鳩山由紀夫首相スピーチにおける「正」と「邪」

twitterにて鳩山由紀夫首相をフォローしている(フォローされてもいる)せいだか知らぬが、首相の施政方針演説の内容が気にかかって仕様がない。「命を守る政治」を声高々に宣言したということはマスコミの報道で知ったが、その内容の詳細についてはなかなか詳細が伝わってこなかったのである。具体的なイメージが、いまいちピンと来ないのだ。

あらためて全文を読み進めてみたのであるが、これはまっとうな政治宣言である。これくらいに高々く宣言をした政治家は、近頃の我が国首相のスピーチにはたえてなかったのではないかと感じ取れるくらいに、首尾一貫している。鳩山首相が以前に発表したとされ、米国マスコミに勝手に引用され叩かれていた某論文ほどのインパクトと正道性は失せたが、それでも一国の首相の演説に値する何かはある。なかなか政治的メッセージとしての読み応えは確かにある。

この演説に関して、平田オリザなる人物が関与している。彼がスピーチライター的な役割を担っているという報道もある。平田オリザ氏が苦学して国際基督教大学を卒業したのち、演劇の世界などで活躍中の人物であるということは周知である。少し前にはTBSのニュース番組のコメンテータとして出演していたこともあり、興味深く、かつ有能な人物であるのだろう。ちなみに「晩聲社」という出版社から多くの著作を著していたことなど今知ることとなり、あらためて読んでみたいと思っていた次第である。

鳩山首相のスピーチ内容については関係者により精査したものであろうことから、ここでは徒な助言は避けるつもりであるが、スピーチの方法、演技指導にまで平田氏の助言が回っていたとすれば、これはちと首を傾げざるを得ないのである。以下に、今回の鳩山首相施政方針演説における、演出上の誤ったポイントについて2点ほど指摘しておきたい。

1.クライマックスにあたり、前を見据えて大声を発するという手法は邪道である。

この手法は、田中角栄、小泉純一郎がかつて成果を博していた手法なのであるが、鳩山さんには決して似合わないのであります。そのことを自覚した方が良いと思うなり。この手法は悪くするとヒトラーを想起されるものでもある。ちなみに弟の邦夫さんは田中角栄さんの秘書もされていたということなので、その影響が未だに尾を引いているのかなどと思ってもみたのです。悪しき影響などなければ良いのだが。

2.ガンジー師に対する尊敬の念を表明するのは賛成だが。

日本の政治について言及するに当たっては、やはり日本人について述べていただきたい。例えば、良寛、親鸞、といった日本の仏教家や芥川龍之介、太宰治、萩原朔太郎、永井荷風、などなど、その深甚なる世界観を引用することが日本人の有権者にとってはどれだけ訴えかけることになるのか、多分、平田氏は思いもつかないことだったのであろう。

春の訪れを告げる、ふきのとうの天麩羅を食す

行き付けの店で飲んでいたらメニューに「ふきのとうの天麩羅」とあったので、早速注文してみました。

むかしはどこでも自生していたとされるふきのとうであり、かつておいらが小金井市に住んでいた頃には、自生のふきのとうを見つけては、友人たちに天麩羅料理を振る舞っていたものである。だが近頃はとんとふきのとうの発芽する芽を見かけなくなっていた。こうして特別な食材を用いた特別な料理にありつけるのは、とても嬉しきことなり。

私はいつも都会をもとめる[西荻窪「ほびっと村」編]

途中下車して駆け込んでみる酒場の光景も悪くない。通りすがりの者ですがと、注文しながらやり取りする会話が盛り上がることもあれば、他所者扱いされて白けるケースも少なくない。地元意識が強い小さな駅前の一杯飲み屋などには、その傾向が強いだろう。中央線沿線の「西荻窪」などはその典型だろうか?

