ホッピー党宣言

「発泡酒の時代」が来ても「ホッピーの時代」はいっこうにやって来ない。これは90年代の酒税法改定の流れが最大の要因となっている。

日本人なら誰でも知っていることだが、かつて1994年にサントリーから「ホップス」が発売されたのが、発泡酒ブームのルーツである。実はそれ以前の戦後の一時期にも発泡酒が売り出されたことがあった。だが当時はヒットする気配さえ見せなかった。「カストリの時代」と呼ばれていた当時、発泡酒は人々の記憶に残ることさえなく、敗れ去り消え去ったのである。それが平成の時代の大逆転なのだから、二度びっくりである。

寮美千子さんが先日のコメントで指摘していただいたことだが、発泡酒といえばビールに比べて「軽くて、偽者で、チープで、そこそこ楽しい」という4条件を満たしている。平成の時代を背景に、現代人が求めている嗜好に見事にかなっているかのようだ。馬の鼻前に吊るされた人参を追う馬のように、人々は発泡酒を追い続けていくのだろうか?

そんなことを思うたびに、「発泡酒」を飲みたくなくなる。最近の晩酌は、外ではホッピー、家ではビールと決めているのもそのためである。

「発泡酒の時代」再考

時代は「発泡酒の時代」であるということを、以前書き記していた。だか余りピンとこない、中途半端な考察であった。今日あらためてそのことを思い出し、ほろ酔い気分で再考をしてみたいと考えたのである。

だがしかし、おいらの脳味噌はそうとうばかりアルコールに浸潤されていて、確かな考察などできる状況にはないのである。であるからにして、おいらはその決意だけ述べて、後日に託することにするのだ。

おいらのお好みはホッピーである。(少数派の悲哀を感じるのだ)

おいらのお好みはホッピーである。(少数派の悲哀を感じるのだ)

村上春樹のノーベル賞受賞はありや否や?

今年のノーベル賞受賞者が発表されて、もう数週間が過ぎてしまった今更なんだ! というお叱りもありましょうが、今日は村上春樹のノーベル賞は有りや無しやといった、我が国の文学関係者・マニアたちがもっとも知りたいと思われる話題に、ちょこっと触れておくことにした。何となれば、某未来のIT長者氏から「最近はブログから『1Q84』が消えてしまいましたね」という、痛いところを衝かれてしまったという経緯が有ったからであり、さらにまたこの時期を逃せば、春樹先生とノーベル賞との話題に触れる機会さえ逸してしまいそうな、そんなびくっとする予感に囚われてしまったからなのである。

結論から述べれば、村上春樹のノーベル賞受賞は「有り」である。日本の文学愛好家にとってはもとより、世界文学界の歩みにとって春樹さんの歩みは凸凹なる関係性をとりながらも接点を維持しているから、受賞の可能性は大と見なくてはならない。もとよりノーベル文学賞といえども、西欧中心のイデオロギー依存にとっぷり浸かっている。過去のノーベル文学賞受賞理由の大半はといえば、西欧スタイルのイデオロギーをどう身に纏った作品であるかが、述べられるばかりであり、今年はさらにその傾向が激しかったためおいらも些か呆れたのものである。そんな逆境を乗り越えるパワーは、春樹さんには備わっているのだろう。期待は大きく持っていくべきなのだ。

現在60歳にして、イスラエルに乗り込むパワーは尋常ならざるものがある。「1Q84」の4部作(3部作ではない)が完成するまであと3年以上先になるだろう予感はあるが、4部作完成の時こそ春樹さんのノーベル文学賞受賞のタイミングに相応しいのである。

村上春樹さんの「1Q84 BOOK3」発売。「BOOK4」も既定の路線か?

村上春樹の短編集にみる都合の良い女性観

村上春樹「1Q84」が今年度の一番だそうな

村上春樹の「めくらやなぎと眠る女」

村上春樹のノーベル賞受賞はありや否や?

青豆と天吾が眺めた二つの月

リトル・ピープルとは何か? 新しい物語

青豆と天吾が再会叶わなかった高円寺の児童公園

「1Q84」BOOK4に期待する

リトル・ピープルとは?

