日高屋ナンバー1人気の「野菜たっぷりタンメン」

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仕事場に程近い場所には「日高屋」という中華食堂がある。おいらも時々この店に足を運び昼食をとることが多いのだが、そこでの人気ナンバー1メニューは、「野菜たっぷりタンメン」である。あるときそのことを知り、それ以来は、どうもこの店に来ると「野菜たっぷりタンメン」というメニューを注文する癖がついてしまった。

別段にこの店のタンメンの味に嵌まったという訳ではない。中華麺料理の中でのおいらの好みは、味噌ラーメンであり、タンメンの好意度は、醤油味、豚骨味にも及ばないものなのでもある。然しながら、何故ゆえにタンメンを注文してしまうのか? それはおそらく、野菜類に対する飢餓の思いがあるからなのだろう。

今流行のサプリメントの類では代用できない、生野菜がかもす味わいを求めているからなのだろう。モヤシ、キャベツ、人参がたっぷり入って、炒めて煮込んだ野菜を口にしていると、どこかで安らかな気持ちにひたってしまうのだから、これが良いのか悪いのかはわからないのだ。

衝動的に「ニラ玉子」が食べたくなったのだ

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無性に「ニラ玉子」が食べたくなって、玉子とニラと、そしてシメジ茸を買って帰ったのだった。

シメジ茸は石つきをとってさらに半分にカット、ニラは2~3cmほどにカットして、玉子とあわせる。日本料理で用いられる出汁類は使わない。玉子とニラの味わいが無性に恋しくなっていたからであり、それ以外の食材は茸くらいで充分であったということだ。

ニラの香りは独特であり、玉子という濃厚食材に対しても充分的に対応してくれる。玉子料理とよく似合う食材として、もっともポピュラーだと云えるのかもしれない。

出汁の味で煮込んで作る「ニラ玉子」という料理もときどき散見されるが、ニラの旨味を引き出しているとは云い難いのである。

伊坂幸太郎著の「残り全部バケーション」を読んだ(1)

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「残り全部バケーション」という著書を先日購入して読了したところなのである。

実はおいらはすでに「残り全部バケーション」の第1章のくだりを読み終えていた。実業之日本社がかつて発刊した「Re-born はじまりの一歩」という書籍に触れてこの一つの章を前もって読み終えていたのだった。だからにして尚更しんに、この「残り全部バケーション」のそれ以降の経緯には深い関心を持っていたのである。

ぽっかり口を開いた「ハマグリのバター蒸し」が食欲をそそるのだ

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二枚貝の中では大きな部類であり、アサリに比べて食べ応え、噛み応えも大きなものがある。

吸い物、鍋の具材、等々と様々な活用法があるが、とてもシンプルで味わい深いのが「ハマグリのバター蒸し」である。調味料としてのバターがハマグリ料理に独特のコクを与えている。バターの他に酒蒸しというものもあるが、ハマグリにはバター蒸しに敵わないといえよう。

栄養的にはビタミンB2を比較的多く含むので、動物的タンパク質ともあいまって、身体に優しい味わいに満たされるのである。

この時季の「野蒜(のびる)」は、キムチ漬けにしても美味しい

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先日から、野手溢れる「野蒜(のびる)」の魅力に取り憑かれている感のあるおいらである。先日は久々に口にした興奮などを交えて野蒜(のびる)をレポートしている。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=7650

野蒜と漢字で書いてあとでかっこ付きのルビを振っているのは、漢字では難しすぎるし、かといってひらがなの「のびる」では全然すっきりしないことから、仕方なくそうしていることをおくみとりいただきたいなと思っている次第である。

さて本題に入るが、野蒜(のびる)という野生食物は生で口にする以外に、キムチ漬けにしても、格段に美味いのだということの発見について述べたいのだ。爽やかな鮮度あるピリリ感を保ったままに、キムチ漬けしたピリ辛の「野蒜キムチ」は、いつになく満足な味わいのキムチ料理であった。

