早春の「焼き筍」は想像以上に柔らかく滋味芳醇なり

最近の居酒屋は「季節の先取り」がテーマと見えて、春を前にして春の食材を提供するのがならわしと化しつつあるようだ。まだ肌寒い冬だというのに居酒屋のメニューには春のメニューが並んでいく。

昨日の「初カツオ」に続いて近頃味わった春メニューが「筍焼き」であった。まだ地上に姿を現していないであろうほどの小ぶりの筍を皮ごと丸ごと焼いて調理する。とてもシンプルな料理なのだ。

皿に乗せられて出てきたそのメニューには、幾重にも包まれたその皮に焦げ目がつけられており、丁寧に火が通されたあとが生々しい。焦げた香りに導かれるように皮を1枚1枚丁寧に剥ぎ取っていくと、ピチピチとして柔らかな身の部分にたどり着いた。

ふっくらとして香ばしい若筍の味わいはまさしく春の旬というものであった。柔らかな身はさくさくとしていて、その中から漏れ出されるえぐみのような味もまた芳醇だ。

初ガツオ(初鰹)の季節が早くも到来

地元のスーパーで「カツオの刺身」を目にした。宮崎県産の生ものだという。宮城県産などの解凍ものは1年中出回っているのだが、生のカツオがこの時期に出回るものとは知らなかった。早速購入して味わってみたのは云うまでもない。

カツオは生食にされる魚の中でも比較的足のはやい傾向があり、新鮮なものは旬の時期の生ものに限る。年中出荷されている解凍ものは、どこかどす黒い色味をしているのが気になって仕方がない。おいらもあまり解凍ものは好んで食べようとは思わないのだ。

それなのに今回の生カツオは、見るからに艶が良くて、ほのかに桃色ピンクの色彩を放っているのには少なからず心奪われていた。紛れもなく今季初の「初カツオ」である。口にふくめばまるで青い青年のように純な味わいが拡がってくる。脂がのって濃厚な「もどりカツオ」の濃厚なものとの違いは歴然として一線を画している。

そもそも古の頃より「初カツオ」の季節というのは初夏とされており、2月のこの時期に食されるものではなかった。「目には青葉 山ほととぎす 初がつを」の句に詠われた旬の時期は、目に鮮やかな青葉が生育し新緑に染まる5月の頃なのだとされているのだ。

あらためて考えてみれば不思議な現象ではある。猛暑や大雪が日本列島を襲っている昨今、あまりに早過ぎる「初カツオ」の収穫を目にして、異常気象の表れではないことを願ってしまう。

美味しい初カツオを味わった食後のコメントにしては、少々陰鬱なものになってしまったようである。嗚呼、マイゴッド!

島本理生さんの新境地を築いた「真綿荘の住人たち」

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恋愛小説家島本理生さんによる6編の中編小説による連作小説集である。「真綿荘」という奇妙な名前の下宿屋が舞台となっており、そこに棲まう5人の住人たちの、切なくも奇妙な恋愛事情が描かれている。

真綿荘の5名の住人とは、下記のようにユニークだ。

綿貫千鶴(恋愛小説家でもある大家)
真島晴雨(大家の内縁の夫で画家)
大和葉介(北海道出身の下宿の新入り)
山岡 椿(事務員。女子高生の八重子と付き合っている)
鯨井小春(大柄なのがコンプレックスの大学生)

「真綿荘」というネーミングは「真綿で首を絞める」という喩えを連想させて不気味であるが、大家と大家の内縁の夫が経営する下宿屋の名前とあれば、それなりに納得する。恋愛というものはおしなべて真綿で首を絞めるようなものだというメッセージを受け取ってしまう。実はそんなことも無くて、単なる遊びなのかもしれないのだ。作者はそんなこんなのエスプリを楽しみながら創作をしていたのではないか? そんな想像さえ抱かせてしまう。

