ホッピー党宣言

「発泡酒の時代」が来ても「ホッピーの時代」はいっこうにやって来ない。これは90年代の酒税法改定の流れが最大の要因となっている。

日本人なら誰でも知っていることだが、かつて1994年にサントリーから「ホップス」が発売されたのが、発泡酒ブームのルーツである。実はそれ以前の戦後の一時期にも発泡酒が売り出されたことがあった。だが当時はヒットする気配さえ見せなかった。「カストリの時代」と呼ばれていた当時、発泡酒は人々の記憶に残ることさえなく、敗れ去り消え去ったのである。それが平成の時代の大逆転なのだから、二度びっくりである。

寮美千子さんが先日のコメントで指摘していただいたことだが、発泡酒といえばビールに比べて「軽くて、偽者で、チープで、そこそこ楽しい」という4条件を満たしている。平成の時代を背景に、現代人が求めている嗜好に見事にかなっているかのようだ。馬の鼻前に吊るされた人参を追う馬のように、人々は発泡酒を追い続けていくのだろうか?

そんなことを思うたびに、「発泡酒」を飲みたくなくなる。最近の晩酌は、外ではホッピー、家ではビールと決めているのもそのためである。

「発泡酒の時代」再考

時代は「発泡酒の時代」であるということを、以前書き記していた。だか余りピンとこない、中途半端な考察であった。今日あらためてそのことを思い出し、ほろ酔い気分で再考をしてみたいと考えたのである。

だがしかし、おいらの脳味噌はそうとうばかりアルコールに浸潤されていて、確かな考察などできる状況にはないのである。であるからにして、おいらはその決意だけ述べて、後日に託することにするのだ。

おいらのお好みはホッピーである。(少数派の悲哀を感じるのだ)

おいらのお好みはホッピーである。(少数派の悲哀を感じるのだ)

村上春樹のノーベル賞受賞はありや否や?

今年のノーベル賞受賞者が発表されて、もう数週間が過ぎてしまった今更なんだ! というお叱りもありましょうが、今日は村上春樹のノーベル賞は有りや無しやといった、我が国の文学関係者・マニアたちがもっとも知りたいと思われる話題に、ちょこっと触れておくことにした。何となれば、某未来のIT長者氏から「最近はブログから『1Q84』が消えてしまいましたね」という、痛いところを衝かれてしまったという経緯が有ったからであり、さらにまたこの時期を逃せば、春樹先生とノーベル賞との話題に触れる機会さえ逸してしまいそうな、そんなびくっとする予感に囚われてしまったからなのである。

結論から述べれば、村上春樹のノーベル賞受賞は「有り」である。日本の文学愛好家にとってはもとより、世界文学界の歩みにとって春樹さんの歩みは凸凹なる関係性をとりながらも接点を維持しているから、受賞の可能性は大と見なくてはならない。もとよりノーベル文学賞といえども、西欧中心のイデオロギー依存にとっぷり浸かっている。過去のノーベル文学賞受賞理由の大半はといえば、西欧スタイルのイデオロギーをどう身に纏った作品であるかが、述べられるばかりであり、今年はさらにその傾向が激しかったためおいらも些か呆れたのものである。そんな逆境を乗り越えるパワーは、春樹さんには備わっているのだろう。期待は大きく持っていくべきなのだ。

現在60歳にして、イスラエルに乗り込むパワーは尋常ならざるものがある。「1Q84」の4部作(3部作ではない)が完成するまであと3年以上先になるだろう予感はあるが、4部作完成の時こそ春樹さんのノーベル文学賞受賞のタイミングに相応しいのである。

村上春樹さんの「1Q84 BOOK3」発売。「BOOK4」も既定の路線か?

村上春樹の短編集にみる都合の良い女性観

村上春樹「1Q84」が今年度の一番だそうな

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村上春樹のノーベル賞受賞はありや否や?

