描き続ける「野獣」についての考察

今回アップするのは「野獣シリーズ」として描く作品であります。改めて言っておきたいのですが、僕がよく描いているのは野獣であり、決してペットや飼い慣らされた家畜たちではないということ。よく間違えられるのが「犬」や「猫」といったペットたちだという誤解也。はなはだ迷惑この上ないのです。かつては僕も、犬や猫を飼ったり可愛がったりしたこともあるが、モチーフにしたことは無かった。取り立ててモチーフにしないのではなく、あえてモチーフ、モデルに採用することに、特段の意味や必然性を感じないということ。翻ってみれば「野獣」という存在がそれだけ稀有なモチーフに成り得るといういうことなのです。

木製パネルをベースに、

木製パネルをベースに、木板を切断加工等を施し、アクリル絵具で着色して制作した作品たちです。半立体的な作品仕上がりになるので、いつも以上に窓からの光には繊細になりました。撮影に関しても、制作時と同様に、外光には注意喚起を余儀なくされていたものです。

我が家のアトリエは、南北二方向からの日の光を取り入れていることが、一番のメリットとなっています。つまりは太陽光との対話ができているので、それが、制作する環境での好条件でもあります。これこそが、イラストレーターや写真家たちとは決定的に異なるところでしょう。半立体作品に限らず、常に太陽光との語り合いの時間が増えていくだろうと、感じたのでありました。

綺麗な薔薇の棘、人生の棘に関する考察

人間の社会には「綺麗な薔薇には棘がある」などということわざ、格言がある。美しいもの、魅惑的なもの、蠱惑的な存在、等々には、決して近付いたりしてはならないという、所謂ひとつの戒めを示しているのである。だが実際に、現実的に、綺麗な薔薇を見て、それに接していながら、みすみす引き下がってしまっている人間は、まるで人生を引退しているか? あるいは人生の魅惑的な真実に対して全く関心のない不具者であるのか? 等々の憶測を抱かれることは必須である。綺麗な薔薇に対してアプローチすることは、現代に生きる人間にとっても大切なことである。

そんなこんなの思いを胸に抱きつつ、綺麗な薔薇たちを描き続けているのである。

芽吹きの里

 

キャンバスにミクスドメディア F100号

里山の存在感が色濃く聳え立つこの場所から、たくさんのいのちが芽吹いている。物語を紡ぎだすいのたちが生まれていることを、何時も感じる。それは小さな芽吹きなのかもしれないし、或いはもっと大きな成長なのかもしれない。

年間を通し、季節が過酷の冬の時代を過ぎて、芽吹きを始めるのは、春の季節である。春に芽生えを得ていのちの息吹を表現するのはその時間は限られてはいるのだが、現在は、夏から夏の終わりにかけての一時期ではある。此の時期の里山の相貌はといえば、まことに不思議な相貌を呈しているので、僕は一層の興味関心を抱いていたのであります。

野獣たちの咆哮する姿

里山の野獣たちが咆哮する姿をよく思い浮かべる。夢の時間に見ることや現に浮かべることなど、様々なバリエーションが有り、何時もその厳かな声に聞き入るのである。あまつさえ、彼らの咆哮が、森の大地が奏でる音楽と感じることも少なくない。

かたや人間社会の汚らわしい政治家どもは、犬笛を吹き散らし、誹謗中傷、阿鼻叫喚、等々の姿を晒している。人間と野獣たちとの叫びや咆哮には、大きな隔たりがあり、両者の接点は皆無と云ってよいのである。