村上春樹「1Q84」にみる「リトルピープル」

HERMESは鬼門である

銀座一等地に聳える総天然硝子張りのHERMESビル

銀座一等地に聳える総天然硝子張りのHERMESビル

銀座には様々なギャラリーなるものが、そこかしこと軒を連ねており、おいらも時々、いっぱしのギャラリーウォーカーなどを気取って、逍遙ギャラリー散策などを決め込むものだ。だが実は、おいらもまだ足を踏み入れたことのないギャラリーがあった。その名も「メゾンエルメス」である。

ネット界のアイドルことみなみさんもお気に入りの、ご存知超一流ブランド「HERMES(エルメス)」が経営するギャラリーであり、ソニービルと軒を並べて銀座に聳える総硝子張り仕様の豪華ビル(HERMESの自社ビルだ!)の8回だかの階上にそのギャラリーはあるという。そう聞き及んで久しいのである。だが未だ一歩もその中に踏み入れたことのない鬼門となっているのである。

「メゾンエルメス」に踏み込めない最大の要因はといえば、ビルの入り口に陣取っているガードマンの存在である。何度かこの場を強行突破して、正面突破をと試みたことがあったのだが、そのつど、睨みを利かせたガードマンの視線に嫌気をさしては、退散したものである。

これは決しておいらの個人的事情ばかりではない。同様の体験をした知人は少なくなく、知るだけでも3人は居るのだ。ところがどっこい、職場の女性陣などは新人だろうがベテランだろうがガードマンの視線など、何吹く風やとかいくぐって、ギャラリー見物を楽しんでいるようなのである。逆男女間差別の実例を目の当たりにした様でもあり、面食らったのだ。

数多居る職場の男性陣の中で、勇敢にもHERMESビルに足を運んだスタッフが居ないわけではなかった。だがその彼が先日はきわめて微罪の容疑で逮捕されてしまったのだ。胸騒ぎがしてきた。もちろんこの件とは別件である。しかも冤罪の疑いが濃厚である。ただこの件とは少なからずシンクロしているようでもあり、おいらも強行突破は暫しの間見送ることと決めたのである。君子危うきに近寄らず、などといった高尚なものでもない。とんでもないくらいの遺憾な現実なのである。

一見紳士風だが、その目付き・視線は尋常ではない

一見紳士風だが、その目付き・視線は尋常ではない

銀座立ち食い満腹ランチ

ボリューム満点の「秋刀魚蒲焼丼」。480円なり。

ボリューム満点の「秋刀魚蒲焼丼」。480円なり。

銀座のランチといえども、気取った高級店舗のものばかりではない。裏道散策してみれば、いろいろ面白い店舗に遭遇すること数多く、おいらも実は2日に1日はそうした裏道ランチ(そのほとんどが立ち食い系)と決めているのです。

写真は本日立ち寄った行き付け店の一品、季節限定品の「秋刀魚蒲焼丼」なり。「蒲焼」というのは不当表示であり実は「揚げて」あるのだが、そんな秋刀魚の半切身揚げがどーんと3つ乗っている、豪快さも満腹感も併せ持った代物である。ちなみに同ランチ店舗は夕刻後には立ち飲み店舗に模様替えされて、なかなかの繁盛店でもある。

おいらの昼食タイムの後半即ち大体立ち食いの後は、公園のベンチで読書タイムと決め込んでいる。村上春樹、糸井重里、天童荒太、等々を白昼のベンチで活字を追うのも悪くない。時々は雨露に襲われる日があり、銀座某交差点界隈の「PRONT」で雨露を避ける。そこでは大衆的スパゲティなどをかっ食らう、否、かっ食らうのは立ち食いランチ丼の話であり、スパゲティの場合などは雨を愛ながらしっとりと優雅なイタリアンランチタイムを過ごすのである。

糸井重里の「ほぼ日刊イトイ新聞」

数多ある我が国のIT事業の中で、おいらが今最も注目しているのが、糸井重里が主宰している、ご存知「ほぼ日刊イトイ新聞」である。「ほぼ日」更新していこうという無謀な取り組みも、糸井重里の「ほぼ日刊イトイ新聞」に触発されたからにほかならない。

http://www.1101.com/index.html

改めて指摘するまでもないが、ITバブル崩壊後の今なお、旺盛なる企画力で、様々な試みを実現させているサイトである。今なお「1日120万件」のアクセスを誇るというのだから、マンモス凄ピー!な、モデルとするべきサイトである。