青豆と天吾が眺めた二つの月

リトル・ピープルとは何か? 新しい物語

青豆と天吾が再会叶わなかった高円寺の児童公園

「1Q84」BOOK4に期待する

リトル・ピープルとは?

村上春樹「1Q84」にみる「リトルピープル」

HERMESは鬼門である

銀座一等地に聳える総天然硝子張りのHERMESビル

銀座一等地に聳える総天然硝子張りのHERMESビル

銀座には様々なギャラリーなるものが、そこかしこと軒を連ねており、おいらも時々、いっぱしのギャラリーウォーカーなどを気取って、逍遙ギャラリー散策などを決め込むものだ。だが実は、おいらもまだ足を踏み入れたことのないギャラリーがあった。その名も「メゾンエルメス」である。

ネット界のアイドルことみなみさんもお気に入りの、ご存知超一流ブランド「HERMES(エルメス)」が経営するギャラリーであり、ソニービルと軒を並べて銀座に聳える総硝子張り仕様の豪華ビル(HERMESの自社ビルだ!)の8回だかの階上にそのギャラリーはあるという。そう聞き及んで久しいのである。だが未だ一歩もその中に踏み入れたことのない鬼門となっているのである。

「メゾンエルメス」に踏み込めない最大の要因はといえば、ビルの入り口に陣取っているガードマンの存在である。何度かこの場を強行突破して、正面突破をと試みたことがあったのだが、そのつど、睨みを利かせたガードマンの視線に嫌気をさしては、退散したものである。

これは決しておいらの個人的事情ばかりではない。同様の体験をした知人は少なくなく、知るだけでも3人は居るのだ。ところがどっこい、職場の女性陣などは新人だろうがベテランだろうがガードマンの視線など、何吹く風やとかいくぐって、ギャラリー見物を楽しんでいるようなのである。逆男女間差別の実例を目の当たりにした様でもあり、面食らったのだ。

数多居る職場の男性陣の中で、勇敢にもHERMESビルに足を運んだスタッフが居ないわけではなかった。だがその彼が先日はきわめて微罪の容疑で逮捕されてしまったのだ。胸騒ぎがしてきた。もちろんこの件とは別件である。しかも冤罪の疑いが濃厚である。ただこの件とは少なからずシンクロしているようでもあり、おいらも強行突破は暫しの間見送ることと決めたのである。君子危うきに近寄らず、などといった高尚なものでもない。とんでもないくらいの遺憾な現実なのである。

一見紳士風だが、その目付き・視線は尋常ではない

一見紳士風だが、その目付き・視線は尋常ではない

銀座立ち食い満腹ランチ

ボリューム満点の「秋刀魚蒲焼丼」。480円なり。

ボリューム満点の「秋刀魚蒲焼丼」。480円なり。

銀座のランチといえども、気取った高級店舗のものばかりではない。裏道散策してみれば、いろいろ面白い店舗に遭遇すること数多く、おいらも実は2日に1日はそうした裏道ランチ(そのほとんどが立ち食い系)と決めているのです。

写真は本日立ち寄った行き付け店の一品、季節限定品の「秋刀魚蒲焼丼」なり。「蒲焼」というのは不当表示であり実は「揚げて」あるのだが、そんな秋刀魚の半切身揚げがどーんと3つ乗っている、豪快さも満腹感も併せ持った代物である。ちなみに同ランチ店舗は夕刻後には立ち飲み店舗に模様替えされて、なかなかの繁盛店でもある。

おいらの昼食タイムの後半即ち大体立ち食いの後は、公園のベンチで読書タイムと決め込んでいる。村上春樹、糸井重里、天童荒太、等々を白昼のベンチで活字を追うのも悪くない。時々は雨露に襲われる日があり、銀座某交差点界隈の「PRONT」で雨露を避ける。そこでは大衆的スパゲティなどをかっ食らう、否、かっ食らうのは立ち食いランチ丼の話であり、スパゲティの場合などは雨を愛ながらしっとりと優雅なイタリアンランチタイムを過ごすのである。