ネットを検索すれば、味噌漬け、キムチ漬け、等々のメニューがヒットしているが、確かに生野蒜(のびる)に負けず劣らずの旨味を主張するべき価値がある。生で驚き、漬物にしてさらに舌鼓を打つ。これぞ野蒜(のびる)ならではの存在感。もっと注目されてよい食材であることは確認できたのである。

生垣に生える躑躅(つつじ)の花が、都会の潤いをもたらしている

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桜が散った春の都市の風景に、躑躅(つつじ)が花を咲かせている。ここ数日街並みを歩けばつつじの花に目が吸い付けられている。生垣からピンクの花弁を広げるつつじの花は、都会のモノトーンに潤いをもたらしてくれるようでもある。

先日は、自転車のペダルを漕ぎつつ路地裏の小路を走っていたおいらの視界に飛び込んできたのは、真紅な花弁を咲き猥らせている、さる瀟洒な庭の花壇の一隅に咲き誇っていたつつじなのだった。躑躅という花の咲き誇った様子に、自転車の歩を止めて見入っていたのだ。

東京都心の歩道を歩けば、瑞々しいつつじの姿に目を止めて印象に留めてしまうのがこの時期のつつじなのである。

地元禅寺の和尚さん逝去の手紙が届いた

我家が檀家でもある、地元上州の禅宗寺院の住職をされていた和尚さんが、先月亡くなったという手紙が届いて、悲しみにくれている。昨年末に法事でお寺を訪れた際には、元御住職が小脳に関する難病を患っているという話をお聞きしていた。国立の群馬大学医学部病院でも治療できない難病だと言われていたそうであるが、こんなに早く逝かれるとは予想もできなかった。そのときにもっと早く病院にお見舞いをして、これまでの感謝を伝えたかったこと、それが出来なかったことを悔いている。

先祖からの菩提寺である東京都内の某禅寺から上州のそのお寺に引き継いでいただくために訪れたとき以来、とても気さくに接していただき、禅の教えも身近に感じることができていた。「般若心経」を朗読するようになったのも、和尚さんからその経典をいただいてからのことである。はじめは「御住職」と堅苦しく接していたのに、何度かお会いするうちにいつの間にか「和尚さん」と呼んで接することが出来ていたのも、そのお人柄のゆえなのだろう。先月に亡くなった和尚さんは密葬を済ませたとのことであり、来月には本葬にあたいする「津送の儀」が執り行われるとのことが、手紙に記されていた。常人とはまた違う天国への道のりをたどっているということなのかもしれない。あらためて和尚さんのご冥福をお祈りしたい。

アサリの出汁が効いた「スンドゥブチゲ」

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韓国鍋の代名詞である「チゲ鍋」の中でも最もポピュラーなのが「スンドゥブチゲ」だ。韓国料理専門店では此の鍋の味を競っている様子は、韓国料理店に入るたびに感じていることだ。

「スンドゥブ」とは「純豆腐」の韓国読みであるので、素材としての豆腐には特別な食材が用いられている。姿形もまた味わいも柔らかくて、辛味の効いたチゲ鍋にはなくてならない食材である。

そして「スンドゥブチゲ」にもう一つの必須食材が「アサリ」である。アサリの出汁がこの鍋料理の味の一体感をつくり出しているのてあり、なくてはならない。海鮮食材としての出汁

特別な豆腐に鮮度の良いアサリで調理された「スンドゥブチゲ」は、日本人であるおいらの舌にもこびりついている。旨い酒と共に口にしていたいと云うべき定番料理の一つなのである。

夜食に「蒟蒻(こんにゃく)と色ピーマン炒め」はとっておき的メニューだ

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地元のスーパーにて「色ピーマン」を見かけたので、蒟蒻とともに購入して帰り、、夜食に利用した。名づけて「蒟蒻(こんにゃく)と色ピーマン炒め」である。

蒟蒻を油で炒めたメニューは、カロリーが極少的に抑えられており、しかも蒟蒻自体が天然食物繊維の宝庫となっているために、夜の食事としてはよく作っている。今宵は「色ピーマン」という、食物繊維に加えてビタミンCやカロテンが豊富だときているのだから両者あい合わせて見たのであり、思い通りの味わい深いメニューにありつけたという訳なのであった。

