瀬戸内寂聴&藤原新也による往復書簡「若き日に薔薇を摘め」は名書の名に相応しい

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雑誌「the 寂聴」に連載されていた瀬戸内寂聴&藤原新也による往復書簡をまとめた「若き日に薔薇を摘め」という書籍が発刊されている。

かつて数年前に「the 寂聴」という隔月の雑誌が発刊されたことは、おいらにとっても特筆される出来事であった。「the 寂聴」の素晴らしさについては、当ブログにても紹介していたことがある。

■瀬戸内寂聴責任編集の「the 寂聴」はとても面白い雑誌です http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=1354

雑誌「the 寂聴」にて連載されていた、瀬戸内寂聴&藤原新也による往復書簡の文章をまとめて発刊されたのが「若き日に薔薇を摘め」である。

表題に採用されたセンテンスには奥深い意味が込められているようだ。寂聴さんが法話で述べられた一節にこの文があったというようだが、捉えられる意味合いは一様ではない。一つには、真っ赤な薔薇の花を鷲づかみにして、挫折と屈辱という棘に刺されて血だらけに成れ、といった威勢の良い解釈もあるが、こと同書の持つ意味合いはといえば少々異なっているのだ。

バラというのは恋。バラには棘がある。摘めば指を傷つけてしまう。恋をすると人は必ず傷つく。それが怖くて恋に臆病になる。若い時は、傷はすぐに治る。だけど年を取るとなかなか治らない。だから若い時に思う存分バラを摘んでおきなさい。--云々ということを述べられている。恋に生き愛に殉じた寂聴さんならではの見解ではあり、天晴至極なのである。

当往復書簡集を上梓するにあたり、様々な紆余曲折が存在していたこと、或いは、当事者たちの個人的な情意的なあれこれが存在していたこと、等々は、「the 寂聴」という特異な雑誌を実現化させたことにとっては有意な条件であった。そして、そんな条件が同書をとても有意な存在感を獲得することをサポートしていたのである。

 

すなわち以上に述べたようなことなのであり、けだし瀬戸内寂聴&藤原新也による往復書簡をまとめた「若き日に薔薇を摘め」はまさしく名書の名に相応しいのである。

AKB48を目の前にして「色即是空」と激書した藤原新也さんの慧眼

先日まで開催されていた藤原新也さんの「書行無常」展会場にて、同タイトルの写真集「書行無常」(集英社刊)を購入していた。

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藤原新也さんの書籍のほとんどに共通するように、先ずは彼の「写真」の力に圧倒されたのだ。これは例えば「作品」だとか「写真作品」とか「視覚作品」とかあるいは「ビジュアル」とか「ビジョン」とか「コンセプト」とか…その他諸々の表現媒体ではなくして、確かに「写真」の力によるものなのだ。

新也さんの作品に接するたびに何度もこのことを何度も確認してきた。そして今回もまた、彼の「写真」作品による力に、心底圧倒されてしまったと云う訳なのだ。

ところで今回購入した「書行無常」でも、写真とエッセイとで構成されているのは、新也さんのほとんどのパターンを踏襲している。テーマは予想以上に多岐に及んでいた。

そんな幅広いテーマの中でおいらが最初に注目したのが「AKB48劇場」であった。秋葉原のドンキホーテ内の会場からデビューした、所謂普通の女の子達のグループが、今や途轍もないくらいの人気を博してしまったという、そんな今時のギャル達の実態をテーマに取材・撮影に及んだと思われる。

―――
たかが少女とあなどれない。AKB48。
生きるか死ぬかの全存在をかけている。
負けてはならないと私も全存在をかけて激書した
―――

エッセイの初めに新也さんはそう書き記している。「軽く」そう記していると感じ取っていた。

そして新也さんがAKB48のメンバー達を目の前にして墨書、激書した文字は、なんと「色即是空」という一文だったのである。これは所謂パフォーマンス的にも、甚大に注目に値する出来事、あるいはニュースであると云ってよかった。

(この稿は続く)

写真・言葉・書で時代を飾る、藤原新也さんの「書行無常展」が開催

今月の5日より27日まで、藤原新也さんの「藤原新也の現在 書行無常展」が開催されている。

■藤原新也の現在 書行無常展
2011年11月5日(土)~27日(日)
東京都千代田区外神田6-11-14
3331 Arts Chiyoda
http://3331.jp

かねてよりおいらも注目しているアートのスポット「3331 Arts Chiyoda」が会場となっている。

たしか昨年の頃より、雑誌「プレイボーイ」誌にて連載されていた新也さんの「書」にまつわるアート活動がテーマとなっていて、これまでのどんな展覧会にも似ていないつくりになっているという印象をもった。

テーマは「諸行無常」ならぬ「書行無常」である。新たに「書」というテーマを引っさげて行なった展覧会なのか? 或は関係者が企画して新也さんに提案して実現したものなのかは定かではない。

はっきりしていることの一つは、以前の新也さんのどの写真展とも異なっているのは、写真家から行動家へと少しばかり、依って立つ立ち位置を動かしたということだろう。写真家・新也さんとしての顔以上に行動家、活動家としての顔が前面に出て来ているのであり、新しい出会いであったという印象を強く抱いている。

