平塚市美術館にて「画家の詩、詩人の絵」展を鑑賞

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先日は平塚市美術館を訪れ、それまでずっと気にかかっていた「画家の詩、詩人の絵」展を鑑賞した。今月の8日までの企画展覧会であり、すでに同美術館での展示は終了している。なかなか時間がとれずにいて、ぎりぎりセーフの滑り込み的スケジュールの美術鑑賞となっていた。

平塚の美術館を訪れた最大の理由は、宮沢賢治さんの「日輪と山」という名作が展示されているという情報に接したからなのだが、実際の展示物は原作の複製だということで、そんな期待は裏切られてしまっていた。少々気落ちして、会場を巡っていたが、青木繁、萬鉄五郎といった近代洋画の巨匠たちの作品に接することが出来たので、同展へ足を向けた意義は強いものを感じていた。さらに、古賀春江というこれまで未知なる作家の原画に遭遇できたことは望外の悦びでもあった。

ところで同展覧会のテーマである、美術と詩との関係については、美術館関係者たちにとってはあまりポジティブなテーマではない。ことにモダンアートのビジョンからすれば美術は詩の後塵を拝すること無かれという志向性が強くあり、詩と美術との繋がりは排除サレル傾向が一面で強くある。そんなことから同展覧会会場へ赴くことが遅れたのだが、実際に鑑賞してからの今の思いとしては、もっともっとポジティブに捉えるべきテーマであると実感している。

画家と其の彼らが記した詩との詳細については、会場では充分な時間をかけて検証することが出来なかったので、同展の公式図録としての書籍「画家の詩、詩人の絵」を購入し、じっくりと読み入っているところである。また新たな発見などがあれば此処でも開陳していきたいと考えている。

結論が惜しい山田玲司著「資本主義卒業試験」

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「資本主義卒業試験」という新書を読んだ。著者は漫画家の山田玲司氏。かつて手塚治虫に私淑し20歳にて漫画家デビューしたという逸材だ。氏の漫画以外にこれまで読んだことが無かったおいらだが、タイトルに惹かれて同書を購入していた。

資本主義から卒業するというテーマを課された生徒達が、その答えを求めて冒険する。その主人公が、漫画家の著者自身を彷彿させる男なのだ。売れっ子漫画家としての名声を得て成功を手にした人生の勝者と思えた主人公に、意外な落とし穴が訪れる。勝者と思えた主人公が実は勝つことを強いられた敗者であったという事実を目の当たりにして、煩悶とし、彷徨う。そんな姿の主人公に、思いを仮託しながら読み進めたのだった。然しながらその本の結論はお粗末だった。残念至極の一冊ではある。

又吉直樹著「火花」は芸人内のネタ止まり

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又吉直樹氏の「火花」を読んだ。現役のお笑い芸人が書いたとして話題の一作。若手芸人の「僕」こと徳永と、僕が師匠と慕う神谷才蔵とのエピソードが中心の、芸人世界の舞台裏を描いた作品である。

お笑い芸の修行と成長がさながら人生の全てとなる彼らの芸人魂は、些か大仰であり、作家の思い入れを拒絶させるが、芸人自らが描いた内輪ネタの物語として読み進めるにつけ、数々のエピソードに興ずることができたのだった。だが其れ以上の文学的関心を呼び覚ますことは無かったのだ。

師匠の神谷は芸人仲間内では天才との評価もあり、自己のけったいな心情に真直ぐで直情型の個性派として描かれている。このキャラクターづくりには作家の仕掛けがあると見て読み進めていた。物語の後半部分では、僕がそこそこ売れるようになったのに対比して神谷の奇矯な行為が目立つのだが、最後の仕掛けでは、天才の成れの果てと呼ぶには滑稽にすぎるものとなったことに落胆させられた。いわば芸人人生の追求が、文学的テーマとして素直に合致しなかったということになる。

前橋文学館にて「山村暮鳥展」開催

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おいらの出身地の前橋の「前橋文学館」では、昨日18日から「山村暮鳥展」という企画展が開催されている。サブタイトルに「室生犀星・萩原朔太郎とともにめざした詩の変革」とあり、そんなタイトルにも惹かれて、帰省したときのいつものおいらの散策コースにもなっている前橋文学館を訪れていた。

