芸術新潮最新刊「つげ義春 マンガ表現の開拓者」号を購入

tsuge01

最新の「芸術新潮」では、デビューして60周年になる漫画家のつげ義春さんの特集が組まれている。80数頁にもおよぶ大特集で、25年以上の休筆・隠棲状態にある漫画家ことつげさんの4時間にもおよぶロング・インタビューあり、つげさん撮影の秘湯写真あり、代表作品原板の写真頁あり、等々と豊富なコンテンツに満ちていて、買わない理由が見つからなくて当然の如くに購入していた。

4時間にもおよぶロング・インタビューの中でつげさんは、意外な最近の困りごとまで述べている。元人気作家以上に伝説の作家ならではの悩みであり、休筆後もこうしたトラブルに悩まされる巨匠作家の存在感の強さにはおいら個人的に天晴の思いを強くしていたものである。

<a href=”isbn:4910033050148:l”></a>

http://www.shinchosha.co.jp/geishin/2014_01/01.html

つげ義春さんの文庫版新著「つげ義春の温泉」

[エラー: isbn:9784480429537:l というアイテムは見つかりませんでした]

旅好き、温泉好きの漫画家、つげ義春さんの文庫本としての新著である。いつもの書店にて偶然に発見して買い求めていた。

岩手、青森等々の東北地方から始まって、関東・甲信、九州・近畿の、夫々の鄙びた温泉地の写真がまとめられている。それら全ての写真の撮影者がつげ義春さんであり、そのほとんどが、東北地方の湯治場温泉地で占められている。

つげさんによる写真画といった印象の一冊である。

昭和時代の湯治場温泉地の風情が滲み出ており、平成時代の今では懐かしい、全くといって良いほど異質的な昭和の風情である。

その画質はちょっとピンボケどころか、とてもアウトフォーカスが施されており、それは古きフィルムと古き良き時代のレンズによるものであることが推察されている。

猫も杓子もデジカメの時代にあって、このようなアウトオブフォーカスなるビジョンがもたらす懐古的ビジョンにはとても引き付けられるものがある。

おいらがかつて訪れた温泉地もあれば、未だ未訪問の地の温泉地もある。東北の温泉地でもまだまだおいらが未訪問の地は多く在った。

数ある写真の中でも注目したのは、岩手県の「夏油温泉」の写真群であった。湯治の場所としての風情は格別であり、しかもすこぶる開放的である。今年もまた「夏油温泉」を訪れたくなってしまった。

つげ義春「無能の人・日の戯れ」にみる優雅なヒモ生活

 [エラー: isbn:9784101328133 というアイテムは見つかりませんでした]

近頃は書店に出向いても中々、読みたい本には出くわすことが少なくなった。殊に「人気作家コーナー」「売上ベスト◎◎」といったコーナーを覗くたびに、そんな思いを強くするばかりなり。知人の紹介や書評で興味を抱いた書籍は、Amazonで注文した方が手っ取り早く、無駄な時間を過ごすことも無い。

では一体おいらが読みたかったものは何なのか? と自問自答してみて押入れから取り出したのが、つげ義春さんの「無能の人・日の戯れ」という一冊だった。ご存知、古典的漫画の一冊である。「ねじ式」という作品で著者・つげ義春さんはカルト的な人気・評価を博した後に、かなりの年月を経て発表された作品集となっている。

名作「ねじ式」により、奇才的漫画家としての評価を磐石とさせたつげ義春さんではあったが、その後の生活はといえば、順風満帆だったとは云い難かったようである。漫画の依頼注文も無くなり、生活のかてのほとんどは奥さんが賄っていたらしい。いわばヒモ的な日々の戯れを本書ではモチーフとしている。それは世の男にとってはとても羨ましい。羨望の的と云ってよい。おそらく世の男性の多くがこんなヒモ的な生活に憧れを抱いているのではなかろうか? 

