旨いぬか漬けを口にすれば弱った胃腸も甦る

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旨いぬか漬けに出会うことは貴重な体験である。大手のスーパーで売っている「ぬか漬け」では本当のぬか漬けの味は味わうことが無い。

たまたま都内の散歩の途中で立ち寄った八百屋の店頭には旨そうなぬか床に顔を出しているぬか漬けたちが目に留まっていた。とりあえずカブとキュウリのぬか漬けを購入して、晩餐の一品に加えてみたら、これがなかなか無かった出会いとなっていたのである。

よくある塩漬けの漬け物とは異なり、まろやかな酸味が口の中でハーモニーを奏でていた。植物性乳酸菌が胃袋に侵入して弱った胃や腸を調えてくれるようでもある。そんな滅多に出逢えることの無かった逸品の日本の料理なのだった。

寒ブリのアラを「ブリ大根」にして味わった

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長い冬が漸く終わろうとするころ、地元のスーパーで、目つきも鋭列な印象の美味しそうなブリのアラを発見。早速買って帰り、ブリ大根を作ってみたのだ。ブリの脂が大根に染みて、こんな大根料理はブリにしか作れないなと妙に納得なのだった。

出世魚の代表ことブリは冬が旬だ。冬のブリのうまみを、これまた最大限に生かした料理は「ブリ大根」ということになる。「ブリ大根」の基本とは、大きくカットした大根にブリの旨味を吸わせて味わうということになる。大根は大きくカットせねばならないのであり、薄切り などにされた大根では此の味わいは体験出来ないのである。そしてそれなりの調理時間を必要とされる。大根の煮時間も20分は下ることがなく、決して簡単レ シピではあり得ない。そんなこんなの条件を満たしつつ「ブリ大根」を調理。新鮮なブリの切り身を用意した以外は、取りたてての調理法を使った訳ではなかったのだが、程よいブリのあまさがおいらの喉を唸らせるに充分なる出来前ではあった。冬季の酒のつまみ的料理として、これ以上の 奥深い味は無いものだと実感させるに充分である。

たまに味わいたい逸品の「川海老の唐揚げ」なのだ

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地元の居酒屋で「川海老の唐揚げ」を食したのだった。川海老とは其の文字のごとくに川で棲息する海老の事を示している。だが日本の食卓にはこれまではあまり登場しない食材であった。ちなみに、川にて棲息する海老のことを「スジ海老」と呼ぶところもあるようなので要チェックである。

その姿形がとても小さいという存在感からか、主にはシンプルな唐揚げにして食される。油で揚げることにより海老の殻が柔らかい食感で提供されているのだ。そもそも海老の殻は天然のグルコサミンが豊富であり、高齢者たちのグルコサミン不足を補ってあまりあるくらいの代物なのである。川海老ここにあり、というくらいに希少な食材なのである。

瑞々しい「初カツオのっけもり」を味わった

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瑞々しい「初カツオのっけもり」を味わったのだ。初カツオの刺身にミョウガ、レタス、青ネギ、ショウガ、等々の薬味をあえてポン酢味に調理したのっけもり。四国地方で食される「土佐作り」も此の料理に似ている。初カツオのさっぱりした海の幸と初春の薬味の若々しさがとてもマッチしている。

「目には青葉 山時鳥(ほととぎす)初松魚(かつお)」という山口素堂の有名な句に象徴されるように、「初ガツオ」といえば春を告げる味として有名だ。いや春というより も、現代では5月から6月にあたる、初夏に近い季節の味として広くいきわたっている。今年は早くもフレッシュなる「初ガツオ」に出くわしたのだった。カツオはたたきよりも断然に刺身が上だが、それに薬味をくわえることで特に旬の季節料理の有力メニューに昇華されたのだ。

八王子「弘福」の蒸し餃子はおすすめ

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地元の中華料理店の「弘福」で、餃子ランチを食した。餃子専門店ならではのメニューは、焼き餃子の他に蒸し餃子があり、此の蒸し餃子の餡も様々な種類があって、いろいろと楽しませてくれるのだ。