今宵はふと、探検家気分になり、西荻窪にて途中下車してみたのであります。西荻窪と云えば、南口を降りて徒歩3~4分のところには「ほびっと村」というユニークなカルチャー施設がある。1階は自然食栽培にこだわった八百屋である。2階が食事処である。そして3階は本屋とイベントスペースで占められている。本屋といえどもここには、どこにでも売っている種類の本はほとんど置いていない。独特な品揃えが特徴のオンリーワン書店である。かつてこの書店にて「とろん」の本を購入したことがあった。そしてとろんの口利きで写真展を開いたこともあった。

http://www.nabra.co.jp/hobbit/hobbit_mura.htm

もう10年も昔の話になるが、この施設の踊り場スペースを借り切って、彼女と二人展を開いたことがあったのである。展覧会タイトルは確か、「祭りで出遭ったアーティストたち」。とろん、きらきら、高田渡、花&フェノミナン、エトセトラのアーティストたちを撮影した写真を展示したのだが、初日のオープニングパーティーには、2階の食事処を埋め尽くすくらい大勢の参加者でごった返したという想い出がよみがえってくる。オープニングパーティー後のアキンと某同窓生との二次会では、西荻駅前の赤提灯酒場で酒を喰らい、酔ってトイレに出たが最後は迷い続けてしまい、手荷物も置いたままほうほうの体で自宅に彷徨い帰ったという苦々しい想い出も、ぎゅうぎゅうに詰まっているところなのである。ちなみにおいらにとっては大切だった手荷物を、わざわざタクシーで遠回りして届けてくれたのは、アキンではなく某同窓生であった。感謝、多謝、謝謝なのである。

過ぎ行く冬を惜しんで「鍋」考現学なのだ

人間にとっての厳しい季節である冬も、あともう少しで通り過ぎようとしている。昼間ポツポツと降りかかっていた雨も上がり、何やら生暖かい空気が吾が身を包んでいた宵なり。一杯やろうかと立ち寄った店にて食したのは「餃子鍋」であった。

鶏がらの出汁をベースにした濃い目のスープに大型の餃子と白菜などの野菜類、それに白滝風の麺が顔を覗かせている。肉や魚が無いぶん、それだけカロリーも低く抑えられ、しかも存分に鍋を食した気分になれるのである。ありそうでなかった鍋のアールヌーボーと云って良いだろう。

昨今の鍋事情を振り返って、ベスト5を挙げてみれば、次のようになるだろうか?

1 アンコウ鍋(やはりこれは別格)
2 テッチリ鍋(やはりこれも別格)
3 しょっつる鍋(これまた絶品の相性なのだ)
4 ほうとう鍋(味噌と南瓜の相性が○なのだ)
5 餃子鍋(中華スープの鍋が○なのだ)

その他の多くの鍋類(寄せ鍋、ちゃんこ鍋、モツ鍋、カレー鍋、トマト鍋、火鍋、おでん鍋、芋煮鍋、等々その他諸々)に関してはおしなべてごった煮風の鍋であるゆえ、評価の対象外とさせていただきました。

保守王国「群馬」の県民性は保守的にあらず

郷里に愛着を持つものがいれば、そんなものいらないというものもいる。先日は、新井満氏の随筆集「死んだら風に生まれかわる」を読んでいて、彼の強烈な「新潟」への郷土愛をこれでもかと云うほど目にとどめつつ感じ入ったのではあったが、吾が身を翻って思うに、そんな郷土愛がいささか薄いということを感じてもいるのである。

先日もここで書いたのだが、新井満氏が挙げている新潟県的人間は、良寛、坂口安吾、そして田中角栄である。これに習えば群馬県人的人間とは、国定忠治、萩原朔太郎、そして福田赳夫ということになるだろう。この3人を並べて見て、敬愛する朔太郎さん以外の2名にはとてもいけ好かない。郷里の恥と云ってはなんだが、ネガティブな思いしか抱かないのだ。

かつて田中角栄と総理大臣の椅子を争った福田赳夫は、東大法学部を首席で卒業したのち大蔵省へ入省する。大蔵省主計局長だった当時、収賄罪の容疑で逮捕されたことがきっかけとなり政治の世界へと入ったという。彼の出身校の高崎高校(旧制高崎中学)には、「福田の前に福田なく、福田の後に福田なし」といった、福田赳夫を称えるうたが詠まれるくらいなのである。保守本流のエリート政治家を輩出した風土は、群馬県の高崎に根差していると云えよう。だがこれにて群馬県人の多くが福田を尊敬しているかといえば、そんなことなど決してない。敵方強かれば己もまた強くなりである。却って反保守、脱保守の論陣をこの地で培ったという人間は多いのである。

