荒木径惟・舟越桂「至上ノ愛像」展をみて思う母子愛の崇高さ。

「高橋コレクション日比谷」にて「至上ノ愛像」展が開催されている

http://www.takahashi-collection.com/

写真家・荒木径惟と彫刻家・舟越桂とのコラボレーション的二人展である。展示されている作品の目をひく大部分が、熊本市現代美術館で開催された「荒木径惟 熊本ララバイ」に出品された「母子像」シリーズのうちの12点となっている。幼い子供と母親とが全裸でカメラに向かい被写体となる。そうした数十組の母子像の姿をとらえた写真群の一部がこの企画展にて展示されている。すなわち「熊本ララバイ」にて作品に接することのできなかった東京人へのお披露目という要素も、この展示会が担っているというわけなのである。ちなみに「熊本ララバイ」の展示会図録は開催間もなく売り切れ完売となったそうだ。それだけ展示会としては至上の人気を博したものであった。

昨日エントリーした「アホの壁(議論の続きはまた後日)」でも触れたことだが、「アホ」とは人間社会においての潤滑油ともなり得る貴重な存在であり、愛すべき要素を持っている。人がカメラの前にて全裸になる、すなわち「アホ」になるには相応の根拠を必要とする。昔の女優であれば「芸術のため」等々の決まり文句が存在していたが、今の世の中、そんなお目出度い言葉は見当たらないのであり、「アホ」の称号を博することが必至なのである。至上の愛とはそんな俗世間のしがらみを払拭すべくパワーをもたらすものである。「熊本ララバイ」の成功がそのことを証明しているのだ。

それにつけても「至上の愛」とはよくもまあのたまったものである。日本語には「無上の愛」「極上の愛」「究極の愛」などといった同様の意味する言葉があるのだが、何故「至上」なのだろうかと、何故か拘ってしまうのである。「無上」という言葉は仏教的であまり一般的ではないし「極上」にいたっては金ピカ成り上がり的雰囲気をまとっていることなどがマイナス的要因ではある、しかも「究極」ときては人気漫画の剽窃とも疑われかねない、等々の検討過程が想像されるが、しかしながら「至上」が何故選ばれたかの根拠は定かではないのである。おそらくスタッフの誰かの入れ知恵で「無上」はこうこうで駄目、「極上」はあれこれでマイナス…的な、スタッフアドバイスが噴出したのだろうかと推測可能である。

「バカの壁」を凌駕する「アホの壁」の面白さ

[エラー: isbn:9784106103506 というアイテムは見つかりませんでした]

筒井康隆さんが「アホの壁」(新潮社新書)という書をしたためたと聞き、早速読んでみることにした。ベストセラーにもなった同じく新潮新書版の「バカの壁」に比べて、遜色ないどころか断然にこちらが「上手(うわて)」である。遥かにこちら(アホ)の方が面白いし、考えさせるネタを提供してくれている。「バカ」のほうは一段高い地位に己を置いたりすることからくる視野狭窄的観点が難点である。理科系秀才の嫌味がそこかしこに撒き散らされてあり、とても読めた代物ではない。さらに云えば自ら筆をもとらずゴーストライターの手をわずらっていることなど、とても一流の書物とは云いがたいのである。そもそも養老某のあの独りよがりの喋りは不快感のたまものである。不快文化人の筆頭が勝間和代だがそれに続く不快文化人である。こんなものらがベストセラーになるのだから、日本出版界の現状は情けないと云わざるを得ないのである。筒井さんの「アホ」には、アホに対する愛情さえ感じ取られるものとなっており、彼の筆力との相乗効果もあいまって、出色の新書版となっているのである。

それはそれとして、この「アホの壁」には、ブログ、ネット心中、等々のネット時代ならではの現象に対する考察がとても目に付き、行き届いており、とても考えされるのである。これについては後日にあらためて論ずることにしたい。(この項続く…たぶん)

満開の桜の木の下に立つと、誰でもバカに見える。(i)

タイトルに示したのは村上春樹と糸井重里との共著「夢で会いましょう」の中の、糸井さん担当の章に記された一節である。

[エラー: isbn:9784061836853 というアイテムは見つかりませんでした]

そろそろ東京も桜の見頃かと銀座の桜の咲く公園を散策したが、まだまだであった。幸いなことに満開な桜がなかったため、バカ騒ぎする人々の姿も見当たらなかったのである。春かと思えばみぞれ降る空模様に、桜のつぼみもどうしたらよいのか迷っているに違いない。現在はまだ2分咲きといったところだろうか。周囲を気にし周りに合わせる。周りを気にしてなかなか早咲き桜が後に続かないのは日本の桜だからこその光景である。

