「棟方志功記念館」を訪問〔3〕「板画」に込めた天才の技

棟方志功さんが自分の作品ジャンルについて「版画」と呼ばれるのを嫌い、自ら「板画」であると主張していたエピソードは有名な話だ。

木材としての年輪や引っかき傷、撓み、汚れ、等々の具材としての「板」の存在感を強烈にアピールしながら、棟方芸術は作り上げられてきた。

コピー作品としての「版画」という、ネガティブなイメージはそこになく、ひたすら木材を相手に自らの世界を描き続けてきた棟方芸術の痕跡を、我々は辿るばかりなのだ。

予め墨で着色した木材に顔を数センチの距離にまで近づけて、彫刻刀の一撃一撃が投下されていく。その制作の姿はまるで、石工が固い石材に対して力いっぱいに斧をぶつけていく仕種にも似ており、素材と作家との格闘というプリミティブな芸術行為そのものを、鮮やかに浮かび上がらせていくのである。

版画がコピー芸術だと揶揄されたことを跳ね飛ばすに充分な、棟方芸術の格闘の姿がそこには存在していたのである。

「棟方志功記念館」を訪問〔2〕凡庸な保守主義とは一線を画して築かれた棟方志功の世界観

棟方志功は生涯において膨大な量の作品を残している。そう広くはない「棟方志功記念館」の「躍動する生命」企画展にて展示されていたのは、同記念館が所有する膨大なコレクションの中のほんの一部だが、代表作は少なからず含まれていた。

「釈迦十大弟子」は釈迦の弟子達の姿を彼独特のデフォルメ的手法で骨太に描いたものだ。夫々の弟子達の表情から見えるのは、卑近な日常で接する人間達の顔々との特別な相違を見出すことは難しい。何故ならば弟子達の個性は人間存在の様々なる個性と類似しているからであり、これこそが棟方志功流なのだ。

「湧然する女者達々」は、ふくよかな女神達であるが、日常一般で接する女性達の息吹も漂わせている。すなわち神話の女神達のようでありつつ、日常性からたどった女の理想像なのかもしれない。触りたい、抱きしめたい、そして包み込まれたいといった、云わば男の下心にも通じる世界を棟方志功さんは描き切っているのである。

彼の作品にて描かれる「天妃」或いは古事記の神話からとった女神像は神話を題材にしながらも、それに埋没することなく棟方流を貫いている。「女者」という題材が棟方世界を貫く特別なテーマであったのだが、そのテーマの追求の手段として、神話なり仏教故事なりを借用している。

すなわち棟方さんは、よくある凡庸な保守主義者のように神話や故事に埋没して嬉々とする俗物たちとは一線を画して、彼自身の作品世界の構築に努めたのであった。これこそが彼自身の世界観をこ決定付けている。こんな姿勢こそが、天晴の賞賛に値するものなのであり、我々現代人が見習っていくべきものなのである。

黒石発祥の名物「つゆ焼きそば」は見習うべきソウルフードなのだ

青森県の青荷温泉からの帰り路、黒石市内の食堂にて「つゆ焼きそば」を食した。

黒石名物の「つゆ焼きそば」は、多くのB級グルメ情報にてその存在は知っていた。だが、こんな味だったとは! その味においてはひたすら吃驚なのだった。

注文すると間も無く調理場からは、麺を「ジュー、ジュー、ジュー」と焼く音が聞こえてきた。古惚けて小さな店内にはひたすら大きく響き渡る。数分の後「ジュージュー」の音は収まり次の工程に入ったことがうかがわれる。だがその行程が、予想以上に長かったのだった。ただ焼いた麺にスープをかけたものではないらしい。

そしてやっと運ばれてきた注文の品には、黒ずんだスープの中に、キャベツ、豚肉、天かす、ネギ、等々の食材が浮いている。箸でスープの中を掬うと、幅広い太目の麺が顔を出した。

まずはスープを一口。この瞬間が予想外の出逢いであった。ラーメンのスープの味でも無ければ、そば、うどん類のつゆの味でも無く、全く新しい。ツーンとしたソースの香りさえもがまろやかに調和している。不思議な味わいなのだ。