おいらの出身校である前橋高校(旧制前橋中学を含む)では、田辺誠元委員長ら、かつての野党社会党の代議士を多数輩出している。過去に福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三の3名の衆議院議員を同時に選出していた群馬3区でもう1人、当選者としていた山口鶴男もまた前橋出身であった。しかるにおいらの出身地・前橋は、反保守、脱保守の気風は少なからずあったのである。邪道・高崎に対して、正道・前橋の気風である。

本谷有希子の奇書「生きてるだけで、愛。」を読む

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映画「渋谷」つながりで読みかけていた「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」を途中で放り出した。ストーリーが判っている本に向かって熱中することができなかったのである。だがその代わりに読み始めていた「生きてるだけで、愛。」にはまったのでした。

いやいや作品としてはこちらの方が断然上である。奇書的傑作とでも呼んだら良いのだろうか? 鬱病持ちで奇行の目立つ女主人公寧子と零細出版社の編集長男性とのドロドロの恋愛絵巻なのだが、ストーリーのはちゃ滅茶ぶりとは裏腹に、妙に訴えてくるリアルが確かに存在する。

例えば太宰治の「ヴィヨンの妻」はといえば、破天荒な夫に振り廻され翻弄される妻の姿を描いた傑作であるが、この男女の関係性を反転してみたらこうなるであろう、不思議に生々しいリアリティがそこにはあるのだ。本谷有希子さんには「女太宰治」の称号を差し上げたいくらいである。

女の身勝手な衝動に振り廻される男の姿は、一面で滑稽であり痛々しい。だが男の何処かには、特別な女に振り廻されたい的願望が巣喰っていることも見逃すことはできない。いつかは壊れてしまうかもしれない、否きっとそのうち、崩壊するであろう、決して甘くはない肥大した、恋愛という対幻想の姿かたちを、この奇書的傑作は写し示してくれるのである。

mixi vs twitterの勝者は?

「週刊ダイヤモンド」ではtwitter特集をやっている。おいらも今年に入って始めたばかりのtwitterであるが、いつの間にやら三日坊主モードに突入気味なり。そんなこんなでもう少し、twitterとやらにこだわって、可愛がってみたいな、等という邪心を持って、雑誌を購入して読んでみたのでありました。

“嫌悪度No.1”と云っても過言ではない勝間和代のあの嫌味な肖像が誌面を飾っていたのには辟易したのであるが、おいらも大人である。そんなことばかりは云っていられない。達人などと持ち上げられた「上級編」を飛ばし読みして読了した。

一読した限りでは、やはりおいらの場合はまずはフォローする人の数が少ないこと、そして、検索を役立てていないこと、等々、まだ未熟なところが多々ある。そんなことは判りきっているのであるが、そこを乗り越えていざtwitter名人を目指そうという気になるかどうかは、はてな、未知数と云わざるを得ないのである。

ところでこの「週刊ダイヤモンド」特集の記事の中でもっとも関心を抱いたのが、twitterとmixiらSNSサービスとを比較した囲み記事であった。約1800万人の会員を有するmixiに対してtwitterのユーザーは500万人。3分の1以下のメディアであるtwitterに対して、それでもSNS陣営は脅威に感じているというのだ。「ミクシーボイス」「アメーバなう」等といった、ほとんどtwitterのもの真似に等しいシステムを投入したことこそ、その本気度を物語っていると云えそうだ。果たしてどちらが勝者となるのか? 外野席から興味深く見つめて行きたいものである。

フランス大使館の「NO MAN’S LAND」は大賑わい

フランス大使館旧庁舎にて去年末から続いているアートの祭典「NO MAN’S LAND」を再訪した。前回は陽が落ちた後の時間帯に訪問したので、昼の展示会場をぜひ見たいと思っていたのだ。

http://www.ambafrance-jp.org/nomansland

会場に着いたらびっくり。入場制限が出来るほどの大賑わい、大人気である。200名かそれ以上並んでいただろうか、長蛇の列なのである。前回は暗くて気付かなかった会場入口に設置されたダンボール製の門を潜る。ハッポースチロール等の素材を駆使したオブジェで混沌を表現した、ジャン・デュビュッフェを彷彿とさせるが、スケールはこちらのほうが上であろう。コンコンと門を叩くと、ダンボールの軽くてスカスカの質感が応えるのだ。そのギャップが面白い。