糸井重里の「ほぼ日刊イトイ新聞」

数多ある我が国のIT事業の中で、おいらが今最も注目しているのが、糸井重里が主宰している、ご存知「ほぼ日刊イトイ新聞」である。「ほぼ日」更新していこうという無謀な取り組みも、糸井重里の「ほぼ日刊イトイ新聞」に触発されたからにほかならない。

http://www.1101.com/index.html

改めて指摘するまでもないが、ITバブル崩壊後の今なお、旺盛なる企画力で、様々な試みを実現させているサイトである。今なお「1日120万件」のアクセスを誇るというのだから、マンモス凄ピー!な、モデルとするべきサイトである。

かつて、「ビッグな」(これも糸井さんの妙なるコピー力の賜物か)矢沢永吉の「成り上がりをゴーストライターとしてまとめたり、「TOKIO」の作詞により沢田研二の人気に活を入れたという実績もあり、そのディレクター的才能には畏敬の念を禁じ得なかったものである。世界の村上春樹さんとのコラボレーション的著作「夢で会いましょう」も、発想力が見事である。思想界の巨人こと吉本隆明との長き交流から生まれた、コラボレーションなどは、現在の「ほぼ日刊イトイ新聞」の目玉的企画として大きく成長させたものとなった。

「ほぼ日刊イトイ新聞」のベースとなっているのは、豊富でありかつ強靭な人脈であろう。豊富な実力派執筆陣によるコラムは、同サイトになくてはならないものであるとともに、糸井さんとのコラボレーション的色付けされたものとして目に映される。味付けの妙がその後ろに隠されているようだ。おいらも現在、彼のディレクションの方法論などを分析中なのである。

「プロバンス アーチプランター」購入

これから何を置こうかと思案中。

これから何を置こうかと思案中。車輪が可愛いでしょ。

本日、地元のリサイクルショップに足を運んでいたところ、「プロバンス アーチプランター」という鉄製の置物が眼に入ったので、衝動買いをしてしまったのでした。プランターを並べて飾るインテリア商品のようです。幅2メートルくらいの大きさだったので、配送料を払って運んでもらいました。これから何を置こうかと思案中。自転車の車輪が可愛いでしょう。

天童荒太の「悼む人」読了

先日、知人から借りていた「悼む人」を読了した。

まずひと言。大衆小説の突破口を開いたともいえる作品ではないか、という印象を抱いた。

先日も書いたが、主人公の静人が、報道や口伝で知った死者を追って、「悼む」ことを続けていくというストーリーがこの小説の基本的な設定である。キャラクター設定の意外性が、その一点とてしてある。ヒーローではない。かといって見下げた存在ではない。しかもキャラクターが立っている。敢えて証明しなければならない過去の事実や、社会的立場を支えるバックボーンも見えてこない。まるでこの世に居そうもない設定ゆえのことから来る、意外性の設定に成功している。

「死」をテーマにした作品としてまず浮かぶのは、写真家・藤原新也が著した「メメントモリ」である。ここでは著者の放つ圧倒的な死の世界観に威圧されたり、近づくことを拒絶される不可知性が存在するが、「悼む人」にはそのようなものはない。ただ近づきたくないから離れている、適度な距離を保って接しているだけである。それが読者に跳ね返ったとき、「悼む人」は鏡のような存在なのかと納得するのだろう。

推理小説仕立ての展開からバックボーンを追っていたら、決してこの読了感は生まれなかっただろう。最後まで、主人公の静人の内面には取り込まれることなく、しかも清々しい読了感は、確かに残っている。

「謝辞」として記された本のあとがきには、7年かけて仕上げた作品とある。終末医療の現場やDVに関する細密な現場取材を経て書かれたことが察せられる、力作である。作者・天童荒太の詳細なプロフィールは目にしていないが、おそらくマスコミ報道の現場で修行したであろう著者の過去が、重なって浮かんでくる。嫌われ者記者・蒔野抗太郎の姿は、作者が接した誰かをモデルにしているはずだが、作家本人の姿と感じ取れないのもまた、意外性の設定の成果だろう。