住人たちの恋愛事情はそれぞれまちまちではあるが、世間一般の、所謂多数派とは距離を置いていて、尚且つそれぞれに少数派であるが故のはくがいを内包している。恋愛にまつわる様々なる痛みというものを内包している、この小説のポジションはとても鮮烈であり、とてもユニークなものだ。

若き恋愛小説家の新境地を築いた作品だと云えるだろう。

冬の海の恵みを頗る味わった「牡蠣の焼き」

冬の恵みの代表格の「牡蠣」の焼きものを味わった。

近頃のあれこれに比べば頗る満足した体験なのだ。冬を旬とする魚介類の中でも「牡蠣」は特別な存在であろう。

我が国の歴史を紐解くならば縄文時代から食用にされていたという記録さえ残っており、日本文化と牡蠣との接点は極めて巨きいものだと云えている。

居酒屋の厨房では見るからに旬の大ぶりの牡蠣を殻ごと焼いていて、ころ良い焼き加減に達したところでその逸品のメニューはテーブルに運ばれていたのだ。

口に運ぶなり、その磯の香りがプーンと漂いつつ、極めてミルキーであるその磯の土地に特有の風雅な香りにうっとりとした。これだけでも冬の旬の牡蠣を味わう意味があるのだ。

焼いたばかりの熱や香りやらを目の前で感じつつ、おいらは想像していたよりも小ぶりの牡蠣の身を、醤油に付けて味わってみた。

う~む、やはり磯の独特の複雑な香りや味わいは牡蠣ならではのものである。「海のミルク」等とも称されるようであるが、今宵の焼き牡蠣の風味豊かな味わいは、特別にブログ上に記していきたいと思いながら記している。

すなわち美味い牡蠣の焼き物を味わったということを今宵は特別に記したいという気分なのでした。

iPhone4に、Bluetoothのワイヤレスキーボードを繋げてみた

先日から使用しているiPhone4用に、ワイヤレスの小型キーボードを購入した。ELECOM製の「TK-FBP013」。幅221.2ミリと極めてコンパクトだ。これならば鞄に忍ばせておいて、外出先でもすぐに取り出し使えて便利だ。

iPhone4専用ではなかったが、iPhone上でBluetoothのペアリング設定を行なったところ、問題なく繋がった。メモツール上で、日本語入力を行なう際に慣れない携帯キーボードを弄くっているよりは数段利便性が高まったのだ。さてこれで、ネットブックに代わるモバイルツールが用意できたぞ、これからは外出先でバリバリ使おうか、などと考えていたところ、想定外の難点に遭遇したのだ。

かな入力が使えない!

その想定外の難点はといえば、「かな入力」に対応していないということ。これは想定外に大きな難点だ。キーボードにはしっかりとひらがなの記載があるのに何故だか使えない。iPhone側のシステムが「ローマ字変換」オンリーであり「かな変換」に対応していないのだ。このマッキントッシュ社製機種が国産ではなく舶来機種なのであることを思い知らされた。こんな不条理は無いだろうと思うのだが、現実なのだから堪らないのだ。

思い返せばもうかれこれ20数年前のこと。おいらが著した書籍の処女作品の印税がごっぽり入ってパソコンを初めて購入したとき、おいらは迷うことなく「かな変換」を選択した。それ以前からの長き付き合いであり、専用ワープロ機を使用していた頃から数えるとなれば、おいらと「かな変換」との付き合いは四半世紀が過ぎ去っていることになる。そんな長き歴史を無視されたかのごとく感じて憤慨の念を禁じ得なかったのだ。

今では日本語変換と云えば、猫も杓子も「ローマ字変換」に染まってしまった。日本人が日本語を扱うのに「かな」でなく「ローマ字」を使ってしまう。日本語をアルファベットに置き換えて思考しながらタイピングするのだから、馬鹿げていると云うしかない。真っ当な日本語の考え方が出来るはずも無いのだろうと思う。日本人の米国による属国化は、既に深いところにまで浸透してしまっているのかもしれない。