30分くらい並んだだろうか、やっと門を潜ると手前の棟はパスして正面奥の本棟へと向かう。前回は制作途中で進行が気になっていた作家の部屋を覗く。イメージさせるアートが、室内の壁全体に広がっている。都会を女子大生風のギャルたちがさかんに感心している光景が目に付く。こんな展示に接すること自体がまれな経験なのだろう。旧大使館の事務室、廊下、階段、踊り場など、いたる場所がアートの空間となっているのだ。

著名な建築家、ジョゼフ・ベルモンの設計による旧庁舎は、今月末までのイベントを終えると取り壊される。設計者にとっても大変満足なイベントとなったことであろう。日本のアーティスト、アート関係者もこのイベントの成功に見習いたいものである。

「腑抜けども悲しみの愛を見せろ」レビュー 1

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映画化された本谷有希子のこの本、なかなか良い感じですってところです。先日、amazonにて注文した書籍が届いたので、早速読み進めているところであります。

「あたしは特別な人間なのだ。」というコピー、ありそうでいてこれまではなかったように思う。表紙イメージは、文庫本がカラーなのに対して書籍本のほうはモノクロイメージにて統一されている。中味をみてから評価してください的な、いわば高飛車的な匂いも感じさせる表題ではある。

激戦区銀座の「博多天神」とんこつラーメン

久々に、銀座のランチにまつわる話題をエントリー。

意外に思われるかも知れないが、銀座は博多ラーメンの激戦区である。おいらも1週間に1回程度はトンコツこってりの博多ラーメン店へと足を運んでいる。そんな店舗が5軒くらいはあるだろうか。中でも定番的に足を向けるのが、「博多天神」である。これでもかと云うくらいに煮込んで白濁したスープは、余計な味付けがほとんどされていなくて、そこにお好みで辛子の素的なオリジナル調味料を足して食するのが流儀である。紅ショウガやゴマもお好みで。

シンプルな「ラーメン」のほかに、トッピングされた幾つかのメニューが並ぶが、中でもお勧めなのが「きくらげラーメン」である。コリコリとした独特の食感が心地よく、不老長寿の素とも云われるきくらげがどっさりと盛られて出されるさまは、ことのほか食欲をそそる瞬間である。

余談になるが、おいらはダイエット中の為、「替え玉」は注文しない。その代わりにスープはそっくりと飲み干すのだ。コラーゲンたっぷりのスープこそ美味なり。

「渋谷」繋がりで、佐津川愛美のDVD鑑賞

藤原新也さん原作の「渋谷」を観て感動したおいらは、綾野剛とともに主役を演じた佐津川愛美さんが過去に出演していた映画のDVD「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」をレンタルして鑑賞していたのでした。

まだまだ初々しかった愛美さんは、東京に憧れる漫画家の卵の役を演じていた。眼鏡が似合うその姿は、萌え系のアイドル予備軍と云っても過言ではなさそうであった。物語は自我が肥大した女主人公の売れない元女優が田舎に帰省してからのはちゃめちゃコメディーを軸にして展開していくのだが、そんな中で主人公の妹役の愛美さんは、凛として漫画作家の王道を歩もうとする姿が、これまた共感を呼ぶのである。漫画家の描く真実は家族の馬鹿げた日常をも素材にしてしまうのかと、見方によっては非難されそうな姿ではあるが、愛美さんの演じたその姿は、はちゃめちゃな物語を凛として通り過ぎるていく。それはまさに一条の光のように敢然として貫くのである。

この映画の原作者本谷有希子は、過去には芥川賞候補になったこともある実力派であり、さらにはかの松尾スズキの弟子であったこともあるという。なんというこの繋がりの密さは! おかげでおいらは、本谷有希子さんの原作本をアマゾンにて注文してしまったという訳なのだ。

オリンパスペンE-P1の使用感は○

行きつけの居酒屋のマスターが、「今度、オリンパスペンで撮影した写真を見せて下さいよ」というので、A4サイズにプリントしてみました。オリンパスのデジカメ「ペンE-P1」で出された料理を撮影したことから、マスターも関心を寄せているのだ。最新のデジタル機器だけあり、この程度の引き伸ばしでも解像度は充分に対応している。それ以上に嬉しく感じたのが、ピントの良さである。カメラの基本はレンズなりという古典的なセオリーを、ここでまた再確認することになったのだ。