山村暮鳥とは、1884年に群馬県西群馬郡棟高村(現・群馬県高崎市)にて生を受けた詩人である。小学校での勤務の後に前橋聖マッテア教会で開催されていた英語の夜学校に通い、それがきっかけとなりキリスト教の洗礼を受けて、やがては故郷を離れて伝道師の道を歩んでいったという。その後に、室生犀星、萩原朔太郎たちとの交流を得て詩作品の発表を続けていくことになったという。それぞれの地で活躍していた3人の詩人たちは「人魚詩社」を結成し詩社の機関紙「卓上噴水」を刊行する。暮鳥自らが「ばくれつだん」と称した革新的詩集「聖三稜玻璃」が刊行されたことにより朔太郎にも影響を与えていくこととなった。同展では、文芸誌上で互いの作品に惹かれあい、離れた土地で友情が花開き、切磋琢磨しながら当時の詩壇的詩の世界を変革しようとしていた三人の詩人の活動を、出会いから別々の道に進んでいくまでの時期を中心として関連資料とともに紹介している。
■前橋文学館
群馬県前橋市千代田町三丁目12-10
TEL 027-235-8011
休館日:水曜日
開館時間:9:30~17:00(金曜日は20:00まで)

■山村暮鳥展
観覧料:企画展のみ300円、常設展とセットで350円
2014年10月18日~11月30日

「昭和出版社」が発行の「夏目漱石作品集」を入手したのだ

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八王子では例年の「古本祭り」が、昨日11日より14日までにかけて開催されているのだが、そんな会場近辺にて面白い全集本を発見し、思わず購入していた。その全集本とは「夏目漱石作品集」と題された全10巻におよぶものである。実はその出版元が「昭和出版社」という、これまで聞きなれなかったところであったことから、思いの外に興味をそそってしまったのであった。

おいらはこれまで夏目漱石全集といった書籍本の類いには多種類接していた。夏目漱石と云えば我が国の近代文学者としてのもっとも尊敬すべき文学者である。だがしかし、今回の「昭和出版社」が発行したものに接するのは初めてのことだった。そうした初対面的名称に対する喫驚とともに、ある種のそのギャップに余計な関心を膨らませていたということなのであった。

今までのところでは、おいらは不明なる「昭和出版社」に関しての追求の手前であり、何の生産的なる事実にこと至ってはいないのであり、これから解明していきたいということを念頭に置きながら、本日のブログのキーボードを置くことにするのである。

柴崎友香さんの意欲作「春の庭」を読む

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今年後半の第151回芥川賞受賞作品である「春の庭」を読んだ。作者は純文学界の実力派として評価される柴崎友香さんである。

物語の骨格は、世田谷のある古いアパート「ビューパレス サエキIII」に引っ越してきた太郎と、同じアパートの住人達、とそして接する水色の洋館にまつわる人々が登場人物である。水色の洋館にはかつての住人による写真集の舞台となっている痕跡があり、そんな写真集に描写されたシーンの数々とともに物語が流れていく。これらの描写における表現法が、作家・柴崎友香さんの持ち味であることが、読み進めるに連れて理解されていく。描写方法がかなり独特であり、柴崎流とも称すべきものなのだ。芥川賞選者の一人である高樹のぶ子氏が、「ノスタルジックな磁場」という表現で評価していたが、場所における磁場と其れを取り巻く人間存在がテーマとなっている、意欲作だと云ってよい。

読み進めるに当たっては数々の読書の壁に付き合わされていた。ある種の三人称の記述が所謂教科書的では無かったこと、突拍子もない派生的かつ偏執的なストーリーが盛り込まれていること、さらには、終盤の意外な展開等々が、読みずらい思いを強くしていたが、それを踏まえてもこの小説世界のビジョンには特異な個性を感じ取っていた。さらなる作家のこれからに期待したいのである。