春を告げるヒヤシンスの香りにうっとりなのだ

先月ふと街の花屋でみかけて購入した「ヒヤシンスの鉢植え」が、ようやくここにきて花弁を開いて花を咲かせた。ご覧のような白とピンクと紫の3色のヒアシンスが清楚な花弁をたたえる鉢植えである。

花弁が開きかけた数日前には気が気ではなかったのだ。白、ピンク、紫の蕾たちのそれぞれが下を向き、いつその花を開くのか、全く見当もつかなかったからである。だがここにきて蕾は上を向き花を咲かせたのでありました。

そして我が家の中では珍しいくらいに甘い香りをたたえているのであります。プーンと漂うヒヤシンスの香りにうっとりしつつ、かつてあまりないような甘味なる現状にうっとりとさせられていたのでした。

香りとは「かほり」ではなく「かおり」或いは「かをり」と記さなければならない。馬鹿げた小椋桂的シンガーソングライターの書いたへんてこりんな歌詞などに、決して惑わされてはならないのである。

さてさてそれはともかくも、ヒヤシンスのフレーバーな香りは、とても強烈なるも代物なのなのである。鼻腔を刺激されるるのみならず、そんな甘味な香りにうっとりとしてしまい、香りの楽園に迷い着たようだった。家に着いた途端に強烈なるフレーバーの出迎えを受けて以来のおいらの嗅覚はといえば、益々退化しているということが明らかなのだ。

これでいいのかという疑問と共に、香りの持つ或いは影響を及ぼす力に、思いを強くしたということなのでした。

上州本場の食材「ワカサギ」を使った料理も今が本番なり

ワカサギ料理を食する機会が増えている。おいらの出身地の上州群馬県ではこの時期になると活き活きとしたワカサギ料理が目に付いてくる。上州のみならず東京都内の居酒屋でも、このワカサギ料理がポピュラーになったことは甚だ喜ばしいものではある。

ワカサギ料理の定番と云えばまずは「ワカサギのフライ」「ワカサギ天ぷら」である。衣の使い方により、フライと天ぷらの違いがあるが、どちらかと云えばフライの方がポピュラーなのかもしれない。フライを卵とじにして丼にすれば「ワカサギ丼」の出来上がりである。旬のワカサギを使った「ワカサギ丼」は、想像以上に美味であった。

そしてもう一つの代表的ワカサギメニューが「ワカサギの南蛮漬け」である。所謂ポピュラーな南蛮漬けとしては「鯵の南蛮漬け」が挙げられようが、ワカサギの南蛮漬けは小ぶりではあるが却ってそれに輪をかけて、季節の風味を届けてくれる逸品となっているのだ。

そもそもワカサギとは名水ある所の代表的な淡水魚である。群馬県内には、榛名湖、赤城の大沼、小沼といったワカサギの生育に適した沼湖が存在していることから、冬から春にかけての季節限定、旬なる料理として広まっていたのである。

まだ当分は「ワカサギ料理」の旬の季節は続いていく。これからまた美味なるワカサギ料理に出会えることを希望しているところなのである。

今日的私小説の世界を描いた西村賢太の「苦役列車」

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朝吹真理子さんの「きとこわ」と並んで今年上半期の芥川賞受賞作である。

マスコミによる批評の数々を眺めれば、久々の本格的私小説といった評価が並んでいるようだ。同受賞作品を一読したところ、確かに際立って個人的な事柄を題材に、これでもかというくらいにさらけ出し、独特の筆致で物語りにまとめ上げている。

だがどうも、おいらが永い間受け入れてきた「私小説」とは異質なのだ。例えば太宰治、坂口安吾といった昭和の巨匠作家たちのような、芸術文学に殉ずるといった志向性を感じ取ることが出来ない。

西村氏の極私的生活の中でのあれこれは、派遣事業者によって搾取された貧困が故の困窮だったり、父親が猥褻罪で逮捕されたという身内的の恥的体験だったりと、特殊な環境に由来するのだが、それらを越えるテーマが見当たらない。たぶん作家自身によって設定されることがないのではないかと思われるのだ。

私生活を越えるテーマを持ち得ない作家が芥川賞を受賞する意味は、はてな、如何なるものなのだろうか?

