村上春樹さんの新作「女のいない男たち」を読む(其の2)

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甘酸っぱい香りがぷんぷん漂う当書籍掌編小説のスタイルは村上春樹作品に特有のものではあるに違いないが、掌編集の中の「女のいない男たち」という作品に限ってみれば、春樹さん個人の肉声が詰まったあたかもエッセイのように語りかけてきたのだった。おいらにとっては不意打ちの如き想定外の驚きを伴って襲い来た体験ではあった。軽々とした物語を紡いでいる春樹ワールドとは異質の何か、小説世界のビジョンとはまた別種の世界観のようなものを訴えかけた作品のように受け止められていたのである。

そもそも本書籍にまとめられた作品を含む春樹さんの近作諸々に関しては、近い将来に春樹さんがノーベル文学賞を受賞し得るか否かの判断材料ともなる極めて重大な意味を持つ作品たちなのである。であるから尚更に、扱うテーマに関しては重大な要素を伴うものとなっている。誰かも知れぬ欧米出身のノーベル賞審査員たちの支持を得るものであるのか否かには否応にも関心を抱かずには居られないのだ。もしかしてこれらの春樹さんの近作が、軽佻浮薄な、浅薄至極な、或いはそれらに近しいという印象を与えてしまったならば、ノーベル文学賞候補作家としての春樹さんの評価をおとしめる材料にもなりかねないからである。そうなってしまったら身も蓋も無いと云うべきである。

「女のいない男たち」というタイトルに示されているように、近作にて春樹さんが追求しているテーマは「男と女」「恋愛」「性と愛」等々に収斂されていると思われる。此れ等のテーマ性がはたして、欧米出身の審査員たちの支持を取り付けることが出来るのか否か? いま此処にて発表される近作のテーマ性は、作家の評価に関してあたかも海中に沈まれつつ在る錨の如くに重くあり、評価を得る上でも甚大なものがある。

そんな村上春樹さんの近作における、まるでエッセイのようにも綴られた肉声に込められたものたちに対して、しつこくなるくらいに向かい合って検証してみたいと考えているのである。

(此の稿は続きます)

村上春樹さんの新作「女のいない男たち」を読む(其の1)

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今月に発行されたばかりの村上春樹さんの新作本「女のいない男たち」を読んだ。久しぶりの短編集だと云うことである。地元の書店でもイチオシ的パフォーマンスを展開している。ハルキストの春がやってきたという光景が垣間見られている。

同書はテーマを同じくする6話が盛り込まれている連作集と云う体裁であり、なかの4話は「月刊文藝春秋」誌にて発表済みである。おいらは文藝春秋誌にて掲載された4話をすでに読了しており、其れ以外の2話については書店での立ち読みにて対応仕様と考えていた。村上春樹さんの本はどれもが好きであり、おいら自身がハルキストの末端を占めているのだという自覚もある。だが然しながら短編2話を読むのに1700円ばかりを支出するにはちょいとばかり深刻な、個人的な経済事情が関与していた。だが実際に同書を手に取り、書き下ろし作品としての新作「女のいない男たち」を読み進めるなり、其んな個人的経済事情を打ち破るくらいに、持っておきたい、購入したいと云う思いが満いつしたからの購入ではあった。

(此の稿は続きます)

村上春樹さんの「独立器官」という不思議な小説(1)

 

「月刊文藝春秋」誌に掲載されている村上春樹さんの「独立器官」という小説を読んだ。同雑誌における「女のいない男たち」というサブタイトルを冠したシリーズの4作目である。このところ文藝春秋誌を開けば村上春樹さんの連作作品に遭遇するのであり、些か此のパターンも飽きが来ているところである。

今、春樹さんが此処という状況の中で軽い連作を手がけているのかは、ほとんどぴんと来ることが出来ない。ノーベル文学賞候補作家であるならば、今此の状況下において、他にすべきことが大切な事柄が甚大に存在するのだろうと考えているからである。例えば「1Q84」の4章目、BOOK4の執筆である。オーケストラの大作が完結を迎えるには四楽章のスタイルを必要としていた。三楽章ではまだまだ大いなるストーリーを完結させるには不足なのである。これは特に、ノーベル賞関係者が多く棲息する欧州圏にて顕著なのであるからして、村上先生もそのところをじっくりと理解して対策を踏まえるべきであると考えている。

