ランプの宿こと青荷温泉に宿泊

昨晩は、ランプの宿こと青荷温泉に泊まった。ネットも携帯も使えない、電気が通っていないからテレビ、ラジオも使えない。その代わり、豊富な時間や自然が満ちていた。

ランプの光は予想以上に微力であり、頼りなくも感じさせるものだった。夜になったら読書をしようと用意した本はランプが暗くて読めなかった。そのぶん余計に豊富な時間を持てた気がする。

電気に頼り過ぎた生活の中では、日の有難さなどは忘れさられてしまう。光と闇の繋がりの中に我々が置かれていることさえもが忘却の彼方へと飛んで行ってしまったということを、痛感していた。

日がくれる時間の只中に居ると、まさに闇が襲ってくるときのドラマを感じ取ることになる。昼の時間から闇の襲来の時間をおいらは露天風呂に浸かりながら過ごしていた。

刻一刻と闇は近づき、まるで舞台が少しずつ変化していくのを肌で感じとることが出来るのだ。さっきよりもまた少し、また少しと、音は立てないが確かに闇は襲いかかってくる。一瞬一瞬がまるでドラマ化された舞台の中でのストーリーと化している。なまった感覚を取り戻す方法としてこれ以上のものはないと云っていいくらいだ。

青葉が芽生えている大自然の息吹と、天然の温泉、素朴だが滋味豊かな大地や川からとられた食材を調理して出された美味しい食事、そして永遠をかんじさせるくらいの豊饒な時間があれば、人生は豊饒を感じ取ることができるのだ。

余談になるが形而下的話題を一つ。夜になってフロントに抗議するおやじ出現。「ランプの宿かどうかしらないが、いったいどうなっているんだ」と、たいへんな剣幕だったのだ。おいらの推察では愛人に愛想を尽かされかかったのを何とか宿のせいにして乗り切ろうかと図ったようなり。温泉に不倫あり、を絵にしたような騒動であった。