中上健次の再来と称する向きもあるようだが、残念ながら、それほどの凄みも感じさせることはみじんもない。

苛酷な労働環境に身を置きつつ「苦役列車」の旅を続ける作家の私生活は惨めで滑稽でさえある。この芥川賞作家は、これからどのような未来を描いてゆくのであろうか? どうでもよいことではあるが、少々の関心は持ち続けていきたいと思うのである。

話題のスマートフォンことソフトバンクの「iPhone4」購入

遅ればせながらではあるが、先日iPhone4を購入した。前々から興味関心があったことは確かだが、要因はは別のものがあった。ウィルコム携帯電話(PHSという形式のもの)がある日突然につながらなくなったのがきっかけだったと云える。

いつも使用している自宅エリアでそれは起こった。田舎の一軒家ならばいざしらず、この場所は都市圏である。都下地域とはいえ、JR駅から徒歩20分の圏内にある。これまで使用していたものが使えなくするとは何事かと、おいらは電話で抗議をしたのだが、あれこれ聞き出したところ、ウィルコムでは「基地局の見直し」という名の電波の間引きが行なわれていたことが判然とした。一時は事実上の倒産企業とはいえ有り得べからざる対応に驚いたが、先方担当者はその様な説明を当然のように、マニュアルを棒読みするオウムのように繰り返すのみ。まるで呆れてしまったのは云うまでもなく、のみならずこの緊急事態に何かの対処を取らねばという思いが、iPhone購入へとつながった訳なのであった。

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本体の購入、契約と同時に「iPhone4完全活用マニュアル」なる本を購入し読んでみた。safariでPCと同様のネットサーフィンが出来ること、或いは各種の専用アプリが利用できることのメリットが強調されている。

確かに携帯向けアプリは使いこなせば便利であろうが、おいらが求めているのは、外出先にてネットブックの代用として使用したいという1点なのだ。その点、入力システムには未だネットブック等一般パソコンシステムに遅れをとっているようだ。片手でピコピコとゲームに興じるとは違い、文字入力にはJIS基準のキーボードが必要となる。特においらのように「かな変換(ローマ字変換ではなく)」に拘る少数派にとっては鬼門となっている。

少々調べたところ、iPhone専用のキーボードが出荷されているとのこと。かな変換が可能であるのか? 或いはストレスなく入力できるのか? 等々の疑問は尽きないが、機会があればそれらの使用感を試してみたいと思っているところなのだ。

本体価格は25ヶ月間の契約をすることで実質0円なり。またfon社製のWi-Fi無線ルーターがサービスで付いてきた。ルーターの設定には些か難儀したのだが、いまでは無線LANでパソコン、iPhoneがサクサクと動いている。あまりのめり込み過ぎないようにセーブして使いたいものだ。

日中食文化のギャップを象徴する「大根餅」

中国料理店でふとメニューにとまった「大根餅」を食した。大根を使って餅にする、そんな料理があるとは意外だった。十年以上以前にこのメニューを食して以来、とても気になる一品なのである。代表的な点心でありながら、これまで日本人にとっては何故か馴染みが薄かったメニューであり、日中間の食文化の中での大きなギャップだろうという思いを強くしているのだ。

中国人の知人に聞いたところによればこの大根餅こそ、特別な記念日に食されるという、ハレの日の特別なメニューなのだという。特別に美味だとも高級だとも見えないこの点心に、どのような意味が隠されているのかと興味が深まるばかりであった。

レシピは簡単である。皮をむいた大根を摩り下ろして、上新粉、片栗粉等を混ぜ合わせた特製生地を蒸して焼くという。これが基本となる。風味付けの葱や、海老などの海鮮魚介類を加えたりするのも一般的だ。形は四角くカットしたり丸く成型したりと様々ある。もちもちした食感が「餅」には違いないが、日本人が親しんでいる「餅」とは明らかに別種の食べ物だ。