このペンを購入する前に使っていたのが、リコーの「GX100」である。この機種と比較すれば瞭然なのだが、「ペンE-P1」の方は、ピントの山がはっきりつかめるのである。ここが使い始めてからこれまで、ずっと気に入っていた大きな理由である。ちなみにおいらはカメラの「オートフォーカス」を信用していないので、できる限りマニュアルでピントを合わせて撮影している。このマニュアル撮影の勘を取り戻してくれたのも「ペンE-P1」だった。

引き合いに出してしまったリコーの「GX100」にもひと言触れておこう。こちらもリコーの「GR」「GXR」などとともに人気の機種である。とくに「GR」のほうは広角スナップに適したシャープなレンズ描写が売りとなっていて、確かにその描写力はコンパクトデジカメの多機種を圧倒している。「GX100」のほうはそれにズーム機能を持たせたいわば折衷版という捉え方もできよう。だがおいらはここで主張したいのだが、「カメラに振り回される撮影に、何の価値など有りや?」と。「GR」で撮ったとされる写真のほとんどが、確かにシャープで心地よい調べを奏でているのだが、どれもが同様のテイストしか感じさせないのだ。これはおいらにとってはまことに看過しがたい点だったのである。

常時携帯カメラにとって、ズーム機能は必須と思われ。

ニュースペーパーの新ネタ発見

ご存知、政治現象を風刺するお笑い集団「ザ・ニュースペーパー」の新ネタが見てみたいと、久々にYouTubeにて検索してみたところありました。

かつて、小泉純一郎から始まって、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と、四代続いた総理大臣の滑稽至極の物真似は、まさに抱腹絶倒させる毒々しさとリアリティーを有していたものである。丁度、政権交代前の熱気が彼らの芸のパワーを後押しさせていたともみえる過去の光景である。だがここにきて、彼らの出番は減ってしまったようなのである。

鳩山内閣の船出の前後には、また新しい「偽鳩山」が芸を披露していたものであった。だがパッとしないままに終焉を迎えたのであろうか? いくら対象を観察したところで、それ自体が芸をパワーアップさせていく原動力とはならないことを露呈させていた格好でもある。諧謔の根底には研ぎ澄まされた観察力とともに、混沌へと導く爆発力が不可欠なことを、あらためて確認するところなのである。

このままザ・ニュースペーパーが埋もれた芸人人生を歩むことにになるのか否か? それはあらたなる攻撃対象=敵を見出すことから始まっていくのであろう。

新井満著「死んだら風に生まれかわる」を読む

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都内の某TSUTAYAにて新井満氏の「死んだら風に生まれかわる」を購入した。周知のように新井氏は「宣の風になって」という曲の作詞家として一躍脚光を浴びることになった。その著者による初のエッセイ集という触れ込みでTSUTAYAに並んでいたのである。

♪ 私のお墓の前で
  泣かないでください
  そこに私はいません
  眠ってなんかいません

この大ヒット曲となった「千の風になって」を作詞(訳詩)した彼は、2003年に同タイトルの写真詩集を上梓している。それからじわじわと主に口コミで評判を呼んで、2007年の大ヒット曲となったわけである。アメリカインディアンかアポリジニかによってつくられた曲とされているのだが、このプリミティブな曲をわかりやすくしかも力強く訳し切った新井氏の手腕は見事であった。

ほどほどにエスプリの効いたエッセイが、まるで一服の清涼剤のように心地よく心に響いてくる。夫婦として、家族として、或いは他人同士として巡り合った人間との愛。はたまたそれ以上に研ぎ澄まされた熱い葛藤模様などが、よどんだ心を浄化させてくれるような一冊である。

新潟出身の著者は、同郷の名士たち―良寛、坂口安吾、田中角栄ーに対して強烈なシンパシーを抱いているようである。おいらにとっては、萩原朔太郎、福田赳夫、国定忠治といった面々が思い浮かぶが、朔太郎さんを除いてはそれほどに深い思い入れはない。この違いについては後日自己分析とともに解明していきたいと考えているのである。