多分は中華そば用のスープがベースに、焼きそばのソース、天かす、ネギ、等々の味わいが混ざり合ったスープが、こんなにも調和の取れたものだったのかという発見、思いもつかない発見なのであった。

日本そばにはかつお+昆布出汁、そして中華麺には鶏ガラスープと、云わば固定観念に囚われていた日常の食文化的常識を打ち破るくらいのインパクトが在ったと云うべきだろう。岡本太郎さんではないが「何だ、これは!」と、思わず叫びたくなる。

ジャンクフードだとばかりに思っていたものが、実は素晴らしいソウルフードであったという訳なのだ。地域で食されるソウルフードはこうでなくてはならないという、まさに見本のような素晴らしい料理なのである。

ランプの宿こと青荷温泉に宿泊

昨晩は、ランプの宿こと青荷温泉に泊まった。ネットも携帯も使えない、電気が通っていないからテレビ、ラジオも使えない。その代わり、豊富な時間や自然が満ちていた。

ランプの光は予想以上に微力であり、頼りなくも感じさせるものだった。夜になったら読書をしようと用意した本はランプが暗くて読めなかった。そのぶん余計に豊富な時間を持てた気がする。

電気に頼り過ぎた生活の中では、日の有難さなどは忘れさられてしまう。光と闇の繋がりの中に我々が置かれていることさえもが忘却の彼方へと飛んで行ってしまったということを、痛感していた。

日がくれる時間の只中に居ると、まさに闇が襲ってくるときのドラマを感じ取ることになる。昼の時間から闇の襲来の時間をおいらは露天風呂に浸かりながら過ごしていた。

刻一刻と闇は近づき、まるで舞台が少しずつ変化していくのを肌で感じとることが出来るのだ。さっきよりもまた少し、また少しと、音は立てないが確かに闇は襲いかかってくる。一瞬一瞬がまるでドラマ化された舞台の中でのストーリーと化している。なまった感覚を取り戻す方法としてこれ以上のものはないと云っていいくらいだ。

青葉が芽生えている大自然の息吹と、天然の温泉、素朴だが滋味豊かな大地や川からとられた食材を調理して出された美味しい食事、そして永遠をかんじさせるくらいの豊饒な時間があれば、人生は豊饒を感じ取ることができるのだ。

余談になるが形而下的話題を一つ。夜になってフロントに抗議するおやじ出現。「ランプの宿かどうかしらないが、いったいどうなっているんだ」と、たいへんな剣幕だったのだ。おいらの推察では愛人に愛想を尽かされかかったのを何とか宿のせいにして乗り切ろうかと図ったようなり。温泉に不倫あり、を絵にしたような騒動であった。

十三湖の蜆がたっぷり入った「しじみラーメン」

今回の旅ではとくに名産品を求めることは無かったが、青森市内の食堂で食した「しじみラーメン」にはいたく感動した。

調理の工程を目の前で眺めることになっていたのだが、とてもスローに、しかし丁寧に充分な慈しみが込められてその一杯はつくられていた。

生のしじみを煮て、とっておきの自家製しじみエキスを加えてスープにし、薄めの醤油だれと合わせていく。「十三湖」で捕れた大降りのしじみがたっぷりと、滋養豊かな香りを振り撒いていたのだ。

毎日はと云わないが、ときどきはこんな地味豊かな味に接することになったらさぞ嬉しく思うだろう。スローフードの原点とも呼ぶべきラーメンに大満足なのだった。

東北青森の「棟方志功記念館」を訪問

福島、宮城、岩手を通り越して、東北の青森に来ている。

東北地方はまさに心の故郷であり、何度も足を運んでいるが、今年は大震災後という特別な状況もありなかなか例年通りの観光旅行、慰安旅行の気分にはならなかったが、かといって東北が遠く感じてしまいつつあるのをそのままやり過ごすこともままならずに、とにかく行ってみようと新幹線に飛び乗っていたのである。

初めて降車した「新青森」の駅舎はモダンでありつつ、青森の風景に馴染んでいた。少し前までこの場所の駅舎が無人駅だったということを聞きつつ、新しい玄関口が開かれたことを嬉しく感じた。「青森駅」とはまた違った展開をこれから見せてくれていくことになるのだろう。