ランチに食したのはニラと鶏肉の蒸し餃子。一般的な焼き餃子よりも一回り大きくて皮ももちもちとして厚めである。蒸し餃子ならではのもちもち感がぐっと迫ってくるので食べ応えも満点の印象。箸で皮を破れば餡から滲み出た肉汁がじわっとした姿を現し、其の姿こそが中華点心料理のトレードマークかとさえ思わせる。あまり肉料理には関心が持てないおいらでも、この蒸し餃子から滲み出される肉汁には唸ってしまうのだ。

■弘福
東京都八王子市小門町1-3

高崎市美術館にて「石澤久夫の仕事―自然への語らい」展が開催

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群馬県出身の画家こと石澤久夫氏の個展が高崎市美術館にて開催中である。

■石澤久夫の仕事―自然への語らい
高崎市美術館
群馬県高崎市八島町110-27
電話 027-324-6125

彼の出生地は旧群馬郡だが現在は高崎市に編入されており、高崎工業高校を卒業するなどと特に高崎市に馴染みが深い。となり町だが同じく群馬県出身のおいらにとっても非常に気になる作家の一人だった。

この度高崎市美術館の同展覧会に遭遇し、一堂に会された石澤久夫氏の作品に接することができたのだ。ある種のアンフォルメル絵画にも似ているが、抽象絵画の範疇には属さない。それが石澤氏の自然との語らい、対話にあるとされている。原風景として接した上州の自然に触発された作品の数々がとても新鮮であった。

自然との語らいの中で生ずるイメージの数々には、女性の様々な裸像が深く刻まれている。原風景との語らいの中には性の目覚めとそれにまつわるエピソードが含まれている。

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美術館に併設している「旧井上房一郎邸」には、石澤氏のパトロン的な役割を担っていた井上氏の個人的なコレクション作品が展示されている。題名は「森にある恋」という。井上氏はこの作品を「パーフェクト」だと称して絶賛していたという。

十条の名店「斎藤酒場」にて一献

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JR埼京線「十条」駅にて途中下車。駅前商店街の「斎藤酒場」へ向かっていた。下車して数分、其処には北区十条地区の下町ならではの商店街にマッチした風情の「大衆酒場 斎藤」という暖簾が待ち構えていた。重厚な趣ある暖簾の奥には更に重量感ある木製の引き戸をぐいっと引いてみると、中には大勢の酔客が陣取っていた。夕日が落ちて間もない5時くらいだというのに此の様は何だ! 酔客達の聖地と読んでも良いくらいの現場に足を踏み入れていた。中島らもが愛した今では数少ない酒場であることが一瞬にして諒解されたのである。下町の酒場にしておくには勿体無いくらいの存在感である。

メニューはそうは多くなくて所謂居酒屋における定番メニューだらけだ。マグロのブツ、串揚げ、ポテトサラダといったメニューが運ばる度に、いちいちとこの美味しさやあるべき存在性について感じ取っていたくらいなのである。例えばある種の哲学的表現を借りるならば、意識が存在を規定するのではなく存在が意識を規定するという、まさにそんな存在を目のあたりにして立ち竦んでいたということなのだ。

特に常連と思われる中高年の呑兵衛たちは必ずと云ってよいほどポテトサラダを注文している。居酒屋メニューでありながら家庭的なメニュー風の要素も在る。だからからこそ家庭的メニューの一端をポテトサラダ、略称ポテサラが担っているのだというとなのだ。家庭内における食生活の乱れが招いた現象と云えるのかもしれない。

「生姜挙げ」は関東にはない関西ならではのメニュー

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おいらの地元の串揚げ店にて「生姜挙げ」というメニューを食したのである。辛くて生ではとても口に出来ないくらいの生姜という食材を串に刺して揚げていくというメニュー。これは関東地方ではほとんどこれまで味わうこと無かったので、好奇心に気おされて注文してみた。