ぎらぎらとした油成分が一見して目に付いてしまう。大量の油で焼いていくのでこの油ぎった食感は大根餅ならではのものだ。さらには「点心」一般に特徴的な要素と云えるだろう。中国料理は「火」が命だとされている。大量の油と火を駆使してこそ中国料理の基本形が成り立っている。つまりは「火」を用いない中国料理は、謂わば邪道的な料理でしかない。

それに対して日本料理における「火」とは、あくまで脇役に止まっている。食材を活かして調理することこそ日本料理の真髄であり、火の料理法とは大きなギャップが存在している。けだしこのギャップは水と油と云えるくらいに大きなものであろう。

頭からがぶりと齧れる、丸ごとイワシの圧力鍋煮

生のイワシをスーパーで見かけて、丸ごとイワシの圧力鍋煮に挑戦した。

見た目は少々グロテスクだが、頭から背骨までのイワシの骨が軽く齧れて、天然カルシウムが摂取できた。そもそもイワシはEPA、DHA豊富な青魚の代表選手でもあり、血栓予防食としてはこれ以上無い理想食材。それを丸ごとがぶりとやれるのだから試さない理由は無かったのである。

生のイワシに、醤油、砂糖、味醂に加えて梅干と生姜と大根を添えた煮汁を圧力鍋にセットして、30分程度弱火で加熱しじっくりと煮込んだのだ。火を止めて蒸らすこと15分程度、蓋を開ければプーンとワイルドな青魚の香りが鼻を突いた。

皿に取り出して身を一口。う~む、魚の身もホクホクに煮込まれている。そして背骨をがぶりと齧れば、まるで口の中で小骨が崩れ落ちるような有様であり、すいすいと食が進んだことこのうえなかった。頭の部分はこれもがぶりとやってみたが、少々と雑味が残る荒っぽい食感は漂っていたものの、まるで異次元のすこぶる貴重な食感であった。缶詰の魚を食べるのよりもずっとずっとワイルド感が増していく。

今回のイワシで圧力鍋調理の基本を押さえたので、これからはもう少しバリエーションを広げて様々な生魚の圧力鍋煮にチャレンジしていきたいものである。

珍しく美味なる「鶏ナンコツ」の串焼きを味わったのです

思えば近頃、美味い鶏のナンコツが見当たらなくなってしまったと感じていたところだったのです。居酒屋、焼き鳥屋にて「ナンコツ」というメニューを見つけて注文すれば、7~8割がたは豚のナンコツだ。至極がっかりである。豚の軟骨が出されてその硬さに辟易したことは少なくない。

あらためて考えるに、鶏ナンコツの串焼きはといえば、その弓なりにしなった姿形が優雅であり、その周りにある種ぞんざいに散らばっている肉類がまた美味いものの大切な要素なのだ。ナンコツのトゲトゲしさを緩和しているとともに、天然のカルシウムの摂取をたやすくするのに役立っている。これこそ串焼きが求める姿なのかとも感じ取らせるのに充分なのだ。

この美味い「鶏ナンコツ」に出くわしたのは、金太郎という店だった。八王子を中心に数店舗を構える地元では有名な居酒屋だ。これまであまりおいらは利用することがなかったが、今回の鶏ナンコツの出逢いをきっかけに、いろいろ他のメニューも味わってみたいものだと感じていたのでした。

鶏のナンコツ焼きは塩味で焼かれるが、金太郎ではそれに特製の梅紫蘇が添えられている。実にこれがまたこの梅味と良く合うのである。

■金太郎
http://www.yakitori-kintarou.jp/index.html

「ちぢみほうれん草」は寒い冬にこそ食する価値ありの逸品食材

本年は大雪のため、冬もの野菜類の収穫が悪いのだという。大根、ほうれん草、等々が分厚い雪の陰に隠れて収穫不能になっているニュース画像を、何度か目にしている。そんな今年にふと目にした食材が「ちぢみほうれん草」であった。群馬県館林産とある。迷わず購入したのだった。