さて最初に訪れたのは「棟方志功記念館」だった。棟方志功さんの作品には、都内や青森県内の様々な場所で接することはあったが、一堂に会して鑑賞するという体験はなかったように思う。大変尊敬しているアーティストに対しては、些か礼儀を欠いていたと、改めて思った。

現在の企画展は「躍動する生命 棟方志功の眼」と題して開催されている。今のネット環境の悪いここでその詳細を記すのは困難なので、内容その他については帰京してから改めてまとめたいと思っているところだ。

庭にはドクダミが咲き誇っている

毎年この時期になると庭の野草が突然に繁茂してくる。

白い花びら珍重のようなものを付けているのだが、じつはこれ、ドクダミという野草なのだ。いつからかは定かでないが、我家ではいつの間にやらこの時期の主役となっている。

薬草としても珍重されるものだから、刈りとって、お茶にしてみようなどと企んでいるところなのだ。

カツオの刺身は、今が最もの旬なのだ

カツオの刺身が話題に上るのは、初春の「初ガツオ」か或いは秋の頃の「戻りガツオ」の時期であるが、実は今のこの時期こそがカツオの旬なのであり、刺身の味わいも絶品なのである。

この時期のカツオの刺身を食べなければ、かつおの旨さを本当に味わったとは云い難い。旬のカツオを食してこその、かつおマニアなのだ。

マグロよりも小ぶりではあるが上品な味わいであり、人間の健康生活に必須の成分であるところのEPA(エイコサペンタエン酸)やDHA(ドコサヘキサエン酸)の含有量が多いと云うことが挙げられる。

しかも季節の旬を味覚で味わいつつ季節を愉しめるのだからこのうえも無い食材だと云って良いだろう。

余談ではあるが、「カツオのたたき」と云うメニューをおいらは好きではない。カツオは刺身で食するのが基本であり、最もその味わいを享受できる調理法なのである。

小ぶりだが高級魚の「のどぐろ(あかむつ)」にありついた

のどの中が黒いから「のどぐろ」等という有難からざる名前で呼ばれているが、正式名称は「あかむつ」と云い、味は絶品のお墨付きの高級魚なのだ。

炉辺焼きの居酒屋店にて炭火で焼いたのどぐろを見かけて思わず注文してしまった。

その身は引き締った白身魚で、淡白だが独特の脂身を含んでいる。小ぶりのものであったがその身の独特な味わいは満喫することができたのだった。

食べ終わった魚ののどの中の方を覗いてみたが、特に黒い部分というものを発見することはできなかった。成長すると40cmにもなるという巨大魚だから、その成長魚ののどの何処かには黒い部分や斑点などが見られるのだろう。

そんなのどぐろは、日本海の猟師町に行かなければ遭遇できない、それこそが本物の高級のどぐろなのかも知れないと思った。

東京下町の紫陽花(アジサイ)は見頃なり

梅雨のジメジメジトジトした日々には紫陽花が見頃になる。決まっていることながら、やはりこの時期になると紫陽花を探してしまう。都会の、特に下町の路地裏に咲く紫陽花を求めて散歩するのがこの時期のならいともなっている。

漢字で紫の陽の花とは書くが、紫色のものばかりとは限らない。赤いもの、ピンクのもの、白いもの、赤青混色のものなど色とりどりである。

一般的によく見かける手鞠に比せられるものは「セイヨウアジサイ」という品種だ。花弁のように見えるのは実はそうではなく「ガク」に当たる。本当の花弁はもっとずっと奥深くに隠れている。

最近良く目に付く種類が「ガクアジサイ」と呼ばれる品種だ。花弁に見えるガクが取り巻いているその中央部分には細かな花弁が密集していて、生き生きとして微小に咲き誇るその様は見るものを釘付けにしてしまう。

年間を通してこの時期ほど町の裏通りの景観に思いを寄せることはないだろう。ただ緑の植え込みだとして見過ごされるものが、色々とりどりの花やガク等を開いて人々の目を釘付けにするのだ。

こんな景色はやはり散歩しながら求めていくしかない、季節の風物詩なのだろう。