かつて、「ビッグな」(これも糸井さんの妙なるコピー力の賜物か)矢沢永吉の「成り上がりをゴーストライターとしてまとめたり、「TOKIO」の作詞により沢田研二の人気に活を入れたという実績もあり、そのディレクター的才能には畏敬の念を禁じ得なかったものである。世界の村上春樹さんとのコラボレーション的著作「夢で会いましょう」も、発想力が見事である。思想界の巨人こと吉本隆明との長き交流から生まれた、コラボレーションなどは、現在の「ほぼ日刊イトイ新聞」の目玉的企画として大きく成長させたものとなった。

「ほぼ日刊イトイ新聞」のベースとなっているのは、豊富でありかつ強靭な人脈であろう。豊富な実力派執筆陣によるコラムは、同サイトになくてはならないものであるとともに、糸井さんとのコラボレーション的色付けされたものとして目に映される。味付けの妙がその後ろに隠されているようだ。おいらも現在、彼のディレクションの方法論などを分析中なのである。

「プロバンス アーチプランター」購入

これから何を置こうかと思案中。

これから何を置こうかと思案中。車輪が可愛いでしょ。

本日、地元のリサイクルショップに足を運んでいたところ、「プロバンス アーチプランター」という鉄製の置物が眼に入ったので、衝動買いをしてしまったのでした。プランターを並べて飾るインテリア商品のようです。幅2メートルくらいの大きさだったので、配送料を払って運んでもらいました。これから何を置こうかと思案中。自転車の車輪が可愛いでしょう。

天童荒太の「悼む人」読了

先日、知人から借りていた「悼む人」を読了した。

まずひと言。大衆小説の突破口を開いたともいえる作品ではないか、という印象を抱いた。

先日も書いたが、主人公の静人が、報道や口伝で知った死者を追って、「悼む」ことを続けていくというストーリーがこの小説の基本的な設定である。キャラクター設定の意外性が、その一点とてしてある。ヒーローではない。かといって見下げた存在ではない。しかもキャラクターが立っている。敢えて証明しなければならない過去の事実や、社会的立場を支えるバックボーンも見えてこない。まるでこの世に居そうもない設定ゆえのことから来る、意外性の設定に成功している。

「死」をテーマにした作品としてまず浮かぶのは、写真家・藤原新也が著した「メメントモリ」である。ここでは著者の放つ圧倒的な死の世界観に威圧されたり、近づくことを拒絶される不可知性が存在するが、「悼む人」にはそのようなものはない。ただ近づきたくないから離れている、適度な距離を保って接しているだけである。それが読者に跳ね返ったとき、「悼む人」は鏡のような存在なのかと納得するのだろう。

推理小説仕立ての展開からバックボーンを追っていたら、決してこの読了感は生まれなかっただろう。最後まで、主人公の静人の内面には取り込まれることなく、しかも清々しい読了感は、確かに残っている。

「謝辞」として記された本のあとがきには、7年かけて仕上げた作品とある。終末医療の現場やDVに関する細密な現場取材を経て書かれたことが察せられる、力作である。作者・天童荒太の詳細なプロフィールは目にしていないが、おそらくマスコミ報道の現場で修行したであろう著者の過去が、重なって浮かんでくる。嫌われ者記者・蒔野抗太郎の姿は、作者が接した誰かをモデルにしているはずだが、作家本人の姿と感じ取れないのもまた、意外性の設定の成果だろう。

一見まがもの、食べて納得の一品

地元居酒屋で、またまた見つけた一品である。

真っ黒に化粧された、その名も「ばくだん」

真っ黒に化粧された、その名も「ばくだん」

中を開けば、ピータンが丸ごとひとつ

中を開けば、ピータンが丸ごとひとつ

 

メニューには「ばくだん」とあった。真っ黒な揚げ物という説明書きとともに。黒いピータンが、真っ黒になって出てきた。いかもこってりと甘いたれに囲まれて出てきたのである。もともとあの臭みが好きだった「ピータン」だから、このようにアレンジされたらピータンらしくはない。極めて大衆的な発想の、創作料理である。