もともとは濃緑色したピーマンは、熟させて収穫すると赤、橙色、黄色等に色づいて、甘味も増していく。近頃ではこの種の「色ピーマン」を見るのも珍しくなくなっているので、炒め物としてはもってこいである。

だが「色ピーマン」に似て「パプリカ」なる代物も、近頃の我が国の食材市場に侵入しており、これらはほぼ外国産のものとなっており、我が国では認められない農薬やらその他の添加物が注入されていることから、注意が必要である。メニュー名に「色ピーマン」とあるものを選びたいものである。

大根の味わいを累乗した以上の旨い「カクテキ」を味わう

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大根のキムチこと「カクテキ」を食した。辛くてさっぱりしていて、サクサクポリポリとしたその食感が絶妙であり、胃袋にも優しそうである。辛さをもたらす唐辛子じたいの味わいもまた、優しい味わいがしていた。その味わいは大根料理としての発見をもたらすものでもあったので、その印象的なる邂逅についてはとてもインパクトに満ちていたのだ。

胃袋にも優しそうだったという印象には根拠がある。水分が豊富であり、食物繊維もまた充分に豊富だ。そんな特別な食材に、辛さとともに旨味がプラスされているのだから、プラスアルファ、累乗された美味しさを味わえたと云えるのだろう。インスタントなキムチの基などでは決して作れない味わいである。

そもそも大根料理には奥が深いものがある。例えば大根とともに煮込んだ煮物は、大根が脇役になるにもかかわらずに、無くてならない食材が大根だ。鰤をはじめとする魚の脂が染みた大根は脇役としての大根の良さをアピールしている。あるいは美味いおでんの大根は、具が出している複雑な味わいを充分に染み入れているからこそ、美味くなっているのである。

かつての居住地こと板橋は昔の板橋にあらず

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かつておいらが住んでいた処の板橋界隈に足を運んだ。20代のころだからもうそうとう過去の出来事になるが、東武東上線の上板橋駅周辺の郊外地区に、おいらが住んでいたアパートがあった。東上線「東武練馬」駅に下車し、そこから「上板橋」方面へと足を歩を進めていたのだった。「東武練馬」駅から「上板橋」方向へと向かう道は、かつての「川越街道」が走っていたのであり、標識には「旧川越街道」と表記されていたのである。

さて、上板橋近くの街並みに入り込んで、おいらはかつて足繁くに通っていた居酒屋を探していた。まずは居住していたアパートを探し出し、そこから周辺半径50メートルの界隈を散策していた。ところが其れらしき店舗を見つけ出すことが出来ないのだ。入り下った路地界隈の道幅は過去と同様にとても狭くて、此処にはこの店、あそこにはあの焼鳥居酒屋があったはずだという場所にも、そのような店舗の陰は見つけることが出来なかった。

「上板橋」駅前周辺に辿り着き、「上板橋南口銀座商店街」を歩くと、とても小さな路地(これが「上板橋南口銀座商店街」だった)の周囲に、まるで初めて訪れた街並みを見たような気分に覆われていた。かつての居住地こと板橋は昔の板橋にあらず、なのであった。

豚の肝臓をステーキ風に焼いた「レバテキ」という不思議なメニュー

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豚の肝臓をステーキ風に焼いた「レバテキ」という、ある種不思議なメニューにありついていたのである。東京都台東区内御徒町界隈の居酒屋「佐原屋」にてそのメニューが提供されている。

豚の肝臓(レバー)を大降りにカットして、それをフライパンの火に炙って、ほぼ完成する。シンプルかつエコロジー極まる。そのメニューは、我が国にてはありそうで無かったという不思議な、しかもありうべきメニューとして評価したいと思ったのである。

豚のレバーは、こと牛のレバーに比べて、あまり我が国の食卓に上ることが少ないのかもしれない。だが栄養素的に牛レバーに劣っていることはゅう少ないので、豚のレバーはビタミンB群の補給のめんからも、至極有効な食材である。