何より以上に驚いたのは、生姜が生姜の辛味をマイルドにアレンジさせたということにある。生姜が口に含めばとてもマイルドに味わうことが出来たのであった。

「生姜挙げ」というものは関東にはない関西ならではのメニューなのである。

昨晩の「モツ煮込み」を「モツ煮込みカレー」にリメイク

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昨晩作った「モツ煮込み」料理はちょいと作りすぎたきらいなどあり。そのままカレーのルーと一部香辛料などを加えて「モツ煮込みカレー」にリメイクしたのだ。そうしたらば想像以上、期待以上の仕上がりに満足至極なのである。

一般的なカレーの食材とは異なり、大根、牛蒡、蒟蒻、等々の冬野菜はカレー味が染みてだいぶ味わい深くに美味しく味わうことが出来たのだった。煮込んだモツと其の出汁が効いていることが此の料理の奥行きを作り上げる条件の一つであり、しかも昨日の味噌味が此の特製モツカレーの隠し味として効いているのである。

居酒屋メニューの定番料理こと味噌煮込みとともに、和風出汁の効いたカレー料理もまた日本人にとってのソウルフードであることを再認識させていたのだ。

モツ煮込みの翌日はモツ煮込みカレーというパターンがこれから益々増えていくことと思われる。

寒い夜には冬野菜根菜をふんだんに使った「モツ煮込み料理」で温まるのだ

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冬の野菜と云えば、牛蒡、人参、大根、蒟蒻、と云った根野菜が旬であり美味しいのである。そんな冬の根野菜をたっぷり使って「モツ煮込み」をつくったのだ。

豚小腸を中心としたモツの出汁が効いたベースのスープに、冬の根野菜がじっくりと煮込まれて、まさにこれぞの冬季の味のハーモニー。出汁とともに基本の味付けは味噌がベースだ。この味わいのハーモニーこそは冬季の日本の食生活の根幹を示している。

冬季の季節料理と云えばこの冬野菜根菜をふんだんに使った「モツ煮込み料理」にとどめを刺すのだと云ってよいくらいなのである。

第百五十回芥川賞受賞作品、小山田浩子さんの「穴」

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先日発表された第百五十回芥川賞受賞作品、小山田浩子さんの「穴」を読んだ。月刊文藝春秋誌では150回の区切りの受賞作品として大々的にピーアールしているようだが、読了してみたら、いまいちピンとこない印象に捕われてしまった。

物語の出だしは夫に転勤の辞令がくだり夫の実家の隣の借家に引っ越しをするという、若い夫婦の極めて日常的なエピソードから始まる。妻はそれまで勤めていた職場を辞めてフリーになるが、新しい土地での居場所が定まらないままに、いかにもありがちな若夫婦のエピソードを重ねていく。「転勤」「辞令」「異動」「再就職」といったテーマが並ぶのがまるで安っぽい社会派小説のような進行なのである。表題の「穴」とは、若妻が謎の小動物を追っていたら偶然に「穴」に落ちてしまったというエピソードを示している。中段に至って漸く純文学的なエピソードが現れるかの流れとなるのだが、それはまるで典型的な「非日常」「異界」「幻想」等々の修飾を可能にするかのような代物であり、余計な白々しささえ覚えざるを得なかったというべきなのである。

読書中には何度もミステリー作品に対するかのような期待感さえ惹起させたのだが、そんな大衆文学の要素さえ裏切ってしまう。こんな作品が本当に芥川賞なのかという思いさえ抱かせてしまうのである。

関東近辺の除雪車が機能していない

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上州前橋市や甲州甲府市などの関東平野の地域にて大雪が猛威を襲っている。昨日は関東圏内の主な幹線としての高崎線が止まってしまって大きな衝撃を受けたところであったが、未だに大雪寒気の猛威は去ってはいないのである。

特に示されるのは、関東近辺における除雪車がなかなかあてにならないようなのだ。すなわち関東近辺の除雪車が機能していないということである。市内の幹線登路には除雪を目的にして様々な機材が投入されているが、それらが本当に除雪には役立っているのであろうか? という疑問が拭えないのだ。