それはともあれ、小説のプロットは「渡会」という名の整形外科医と「僕」という物書きによるやり取りによって進行していく。この作品の冒頭では、渡会という外科医の人格的形容を「内的な屈折や屈託があまりに乏しいせいで、そのぶん驚くほど技巧的な人生を歩まずにはいられない種類の人々」と説明がされている。女性関係においても極めてクールで計算高く、独身主義を貫いている人物だという設定だ。食うには困らないという形容以上に芳醇な経済力を持ち、女に困ったことが無いという安易な遊び人以上の恵まれた異性関係をものにしている。主に既婚者や決まった恋人のいる女性とのアバンチュール、不倫関係に限った関係を続けていた。

そんなプロットが、途中でひっくり返ってしまうのだ。まるで読者が作者によって裏切られてしまうくらいに、一気にやってくる。そんな作品「独立器官」後半についてのあれこれについては後の稿にゆだねることにする。

村上春樹さんの不可解な最新作「木野」を読む(2)

月刊「文藝春秋」に掲載されている村上春樹さんの「木野」を此の数日間じっくりと再読した。同じ小説作品を近い期間を経て再び読むということは珍しい。そんな珍しい体験をこの「木野」が要求していたということなのだう。

村上春樹さんの最新作「木野」では様々な登場人物および人間以外の生物、アイテム等々が登場している。ざっと列挙するならば、先ずはとりあえずの主人公の木野、不倫がばれて別れることになる妻、店舗の引き継ぎで濃く交流することになるが元々長い付き合いの伯母、そして、カミタという不思議な登場人物。「神田」と書くが「カンダ」ではなく「カミタ」と称している、云わば裏世界との関係を仄めかすカミタは此の作品のある意味で主役級の存在感を示しているのであり、そんなこんなからもハードボイルドを担ぐ役者としてのカミタの存在が此の作品上では特段にクローズアップされているのだ。その他、木野が成り行きで情事を交わす女と其の愛人等々が物語を盛り上げている。

ちょいと本筋から離れるが、登場人物の他に重要な生き物としては、「木野」という店舗に愛着を持って来る灰色の野良猫や、猫が店を去っていった後に現れる三匹の蛇たちの存在が特筆される。ともに登場人物たちに負けず劣らずの存在感を付与されており、物語の構成において重要な役割を担っている。

数日前に一読したばかりの時には、「カミタ」の存在が全能の神の申し子のごとくに捉えられたのだが、二度目の読書体験を経て後にその思いは消されていたと云って良い。むしろ全能神の存在が此の世の中から砕かれていく様態が描かれているのかも知れないという思いにビジョンを変化させていったのである。ハードボイルド的登場人物としての全能神は、小説全体の世界観をリードすること、やり遂げることを志向しつつも、その非現実性や無力さに目覚めるのである。作品途中にて主人公こと木野の戸惑いが生じていくのは其の為であると考えられる。主人公が依って頼るべきヒーローの存在が頼れなくなることと同様に、物語のビジョンも破綻をきたすように進んでいく。頼るべき神話を持ち得ない現代の物語のビジョンが示されているのである。

村上春樹さんの不可解な最新作「木野」を読む(1)

故郷へ帰省した帰りの各駅停車の電車内で、月刊文藝春秋誌に掲載されている村上春樹さんの書き下ろし的最新作「木野」を読んでいた。二十数頁の掌編作品ですんなりと読了したのだったが、此れがとても不可解極まる印象を抱かせる作品だったのであり、帰宅した後のおいらの脳味噌もそんな不可解感に捕われてしまったのである。

このくらいまではネタバレではないと考えて敢えて記すのだが、「女のいない男たち」というサブタイトルが示すように、表題の「木野」とは主人公の名前そのものであり、妻を寝取られた哀しくも切ない男の離婚劇とその後の姿などが描かれている。物語の設定はかような代物なのだが、読み進めていく中で、日本の小説世界にこれまで無かったごとくの不可解さを感じ取らずにはいなかったのである。