廣瀬裕子著「とっておきの気分転換」でリフレッシュ。

[エラー: isbn:4877288848 というアイテムは見つかりませんでした]

押入れの中に眠っている文庫本「とっておきの気分転換」(廣瀬裕子著)をめくって読んでみる。表題のとおり、気分が落ち込んでいる時、滅入っている時などに効く、気分転換のおすすめ本である。ハウツー本の一種と云っていいかもしれない。内容は一見、とても他愛がない。例えば「クレヨンで絵を描いてみる」「お日さま色の花を生ける」等々。55箇条の項目にわたって、具体的に気分転換のノウハウを伝授しているという訳である。なかなか一人では気分転換が出来ないときなど、この本を取り出して一押ししてもらったという経験は少なくない。

おいらはかつてさる出版関係の会にて廣瀬さんにお会いしていた。当時は出版社で書籍編集を担当されていたと記憶しているが、その穏やかな笑顔が印象的な美人編集者であった。その後独立して何冊もの著書を目にし、活字を追いながら、彼女が編み出す癒しの言葉たち、独特の筆遣いに、幾度と無く「気分転換」させてもらっているのだ。

初かつおの季節が早くも到来。

まだまだ早いかと思っていたのだが、本日はラッキーにも「初かつお」を食することができたのでした。「目に青葉、山ほととぎす、初かつお」と謳われるように、春の季節の到来を告げるもっとも顕著なる風俗こそ「初かつお」なのだからとても目出度いのです。ちなみに名乗るほどではないのだが、おいらの名前は「かつお」と云います。であるからして初かつおには大変に縁もゆかりもあっておるのです。初かつおが広まるのは東西の勝浦なのです。近々近いほうの千葉の勝浦に旅して、取りたての初かつおなどを食することなどばかり考えているところなのです。

尾崎豊を聴きながら振り返る「卒業」という名のセレモニー。

朝、晴着の若い女性を何人も見かけた。何があるのだろうかと思案していたが、「卒業」というセレモニーの日なのだということが判った。近頃の大学、短大の卒業式と云うのは大学構内ではなく巨大なホール等のイベント会場を借り切って行なわれるそうだ。きっと日本武道館やらは大盛況の1日だったことだろう。

ところで「卒業」と云えば、社会への第一歩ととらえる向きが一般的であるが、学校支配からの卒業という一面も忘れることはできない。教育という名の管理、支配に反発を抱いていたおいらにとって卒業とは、早く乗り越えるべき通過点でしかなかった。だから今振り返っても、卒業式で何を得たかはもとより何が起こり何をしたかということさえ覚えていないのである。自分とはあまりにもかけ離れたイベントであるということを、今更ながらに感じている今宵である。

それかあらぬか、今宵は尾崎豊の「卒業」を無性に聴きたくなったのである。ジーンと歌詞をかみ締めつつ聴き入っていたのである。尾崎豊はかねてよりのファンである。カラオケに行って「I Love You」「Oh My Little Girl」「シェリー」などはよく歌うが、こと「卒業」については未だに人前で歌ったことがない。何故かとも思うが「卒業」を人前で歌うには特別な勇気とやらが要るのかもしれないと感じているのだ。それくらいに大きな意味を持つ名曲である。尾崎豊はある意味での「腫れ物」であったのかも知れないと思うことがある。腫れ物にはあまり近付きたいとは思わない。だが、それだけ彼は特別な存在であったということは間違いのない事実であった。

茂木健一郎×酒井雄哉「幸せはすべて脳の中にある」

朝日新書「幸せはすべて脳の中にある」を読了。天台宗の僧侶で、7年かけて4万キロを歩くという千日回峰行を2度達成した酒井雄哉氏と、著名な脳科学者茂木健一郎氏との対談をまとめたものである。

[エラー: isbn:9784022733191 というアイテムは見つかりませんでした]

茂木がインタビュアー的に質問を投げかけ酒井がそれに答える。そして茂木がポイントで解説、というスタイルで進行する。両者とも肩肘張らずに日常の言葉をぶつけ合うのは近頃の読者層の読書嗜好性に合わせようというものだろうが、ちょいと焦点がまとまらない。書名からして焦点が見えないのだから当然なのか?