だが誰もがこんな生活が出来る訳ではなくして、ヒモになれる限られた男でしかない。経済的無力でありながらかつ男としての営為を発揮する。そのようなヒモ的資質は特権的なものである。かつてのとろん、高田渡、…その生活を謳歌したのは、ほとんど限られた特別な人間でしかなかったのだ。

「染み入る」本が中々見つからない

さてこの古典的書物を読みたくなった理由を自問して、おいらは心に染み入る本を求めていることに今更ながらに気付いたと云ってよい。「染み入る本」と書いたのは、近頃のベストセラー本にはそうした「染み入る」要素を認め難いという認識を抱いているからに他ならない。

東野圭吾、宮部みゆき、江國香織、市川拓司、桜庭一樹、等々といった当代ベストセラー作家達には、エンターティメント的上手さや時流に乗った嗅覚の見事さを感じるが、それ以外の「染み入る」要素が感じられないのである。作家それぞれに対しては別段に嫌味な評価はするつもりもないのだが、やはり読書欲を刺激されるものでは無くなってしまった。

決して貧困と呼べないつげ義春の「貧困旅行記」

「この本、すっごく面白いですよ…」

とマスター云われて読んでいたのが左の書籍。図らずもつげ義春さんの本のレビューを続けることになってしまった。行きつけの居酒屋のマスターはつげ義春のファンであり、店内の書棚には何冊かつげさんの本が陳列されている。先日はその中から「貧困旅行記」(晶文社刊)なる一冊をお借りして読み終わったところである。

確かに面白い。「蒸発旅日記」という第1章の書き出しでは、九州に旅行したときのことを記しているのだが、一面識も無かった九州の女性と結婚して九州に住み着くつもりであるということが書かれていて、緩くだが驚かされる。嘘か冗談かと思いつつも、つげさんの旅日記の記述には気負うところなど無く淡々と進められていくために、いつの間にか「それもあるかな…」というつげ世界の住人にされてしまうのである。緩い衝撃の後には、ストリップ小屋でのあれこれやら見込み結婚相手の女性との関係やらが綴られていき、結局は日常生活にあっけなく戻ってきてしまう。ただその戻り方は、旅というものを通り過ぎた後だけに、それまでの日常とは異質な世界となって立ちはだかってしまうのだ。

第2章からは、漫画家として名をなし所帯を持った生活者としての旅行記が綴られていくが、前作の「つげ義春とぼく」に示されていた若き頃の旅とは異なり、房総、奥多摩、甲州、箱根、伊豆など、近場の旅行記が中心となっている。妻子という同伴者が居れば無頼の旅を続けるのは不可能ということなのだろう。ただ、いつかは鄙びた鉱泉(温泉ではなく)を買って老後を鉱泉の親父として過ごしたいという願望を胸に、近場の鉱泉宿を訪ね歩く姿はジーンとさせるものがある。彼は今では叶わぬ夢として老後を送っているのかと思うとやるせなくなってくる。

「貧困旅行記」とは云いながらも、鎌倉の骨董屋で6万7000円もする千手観音像を買ったり、1万円以上の名旅館に宿泊したりと、おいらから見ればとても「貧困旅行」には見えねえやと呟きたくなるのは、果たしておいらのひがみなのか。

つげ義春の夢世界 [2] 秘湯の今昔物語

つげ義春さんが夢見た秘湯の風景はある種の桃源郷とも呼ぶべき異郷の姿を示しているが、彼が旅して訪れた現実の温泉地はさらにまた、理想的桃源郷的佇まいを示してくれている。おいらも訪れたことのある東北の温泉地は、夢と現とがない交ぜになった異郷の姿でもある。そんな中から特に二つをご紹介。

■夏油温泉

夏の油と書いて「げとう」と読ませる。その名の所以についてWikipediaでは、「『夏油』とはアイヌ語の『グットオ(崖のあるところ)』が語源とされる。」と記されているが定かなものでは無い。ただ北上の町からは遠く離れた崖の中に存在する温泉であるというのは事実である。つげさんの本では夏油温泉について、次のような書き出しから紹介されている。