一見まがもの、食べて納得の一品

地元居酒屋で、またまた見つけた一品である。

真っ黒に化粧された、その名も「ばくだん」

真っ黒に化粧された、その名も「ばくだん」

中を開けば、ピータンが丸ごとひとつ

中を開けば、ピータンが丸ごとひとつ

 

メニューには「ばくだん」とあった。真っ黒な揚げ物という説明書きとともに。黒いピータンが、真っ黒になって出てきた。いかもこってりと甘いたれに囲まれて出てきたのである。もともとあの臭みが好きだった「ピータン」だから、このようにアレンジされたらピータンらしくはない。極めて大衆的な発想の、創作料理である。

銀座「ルパン」と、時代の酒

銀座のレポートは昼に偏っていて、夜がなかったことに気付いたのです。そこで、以前おいらが某ブログにて記したレポートをアレンジして、銀座の名店「ルパン」について紹介します。

坂口安吾が愛した「ゴールデンフィズ」

坂口安吾が愛した「ゴールデンフィズ」

先日、銀座にある老舗バー「ルパン」に行ってきました。昭和3年に開設されたこの酒場には、太宰治、坂口安吾といった無頼派作家をはじめ、数多の作家、芸術家たちが足を運んだ社交場としても有名で、今なお彼らの足跡を辿るべく全国からのファンが訪れているそうな。少年の頃から太宰さんや安吾さんを敬愛してきた僕が、今頃になってここを訪れたのは遅きに過ぎたのですが、これも銀座勤めがもたらした巡りあわせなのかも。遅れて叶う出会いというのもまた乙なものでした。

何もわからないまま、安吾さんが好んで飲んだという「ゴールデンフィズ」というカクテルを注文してみました。ジュースに卵黄を入れてシェークしたものらしく、結構甘口系で、辛党の僕としてはとてもお酒を味わった気分にはなりません。銀座では銀座の酒をということなのか。無頼派の旗手こと安吾さんも案外銀座の振る舞いを熟知していて、人生と作品探求にも熱意がこもったのでしょうか。ちなみにこの日、何故太宰さんの愛飲した飲み物を頼まなかったかといえば、太宰さんは一流の道楽者ですから、きっと予算オーバーしてしまうこと必至であり、その点で、危険な香りを振り撒く女豹より、いささか口煩いが安心してつき合える堅実派の安吾さんによりシンパシーを感じていたためなのかもしれません。

よく知られているように、ここには林忠彦が駆け出しの頃に撮影した写真が展示されており、大きく額装された中には、一寸地味目にカウンターにおさまる安吾さんの姿もありました。林忠彦は当時「ルパン」を自分の連絡場所としていて、ここで知り合った安吾さんの住居に押しかけては、ごみだらけの仕事部屋で撮影した写真を発表して、話題をさらったものでした。のちにそれらの写真は「カストリ時代」という写真集にまとめられ、戦後の昭和二十年代を伝える貴重な一冊となっています。

「カストリ」とは粗悪な密造酒のことをいう。林忠彦が出会った当時の安吾さんの自宅では、時々仲間を集めては「カストリを飲む会」が開催されていたそうです。安吾邸にはカストリの入った石油缶がでんと置かれていて、それを仲間に振舞っていたというのだが、自分は「ルパン」でゴールデンフィズを愛飲していたのだから、安吾さんがはたして「カストリ」を好んでいたのかはなはだ疑問です。酒乱で鳴らした太宰さんや織田作と違い、安吾さんが泥酔する姿はあまり想像できません。仲間たちには安物の密造酒を飲ませつつ、こっそり高級酒をちびちびとやりながら推理小説のトリックを練っている。そんな安吾さんの姿を想像してしまうのです。それこそが無頼派の旗手として混沌の時代を駆け抜けた安吾さんの生き様ではなかったのではなかろうか。