成道するために魔境に入る。

そんな感想を持ちつつ読み進めていると、上記の言葉に出逢った。偽者のなかでまがい物ばかり見せ付けられたら本物は見えてこない。魔境を通り抜けてこそ真実が見える。成道が開かれるという。

新興宗教流行りの時期に、関係者に聴かせたかった重い言葉である。学校など教育システムでは教えられない「ビジョン」を見せ付けられることで新興宗教や諸々の唱道者に惹かれてしまう若い精神に、ある種の警鐘を鳴らしている。この言葉は本物である。それにしても84歳という高齢ながら臆することなく自己の歩みを語る酒井氏の語りは、ずんとした重みで響いている。

水よりも澄んだ本格焼酎の佇まい

水よりも澄んでこくのある本格焼酎「赤兎馬」。

いきなりだが「赤兎馬(せきとば)」なる芋焼酎は絶品であった。グラス氷とともに赤兎馬を注ぐなり、甘い香りがおいらの脳味噌を直撃した。普段は甲類焼酎とホッピーとの組み合わせばかりであったが、たまには本格焼酎が欲しくなる。中国出身のお姉さんの説明によれば、この焼酎は中国名で「千里馬」というらしい。千里こと4千キロもの距離を1日にして走り去るという伝説の名馬だそうな。う~ん、思い起こすに涎…。

カンパリソーダは甘苦き恋の味がする。

♪ カンパリソーダ片手 バルコニーに立って
  風にさらわれて グラス落とした
  あの晩の 夕陽の悪戯 ♪

http://tayune.com/?pid=479061

知っている人はまず居ないだろう。かつてのシンガーソングライターこととみたゆう子さんの「蒼い風」の歌詞の一節である。メジャーではないが出身地名古屋のローカル局ではリクエストの上位にランクし、ローカル人気は沸騰したのである。おいらも過去に名古屋旅行で一泊したときにこの曲を耳にして以来、愛聴歌曲のひとつとなっている。当時所属していた会社の名古屋支局長がとみたゆう子のファンであり、彼に薦められたのがきっかけでもあった。その後、とみたさんには4~5回は取材、インタビューをしていた。公私混同も甚だしかったのである。

ともあれ当時はこんなヨーロッパ調のポップスは珍しかった。「カンパリソーダ」もまた、バーボン、スコッチ等の洋酒とは違って、程よく甘く苦く、ヨーロッパのエスプリを感じさせる飲み物であった。「カンパリ」というリキュールをソーダで割ったのが「カンパリソーダ」である。調べてみるとこの「カンパリ」は、ビター・オレンジ、キャラウェイ、コリアンダー、リンドウなど60種類もの原料によって作られているという。薬草類が主原料であり、未だその製造方法は公表されることがない。まさに味覚の協奏するカクテルと呼ぶのが相応しいのである。

二十代に入るか入らぬかの青春の門、大人の門を潜り抜けたばかりの頃においらは「蒼い風」と「カンパリ」に出逢った。尚かつ当時の甘苦い恋に酔っていたことを懐かしく回顧するのだ。まるで血液のような鮮赤色。苦味走った複雑な味わいがのどを潤すとき、青年の頃の甘苦い想い出は胃袋から身体全体へと巡りゆくのである。そんな甘苦い想い出を回顧するにはとっておきのリキュールなのである。

つぼみが開く瞬間こそ花の見ごろ

昨日の未明から、東京は大荒れだったらしい。らしいと書いたのは、家を出るまでそんなことは実感できなかったが、家の周りの風景が乱雑模様で散らかっていた。まるで台風一過の朝の光景に思えたのだ。しかも屋根のトタン材の一部が落ちて庭に転がっていた。慌てて屋根の修繕業者を呼ぶ羽目に。帰省する予定が急遽変更となったわけである。結局は屋根に上ってもらったところ、我が家ではなくお隣さんの家の屋根だったことが判明。普段は留守宅のお隣に、飛んだ屋根材とメッセージを置いてきたのだ。

そんなか、東京の染井吉野桜の開花宣言が発表された。例年より6日ほど早いという。昨日新宿御苑を散策したのだが、数十種類ある桜の木のほとんどに花を咲かせていた。地元の多摩でも見かけた「小彼岸桜」や「寒桜」「しだれ桜」などなど、一度に数十種類の花見見物ができる場所など、此処くらいしかないのではないか。今の季節は「染井吉野」がまだつぼみ状態で、控えめでおとなしくあり、却って桜鑑賞にはもってこいなのである。もともと江戸時代の信州高遠藩主の屋敷だったという土地柄なのか、高遠が発祥の「小彼岸桜」が勝ち誇るようにして威勢が良い。手入れも行き届いている。そんな姿がとても目に付いたのである。

本日は愛機「オリンパスペンE-P1」に「ニッコール28-85mmズーム」を装着して地元散策に出かけた。多摩の公園の桜はまだおとなしい。都心との気温差が3度程度あるというくらいだから、東京の開花宣言とはずれが生じるのだろう。どんな花もそうだが、つぼみが開くときのその移り変わりの瞬間が最も興味をそそるものである。