何しろそもそもとして、登場人物の設定が混乱を極めているのだ。主人公の木野の設定はともかくとして、ヤクザ紛いの行動をとる陰のヒーローが登場しつつ、そんな陰のヒーローの去就が詳らかにされないままに、主人公の不可解かつ不明瞭でなおかつ不条理な結末へと進行してしまうのだ。春樹さんの新しい開眼に基づくものなのかは知らぬが、このような日本人による小説に接したのは稀ではあった。本日は毎度ながらおいらの脳味噌がアルコール漬けになっているのでキーボードを畳むが、明日以降にその謎に迫りたいと考えているところなのである。

(この稿は明日以降のブログに続きます)

村上春樹さんの私小説的な最新作「イエスタディ」を読んだ

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月刊「文藝春秋」誌に掲載されている村上春樹さんの最新作品「イエスタディ」を読んだ。ビートルズの超有名な「イエスタディ」に絡めた物語が、主人公の男性こと「僕」と、彼の友人の木樽とその彼女こと栗谷えりかとの3人によって展開されていく。早稲田大学2年生の「僕」と2浪している浪人生の木樽と上智女子大生の栗谷。主人公の「僕」を春樹さん自身だと見立てれば、まるで私小説的なプロットが出来上がっている。いよいよ春樹先生も私小説的なジャンルで、これまで残せなかった作家的な足跡を刻もうとしているのか? などと云う想像も逞しくさせてしまうのだ。もちろんのこと村上春樹さんが此の小説で私小説的なプライバシーに基づいた物語を紡いでいるのかどうかは定かではない。

物語の冒頭で、「僕」の友人こと木樽がつけた「イエスタディ」の歌詞が開陳されている。共にビートルズ世代として思春期を過ごしていたことを示すのだが、其れ以上に深い三者の世代感を浮き彫りにさせている。事実的なことは判然としないのであり春樹さんの創作かとも思うが、とても力作であるのでここに引用してみる。

ーーー(引用開始)ーーー
昨日は
あしたのおとといで
おとといのあしたや
それはまあ
しゃあないよなあ

昨日は
あさってのさきおとといで
さきおとといのあさってや
それはまあ
しょあないよなあ

あの子はどこかに
消えてしもた
さきおとといのあさってには
ちゃんとおったのにな

昨日は
しあさっての四日前で
四日前のしあさってや
それはまあ
しょあないよなあ
ーーー(引用終了)ーーー

まるでパロディのような歌詞ではある。だが、全く真面目な意味合いがない訳ではない。女と別れて暮らす孤独な男たちの紡ぎ出す歌にも似ていて、孤独な男たちの本音の部分の心情を紡いでいるかのようなのである。ちなみに表題には「女のいない男たち2」とある。独身男性の生態をテーマにしているかのようだ。あらためて春樹さんの思春期の生き様が浮き上がって来る。それこそまるで私小説的なプロットの噴出である。まるで私小説的なプロットの新作を何故に春樹さんは著したのだろうか? 疑問は解けることはないが、一つの仮説がある。それは、過去における浮き世のごときの主人公たちの生態を消すということである。もててもてて仕様がないという一時期の春樹作品の主人公のにおいを消していきたいと図ったのではないのかという仮説である。ただし仮説はあくまでも仮説なので、其れ以上の追求は控えておくことにする。

村上春樹さんの最新掌編「ドライブ・マイ・カー」を読む

現在発売中の月刊文藝春秋誌に掲載されている、村上春樹さんの最新掌編的小説「ドライブ・マイ・カー」という作品を読んだ。

そうは売れていない役者の主人公の男性が、ちょっとした交通事故をきっかけにしてマイ・カーのドライバーを募集して、若い女性ドライバーがひょんな経緯により紹介され採用される。そして役者と女性ドライバーとの、新しい日常が始まっていく。ドライブに関しては非常な才能を持つ女性と役者の男性とがうちとけてきたそんなときのある会話がきっかけとなって、役者男性の過去のエピソードが明らかに、詳らかにされていく、と云ったストーリーである。

ドライブを行ないつつある男と女と過去の恋愛事情が交錯する、男と女の恋愛の苦悩をテーマにした86枚の書き下ろし小説であり、恋愛小説的にみればオーソドックスな筋立てであり、あまり春樹さんらしくはない。それでもやはり一気に読ませる村上春樹ワールドは健在ではあった。