それにしても「カストリ時代」とは粋なネーミングである。現代ならばさしずめ「発泡酒の時代」とでもいうのだろう、どうもピンとこないし味気ない。「ハイボール」の人気が上昇中だが、「ホッピー」ほどには人気定着の兆候は見られない。粋で天晴れなネーミングはないものかと悩む毎日である。

考えてみれば時代を表わす酒、あるいは時代のキーワード、ネーミングとはとても難しいものである。現在のマスコミが多用する「ネットの時代」「未曾有の時代」なんて全然駄目である。対抗できるのは一昔前に椎名誠が命名した「かつおぶしの時代」くらいじゃないかなと思うのであります。芸術作品は「時代を映す鏡」ともいわれるが、なかでも写真ほどこれに当て嵌まる媒体はないと云っていい。「現代」「今日」といった時間を写し取っているのだから当然のこととはいえ、時代の息吹を見事に活写した林忠彦や坂口安吾さんの取り組みには、益々畏敬の念を禁じ得ないのである。

「逍遙酔記」とさせていただきました

ふとした思い付きと、多少の意気込みなどが作用して、設立させた当ブログがスタートして1ヶ月余りを過ごすことができました。試行錯誤の毎日が続きますが、本日より、サブメニューの「逍遙漫記」を「逍遙酔記」に変更させていただきました。

かつて、おいらも参加していた掲示板界隈の、あの当時の大きな潮流をつくってはいた功労者ではあるが、近頃の総選挙では落選の憂き目にあったという、あの有田芳生さんのサイト名「酔醒漫録」(今夜もほろ酔いというサブタイトルもあったような)が念頭に過ぎっていたことは否定できないが、おいらもまた有田さんに負けず劣らずの酔漢でもあると自負しておりまして、また語感的にも「漫記」より「酔記」だろうという思いが急激に脳裡を占拠していたということからの変更であります。今後もこのような些細な変更がたびたびあるやも知れませんが、堅いことなどいわずに寛大な思いで見守ってやってください。

気功の力

本日話題にしたいのは、「奇行」ではなくて「気功」のこと。職場で、街中で、あるいは俗界にて、くだらない事象に出くわす度に、おいらは気功を実践する。気功に頼るというのではなく、否、出口を模索するのだ。

そもそも俗界のあらゆる事象は心身の健康を阻害するのだが、それは基本的に気が滞ったことによっている。そのような状況を解消し、邪気を祓う行為が、気功である。大地から「気」を受け入れ、全身に施そうとする。本日も、先ほど地上に出て(今居るところは階上の2階だから下に降りて)気功を行ってきたところなのです。

おいらがはじめて気功を実践したのは、彼女の病気治療によるものだった。その治療に立ち会っていたとき「気功」に巡り合った。残念ながら気功によって病気を克服することはできなかったが、病魔にともに立ち向かう力となっていたように思う。最近になってその当時を振り返りつつ、一人気功を実践する日々が絶えないで居る。もう少しパワーアップができないかといろいろな模索中である。

天童荒太「悼む人」読書中

職場の知人から「悼む人」(天童荒太著/文藝春秋社刊)を借りて読んでいる。今年1月の直木賞受賞作品であり、そのタイトルから、身近な大切な家族を亡くしたという経験も手伝って、またさらに、米国のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した映画「おくりびと」に、「悼む人」の色濃い影響が見られるとの作品評の記事なども目にし、いつか読むべしとの考えがあったのだが、ひょんなきっかけでその機会が訪れた。

