早春の「焼き筍」は想像以上に柔らかく滋味芳醇なり

最近の居酒屋は「季節の先取り」がテーマと見えて、春を前にして春の食材を提供するのがならわしと化しつつあるようだ。まだ肌寒い冬だというのに居酒屋のメニューには春のメニューが並んでいく。

昨日の「初カツオ」に続いて近頃味わった春メニューが「筍焼き」であった。まだ地上に姿を現していないであろうほどの小ぶりの筍を皮ごと丸ごと焼いて調理する。とてもシンプルな料理なのだ。

皿に乗せられて出てきたそのメニューには、幾重にも包まれたその皮に焦げ目がつけられており、丁寧に火が通されたあとが生々しい。焦げた香りに導かれるように皮を1枚1枚丁寧に剥ぎ取っていくと、ピチピチとして柔らかな身の部分にたどり着いた。

ふっくらとして香ばしい若筍の味わいはまさしく春の旬というものであった。柔らかな身はさくさくとしていて、その中から漏れ出されるえぐみのような味もまた芳醇だ。

初ガツオ(初鰹)の季節が早くも到来

地元のスーパーで「カツオの刺身」を目にした。宮崎県産の生ものだという。宮城県産などの解凍ものは1年中出回っているのだが、生のカツオがこの時期に出回るものとは知らなかった。早速購入して味わってみたのは云うまでもない。

カツオは生食にされる魚の中でも比較的足のはやい傾向があり、新鮮なものは旬の時期の生ものに限る。年中出荷されている解凍ものは、どこかどす黒い色味をしているのが気になって仕方がない。おいらもあまり解凍ものは好んで食べようとは思わないのだ。

それなのに今回の生カツオは、見るからに艶が良くて、ほのかに桃色ピンクの色彩を放っているのには少なからず心奪われていた。紛れもなく今季初の「初カツオ」である。口にふくめばまるで青い青年のように純な味わいが拡がってくる。脂がのって濃厚な「もどりカツオ」の濃厚なものとの違いは歴然として一線を画している。

そもそも古の頃より「初カツオ」の季節というのは初夏とされており、2月のこの時期に食されるものではなかった。「目には青葉 山ほととぎす 初がつを」の句に詠われた旬の時期は、目に鮮やかな青葉が生育し新緑に染まる5月の頃なのだとされているのだ。

あらためて考えてみれば不思議な現象ではある。猛暑や大雪が日本列島を襲っている昨今、あまりに早過ぎる「初カツオ」の収穫を目にして、異常気象の表れではないことを願ってしまう。

美味しい初カツオを味わった食後のコメントにしては、少々陰鬱なものになってしまったようである。嗚呼、マイゴッド!

島本理生さんの新境地を築いた「真綿荘の住人たち」

 [エラー: isbn:9784163289403 というアイテムは見つかりませんでした]

恋愛小説家島本理生さんによる6編の中編小説による連作小説集である。「真綿荘」という奇妙な名前の下宿屋が舞台となっており、そこに棲まう5人の住人たちの、切なくも奇妙な恋愛事情が描かれている。

真綿荘の5名の住人とは、下記のようにユニークだ。

綿貫千鶴(恋愛小説家でもある大家)
真島晴雨(大家の内縁の夫で画家)
大和葉介(北海道出身の下宿の新入り)
山岡 椿(事務員。女子高生の八重子と付き合っている)
鯨井小春(大柄なのがコンプレックスの大学生)

「真綿荘」というネーミングは「真綿で首を絞める」という喩えを連想させて不気味であるが、大家と大家の内縁の夫が経営する下宿屋の名前とあれば、それなりに納得する。恋愛というものはおしなべて真綿で首を絞めるようなものだというメッセージを受け取ってしまう。実はそんなことも無くて、単なる遊びなのかもしれないのだ。作者はそんなこんなのエスプリを楽しみながら創作をしていたのではないか? そんな想像さえ抱かせてしまう。

住人たちの恋愛事情はそれぞれまちまちではあるが、世間一般の、所謂多数派とは距離を置いていて、尚且つそれぞれに少数派であるが故のはくがいを内包している。恋愛にまつわる様々なる痛みというものを内包している、この小説のポジションはとても鮮烈であり、とてもユニークなものだ。