そのちぢみほうれん草の風貌には皺が深くに刻まれていており、見るからに分厚い雪に押し潰された凍えた畑の風景を容易に想像させている。

上に伸びようとしても巨きな圧力に阻まれて伸びることが出来ないで、根を張るように伸びている、まるでぐれた少年少女のようにひめたる生命力の存在を感じ取らせるのに充分な姿かたちなのである。

とりあえずこの「ちぢみほうれん草」をゆがいてお浸しにしてみた。濃緑の葉はよりいっそう鮮やかさを増し瑞々しい。その生命力に見とれていた。味はすこぶる濃く、そしてすこぶる苦かった。それだけ味わいも恵みも共に、凝縮されているということなのであろう。

銀座逍遥記 ―東京銀座で出逢った都会の相貌―

昨日に引き続き、「デジブック広場」に「銀座逍遥記」スライドショーをアップしました。

当ブログをを始めて以来、銀座の様々な相貌をデジカメに収めつづけていたのだが、今回それらの写真群の中から特に、印象に深く刻まれた15点のスナップ風景をピックアップしてみた。以下に挙げるのがその写真群の中身である。

1 パティシエと赤い花弁
2 清楚な胸元
3 籠の中のバッグを見詰める少女
4 籠には鳥の姿も
5 LOUIS VUITTON
6 50th Aniversary
7 幕を閉じた歌舞伎座
8 HERMES
9 奥野ビル内ギャラリーにて
10 春近いショーウィンドー
11 和光ビルの踊子
12 岡本太郎の若い時計台
13 MERRY CHRISTMAS
14 銀座シネパトス
15 韓流スター、ヨンさま

日本全国には数多の「銀座」が散在している。銀座こそは増殖された都会像の表徴なのかもしれないと、時々感じることがある。全国の田舎には銀座的な表徴が少なからず存在しており、それらはある種の、都会に対する憧れを指し示していると云えよう。

現実に在る東京都中央区銀座の街は、日々その表情を変えていきながら、田舎からの大勢の訪問者を出迎えているのだ。

「デジブック広場」に「雪の富士西湖めぐり」スライドショーをアップしました

 

先日の富士西湖めぐりの写真を「デジブック広場」にまとめてアップしてみました。「デジカメ作品交歓サイト」と銘打っているが、カメラメーカー主催のもの等に比べて参加者の反応も良いようだ。ヤフーと提携している強みだろうか?

「フォト蔵」「Flickr」等々の写真交流サイトは数多いが、ジャケットやBGMまでが標準装備され簡単に設定できて、訴求力も他に引けを取らない。難は、長期的に使いこなすには会費を必要とすること。無料会員のままだと30日間でアルバムが消失してしまうのだ。他と比較しながらしばらく注視していこうと考えているところなのです。

富士吉田うどんは、聞きしに勝る個性的麺類なり

富士方面に旅した途中で「富士吉田うどん」に遭遇した。山梨県には「ほうとう」という歴とした伝統的郷土料理があるのだが、それに対抗しようとするかのように「富士吉田うどん」というものが存在している。ほうとうと比較すれば似ているようでいて全然似ていない。これまで都内において「吉田うどん」的メニューを食したこともあったが、現地の食堂にて食べたことは無かった。それだけに噂に違わぬ、聞きしに勝るこの麺類の個性は強烈である。両者は別物であることにあらためて驚かされたのだ。

富士吉田うどんの麺は、ほうとうの麺より一段とごん太く、しかも腰が強いのが特徴だ。うどんを食する地域は日本全国いたるところに散在しているが、此処のうどんほど硬い麺は無いだろうと思われるくらいに徹底している。これこそ吉田うどんの個性であり、好みが分かれるところだ。硬い御飯を噛むようにして味わわなくてはならない。顎の運動になるくらいの思いがする。するするっとした喉越しなどとは全く無縁の食材なのだ。