はじめはてっきり、ノンフィクション・ジャンルの作品ではないかなどと勝手に思い込んではいたのだが、違った。「悼む人」の物語(フィクション!)は、主人公が死者を「悼む」為に訪ねて歩くという、いわば奇行を巡って進行していく。奇人か、変人か、病人か、あるいは神聖なる聖者かのごとくに表現されていく主人公に、感情を重ね合わせていくことは難しい。どのような死者に対しても同様な「悼み」の仕草は、大切な身内の死に対するものとは明らかに異なっている。それでもなおその主人公への関心が薄れることもなく、フィクションとしての物語は進んでいくのである。ときに推理小説まがいの進展に、些か戸惑いを覚えつつも、いたるところに新鮮な発見にめぐり合う。読書とは体験でありめぐり合いであるべきという条件も満たしている。ときには極めてエグい展開も散見されるが、それもまた物語の適度な大衆小説臭のスパイスともなっており、興味深くページを進めているところなのです。

閑話休題。

今日の昼、またまた銀座で話題の「フリーカフェ」を訪ねたのだ。きっけかは、先日この場所を熱心に教えてくれた某男性スタッフに、「行きましょう」と誘われたことだった。最初の話題性が収まったことや、昼の12時すぐという時間帯だったこともあり、先日ほどの賑わいはなかった。「一人一皿」とされているおかきに夢中になる小母さん、お婆さんの姿もあまり目に付くことはなかった。ブログ公約(造語である)した写真を撮ってきたので、公開しておきます。

銀座の一等地でこの広さなり。

銀座の一等地でこの広さなり。

コロコロホルモンの続き

昨夜はほろ酔いを少し超えてしまったようであり、ブログ記事も的を得ずだらだらと記したこと後悔の限りなり。書き直しを少々。

ダイエットの大敵、体に悪いとは知りながらもついつい食指を伸ばしてしまうのが、ホルモン焼きである。昨夜もそんなホルモン焼きにありつけたのであったし、そればかりではなく神奈川県厚木市がB級グルメの闘い「B-1グランブリ」でグランプリを受賞した「コロコロホルモン」も口にすることができ、少々満足だったのである。通常は「シロ」として出される豚の(あるいは牛の)大腸の一部分をぶつっとぶつ切りにして表裏をひっくり返して出されるもので、体には悪そうだが美味この上ない脂身がじわじわと溶け出してくるところがなんともいえない。

厚木の専門店では「シロコロ」などと呼び、町興しのイベントが盛んである。以前、B-1グランプリを「シロコロ」が受賞したと聞き、わざわざ厚木まで足を伸ばしたことがあったが、イベント会場にてくちにしたその「シロコロ」は、ボイルして冷凍した食材を大網でぞんざいに焼いたもので、ああこの程度かと、期待していたほどのものではなかった。だが最近になって地元居酒屋のメニューにこれを見つけて食したところ、評価を一変させるくらいに頬が落ち、いらい当店通いが続いている。

今年開催された「「B級グルメ」の大会では、横手焼きそばがグランプリを受賞したと聞く。準グランプリは八戸の「せんべい汁」。現地で食した「せんべい汁」も「横手焼きそば」は、どちらも旅情が評価を高めて美味かった。それに比べて厚木イベント会場に出されていた「シロコロ」は、東京で普通に味わう「シロ」にも満たなかったように記憶している。この落差は何なのだろうか?

これは厚木のイベント会場で出されていたもの。味はいまいちだった。

これは厚木のイベント会場で出されていたもの。味はいまいちだった。

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Free Cafeに群がる銀座人たち

京都のおかき屋がオープンしたカフェ、その名も「フリーカフェ」が、新たな銀座の名所になりつつある。

コーヒーもおかきも無料という、新しいタイプのカフェ。
コーヒーもおかきも無料という、新しいタイプのカフェ。

 先日、普段は滅多に私的話題をしゃべることのない某男性スタッフが、興奮した面持ちで、おいらに声をかけてきたのである。

「小林さん、これ凄いですよ。ただ、只ですよ!」

あれれと、彼がそのとき手にしていたチラシに目をやれば、そこには「Free Cafe」の、ニューオープンの店のコピーがあれこれ並んでいた。

「これまで試食を提供する店はいろいろありましたけど、完全な只は、なかったでしょう! 宗教がかった感じですけど、これからマスコミに取り上げられる前に、今のうちに行っておいたほうがいいですよ。」