若き恋愛小説家の新境地を築いた作品だと云えるだろう。

冬の海の恵みを頗る味わった「牡蠣の焼き」

冬の恵みの代表格の「牡蠣」の焼きものを味わった。

近頃のあれこれに比べば頗る満足した体験なのだ。冬を旬とする魚介類の中でも「牡蠣」は特別な存在であろう。

我が国の歴史を紐解くならば縄文時代から食用にされていたという記録さえ残っており、日本文化と牡蠣との接点は極めて巨きいものだと云えている。

居酒屋の厨房では見るからに旬の大ぶりの牡蠣を殻ごと焼いていて、ころ良い焼き加減に達したところでその逸品のメニューはテーブルに運ばれていたのだ。

口に運ぶなり、その磯の香りがプーンと漂いつつ、極めてミルキーであるその磯の土地に特有の風雅な香りにうっとりとした。これだけでも冬の旬の牡蠣を味わう意味があるのだ。

焼いたばかりの熱や香りやらを目の前で感じつつ、おいらは想像していたよりも小ぶりの牡蠣の身を、醤油に付けて味わってみた。

う~む、やはり磯の独特の複雑な香りや味わいは牡蠣ならではのものである。「海のミルク」等とも称されるようであるが、今宵の焼き牡蠣の風味豊かな味わいは、特別にブログ上に記していきたいと思いながら記している。

すなわち美味い牡蠣の焼き物を味わったということを今宵は特別に記したいという気分なのでした。

iPhone4に、Bluetoothのワイヤレスキーボードを繋げてみた

先日から使用しているiPhone4用に、ワイヤレスの小型キーボードを購入した。ELECOM製の「TK-FBP013」。幅221.2ミリと極めてコンパクトだ。これならば鞄に忍ばせておいて、外出先でもすぐに取り出し使えて便利だ。

iPhone4専用ではなかったが、iPhone上でBluetoothのペアリング設定を行なったところ、問題なく繋がった。メモツール上で、日本語入力を行なう際に慣れない携帯キーボードを弄くっているよりは数段利便性が高まったのだ。さてこれで、ネットブックに代わるモバイルツールが用意できたぞ、これからは外出先でバリバリ使おうか、などと考えていたところ、想定外の難点に遭遇したのだ。

かな入力が使えない!

その想定外の難点はといえば、「かな入力」に対応していないということ。これは想定外に大きな難点だ。キーボードにはしっかりとひらがなの記載があるのに何故だか使えない。iPhone側のシステムが「ローマ字変換」オンリーであり「かな変換」に対応していないのだ。このマッキントッシュ社製機種が国産ではなく舶来機種なのであることを思い知らされた。こんな不条理は無いだろうと思うのだが、現実なのだから堪らないのだ。

思い返せばもうかれこれ20数年前のこと。おいらが著した書籍の処女作品の印税がごっぽり入ってパソコンを初めて購入したとき、おいらは迷うことなく「かな変換」を選択した。それ以前からの長き付き合いであり、専用ワープロ機を使用していた頃から数えるとなれば、おいらと「かな変換」との付き合いは四半世紀が過ぎ去っていることになる。そんな長き歴史を無視されたかのごとく感じて憤慨の念を禁じ得なかったのだ。

今では日本語変換と云えば、猫も杓子も「ローマ字変換」に染まってしまった。日本人が日本語を扱うのに「かな」でなく「ローマ字」を使ってしまう。日本語をアルファベットに置き換えて思考しながらタイピングするのだから、馬鹿げていると云うしかない。真っ当な日本語の考え方が出来るはずも無いのだろうと思う。日本人の米国による属国化は、既に深いところにまで浸透してしまっているのかもしれない。

春を告げるヒヤシンスの香りにうっとりなのだ

先月ふと街の花屋でみかけて購入した「ヒヤシンスの鉢植え」が、ようやくここにきて花弁を開いて花を咲かせた。ご覧のような白とピンクと紫の3色のヒアシンスが清楚な花弁をたたえる鉢植えである。

花弁が開きかけた数日前には気が気ではなかったのだ。白、ピンク、紫の蕾たちのそれぞれが下を向き、いつその花を開くのか、全く見当もつかなかったからである。だがここにきて蕾は上を向き花を咲かせたのでありました。