ホームページの今と昔

当ブログの親ページ「みどり企画」のページは、それ以前のものからドメインを移して10年になるが、最初のデザインを変えないできた。コンテンツや項目は、ときどき追加したり入れ替えたりしてきたが、トップページは10年前のままである。HTMLの基本を覚えてページをつくったのはいいが、その後、CSS、FLASH、JavaScript、PHP、等々の華々しいスタイルが蔓延するネット界において取り残された気分なり。流石に現在の仕様には相応しからぬと感じて、リフォームが必要だと思っているのだ。

ホームページ全てをWordPressやMovableTypeでつくり上げるといった手もあるようだが、それはまた余計な制約をつくり出すことにもなるので取らないでおこう。とりあえずはCSSを使ってスタイルだけは整えておかねばなぁ。

今日はそんな事情もあり、過去に撮影した写真などを引っ張り出して整理しているところなのであります。いずれ本家のほうも改装オープンするつもりなので、その節はまた見に行ってくださいませ。

私はいつも都会をもとめる 4〔浅草ホッピー通り編〕

つい最近までは浅草の「六区」「ロック通り」等と云っていた界隈の通りが、今では「ホッピー通り」「煮込み通り」などと呼ばれているらしい。かつて浅草のストリップ劇場で芸を磨いていたビートたけしは、この辺りで出される煮込み料理には、牛や豚ではなく犬の内臓が煮込まれている等と云い放って物議をかもしていたのである。そんなことも今や昔のことに思えるくらいに、浅草ホッピー通りはすっきりとした街並みを、これ見よがしに顕示しているのである。外国人観光客のメッカとも呼べる浅草で、この通りが今まさに変貌を遂げつつあるということに、今更ながらに驚くのである。

これから下にアップする写真は、以前に訪問した際に撮影したものである。近くには伝法院通りなる観光名所もあり、こことセットで訪れる観光客のスポットとなっている。

ホッピー発祥の店でみる人間模様

 

 本日立ち寄ったのは、有楽町駅近くガード下の店舗なり。入口前には「ホッピー発祥の店」の看板が目に付く。何となく入りたくなる風情に誘われて、何度か通っている店である。入口をくぐって地階に潜れば居酒屋、半2階の階段を上がればアイリッシュパブ風の店舗が広がっている。和洋折衷なのである。

おいらの行きつけはホッピーの飲める半地階の居酒屋だ。客の半数以上がおそらくホッピーを注文している。焼酎のいわゆる「なか」を、ボトルで注文する猛者も少なくない。名物女将のおばあさんが店を取り仕切るいつもの光景。

「今日は金曜だからさあ、これから忙しくなるんだよ…」

と、愚痴とは云えない小言を述べては注文を取りにくるのだ。今日はお勧めの太刀魚の刺身と小さな里芋(何とか云うメニューの名前があったが忘れてしまった)を注文、お酒はもちろんホッピーである。

隣席では、欧米客カップルにエスコートするペラペライングリッシュの女性と合わせて3名が、豪華な刺し盛りを挟んで談笑している。脂の乗ったトロの色が刺激的である。熱弁を振るっていたのがエスコート歴も長いであろう妙齢の美女である。地下鉄線のMapを広げて、これから次に向かおうとする場所の説明をしているのであろう。GoogleMapを印刷したような地図を広げつつ、エスコートを続行中なり。酔人観察には目がないおいらは、そっとその光景を眺めていたのだが、ふとエスコート美女と目が合うと美女は、

「ちょっとすいません。この駅は何という駅ですか?」

と尋ねたのだ。Map上にある駅は「木場」。「きばですよ」と、おいらは答えた。ただそれだけのやりとりではあったが、何となくエスコート役の案内美女にシンパシーを感じた、今宵の銀座の夜であった。

松尾スズキの芥川賞落選で高まる期待

本日発表された今年上期の芥川賞・直木賞で、芥川賞には「該当作なしとなった。昨年の受賞作「」終の棲家」などといった凡作にうんざりしていたおいらは、芥川賞に対する憧れなどとうに無い。そもそも「天才」太宰治や「世界の」村上春樹を落選させてきたという負の歴史を担うのが芥川賞なのである。望まずにして名を使用された芥川龍之介先生こそはこのような歴史をなげんでいるに相違ない。