藤原新也さんの新境地を築いた名著「コスモスの影にはいつも誰かが隠れている」

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清々しい掌編小説のような物語が重なり合って、特異な本の世界が築かれている。テーマをあえて述べるならば、「生」と「喪失」とでも云えようか? 古くから作家・藤原新也さんが追求してきた最も重要なテーマだが、その表現方法やスタイルは少々意外な感じがする。それくらいに、以前の作品群とは異質の味付けが施されているのだ。

云わば敗者の視線でこの世を解き明かす試みとでも云えようか。作家自身の市井の人々との交友が、その素材として選ばれている。新也さんの世界観が新しい素材を得て、新しい物語を紡ぎだしている。表面的なインパクトは影を潜め、代わりに立ち昇ってくるのは充溢した生の存在感だ。極めて強く共感される生の存在感が匂い立っているような、不思議な物語が詰まった、稀有な一冊なのである。

改めて記すが、藤原新也さんといえば、写真家、或いはエッセイスト、ジャーナリスト等々の顔を持つ、マルチな才能を発揮して活動を続けるアーティストである。生と死に対する洞察力は、我が国の文化人の中でも抜きん出ており、写真やドローイングという作業を通してそのイメージを可視化させている。その手技、方法論に驚かされるばかりでなく、彼の底流に流れる思想性が滲み出ていて、感動させずにはおかない。

ときに「真実」と一体として存在する世界の「闇」を、独特のイメージとして現出させたりもする。漆黒の闇を写し取ることに関していえば、藤原新也氏以外のアーティストは存在感を失っていく。世界に唯一人ともいえるくらいに、漆黒の闇の表現者としては稀有なアーティストなのだ。

藤原新也「死ぬな生きろ」を読んで思う

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藤原新也さんが上梓した新刊本「死ぬな生きろ」は、出版界のみならず様々なジャンルの人々に衝撃的に受け止められているようだ。その最たるターゲット、矛先となっているのが写真界。

「写真はアナログに限る」「フィルムの良さはデジタルには適わない」等々のアナログ至上主義の風潮は未だに根深いものがあるが、新也さんはあっさりとそうした風潮をしりぞける。

藤原新也さんは、昨今のデジタル写真の世界に対しても、積極的に関与していこうという強い意識を感じ取るのである。その為の様々な実験や研鑽を積み重ねている。その成果が新刊本「死ぬな生きろ」に凝縮されている。

さらにまた新しい試みとして「書」に取り組んでいる姿が読者にインパクトを与えている。これまでエッセイ、ドキュメント、等々のスタイルで大きな足跡を築いてきた彼だが、まったく新しい「書」という表現のジャンルを取り入れることにより、藤原さん自ら新しい表現スタイルに挑戦する意思を公にしたとも云える。余計な「意味」というものをぎりぎりまでに排除することで浮かび上がってくるもの、それを表現と呼んで良いのかわからないが、固陋な出版業界に新鮮な風を吹かせていることは明らかな事実なのである。

米寿の瀬戸内寂聴さんの念願叶った、金原ひとみとの対談

5月に発売された雑誌「寂聴」にて、瀬戸内寂聴さんは憧れの金原ひとみさんとの対談を実現している。以前の当ブログの日記にも記したが、寂聴さんはかねてよりの金原ひとみのファンであり良き理解者でもあり、「ハイドラ」という近作のあとがきに熱狂的な賛辞を贈っているのだ。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=1048

記事を読めば、やはりこの二人は初めての顔合わせのようである。お互いに惹かれ合い刺激され合い実現した対談であるだけに、両者とも力の篭った言葉のぶつけ合いである。金原嬢のほうがとても緊張した面持ちを、スナップショットで披露しているのが微笑ましい。やはり米寿の底力と云って良い。

寂聴さんの米寿を記念して、代表作品「美は乱調にあり」が復刊されている。装丁と題字を手掛けたのが、藤原新也さんである。一見して目を瞠った。「凄い!」の言葉を胸中に発してしまった。江戸の浮世絵が現代にワープして甦ったような、熟乱を極める世界が提示されていた。そして新也さんが自ら書したという題字もまた素晴らしい。新也さんの書にはこのとき初めて接したが、美の乱舞を形にしたような趣きなり。

雑誌「寂聴」の最新号では新也さんの「書」にスポットを当てているので、その衝撃的な体験はいや増していたのである。現在この「美は乱調にあり」を読み進めているところなり。

1978年藤原新也さんが「逍遥游記」で木村伊兵衛賞受賞。

おいらがまだ多感な時代、この1冊に出逢ってまさに震えていたことを想い出す。何か魂を震撼させるに足るオーラが、書籍の後ろから立ち上ってくるのを感じていた。「逍遥游記」(朝日新聞社)から立ち昇るかの巨大な視野から発せられるオーラが、おいらの心の中を射抜くようにして聳え立っていた。

前にも後にもこの体験に勝る写真との邂逅は無かったといってよい。太宰さんの小説文学とはまた異質なものであった。どうしてこんな写真が撮れるのだろう? おいらの疑問は解明されること無く現在も続いているのである。じゃんじゃんっと。

