これまでは茹でダコがあたり前であった。刺身と云いながら茹でたタコを出すなどと云えば、詐欺にも等しいやりくりにも思えるのだが、世間一般の流通業界においては「タコ刺し」がイコール「茹でダコの切身」であったということが顕著であり、今でもそんな流通業界の常識がまかり通っている。

今日は久しぶりに「生タコ」を食する機会が持てたのであり、強く「茹でダコ」事情についての憂いを感じたのである。

タコは食材として、様々に加工されるべき可能性の凝縮した存在である。だからと云って茹でたものを「刺身」と称する商法は問題であろうと思うのである。
以上、たこ好きネット管理人のつぶやきなり。

冷奴を美味くするトマトと特製のラー油

夏には冷奴である。だがそれだけでは味が無い。もともと冷奴の元である豆腐というものは、味が無い。京都人ならばさしずめそんな味無き薄き味を「湯豆腐」などに調理してわびさびなるものを味わうものなのであろう。ところがどっこいおいらは関東人であり、そんな雅風流を受け止める素養は無い。冷奴に+一味足して味わうということは、当たり前の習い事なのである。

という訳で今宵は「トマト」「ラー油」という食材の協力を得て、特製冷奴にありついていたのである。「トマト」はその他冷蔵庫に眠っていた食材とともに軽く炙って炒める。実はここにシラスなどがあればもっと良かったのではあるが、そんな贅沢は禁物。あくまで主役はリコピン豊かなトマトなのである。

サワガニ(沢蟹)のから揚げでホッピー三昧

「サワガニ(沢蟹)」といえば、昔は田舎の温泉地などでよく見かけたものである。川岸の岩陰で、あるいは露天風呂の隅に、よく観察すればすばしっこい動きをみせていた。海を持たない山岳地域における風物の一つでもあった。

今日はさる沖縄系居酒屋料理店にてそんなサワガニの蠢く水槽を目にし、とても懐かしく思いながらも、揚げ物にする「サワガニ(沢蟹)のから揚げ」を注文してしまったのである。昔の少年時のことを想えば決してサワガニを食べてしまったことなどはなかったのに、大人になった今では多少は迷いつつも「サワガニ(沢蟹)のから揚げ」など食べてしまうのだから、大人の人間とは至極勝手な生き物である。

そんなこんなを感じつつも、カリカリッとして香ばしいサワガニの甲羅は美味であった。更に少量であるが身の中に詰まったサワガニの味噌というものは、これまたいちどお試しあれの珍味なりと感じたのでありました。

根菜の煮込みが胃腸を癒すのです

近頃の暴飲暴食がたたって、おいらの胃腸は悲鳴を上げている。そこでおいらは自らの胃腸を癒すべく、根菜の煮物を調理してみたのでした。牛蒡、蓮根、蒟蒻、等々を食材にして。

みかけはごっついのが難点だが、根菜類には「食物繊維」か豊富に含まれている。この食物繊維こそは、胃や腸の掃除をしてくれるというありがたい栄養素なのである。五大栄養素の次に来る「第六の栄養素」として評価が高い。中々外食では摂取しにくいものなので、ときどきはこうして家料理しながら家呑みしているという訳なのである。

カツオもいよいよ脂がのってきた

初鰹の季節は過ぎたが、いよいよこれからが本番である。初鰹はたしかに美味いが、タタキには向かないのだ。美味いカツオのタタキが食べられるのはこれからなのである。写真は最近食したカツオのタタキ。表面はさらっと炙るくらいにして身も瑞々しく脂がのっている。