今日記しておきたいのは、候補者として名を連ねた中に「松尾スズキ」という名前を発見したこと、そして見事にも落選(2度目だそうだ)を果たしたということなのである。

あらかじめに断っておくが、おいらは今回スズキ氏が候補作となった作品を読んでいない。であるからこれから読むことになるのであるが、それが傑作であろうが駄作であろうが、そのような評価、側面とは関係なしに、考えることがあるのだ。それはいわゆるひとつの「人徳の無さ」ということだろう。

新人作家にとっては文壇に人脈を持たないことは当然であり、それ自体は不利な条件にはならないものだ。だがスズキ氏の場合、おそらくは文壇に「敵」をつくっているのではないかという推論が成り立つのである。

以前のスズキ氏の候補作「クワイエットルームへようこそ」は、精神病院を舞台に展開されるストーリーの切れ味の良さに目を瞠ったものである。そして久々に書物で接した容赦の無い人物描写には、度肝を抜かれたくらいの衝撃があった。確かにスズキ氏は才能豊かである半面で毒ガスを噴射している。この毒ガスに対する拒絶反発の動きがあったとして不思議ではない。

とりあえずは審査員たちがスズキ氏落選の弁をどう述べていたのかが興味津津の的である。「純文学ではない」「新人ではない」などといった古典的な言い草は聞けないのだろうが…。スズキ氏にはこれから、日本の文壇を蹴散らすくらいの活躍を期待するのである。

生樽ホッピーは銀座の味か?

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先日、銀座のガード下で立ち寄った居酒屋で、「生樽ホッピー」なるものに遭遇した。樽で発酵されたウイスキーみたいなホッピーかと思いきや、そうではないらしい。生ビールのようなタンクに入ったホッピーを、これまた生ビールみたいにジョッキに注いで出したものらしい。焼酎は「キンミヤ」というブランドものを使用しているとのこと。まろやかな舌触りとのど越しが心地よい。

だが残念なことに、あの純ビール(即ち発泡酒ではないビール)のような苦味が感じられないのだ。この生樽ホッピーは果たしてありやなしや?

ホッピーを飲んでいて中(なか、即ち焼酎のこと)を2杯、3杯、4杯と注文していくうちに「ちょっと酔っ払ったな…」と思うとき、外(そと、即ち焼酎を入れないビンのままのホッピー)を、ジョッキに注いでグイッと飲み干すときのあの苦味走った快感が、ホッピーならではの味わいなり。この快感は生樽ホッピーでは味わうことが出来ない。弱点もありなのである。

私はいつも都会をもとめる 3 〔渋谷篇〕

まずはじめに余談だが、今日は若手No.1の某女史に「惣領の人徳ですね」と云われて、何故だか嬉しくなってしまったおいらである。

では本題。週末の日曜日、映画「渋谷」を鑑賞する為に渋谷を訪れていたおいらは、映画が始まるまでの4~5時間、渋谷周辺を逍遥散策していた。上映会場の「ユーロスペー」は道玄坂から一歩入ったところに位置している。そこは歴としたラブホテル街である。かつて友人とともに渋谷を散策していたときその友人は「まるでシンガポールのような街並み」と称していたものである。それくらい綺麗に見えていたのだろう。だが一歩小道を入れば、決して綺麗という形容にはあたらない、雑多でドロドロとした街並みを目にすることになる。

渋谷の魅力については、おいらもまだはっきりと把握できないのだが、映画「渋谷」に出演する一少女は「ずっとこの街にいたい」と語っている。銀座のように敷居が高くなく、自分の手の届くところに、欲しいものが何でも揃っているということなのだろうか? ただしそんな生活を手にする為には、売春やらをも引き受けねばならないということの、表裏一体もまた、渋谷という街が抱えている事実なのだろう。

藤原新也さんの「渋谷」が発表された当時のころのおいらは、その本を購入することを躊躇っていた。いわゆる風俗レポートの一種ではないかと誤解していたようである。その少し前には、家田詔子の風俗本を読んでは辟易していた。また村上龍の小説にも渋谷ギャルなどが登場していたが、どうにも読み進むのに躊躇を感じていた。この違和感が何だったのだろうかは分析途中なのだが、きっと、風俗レポートなるノンフィクションやらフィクションやらが、受け入れ難き風俗の跋扈を助長されていたことへの抵抗だったと思う。だがしかしながら藤原新也さんの「渋谷」のような、素晴らしいドキュメントが、確かに存在していたことを大変嬉しく感じているのである。