牛肉至上主義的な肉市場の常識をとっぱらって、豚肉のレバー、あるいは豚の内臓類については、もっともっと珍重してよいメニューなのである。

イカの身をイカ墨味で炒めた「イカスミ炒め」は目と口で味わうべし

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イカの身をイカスミ味で炒めた「イカスミ炒め」を食したのだ。イのてカの身を、イカスミ(イカワタとも云う)で味付けして炒めるという、至極シンプルな料理であるが、これが何度食べても逸品の味わいなのに感動するのだ。

イカの身はまずは軟骨や内臓を取り除いて、幅1cm程度の細切りにされている。新鮮なイカならば種類は問わないが、ある程度の量のイカスミが必要なのであるから、ヤリイカがてきしてい
る。ゲソも美味しく味わえるのでなおさらである。

イカ墨の色素成分はメラニンである。さらにはアミノ酸の含有率が高く、健康成分を多く含んでいる。黒いしきそはそれだけみればまがまがしくもあるが、調理に用いられたものを観察していくと、とても深遠なる色彩であることを発見する。そもそもは、イカ墨を原料とした顔料のことを「セピア」と呼ぶのであって、黒い色彩とばかりとは限らないのである。深い褐色の黒味をふくんだ色彩なのであり、その色彩表現力は強力なのである。イカの身をイカ墨味で炒めた「イカスミ炒め」は目と口で味わうべしなのである。

村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の現在的意義(2)販売元の売らんかな的戦略はマイナス的要因となる

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「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の先日の発売日には、昼前の午前中に某ターミナル駅近くの書店で予約購入していた。だが翌日には他のターミナル駅近くの書店にてみたところ、店頭に1冊も無い状況であった。超人気作家としての村上春樹さんの人気度、存在感、影響力を改めて思い知らされることとなっていた。

村上春樹作品が売れる理由は一概に述べることはできかねるが、その一つに出版元の特異な販売戦略がプラス的に機能していることは否定できない。今回の出版元となる文芸春秋社も「1Q84」で新潮社が用いた販売戦略をそのまま借用して、図星的奏功を得ているという図式が見て取れる。発売日まで新作の内容を明かさず、潜在的ファンに対して最大限の飢 餓的状況を編み出しているのだ。

先週末の新作販売の熱狂のほとぼりが幾分冷めた今日抱いているのは、出版元による「売らんかな」的戦略は、春樹さんのこの後の展開にとってはマイナスに働くのではないか、という思いである。我が国における特筆される世界的作家の春樹さんだから、近年の間でノーベル賞受賞の期待が高まっている。そのような状況下において、出版元による謂わばごりおし
的販売戦略がもたらすマイナス的要因は決して取るに足らない問題ではないのである。

高田渡さんの本日の8回目の命日に思うこと

http://www.midori-kikaku.com/artist/takada.htmltakada-2

http://www.midori-kikaku.com/artist/takada.html

伝説的天才フォークシンガーとしての高田渡さんは2005年4月16日日にある意味で不遇な生涯を終えたのであり、本日は高田渡さんの8回目の命日にあたることになる。この時期この日になると毎年毎年、生前の高田さんの姿振る舞いを思い浮かべつつ、想い出にふけってしまうのである。

さて本日のおいらはといえば、高田渡さんを偲ぶイベントとしての「かけ込み亭」に駆けつけようという予定を立てていたのたった。数年に何回か訪れたイベントだが、本日は所用によりそれも叶わぬこととなってしまつた。

http://www.asahi-net.or.jp/~yi7k-ttn/kakekomi/live.html

であるからこそよけいにおいらは本日のこの日を、伝説的天才フォークシンガーとしての高田渡さんに改めての心を奉げたいという思いが強くなっている。
である
山之口貘、金子光晴、草野心制度平らの現代詩にフォークのスタンダードを組み合わせたという評価が定着している高田さんだが、やはりそれ以上にインパクトを与えてくれる、あるいは完成度が高い作品は、高田渡さん本人が作詞したものであることは、あらためてであるが主張していきたいと思うのである。