宮部みゆきさん原作のTBSドラマ「ペテロの葬列」の最終回にがっかり


[終]「ペテロの葬列」 最終回 投稿者 neuTigerMask

昨晩はといえば、TBSドラマ「ペテロの葬列」の最終回が放映されていた。眠い目をこすりつつ最終回を視聴していたが、実に残念な結末にがっかりだったのである。

宮部みゆきさんによる原作小説が刊行されたのが昨年2013年12月のこと。まさに旬の作家の最新作が原作ということであり、おいらも少なからずの期待を抱きつつ、シリーズドラマを視聴していた。しかも同ドラマは、主人公こと杉村三郎が素人探偵としてミステリーを解決するシリーズの第2弾でもある。ドラマシリーズの前作「名もなき毒」では、ドラマ主人公に些少ならぬの感情移入していたこともあり、期待はかなり高かったのである。ところがシリーズを視聴していてどうもピンと来ない。ずっとずうっとそんな思いを抱きつつの最終回なのであった。

先ずは視終わって感じたのは、ストーリーの雑さである。物語の初段階では、昭和の時代の大きな詐欺事件絡みの展開があり、其れのミステリーを追及するものだったが、何時の間にやら詐欺事件のテーマは曖昧な「悪」として取り扱われ、「悪は伝染する」等と云った焦点を持たないテーマとなり拡散して、まるで収拾のつかないものとなっていた。漠然として曖昧な「悪意」に対するリアリティや感情移入は影を潜めていき、代わりに蔓延っていたのが、主人公・杉村三郎に対する腑甲斐の無さへの思いである。

杉村の腑甲斐の無さは、例えば本社から広報室に異動してきた井手正夫という人間に対する対応のいい加減さに現れている。よくあるエリートの落ちぶれた中間管理職としての井手の邪悪な振る舞いに対する不甲斐無さにはがっかり至極である。どうして主人公は井手の邪悪に対して真っ当に立ち向かうことをしなかったのか? この様な屑的人間には全霊をもって潰す覚悟と行為が必要であるのにドラマの主人公は何もしていない。くだらない下衆市民の邪悪に対して、流されるように受身に対応していた主人公に対する思い入れや感情移入は消え去っていた。

さらに残念だったのは、愛を誓って結婚したはずの妻に対する対応の拙さ、意気地の無さ、である。妻の1度の不倫に対して、まるで駄々を捏ねる青年のようにしか対応していなかったと、其のように受け取らざるを得なかった。どうして主人公はパートナーの裏切りに、其れを乗り越える解決の道を探ることがなかったのか? 疑問を通り越えてがっかり至極の後味ばかりが残されていた。もっと闘う主人公の生き様を期待していたおいらにとっては、同ドラマに対しての後味の悪さは、期待値が大きかったからこそのギャップではあるが、人間の邪悪な振る舞いに対する抵抗力を失った現代日本人の残念さを示しているのかもしれないのである。

辻村深月さんの「盲目的な恋と友情」を読む

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「鍵のない夢を見る」で直木賞を受賞した辻村さんによる連作である。舞台は東京はずれの某私立大学キャンパス。大学の管弦楽部に集う若き男と女達の中に、蘭花、留利絵、美波、という女子学生や、茂実星近という美形の男子学生がいる。両作品とも基本のプロットは同一であり、「恋」では容姿端麗美女の蘭花の視線で物語が綴られ、続く「友情」では容姿に自信のない留利絵の目を通したドラマが進行する。

盲目的な恋にのめり込む蘭花は茂実に嵌まり、次第に歪んだ恋に押し潰され、行き場のない結末に悶々とする。同書帯には「醜さゆえ、美しさゆえの劣等感をあぶり出した、鬼気迫る書き下し長編。」とあるが、作者の狙いはわかる。グイグイとストーリーに引き込んでいく辻村作品とは少々異なって、男女の恋のエピソード描写はあたかも浅薄な青春小説のような香りも匂わせてもいる。この作品が辻村作品であることを忘れさせるくらいに甘ったるい描写が続く。だが終盤のどんでん返し的オチは流石と思わせつつ、辻村さんらしい技工の巧みさを強く意識させられた。