そして我が家の中では珍しいくらいに甘い香りをたたえているのであります。プーンと漂うヒヤシンスの香りにうっとりしつつ、かつてあまりないような甘味なる現状にうっとりとさせられていたのでした。

香りとは「かほり」ではなく「かおり」或いは「かをり」と記さなければならない。馬鹿げた小椋桂的シンガーソングライターの書いたへんてこりんな歌詞などに、決して惑わされてはならないのである。

さてさてそれはともかくも、ヒヤシンスのフレーバーな香りは、とても強烈なるも代物なのなのである。鼻腔を刺激されるるのみならず、そんな甘味な香りにうっとりとしてしまい、香りの楽園に迷い着たようだった。家に着いた途端に強烈なるフレーバーの出迎えを受けて以来のおいらの嗅覚はといえば、益々退化しているということが明らかなのだ。

これでいいのかという疑問と共に、香りの持つ或いは影響を及ぼす力に、思いを強くしたということなのでした。

上州本場の食材「ワカサギ」を使った料理も今が本番なり

ワカサギ料理を食する機会が増えている。おいらの出身地の上州群馬県ではこの時期になると活き活きとしたワカサギ料理が目に付いてくる。上州のみならず東京都内の居酒屋でも、このワカサギ料理がポピュラーになったことは甚だ喜ばしいものではある。

ワカサギ料理の定番と云えばまずは「ワカサギのフライ」「ワカサギ天ぷら」である。衣の使い方により、フライと天ぷらの違いがあるが、どちらかと云えばフライの方がポピュラーなのかもしれない。フライを卵とじにして丼にすれば「ワカサギ丼」の出来上がりである。旬のワカサギを使った「ワカサギ丼」は、想像以上に美味であった。

そしてもう一つの代表的ワカサギメニューが「ワカサギの南蛮漬け」である。所謂ポピュラーな南蛮漬けとしては「鯵の南蛮漬け」が挙げられようが、ワカサギの南蛮漬けは小ぶりではあるが却ってそれに輪をかけて、季節の風味を届けてくれる逸品となっているのだ。

そもそもワカサギとは名水ある所の代表的な淡水魚である。群馬県内には、榛名湖、赤城の大沼、小沼といったワカサギの生育に適した沼湖が存在していることから、冬から春にかけての季節限定、旬なる料理として広まっていたのである。

まだ当分は「ワカサギ料理」の旬の季節は続いていく。これからまた美味なるワカサギ料理に出会えることを希望しているところなのである。

今日的私小説の世界を描いた西村賢太の「苦役列車」

 [エラー: isbn:9784103032328 というアイテムは見つかりませんでした]

朝吹真理子さんの「きとこわ」と並んで今年上半期の芥川賞受賞作である。

マスコミによる批評の数々を眺めれば、久々の本格的私小説といった評価が並んでいるようだ。同受賞作品を一読したところ、確かに際立って個人的な事柄を題材に、これでもかというくらいにさらけ出し、独特の筆致で物語りにまとめ上げている。

だがどうも、おいらが永い間受け入れてきた「私小説」とは異質なのだ。例えば太宰治、坂口安吾といった昭和の巨匠作家たちのような、芸術文学に殉ずるといった志向性を感じ取ることが出来ない。

西村氏の極私的生活の中でのあれこれは、派遣事業者によって搾取された貧困が故の困窮だったり、父親が猥褻罪で逮捕されたという身内的の恥的体験だったりと、特殊な環境に由来するのだが、それらを越えるテーマが見当たらない。たぶん作家自身によって設定されることがないのではないかと思われるのだ。

私生活を越えるテーマを持ち得ない作家が芥川賞を受賞する意味は、はてな、如何なるものなのだろうか?