渡さんのファンならば誰もが知っている、山之口貘、金子光晴、草野心というビッグネームの詩人たちを凌駕した作詞を、高田渡さんの作詞した作品には強く感じ取っているのである。ここ数年来において強く思い感じとっている心持ちのひとつであると云ったら良いのであろうか。

「イカソーメン」はけっして邪道的メニューにはあらず

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その昔のおいらの友人は、「イカソーメン」を見る度に口を開けば貶していたものだった。その彼曰く、「ただのイカの身を細くしただけのものだ」「イカの本来の姿を見せにくくしている」「イカの身をソーメンつゆで食することなど出来ない」…云々と。

彼の気迫に気圧されて一時はおいらもそんな気分になってしまったが、やはり「イカソーメン」はそれなりの存在感と旨味とユニークさを有しているということを、先日は「イカソーメン」に箸をつけながら感じ取っていたという訳なのである。

鮮度の高いイカの刺身は、白いながらに透き通った艶とも云うべき彩度を感じさせるのであり、そんな鮮度眩いイカの身を、細く切りそって素麺仕立てにしたものは、イカの刺身とはまた違った食感と共に味わいのバリエーションをもたらしてくれるものではある。さらに加えて述べるならば、鮮度の良い細く切りそろえられている生イカの身の光沢は、その透明度や光輝度に勝るものが無いくらいの稀有なる姿かたちを示していたということでもある。「イカソーメン」はけっして邪道的メニューにはあらず

その昔のおいらの友人は、「イカソーメン」を見る度に口を開けば貶していたものだった。その彼曰く、「ただのイカの身を細くしただけのものだ」「イカの本来の姿を見せにくくしている」「イカの身をソーメンつゆで食することなど出来ない」…云々と。

彼の気迫に気圧されて一時はおいらもそんな気分になってしまったが、やはり「イカソーメン」はそれなりの存在感と旨味とユニークさを有しているということを、先日は「イカソーメン」に箸をつけながら感じ取っていたという訳なのである。

鮮度の高いイカの刺身は、白いながらに透き通った艶とも云うべき彩度を感じさせるのであり、そんな鮮度眩いイカの身を、細く切りそって素麺仕立てにしたものは、イカの刺身とはまた違った食感と共に味わいのバリエーションをもたらしてくれるものではある。さらに加えて述べるならば、鮮度の良い細く切りそろえられている生イカの身の光沢は、その透明度や光輝度に勝るものが無いくらいの稀有なる姿かたちを示していたということでもある。決して「イカソーメン」を侮るべからずなのである。

久しぶりの「のびる(野蒜)」の味に舌鼓なのだ

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のびる(野蒜)という貴重な食材に出会い、もう何年ぶりかのその味に舌鼓なのだった。野蒜とは野に生える葱の別称という意味である。エシャレットやラッキョウに近い味だが、野性味については野蒜がまさっている。ほどよくピリリとした刺激が喉を刺した。

その昔はニンニク、ニラ、ネギ、ラッキョウと共に五葷(ごくん)に数えられていたという。メジャーな食材であるネギの一種なのだが、なかなか口にする機会はないので、この食材ばかりは特別な出会いにも感じさせるに充分なのだ。

村上春樹著「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の現在的意義(1)

 

村上春樹さんの3年ぶりの書き下ろし長編小説となる「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んだ。書店では発売前から最大級の新刊案内が行なわれており、滅多にすることのない新刊予約というものをしてしまった。万一新刊が購入できないことを考慮しての保険だったが、初版部数や重版も多く、その必要はなかったようだ。部数は発売時点で4刷50万部に達したという。

主人公の多崎つくるは、自分の氏名に色彩が無いことを自覚しながら生活している。高校時代の5人の仲間は、つくるを除いて名前に色彩を持っていた。赤松慶、青海悦夫、白根柚木、黒埜恵里は、それぞれを「アカ」「アオ」「シロ」「クロ」と呼びあっていたのだが、つくるだけが色がないという奇妙な疎外感を感じていたのだ。グループの5人は高校の同級生だがボランティア活動がきっかけで友達となり親密なグループであり続けていた。強固な絆で結ばれた特別な仲間たちであるはずだったのである。しかし高校卒業後につくる一人が地元の名古屋を離れて大学2年になっていたある時、仲間の4名から突然の拒絶の言葉を云い渡されるのであった。身に覚えのなかったつくるにとってのショックは筆述に尽くしがたいものであり、故郷にとどまることもできずに帰京していた。それ以来のつくしは毎日毎日、死ぬことばかりを考えて日々を送るのだった。