「渋谷」繋がりで、佐津川愛美のDVD鑑賞

藤原新也さん原作の「渋谷」を観て感動したおいらは、綾野剛とともに主役を演じた佐津川愛美さんが過去に出演していた映画のDVD「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」をレンタルして鑑賞していたのでした。

まだまだ初々しかった愛美さんは、東京に憧れる漫画家の卵の役を演じていた。眼鏡が似合うその姿は、萌え系のアイドル予備軍と云っても過言ではなさそうであった。物語は自我が肥大した女主人公の売れない元女優が田舎に帰省してからのはちゃめちゃコメディーを軸にして展開していくのだが、そんな中で主人公の妹役の愛美さんは、凛として漫画作家の王道を歩もうとする姿が、これまた共感を呼ぶのである。漫画家の描く真実は家族の馬鹿げた日常をも素材にしてしまうのかと、見方によっては非難されそうな姿ではあるが、愛美さんの演じたその姿は、はちゃめちゃな物語を凛として通り過ぎるていく。それはまさに一条の光のように敢然として貫くのである。

この映画の原作者本谷有希子は、過去には芥川賞候補になったこともある実力派であり、さらにはかの松尾スズキの弟子であったこともあるという。なんというこの繋がりの密さは! おかげでおいらは、本谷有希子さんの原作本をアマゾンにて注文してしまったという訳なのだ。

私はいつも都会をもとめる 3 〔渋谷篇〕

まずはじめに余談だが、今日は若手No.1の某女史に「惣領の人徳ですね」と云われて、何故だか嬉しくなってしまったおいらである。

では本題。週末の日曜日、映画「渋谷」を鑑賞する為に渋谷を訪れていたおいらは、映画が始まるまでの4~5時間、渋谷周辺を逍遥散策していた。上映会場の「ユーロスペー」は道玄坂から一歩入ったところに位置している。そこは歴としたラブホテル街である。かつて友人とともに渋谷を散策していたときその友人は「まるでシンガポールのような街並み」と称していたものである。それくらい綺麗に見えていたのだろう。だが一歩小道を入れば、決して綺麗という形容にはあたらない、雑多でドロドロとした街並みを目にすることになる。

渋谷の魅力については、おいらもまだはっきりと把握できないのだが、映画「渋谷」に出演する一少女は「ずっとこの街にいたい」と語っている。銀座のように敷居が高くなく、自分の手の届くところに、欲しいものが何でも揃っているということなのだろうか? ただしそんな生活を手にする為には、売春やらをも引き受けねばならないということの、表裏一体もまた、渋谷という街が抱えている事実なのだろう。

藤原新也さんの「渋谷」が発表された当時のころのおいらは、その本を購入することを躊躇っていた。いわゆる風俗レポートの一種ではないかと誤解していたようである。その少し前には、家田詔子の風俗本を読んでは辟易していた。また村上龍の小説にも渋谷ギャルなどが登場していたが、どうにも読み進むのに躊躇を感じていた。この違和感が何だったのだろうかは分析途中なのだが、きっと、風俗レポートなるノンフィクションやらフィクションやらが、受け入れ難き風俗の跋扈を助長されていたことへの抵抗だったと思う。だがしかしながら藤原新也さんの「渋谷」のような、素晴らしいドキュメントが、確かに存在していたことを大変嬉しく感じているのである。

藤原新也原作の映画「渋谷」を鑑賞

昨夜、渋谷の「ユーロスペース」という映画館で「渋谷」(藤原新也原作)を鑑賞した。メジャー系の映画と違い、製作費用も最小限のものだったという同作品は、1日1回、しかも夜間のレイトショーという不遇な扱いを受けている。だからファンにとってはそれだけ格別な思い入れ、気合が入るものなのだ。初日(9日)に観に行く予定でいたが、チケット完売とのことで当てが外れた。この日は藤原新也さんをはじめ監督、主演俳優らの舞台挨拶があった。やはり新也さんに久しぶりに会いたかった。惜しいことをしたものである。

西谷真一監督による「渋谷」のストーリーは、当然のことながら原作にかなりの手が加えられている。一遍の物語として仕上げなければならないムービーというものの宿命なのだろうが、細かなところまで目を行き届かせている(こういうのを被写体の機微というのだろう)あの原作を、もっと活かせなかったものかと、いささか残念に思う。

主役の若手カメラマンを演じた綾野剛はミュージシャンの顔も持っているらしい。初々しくシャイな感性を存分に発揮している。ただ突っ込みどころは沢山あった。例えば「これが俺の全財産の半分だから」と云って少女(相手役の佐津川愛美とは別の少女)に1万円を手渡すのだが、彼が使用している写真機材その他が豪華なことをみれば、とても納得がいかない。エプソン製の高級デジカメにライカのレンズ、最新のマッキントッシュにプロ用ソフトウェア、そして渋谷に構える事務所兼用の自宅…等々。これらを揃えるとなったら、簡単に百万円はかかるだろう。

まあそんな滑稽な矛盾点をチェックしていくのも、映画の楽しみの一つである。