八王子の佐藤書房で「20世紀のはじまり◯ピカソとクレーの生きた時代」を購入

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地元の古書店にて「20世紀のはじまり◯ピカソとクレーの生きた時代」を発見して思わずに購入。同美術展のカタログを目にして購入したのは何よりも、表紙絵のクレー作「リズミカルな森のラクダ」に魅入ってしまったことからだった。クレーの此の作品は懐かしい遭遇だった。数年前には同展覧会のニュースに接していきたかったが行けなかったというイベント展の図録を目にして迷うことは無かった。帰宅して改めて眺めていたのだが、初めて目にするクレーの作品があふれており、何回、何十回とページをめくっても飽きることが無い。クレー作品ファンとしてのおいらにとっては、貴重な一冊になること間違いない。

購入した地元の古書店「佐藤書房」はおいらも行きつけの店であり、豊富な古書を廉価で販売している。しかも毎日のように店舗前のワゴンセールが開催されて、毎日そのセール品の内容が変わっているのだ。だから毎日のように通っても決して飽きることなど無いのである。

■佐藤書房
東京都八王子市東町12-16
TEL: 042-645-8411

http://satoushobou.sakura.ne.jp/index.html

古市憲寿著「僕たちの前途」は後味爽やかなノンフィクションだった

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「起業」「起業家」をテーマにして古市憲寿氏が表したノンフィクションである。一般的に我が国の「起業論」には常時的に、筆著者自身の事業PR的な要素が充満しており、そんな厭らしさ故に、胡散臭い印象を抱くのが定例である。同書「僕たちの前途」には、そんな厭らしいところは無いが、その反面で強いメッセージ性を感じることが無いという、当り障りの無い内容に終始している。もっと云えば、どうでも良いといった類いの「起業論」「経営論」に終始している印象が強くある。

ただしそんな中でも同書の「第一章 僕たちのゼント」には、現状における古市氏を取り巻く経済的な状況を指し示していて興味を誘うのである。20代後半の社会学者が実際的に依拠している経済状況について、著者の古市氏は饒舌に語っている。まるで起業家論をまとっているが実質的には著者自らのこの社会に対する対処法、処世術的なものを多く見て取ってしまっていた。其れらは決して後味が悪いわけではなくて、却って古市氏的著者世代の天晴的なアウトソーシング的なメッセージとして受け取ることができたのである。同書帯における「人生に正解はない。」というフレーズはとても軽々しいのだが、それこそが彼ら世代の日常的な現状把握的キーワードなのである。

第四章を加えて再出版された「かもめのジョナサン 完成版」

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最初においらが「かもめのジョナサン」を読んだのは高校生の頃だった。発行当初は殆ど売れなかったという同書だが、著者リチャード バックの本国の米国でじわじわと話題を集めて、一躍世界的なベストセラー本となってしまったといういわく付きの一冊である。原作本も平易な英語で書かれていて親しみやすくて手にとったりしていたが、五木寛之氏による訳書を購入していた。

主人公のかもめのジョナサンは、ただ単に餌を取って食べることのみに時間を費やす他のかもめたちから離れて、飛行することを追求する。飛ぶことはついには食べることから離れて生きることの意味を示唆し、単に飛ぶことという物理的な意味を超えて精神的な理想論や形而上学的な世界観やらを指し示すことになる。誰もが胸の奥底に持っていたであろう当時の精神世界への希求が大きなベクトルとなって、同書を稀有なるベストセラー書として押し上げていたということは想像に難くなかった。

そして今回第四章が加えられたのが「かもめのジョナサン 完成版」の発刊である。とても抽象的でありながらストレートな記述だった過去版ジョナサンとは少々趣きを異にしており、完成版の第四章はとても理屈っぽい。例えば第三章の形而上学的なメッセージにも似ていなくて、無性に理屈ぽさが目についてしょうがない。21世紀に入ってかつての20世紀的な物語が不可能になってしまった時代における、これこそは新しいポストモダンの小説の試みと云えるかもしれない。

ヒーローの物語として語られた「かもめのジョナサン」は、全世紀のごとくに語り継げられることを著者自らの手によって拒否され、ヒーローではない語り部の物語として再生されようとしている。新しい時代の理屈や世界観によってヒーローが再生される保証や根拠は何も無いはずなのに、新しい物語を綴ったリチャード バックには、個人的な関心が高まってならない。