新著の表題にある「色彩を持たない多崎つくる」とは主人公の一面を表しているものだが、それは換言すれば、とりたてて個性や能力を持たないことを自覚している主人公の特性を示しているといえよう。現代人の多くが胸の奥底で抱いているものを、主人公の氏名の設定にて表してしまっているのであり、こんな軽いアイディアを実作品に反映させていく春樹さんの軽妙な感性はなかなか真似できるものではない。小さな「天晴れ」をくりかえしながら、本作品でも軽妙かつ奥深い村上ワールドがつむがれていく。

仲間からの唐突な拒絶から16年ほど経った多崎つくるは、人生で何人目かの彼女こと木元沙羅と付き合うようになったある日に、沙羅からの提案で、人生の岐路となった仲間からの絶交の原因を追究することを決心し、元仲間たちを訪ね歩く旅にでることになった。これらの行為がまた、表題の「巡礼」にかかっているが、実はさらに、フランツ・リストのピアノ曲集「巡礼の年」にかけられていて、新著の通低を流れるメロディーを奏してもいる。「ノルウェイの森」「1Q84」でも使用されたテクニックがここにもまたごくさりげなく用いられている。

仲間の16年後を追究するなかで、つくるは幾つもの謎に遭遇する。作品中のある箇所ではまるで推理小説風の記述で読者の興味を惹いていくが、そこはあくまで春樹流のストーリー仕立てのひとつに過ぎず、けっして推理ねたを追う展開にはならないのであり、謎はあくまで謎としての存在理由を保ち続けているので、奇異に感じさせるかもしれない。逆にみれば、謎解きを拒否してまで村上ワールドをつむぐという独特のスタイルで、読者をひきつけているのだ。

(この稿続く)

この季節の茹でた「空豆(そらまめ)」は是非食うべし

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今季はじめての「空豆(そらまめ)」を食した。さわごと茹でて塩味で出された。初めての味わいに心躍ろかされていたと云ってよい。

見た目も青々としていて、豆類の中では大降りの存在感を示すのが、この季節の「空豆(そらまめ)」である。名前の由来は、豆果が空に向かってつくため「空豆」とされたという説が有力である。これからの季節には、「空豆(そらまめ)」が酒場のメニューにのる機会が増えるのであり、チェックも怠り無くなる。

調理法としては、そのさやのまま焼いたものや揚げたものなどあるが、ふつうに茹でたものが実に美味いのである。もちろんこの場合もさやごと茹でるのが基本だ。

空豆については豆の大きさが特筆されるが、大きいことは良い事だということばかりではないのである。押しの強い見た目に加えて、ビタミンB群をはじめとする栄養素豊富であり、食感もまた他には得がたいものがある。豆の生豆として味わうならば、空豆を第一番に推奨するのが常識的でもある。

我が家のチューリップが漸く花を咲かせた

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例年に比べて発育が遅いのではないか危惧していた我が家のチューリップが、漸く花を咲かせたのだった。4月11日という日は、過去の記録と照らし合わせてみれば、別段に遅いということでもなかった。危惧が杞憂に終わったということで、一安心なのであった。

今年のチューリップは、完全なる放任的な条件で育っていたのであり、芽を出したときからにして例年以上に期待を膨らませてしまっていた。放任チューリップの花が果たして咲いてくれるのかも判らぬままに、毎日の観察を続けていたところ、遅いと思われていたその芽は何時しか蕾をつけ、そうして期待通りの花を咲かせていた。

まだまだ開花を待つチューリップは我が家の庭を席巻しているのであり、これからの成長が益々に愉しみなのである。