蝶々たちの神的ダンス

常日頃から、里山に生息する蝶々たちには特別な関心を抱いている僕なのであります。蝶々たちが飛翔して舞う姿形は、この世にあってこの世のものとも思えないくらいに、特別なダンスの舞い也。ダンスするその姿は、決して人間には真似できないほどの高貴なものなのである。

そんな前後不覚の舞いを演じる蝶々たちに魅せられ、彼らの姿を連作している今日この頃です。特に白い羽根を羽ばたかせる白い蝶々は、人間の常識では解説不能の、神領域の舞いであると言ってよいのです。特異な、しかも優雅なる舞いは、追いかけるモチーフに相応しい。ずっとずっと描き続けていきたい。そんな気持ちにさせるのです。

アンフォルメルな精霊たちの肖像

里山に棲む精霊たちは、誰も彼もが個性的な顔立ちをしている。それぞれに好みはあろうが、個人的な好みはさて置き、彼ら彼女らの顔立ちかたちに共通しているのが、アンフォルメル的容貌である。

アンフォルメル的容貌とはすなわち、不定形であり、左右非対称的であり、しかもチャーミングである。しかも彼ら彼女らは、容貌見た目に留まらずに、演技力やサービス精神が旺盛であり、堅苦しくなく柔軟でフレキシビリティに溢れている。等々と、その魅力を数え上げたら切りがないほどなのである。

願わくは、これらの肖像画に接して目にした皆さんが、精霊たちの魅力的な姿、顔かたちを思い、記憶の奥底に留めてくれることを。

豊穣の里

田舎暮らしを始めてからおよそ3年半が過ぎました。思い返せば、あっという間の3年半であったように思います。僕が棲む田舎は、決して観光地化することのない里山でありながら、様々ないのちが生まれ、そして育むという光景を目の当たりにすることの多い、特別な里山であると実感するばかりです。

「豊穣の里」シリーズとして描いている作品はまさに、こんな特別な里の現在を捉えようという思いに依っているのです。

月への階段

憧れの存在である月に向かって昇って行く。一般的にみればよく、この「月への階段」というモチーフに関しては、海面から空の月に昇るイメージで捉えがちではあるが、僕がここに描いたのは其れではなくて、僕たちが棲む里山から月に昇って行く階段のイメージなのです。その違いをまずは理解していただきたい。そして、僕自身が棲む此の土地からの権現的なる厳かな姿かたちを受け取っていただきたいと思うのであります。

妖かしの里

キャンバスにアクリル他ミクスドメディア F100号

僕がこの数年描き続けている「妖かしの里」には巨大な猛禽が棲んでいるのであります。例えば人間の社会には「能ある鷹は爪を隠す」などということわざがあるのですが、作品のモデルとなった此処に棲む鷹(或いは猛禽類の一種)は、爪を隠してはいないのです。

そんな人間世界の下世話で、しかもさもしいことわざなどとは関係なしに、野性味にあふれているのであり、だからこそその勇姿に惹かれるのであろうと思う。

この場所に登場する猛禽類は獲物たちを探っているのではなく、気高い勇者として此処の古里に存在しているのです。

音楽シリーズについて

僕が「交響曲」「ピアノ協奏曲」の音楽シリーズの連作を行なっていたのは、コロナで社会が閉塞していた時期であった。当時は外に出ることが憚れるから、終日家に籠って、クラシック曲を聴いていたのであった。今翻って思い返してみるならば、美術と音楽との融合を求めていたのだと思うのです。美術は美術のみで成り立つことは出来ず、音楽や文学や、その他諸々の人間たちの営みによって成り立っているのだということ、そんなことを再確認していたのでありました。

余談だが、少年の頃は僕もピアノを弾いていたことがあった。特段に好きな曲が有る訳でもなく、チェルニーやらブルグミュラーやらといった所謂教則本の譜面をなぞって弾いていた。あまり面白くなかったことや、母親の干渉が激しかったことなどから、自分の意志でピアノを弾くのを止めていた。翻って当時の自分自身を眺めるならば、それはある種の反抗期、第一次反抗期が作用していたと思われるのである。

夏の裸婦

キャンバス地にミクスドメディア F4号

知人の画家は、裸婦を称して「Pomona」であると、即ち、りんごの木の女神だと述べた。僕もまたその形容に同意していたところであります。旧作ではあるが、この作品を「夏の裸婦」と題してアップしたくなったのです。