マイク・モラスキー氏による「日本の居酒屋文化」を読む

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青い目をもつアメリカ人のマイク・モラスキー氏が、我が国の居酒屋を巡る文化をテーマに記した文章を纏めた一冊。副題に「赤提灯の魅力を探る」とあるように、パリのカフェ、イギリスのパブ、ドイツのビアガーデンとも異なる、居酒屋独自の魅力を探ることをテーマとしている。

40年もの居酒屋経験を誇る著者だけあって、その内容は外国人による興味半分の随想の域を超えている。何よりも酒が好き、居酒屋が好き、が高じて赤提灯行脚に没頭。訪ねた店は北海道から沖縄の路地裏までの、全国津々浦々にわたっている。アル中ならぬ居酒屋中毒症状に罹患していることを伺わせるに充分ではある。

初めの3章までは「居酒屋学」などと称してカテゴリー分類等、少々固い内容であるが、後半に入るとぐっとくだけて、全国の様々な都市の横丁に潜り込んだ時のエピソードなども記されていて面白く読み進めることができた。

養老孟司著「『自分』の壁」は期待外れの一冊

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養老孟司氏の近著「『自分』の壁」を読んだ。「バカの壁」というベストセラー作品を持つ著者の作品ということで些少の期待をもって読み進めたが、特に目立った主張、分析や切り口などはみることができず、期待外れに終わってしまった。

帯に示されている「『自分探し』なんてムダなこと!」というフレーズからも読み取られるように、同書の成り立ちは著者の企画ではなく編集者による企画による。世の中に蔓延る「自分探し」といったムーブメントに対するアンチのメッセージを発するということを一義的に目的とされ、企画から執筆、発行にまで至っている。事実、同書の「まえがき」「あとがき」以外の原稿執筆はゴーストライターによるものだということを著者が暴露している。

学者・研究者としてのエピソードを随所に散りばめているのだが、細かな事柄ばかり突くスタイルは大きなメッセージを発信することは不可能であり、養老本のある種の限界を明らかにしている。

「パウル・クレー 地中海の旅」にみる旅と創作との関係の絶対性

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近著として発刊された「パウル・クレー 地中海の旅」を読んだ。画家パウル・クレーによる地中海への旅と彼の創造的ビジョンとが密接に絡み合っていたということを、丁寧に検証して纏めたという一冊である。旅とはそもそも画家にとっての創造の源であるということを、具体的なクレーの絵画作品を基に解いていくのであり、古今東西を問わずにクレーの作品に魅せられた人々に、多大な興味を惹起させている。同書の筆者こと新藤信氏は「日本パウル・クレー協会」を設立した、わが国におけるパウル・クレー研究の第一人者であり、其れこそがまたクレー作品のもつ国際性、否それ以上の無国籍的なビジョン、広い意味での思想性を明示させているのだ。古今東西を縦断してこのような評価を得ている作家として、パウル・クレーの存在感を浮かび上がらせる名著である。

スイスで生を受けドイツで思春期を過ごしたクレーが地中海へ旅したことは、彼の制作的背景において極めて重要な要素を有していたことを示している。海のある地中海的世界を旅行したことでクレーは色彩を自分のものにすることができた。イタリアをはじめとしてシチリア、南フランス、チュニジア、エジプトといった地中海世界の文化との邂逅が無ければクレー作品の重要な部分が残されなかったのかもしれないということを、説得力のある検証によって明示させている。生涯にわたり旅への志向を持ち続けたクレーは旅の節目節目で紀行文と呼ぶべき文章を残している。クレーによる旅の途中のエピソードの数々は「日記」として彼自身の記述で記録され残されている。クレーの日記からの抜粋ととともに時々の作品をながめるだけでもクレー世界に引き込まれてしまう。ヨーロッパ圏から遠く離れた日本のファンを魅了してしまうクレーこそは、近代絵画のヒーローの名に値すると云っても過言ではないだろう。

ゲーテによる「イタリア紀行」を愛読していたクレーはまた、ゲーテが旅した軌跡を追体験しながら創作活動に彩りを付加していたのに違いない。地中海への旅によって色彩を自分のものにしたと語っているクレーにとっては、まさに、異国の地との邂逅によって得られた化学反応が創作活動エネルギーとして貫かれていたということを理解させてくれるのである。