えんどう豆の若菜こと「豆苗」は和食に合うし二毛作にも対応する逸品食材

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スーパーで「豆苗」という食材を購入する機会が増えている。一言で説明するならばえんどう豆ことグリーンピースの若菜である。主に朝食の味噌汁の具として利用しているが、うどんや鍋料理にあわせる具材としても重宝している。時間をかけて煮込んでもシャキシャキとした食感が残っていて食べ応え噛み応えが充分なのであり、和食の出汁も染み込んでいて相性が良いのである。

しかも此の食材は、食べ所としての若芽のところをカットして食用にした後にも、残った根と豆の部分を水に浸するならば再度芽が育っていき再収穫、再々収穫ができるのだ。ビタミンCやビタミンB群も豊富であり、栄養価も極めて高く、日々の付け合わせ的自家製野菜としてとても重宝しているのだ。

都会生活で最大の大雪に見舞われた

本日は先週末以上の大雪である。溶けきらない雪の上にはサラサラの新雪が降り積もり、その厚みは30cmをゆうに超えている。日常的な都会生活環境としてこれ以上の大雪に遭遇した記憶がない。すなわち雪国等への旅行時体験を除けば、本日はおいらの経験した最大の降雪体験であろう。観光地で触れる大雪は楽しみだが都会生活で出会す大雪は脅威でもある。自然が脅威の対象になることを実感させられた日である。ニュースでは八王子市内のアーケードが大雪が原因で崩落して怪我人が出たという。明日の予想では雪が雨に変わり本日以上の暴風が襲って来るという。何時までこんな悪天候が降り続くのかと、憂鬱な夜を過ごさねばならない。

圧力鍋で自家製の「牛スジ煮込み」にチャレンジ

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おいらが好きな「煮込み」と云えば、一般的なモツ煮込みよりも「牛スジ煮込み」である。牛スジのゼラチン質や繊維質が豊富であり低カロリー、しかも馥郁とした出汁が味わえるというのであり、どこぞの酒場に足を運んだときには先ずは此の牛スジ煮込み料理を物色している。美味い牛スジ煮込みは其れくらいに求むべき酒のつまみでもある。

先日は地元スーパーマーケットで新鮮な牛スジを仕込んでいて、自家製の牛スジ煮込みづくりにチャレンジしたのだった。購入した牛スジを3〜5cmにカットして、その他、人参、牛蒡、そして干し椎茸の具材を用意して、圧力鍋にて煮込んだのだ。味付けは少量の醤油と塩と生姜の細切れのみであり、牛スジから滲み出る出汁とコラーゲンが味の決め手となっていた。

一日寝かせた煮込みはコラーゲンが煮こごりのような様相を示していて、煮こごりを暖めて味わった其のスープの味わいこそ煮込み料理の真髄であるかと感じ取っていた。ともあれけだし、煮込み料理は牛スジ煮込みに限るのである。

一般的に「煮込み」という料理には「もつ煮込み」と「筋煮込み」が双璧をなしている。おいらの好みはといえば筋の煮込みの中でもとりわけ「牛筋煮込み」ということとなっている。牛筋とはアキレス腱の部分や腱がついた肉の部分を指しており、にはゼラチン質が豊富に含まれており、脂身は少ない。ホルモンの部位とは異なり、あまり小売 店のショーケースには並ぶことが少ないと云う。専門店での調理法が映える部位なのである。名店の「牛筋煮込み」は、ほぼ飲兵衛たちの支持によって長い命脈 を維持しているのだと云っても良いのだろう。

佐竹河内守騒動にみる、虚言師、作話師に関する一考察

佐竹河内守といういかさまベートーヴェンことペテン師の話題がいっこうに収まる気配がない。これでもかと云うくらいの出鱈目な虚言と作話のあれこれには日本中の誰もが唖然としたようであり、其の様相は或る種の公共的正義感の噴出の元となった気配さえある。ネット界隈における「祭り」にも近しい騒動である。だが問題は其れだけには留まらない。想定外の騒動の広がりには、現代日本社会に根深く棲息する虚言および作話に対する関係性が存在しているのである。