彼のアドバイスに従ったわけではないが、とりあえずその店舗に足を運んでみた。入り口のドアを開けると、同店舗の本業であるおかきを販売するスペースが陣取っていた。「Free Cafeへご来店の方はこの奥です…」なるアナウンスが響く。ざわざわと騒々しい店舗の奥まったところへと足を運ぶが、席に着く前にもう落ち着かないのだ。ざわざわした店舗のどこやらで、しきりにマイクで注意喚起する店員が居る。

「おかきのお代わりはご遠慮ください。常識の範囲でお楽しみください。非常識なお客様が居ましたら、ポンと笑顔で肩をたたいて注意してあげてください…」

こりゃ参った。まるで正義の押し売りである。フリードリンクのコーヒーの味は薄くて久しぶりに不味いコーヒーに遭遇した気分である。今度行く機会があれば、ちゃんと店内の撮影をしてくる予定なので、それはそれでまた期待しておいてください。

高田渡「ごあいさつ」についての勘違い

本日、職場の話題豊富な某女史が、ある問題提起していたのである。

「『お世話になっております。』という言葉を、手紙の最初に記したほうが良いのか否か」と…。おいらもその時には、「それはコミュニケーションを丸く収める言葉遣いだから、書いたほうが宜しいのだ」というようなことを述べたのだった。そして付け加えたのが、高田渡さんの名曲『ごあいさつ』についての解説である。

「高田渡の名曲『ごあいさつ』にも、『どうもどうもいやどうも』といって、コミュニケーションを丸く収める様子があるじゃないか、云々かんぬん」…と。

だが先ほど帰宅して、「ごあいさつ」を聞き直していると、大きな思い違いをしていたことが判明して、些かおいらもバツの悪い状況なのである。

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♪どうもどうもいやどうも
 いつぞやいろいろこのたびはまた
 まあまあひとつまあひとつ
 そんなわけでなにぶんよろしく
 なにのほうはいずれなにして
 そのせつゆっくりいやどうも

この「ごあいさつ」は、バツの悪い相手に対して発せられた、拒絶のボキャブラリーであり、いわば諧謔にも似た響きを奏でているものだ。であるからして、この曲をして「コミュニケーションを丸く収める言葉遣い」といった説明は、全然正しくなかったのである。しかもおいらはこのとき、「ヤフーで『高田渡』と検索してみると、30番目においらのサイトがヒットする。昔は11番だったんだけどね…」などと、自慢話さえしてしまったのだから、始末に負えないのでした。ちなみに今「30番目」くらいのおいらの作ったサイトは、下記のとおりです。

http://www.midori-kikaku.com/artist/takada.html

ちなみに名曲「ごあいさつ」の作詞は、谷川俊太郎さんが手がけております。これまた今日知ってびっくり!

青豆と天吾が眺めた二つの月

話題作、村上春樹の「1Q84」を紐解きながらページをめくっていると、改めて幾つかのキーワードに突き当たる。物語の終末期において、青豆と天吾がともに眺めて見えたとされる「二つの月」がこれだ。

河出書房新社による「村上春樹『1Q84』をどう読むか」においても、「二つの月」に関しての文芸評論家なる人々の突っ込みとやらが開陳されていて、それはそれで興味深く読んだのだった。SF小説の基本を踏襲していないだとか、その根拠はどうでもいいたぐいのあれ(!)だが、やはりこう書かれているのを見たりしたら、村上マニアとしては些か内心落ち着かないものがあったので、ちと考え考え、創作してみました。今流行の「フォトショップ」というソフトウェアを使って創作した「二つの月」の出来栄えはいかがでせうか?

青豆と天吾が結び付けられたのが「二つの月」なのです。

青豆と天吾が結び付けられたのが「二つの月」なのです。

村上春樹さんの「1Q84 BOOK3」発売。「BOOK4」も既定の路線か?

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村上春樹「1Q84」が今年度の一番だそうな

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