基本のトッピングが茹でたキャベツというのがまた凄い。いくら茹でているとはいえするするっと喉に入る代物ではなく、よく噛んでいかなくてはならない。麺類の常識からすればかなりずれていると云ってよい。麺の常識と共にトッピングまでもが個性的であり、ダブルで驚かさせることになった。

キャベツ以外に特徴的な具材が馬の肉。これが存外いけたのだ。馬肉を食う習慣は隣の信州長野だとばかり思っていたが、甲州にもそんな風習があったのだ。甘辛く丁寧に煮込まれた馬肉は、それだけでも御飯の友になりそうなくらいに美味であった。

さて最後に出汁の評価になるが、醤油に味噌を合わせており極めて折衷的な味付けである。言葉を換えれば何ともダサい味付けと云えなくもない。味噌味の美味い麺類は色々な地域で見られるものだ。もっと味噌味を利かせて田舎くさくした方がよいだろうと思われるのだ。今度吉田うどん麺を使って、味噌味のうどん作りでもしてみたくなった。

雪化粧した富士西湖の風景とヤーコンの漬物

関東にも大雪が舞い降りた日、おいらは富士五湖の方面へと向かっていた。雪化粧した富士山の姿を眺めたいという願望などもあったが、それは叶えられることがなかった。一見さえなし得ずであった。午後からは雪も小降りになっていたのだが、見晴らしは極めて悪く、すぐそこに存在するのであろう富士の雄姿を、分厚い雲群が遮っていたのでありました。

JR中央線、富士急行線を乗り継いで、河口湖駅から観光客向けのレトロバスに乗り西湖へと向かった。雪に煙る樹海付近を通り過ぎたとき、深く重厚に冷え冷えとしたその景色がまさに「樹海」と呼ぶに相応しいことを実感させたのだった。

西湖に面した根場(ねんば)という集落に着くと、そこでは「かぶと造り」という茅葺民家が立ち並ぶ風景に遭遇した。かつてこの地域は、地元のものづくり文化で活気溢れていたとされ、昭和41年の台風災害によりそれらのほとんどの民家が消滅してしまったという。現在に建ち並んでいるのはかつての活気ある民家集落を再現したものである。再現された茅葺民家の中では、地元の伝統料理や伝統工芸品の展示販売、あるいは陶芸作家等による作品展示販売などが行なわれていた。

そこで試食したヤーコンの漬物なるものを口に頬張れば、まるで新しく瑞々しい食感に驚き感動の雨霰状態だったのだ。店の小母さんは「梨みたいにサクサクの漬物だよ」と宣伝していたが、成る程である。まるで果実の食感なのだ。それが漬物として御飯にも合うくらいに仕上がっている。早速土産品として買い求め、日本酒の相棒のつまみとして味わっていた次第なり候。

先述したが今回の旅にて富士山の雄姿に接することはなかった。それでも西湖という富士五湖の中では地味な湖の、その周辺の雪景色された風景に接して、日本一の山と共に息づく土着的な生業に接することが出来た。有意義な旅の収穫なのであったのです。

見た目はグロいが味は満足「しゃこ(蝦蛄)」のにぎり

寿司店にてしゃこ(蝦蛄)の握り寿司を味わった。実はしゃこの美味しさに気付いたのはそう遠くない。おいらが子供のころから上京してだいぶ経つまで、寿司屋のネタケースでしゃこを見る度に目を逸らしていたというのが実情だった。

何故か? それはひとえに江戸前の代表的な種であるしゃこが、東京湾のヘドロまみれになっている姿を想像したからである。少年の頃の想像力というものは馬鹿に出来ないものがあり、良きにせよ悪きにせよ、しつこく評価基準を左右する根拠となって記憶の底にこびり付いてしまう。一旦こびり付いてしまったイメージを払拭するのは、決して容易いものではあり得ないのだ。