「夏油温泉は、これまでの旅行案内書には、北上駅からバスで一時間、さらに徒歩三時間と紹介されているので秘湯めくが、現在は、林道を利用して湯治場まで車ではいれる。(…)」

車で行けるから秘湯で無いというのは些か暴論である。林道と云っても車同士がすれ違うことさえ困難な狭い砂利道であり、車輪をすべられたら最後、渓谷に転落しかねない危険な山道である。今でも地元の案内書などでは、運転に自信の無いドライバーは決して自家用車を運転して来ないようにと、注意を喚起しているくらいである。今なお秘湯の風情を湛えた数少ない温泉地なのである。

質素な自炊棟が並ぶ湯治場なのだが、なんとつげさんが訪れたときには「六百人のおばあさんが泊っていた」と記されているのだから驚きである。一体こんな狭い温泉宿に六百人もの高齢者が集えるのだろうかという素朴な疑問も生じてしまう。おいらも何度かこの鄙びた温泉宿にて湯治を経験しているのだが、夏のピーク時でも300人も入れば一杯に溢れてしまうだろうと考えられる。ごろ寝が常識であった昔は、狭い部屋にぎゅうぎゅうに床を並べて湯治を行なっていたということなのだろうか?

この温泉地には大小8つ程度のかけ流し温泉が存在し、そのほとんどが露天風呂である。老若男女が裸で露天風呂のはしごをするという光景が、なんとも自然に感じるのだ。都会に生活していることを不自然に感じさせるくらいの、当温泉地ならではの独特な地場のエネルギーを発しているのである。

■黒湯温泉

秋田の乳頭温泉郷の奥にある。鶴の湯温泉が人気だが、鄙びた秘湯の佇まいは黒湯温泉が上手である。つげ義春さんの画に文を寄せた詩人の正津勉は、黒湯温泉を訪ねるにあたり、柳田國男の「雪国の春」という文庫本を携えてのぞんだという。

「おもうに、その錯覚も柳翁のこの小冊への偏愛が一瞬間かいまみせた蜃気楼とでもあるいは説明もつくが、そこへどうしてすーとわたしが誘われていったものか。可笑しい。」」(正津勉)

男同士2人で何を語り、そして何を感じ取ったのか。蜃気楼と見えていた夢の世界が、秋田の雪国に現存していたことを喜んだのはなかろうか?

70年代的エロスとタナトスが交錯する、つげ義春の夢世界 [1]

  [エラー: isbn:4794959052 というアイテムは見つかりませんでした]

「夢」というのは通常、夜間睡眠時に限定された無意識の世界にて羽根を拡げて、朝の目覚めとともに消失していく類いのものだが、つげ義春さんの描く夢の世界は、昼間の覚醒の世界にまで侵入して人々の記憶に強烈な痕跡を焼き付けていく。

1968年に発表されたつげ義春さんの代表作「ねじ式」は、漫画界のみならず日本の極一部の愛好家に熱狂的に受け入れられたという傑作である。70年代に入ってからこの作品に接したおいらのそのときの衝撃は、今なお忘れ得ない漫画体験となって刻まれたのである。それは、「鉄腕アトム」から「巨人の星」等々と繋がる漫画読書体験とは質的に異なる、全く新しい体験であった。

最近になって、ある古書フェアーの会場で「つげ義春とぼく」というユニークなタイトルの古書に触れ、彼の描いた深遠な夢の世界の想い出が、また甦ってきたのだった。著者はつげ義春さん本人である。書名タイトルに関する考察は本日はスルーする。彼は日本全国、鄙びた温泉地を中心に多くの旅を経験してきたが「つげ義春とぼく」は、そんな旅の想い出などのあれこれを絵と文章にてまとめた1冊である。思えばかつて、いくつかの雑誌でつげさんの旅行記を目にして必死に立ち読みなどをしていた少年時代を懐かしく回顧するのだ。

誰が記述したものかは知らないが、Wikipediaの「つげ義春」のページには、ほぼこの本に書かれている内容が転記されていた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%92%E7%BE%A9%E6%98%A5

(この稿は続く)