中上健次の再来と称する向きもあるようだが、残念ながら、それほどの凄みも感じさせることはみじんもない。

苛酷な労働環境に身を置きつつ「苦役列車」の旅を続ける作家の私生活は惨めで滑稽でさえある。この芥川賞作家は、これからどのような未来を描いてゆくのであろうか? どうでもよいことではあるが、少々の関心は持ち続けていきたいと思うのである。

話題のスマートフォンことソフトバンクの「iPhone4」購入

遅ればせながらではあるが、先日iPhone4を購入した。前々から興味関心があったことは確かだが、要因はは別のものがあった。ウィルコム携帯電話(PHSという形式のもの)がある日突然につながらなくなったのがきっかけだったと云える。

いつも使用している自宅エリアでそれは起こった。田舎の一軒家ならばいざしらず、この場所は都市圏である。都下地域とはいえ、JR駅から徒歩20分の圏内にある。これまで使用していたものが使えなくするとは何事かと、おいらは電話で抗議をしたのだが、あれこれ聞き出したところ、ウィルコムでは「基地局の見直し」という名の電波の間引きが行なわれていたことが判然とした。一時は事実上の倒産企業とはいえ有り得べからざる対応に驚いたが、先方担当者はその様な説明を当然のように、マニュアルを棒読みするオウムのように繰り返すのみ。まるで呆れてしまったのは云うまでもなく、のみならずこの緊急事態に何かの対処を取らねばという思いが、iPhone購入へとつながった訳なのであった。

[エラー: isbn:9784883377435 というアイテムは見つかりませんでした]

本体の購入、契約と同時に「iPhone4完全活用マニュアル」なる本を購入し読んでみた。safariでPCと同様のネットサーフィンが出来ること、或いは各種の専用アプリが利用できることのメリットが強調されている。

確かに携帯向けアプリは使いこなせば便利であろうが、おいらが求めているのは、外出先にてネットブックの代用として使用したいという1点なのだ。その点、入力システムには未だネットブック等一般パソコンシステムに遅れをとっているようだ。片手でピコピコとゲームに興じるとは違い、文字入力にはJIS基準のキーボードが必要となる。特においらのように「かな変換(ローマ字変換ではなく)」に拘る少数派にとっては鬼門となっている。

少々調べたところ、iPhone専用のキーボードが出荷されているとのこと。かな変換が可能であるのか? 或いはストレスなく入力できるのか? 等々の疑問は尽きないが、機会があればそれらの使用感を試してみたいと思っているところなのだ。

本体価格は25ヶ月間の契約をすることで実質0円なり。またfon社製のWi-Fi無線ルーターがサービスで付いてきた。ルーターの設定には些か難儀したのだが、いまでは無線LANでパソコン、iPhoneがサクサクと動いている。あまりのめり込み過ぎないようにセーブして使いたいものだ。

日中食文化のギャップを象徴する「大根餅」

中国料理店でふとメニューにとまった「大根餅」を食した。大根を使って餅にする、そんな料理があるとは意外だった。十年以上以前にこのメニューを食して以来、とても気になる一品なのである。代表的な点心でありながら、これまで日本人にとっては何故か馴染みが薄かったメニューであり、日中間の食文化の中での大きなギャップだろうという思いを強くしているのだ。

中国人の知人に聞いたところによればこの大根餅こそ、特別な記念日に食されるという、ハレの日の特別なメニューなのだという。特別に美味だとも高級だとも見えないこの点心に、どのような意味が隠されているのかと興味が深まるばかりであった。

レシピは簡単である。皮をむいた大根を摩り下ろして、上新粉、片栗粉等を混ぜ合わせた特製生地を蒸して焼くという。これが基本となる。風味付けの葱や、海老などの海鮮魚介類を加えたりするのも一般的だ。形は四角くカットしたり丸く成型したりと様々ある。もちもちした食感が「餅」には違いないが、日本人が親しんでいる「餅」とは明らかに別種の食べ物だ。

ぎらぎらとした油成分が一見して目に付いてしまう。大量の油で焼いていくのでこの油ぎった食感は大根餅ならではのものだ。さらには「点心」一般に特徴的な要素と云えるだろう。中国料理は「火」が命だとされている。大量の油と火を駆使してこそ中国料理の基本形が成り立っている。つまりは「火」を用いない中国料理は、謂わば邪道的な料理でしかない。

それに対して日本料理における「火」とは、あくまで脇役に止まっている。食材を活かして調理することこそ日本料理の真髄であり、火の料理法とは大きなギャップが存在している。けだしこのギャップは水と油と云えるくらいに大きなものであろう。