おいらが子供の頃の東京湾といえば、海底に潜れば真っ先にヘドロに出会うというくらいにヘドロまみれ、公害まみれの海だった。寿司ネタの中でも特にしゃこの姿こそが、一見にしてグロテスクであり、ヘドロの海に棲息する、いわば汚い生き物の象徴として印象的インプットされてしまった。アサリや海苔は大好物で日常的に食してきたのに、しゃこばかりが悪しきイメージを代表して来たのだから、しゃこには罪なことをしたものだと思う。子供の誤ったイメージ形成の見本とも云えよう。

海老と同じ甲殻類だが、しゃこと海老とは別種である。砂地に穴を掘って棲み、全身を覆う殻は分厚く、性格は凶暴だとされている。寿司屋では茹でて甘ダレを塗って出されるのがポピュラーとなっている。香ばしい身を齧ればその筋肉質の身の味わいにうっとりとされてしまうものだ。

葉山のきとこわ的大衆料理の「蓮根の甘酢漬け」に感嘆

朝吹真理子さんの「きことわ」に出てきた「蓮根の甘酢漬け」を作った。小説のクライマックスでは、蓮根料理ばかりが食卓に出されていた家族の中で、ある日貴子が作ったこの「蓮根の甘酢漬け」に父親が感嘆するシーンが、とても印象的に描かれている。

蓮根を薄くスライスしてさっと下茹でをする。甘酢の漬け汁は酢と砂糖、それに少々の醤油、味醂、唐辛子を湯立てたものを用意した。蓮根と漬け汁をあわせて冷蔵庫で2時間ばかり寝かせたら出来上がりだ。

蓮根のさくさくとした歯応えに甘酢が程よく染み込んで美味なり。まろやかな酢の香りが快く口腔を刺激する。まさしく感嘆に値する料理なり。蓮根料理のレパートリーがこれでまた増えたようだ。

芥川賞受賞作「きことわ」(朝吹真理子著)の綺麗な日本語に感服

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今年上半期の芥川賞受賞作。とても綺麗な日本語で綴られた小説である。

このところ、日本語の扱い方もわきまえない芸能人作家による作品を立て続けに読んでしまったおいらの身にとってみれば、この作品に表現されている日本語の美しさだけでも、貴重な読書体験と呼びたいくらいに感動的なものだった。

夢をみる永遠子(とわこ)と、夢をみない貴子(きこ)の二人の主人公を巡って物語は進行していく。主な舞台は葉山の別荘である。25年あまりもの時間の中でのあれやこれやが、まるで万華鏡の中を覗いたときの光景のように、ドラマティックかつ極めてデモーニッシュに展開されていくのだ。デモーニッシュではあるが、読後感は決して悪くはない。敢えて書けば却って清々しいという思いさえ抱いたほどだ。

ご存知のように受賞者の朝吹真理子さんは、仏蘭西文学の巨匠ことフランソワーズ・サガンの翻訳家として名高い、朝吹登水子さんを大叔母にもっている。それを知ってか、やはりというのか、サガンの本にも似ていなくもない。もちろんのこと朝吹真理子さんの受賞作には仏蘭西被れなどというものはなく、純粋なくらいに日本的である。日本的過ぎるくらいでもある。

朝吹真理子さんが名門の出身であることから、「銀のスプーンをくわえて産まれた」等と揶揄する声も多いようだ。しかしながら受賞作に描かれている世界は、葉山の別荘が舞台だということを1点除くならば、極めて大衆的な世界が開示されている。例えば、老舗の蕎麦屋が閉まっていたことからやむなく即席ラーメンをすずっていたというような情景が、ここやかしこに示されている。揶揄するほどにはブルジョアではないということを、作家は示したかったのかも知れない等とふと思う。

ここにきて、朝吹登水子さんの翻訳によるフランソワーズ・サガンの小説が至極懐かしく思われてきたのだった。十代思春期の頃の青春の主張を、朝吹さん翻訳のサガンの本が主張していたという思いが強くのしかかっている。

近い将来の朝吹真理子さんは、日本のサガンと呼ばれることであろう。ただしここで指摘したいこと、余計なお節介の一言。彼女の現在において足りないのは、恋愛という極私的な体験であろうということ。それを感じ取ったのはおいらばかりではないだろう。