村上春樹さんの新作「女のいない男たち」を読む(其の2)

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甘酸っぱい香りがぷんぷん漂う当書籍掌編小説のスタイルは村上春樹作品に特有のものではあるに違いないが、掌編集の中の「女のいない男たち」という作品に限ってみれば、春樹さん個人の肉声が詰まったあたかもエッセイのように語りかけてきたのだった。おいらにとっては不意打ちの如き想定外の驚きを伴って襲い来た体験ではあった。軽々とした物語を紡いでいる春樹ワールドとは異質の何か、小説世界のビジョンとはまた別種の世界観のようなものを訴えかけた作品のように受け止められていたのである。

そもそも本書籍にまとめられた作品を含む春樹さんの近作諸々に関しては、近い将来に春樹さんがノーベル文学賞を受賞し得るか否かの判断材料ともなる極めて重大な意味を持つ作品たちなのである。であるから尚更に、扱うテーマに関しては重大な要素を伴うものとなっている。誰かも知れぬ欧米出身のノーベル賞審査員たちの支持を得るものであるのか否かには否応にも関心を抱かずには居られないのだ。もしかしてこれらの春樹さんの近作が、軽佻浮薄な、浅薄至極な、或いはそれらに近しいという印象を与えてしまったならば、ノーベル文学賞候補作家としての春樹さんの評価をおとしめる材料にもなりかねないからである。そうなってしまったら身も蓋も無いと云うべきである。

「女のいない男たち」というタイトルに示されているように、近作にて春樹さんが追求しているテーマは「男と女」「恋愛」「性と愛」等々に収斂されていると思われる。此れ等のテーマ性がはたして、欧米出身の審査員たちの支持を取り付けることが出来るのか否か? いま此処にて発表される近作のテーマ性は、作家の評価に関してあたかも海中に沈まれつつ在る錨の如くに重くあり、評価を得る上でも甚大なものがある。

そんな村上春樹さんの近作における、まるでエッセイのようにも綴られた肉声に込められたものたちに対して、しつこくなるくらいに向かい合って検証してみたいと考えているのである。

(此の稿は続きます)

村上春樹さんの新作「女のいない男たち」を読む(其の1)

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今月に発行されたばかりの村上春樹さんの新作本「女のいない男たち」を読んだ。久しぶりの短編集だと云うことである。地元の書店でもイチオシ的パフォーマンスを展開している。ハルキストの春がやってきたという光景が垣間見られている。

同書はテーマを同じくする6話が盛り込まれている連作集と云う体裁であり、なかの4話は「月刊文藝春秋」誌にて発表済みである。おいらは文藝春秋誌にて掲載された4話をすでに読了しており、其れ以外の2話については書店での立ち読みにて対応仕様と考えていた。村上春樹さんの本はどれもが好きであり、おいら自身がハルキストの末端を占めているのだという自覚もある。だが然しながら短編2話を読むのに1700円ばかりを支出するにはちょいとばかり深刻な、個人的な経済事情が関与していた。だが実際に同書を手に取り、書き下ろし作品としての新作「女のいない男たち」を読み進めるなり、其んな個人的経済事情を打ち破るくらいに、持っておきたい、購入したいと云う思いが満いつしたからの購入ではあった。

(此の稿は続きます)

上原善広さんの「日本の路地を旅する」を読んだ

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日本全国にある路地には夫々に特別な地場ともいえる特別な趣が存在している。おいらは全国各地を旅するたびに、そんな路地に接してきたが、此の一冊はそんな個人の思い入れを遮断するほどの重みを有している。おいらがスローな旅で味わっている趣とは異次元の現実である。

全国の中にて「路地」と呼ばれる場所の一部には、被差別部落が在るのだということを、同書は示している。其の呼称の元の一つは、亡き小説家、中上健次さんの記述に依るものであるということなのである。被差別部落出身の中上健次さんが「路地」と呼んだ場所を、同じく被差別部落出身の上原善広さんが旅をしながら、ノンフィクションのルポルタージュとして纏めたものが本書の成り立ちである。