そもそもとして我が国日本人が作話師、虚言師に対しての嫌厭の思いを強くしていたことは戦前よりの史実において明らかであり、そんな嫌厭の情に歯向かうかのごとくのごとくに佐竹河内某などの詐欺師が横行しているのだ。かつてはおいらの記憶が確かならばそんな詐欺師は小っ恥ずかしいという思いを抱きつつ、世の中の察りの式場なりその他諸々の派手なる場所には小っ恥ずかしい思いからにて近ずからなかったのだが、昨今の詐欺師風情においてはそんな基本的な倫理観さえ失われてしまったということなのであろう。

本日にマスコミへファクスされたという言い訳等は、そんな小っ恥ずかしい思いを感じ取ることなく増長された嘘ペテンの虚言の数々だと云うべきである。こんな似非アーティストはこの世から居なくなってほしいと思うのはおいらだけではないだろう。

「たらの芽と山ウドの天ぷら」で春の到来を味わう

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首都圏にはまだまだ直下型の寒気が押し寄せていてなかなか春を感じることがないが、地元の食堂で味わった「たらの芽と山ウドの天ぷら」には、春の味が濃厚に感じ取られたのだった。

とくにたらの芽は、寒々とした冬の最中に芽を付ける其の様こそが春の息吹を象徴していると云えるのであり、この食材を口にしたときこそ春を感じるきっかけなのだった。

山ウド天ぷらはゴン太の茎を細かくカットして天ぷらにして出されたものであり、其の馥郁とした香りが何よりも食欲をそそつていたのだ。おいらが此のたび口にしていた山ウドも山菜特有のあくもそれほど気にならない。かえって野趣さえ感じさせた香りは秀逸の香りであった。

寒の夜にはほかほかの「アンコウ鍋」が有り難き

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40数年ぶりの大雪による寒々とした日々である。これからも数日は続くと云われる寒気の日々には、温かい鍋が有り難い。殊に冬季の旬の魚であるアンコウの鍋であれば有り難きこといっそうなのである。

ありついたのは味噌とピリリとした辛味のきいたスープがベースの「アンコウ鍋」であった。アン肝やその他の七つ道具とも呼ばれるアンコウの様々な部所が具に採用されている。尾ビレ、胸ビレ、卵巣、白身、胃袋、等々とそれぞれの部所が独特な食感と味覚とをもって主張している。

鍋料理の絞めには雑炊が定番だが、たっぷりのアンコウの出汁を含んだ米の味わいはとてつもない美味だということを思い知った。ピリ辛味噌味と相俟って、冬の代表的な鍋料理に認定しておきたい逸品の鍋料理なのである。

都知事選における細川護煕候補敗北の一端は小泉氏に対する過大評価

東京都知事選挙が行われ、ますぞえ氏の勝利に終わった。マスコミの予想通りの結果となってしまったのだった。おいらが支持して投票していた細川護煕候補が敗れたという結果を受けて、やはり此の選挙における戦術的な誤りがあったのだという思いが拭えないのだ。

その第一番目の要因、敗北の要因として指摘すべきは、小泉氏への過度な期待や思い入れ、過大評価、過信にあったのだ。毀誉褒貶渦巻く小泉純一郎氏に対しては、おいらは未だに不信の念が拭えていない。かつて米国流の新自由主義的経済を日本に持込み、様々な日本的な優れた伝統をことごとく破壊していったことの元凶は、やはり当時の小泉元総理の存在を無くしては考えられないからなのである。

時代が変わってもなお変わらずにあり続ける現実の実態が在る。新自由主義などと呼ばれる猛威は現代日本の社会にも未だに負の遺産を与え続けている。小泉に頼った脱原発のアピールなどは、けだし絵に描いた餅的なジャンクフード的なる代物であったと認識すべきなのである。