ただし、同書の中にては具体的な被差別部落の名称や場所を特定することは無い。おいらの出身地である群馬県内の路地を扱っている章を読んでみても、具体的な地名は確認出来ないし思い浮かべることも無かった。暗く重たく負のエピソードを抱えているとされる全国の路地を、作者はまるで巡礼の旅を行なうようにして歩きながら、レポートしている。

直木賞受賞作品、姫野カオルコさんの「昭和の犬」を読む

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今年の前期直木賞受賞作品である姫野カオルコさんの「昭和の犬」を読んだ。ベテラン作家の一人であることは読み進める以前からおいらも知ってはいた。授賞式にはいつものジャージ姿で現れたことが話題にのぼっていたが、其の彼女の作品自体もそうとうの年季の入った味わいが感じられる、とても個性豊かな筆致が特徴の作品なのである。

作品中に著者の出生や生育する時代の息吹を連想させるかのごときエピソードが、此処彼処に散らばっていて、過ぎ去った時代の風景を思い浮かべながら読み進むのも楽しい一冊なのである。

井上真央主演の映画「白ゆき姫殺人事件」を鑑賞

井上真央主演の映画「白ゆき姫殺人事件」を鑑賞した。映画館へはほとんど期待無しに足を運んだ。先日読んだ湊かなえさんの原作本にはがっかりしていたからだ。ただし主演の井上真央さんに関しては、演技はとても観たいという念を強くしていたのだ。美人顔女優の井上真央嬢が「目立たない地味なOL」の役を演じるという。ネット上で視聴した予告編ムービーでの演技は彼女の存在感が際立っており、若手女優の中で特筆すべきものを持っていることは確かである。余談だが、絶世の美女として役割分担している菜々緒という女優には、美人でモデル顔といった以外の取柄を感じさせない。極めて軽薄で影が薄いのだ。キャスティングにはもうひと工夫あっても良いだろうという第一印象なのだ。

作品のテーマである、ネットやマスコミ媒体を通した誹謗中傷、不確実情報や噂の拡散、Twitterを始めとするソーシャルメディアを取巻くユーザー達の不条理性、等々については、脚本が原作の足りない処を補っている印象であり、重層的な展開に技を感じ取ることができた。同名の小説と映画の二作を並べてみれば、映画製作のために湊かなえさんの原作小説が、云わば矮小化されたプロット提供作品として利用されていた。おいらの想像だが、湊さんの小説執筆に関しての充分な時間やその他環境が満たされていなかったのではないか?

米国精神科医による古典的名著「平気でうそをつく人たち」を読む(1)

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同書の翻訳単行本が我が国で初版されたのが1996年というから、今から18年も前のこと。以来実売部数50万部という売れ行きを記録し、さらに2011年には文庫本が発行され、読者を増やしている。おいらも初めて同書単行本を書店で目にし、何度か立ち読みを試みたことがあったが、実際に購入して読破したのはつい最近のことであった。身近な人間による頻繁なる虚言に翻弄されたという経験が、同書とあらためて向き合ったきっかけでもある。

著者のM・スコット・ペックは、米国の著名な精神科医として活動し、「愛と心理療法」という著書によりベストセラー作家の仲間入りをしている。同書が米国にて上梓されたのが1983年というから、既に30年以上の年月を経過したことになる。古典的な精神医学書の一冊と云って良いのかも知れない。著者自らの精神科医師としての体験が基本となっているからなのか、詳述されているエピソードの夫々の記述は、とても細かくときに煩わしくもあるくらいだ。特に1章目に展開されるエピソードについては、それが本書のテーマである「虚言」等に関連するものとは思えないままに、ある種の戸惑いとともに読書を進めて行ったという経緯がある。まるで人間心理の闇に対しての考察が不届きなのではないのか? 精神科医といった肩書きは目くらまし的な代物なのではないか? あるいは期待外れの如何様書籍なのでは? 等々と云った疑いが持ち上がっていた。「悪魔と取引した男」という章のくだりである。そんな疑いは実際には2章以降を読み進めて行くことにて氷解されたと云ってよいのである。