「恋しくて」に収録された村上春樹さんの書き下ろし作品「恋するザムザ」を読む

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先日紹介した「恋しくて」には、村上春樹さんの「恋するザムザ」という作品が収録されている。最新の書き下ろし作品であり、小品的短編ではあるが、何よりも現在時点での春樹さんの立ち位置を示した作品として注目に値する。

「目を覚ましたとき、自分がベッドの上でグレゴール・ザムザに変身していることを彼は発見した。」

という書き出しで始まるこの作品は、改めて解説するまでもなく、フランツ・カフカによる名作「変身」がベースの元ネタになっており、「変身」の続きを連想させるかのように物語がつむがれていく。村上春樹さん自らのあとがきには、

「遥か昔に読んだぼんやりとした記憶を辿って『変身』後日譚(のようなもの)を書いた。シリアスなフランツ・カフカ愛読者に石を投げられそうだが、僕としてはずいぶん楽しく書かせてもらった」

と記されている。「1Q84」「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」といった長編大作をものにした後の息抜き的作品だと捉えたなら春樹マニア失格であろう。

もともと同作品は「恋しくて」という些か甘っちょろいタイトルに依存するかの如くのラブストーリーを網羅して仕上げたアンソロジーである。春樹さんが選者、訳者となって編まれていても、その甘っちょろさはどうしようもないくらいだ。

書き下ろしの春樹作品「恋するザムザ」は、甚大な影響を受けたであろうカフカの作品イメージとは少々異なっていて、シンプルで突破的なものが通底に流れている。相当略して云えば、単純なものの強みとでも云おうか…。

整理して述べてみれば、村上春樹さんはノーベル文学賞受賞に向けて自らの立ち位置を示すために敢えてこの小品的作品を発表したのだ。そしてその立ち位置はノーヘル文学賞受賞者としてマイナスには働かなけれども、決してフラスの要因をも生むことがない。カフカに迎合することが村上春樹の世界にとって有効であるはずがないのである。

この数年間が村上春樹さんの旬だと云われている。旬が過ぎれば春樹さんのノーベル文学賞などは泡と消えるのである。旬を過ぎて老いぼれた村上春樹さんなどおいらは見たくもないし、そんな老いぼれた後の彼の作品などは読みたくもないのである。

今の此の出口無き状況を突破するには、以前からおいらが何度も提言しているように「1Q84」の第4章、即ち「1Q84 BOOK4」の世界を新たに描ききることしかないのである。春樹さんははたしてそれを判っているのだろうか? はなはだしく疑問なのである。

ノーベル文学賞作家、アリス・マンローの「ジャック・ランダ・ホテル」(村上春樹訳)を読んだ

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今年のノーベル文学賞作家、カナダ人アリス・マンローの「ジャック・ランダ・ホテル」を読んだ。翻訳したのは村上春樹さん。本年9月に刊行されたばかりの「恋しくて」中の10作品の中の1作として収録されている短編である。

カナダ人女性作家アリス・マンローは、誰もが認める短編小説の名手だという評価が定着している。「現代のチェーホフ」等という最大級の評価もあるという。カナダ人としては初めての受賞であり、米国の隣の衛星国的な立場のカナダ国民にとっては非常に歓迎すべき受賞であったに違いない。村上春樹さんを差し置いて今年のノーベル文学賞を受賞した政治的背景には、カナダ人作家だと云うことが大きく影響していることが推測可能である。

一読した感想としては、まずは、男女の物語にしてはとてもテンポの良い成り行きや、乾いた表現の中に埋め込められている会話表現のユニークさなのだ。会話には直に顔を直面した音声的なものの他に、手紙の遣り取りとしての会話があり、実は後者が其の重要なポイントとなっている。

「ジャック・ランダ・ホテル」は、読み始めてのところではさっぱりといった遣り取りが続くのだが、実は別れた男と女の会話が、特別な文書の遣り取りの中で展開していくというストーリーである。翻訳者の村上春樹さんをして「まるで壁に鋲がしっかりと打ち込まれるみたいに。こういうのってやはり芸だよなあと感心してしまう。」と云わせたくらいな希有なる名人芸的な描写が活きていた。

村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の現在的意義(2)販売元の売らんかな的戦略はマイナス的要因となる

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「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の先日の発売日には、昼前の午前中に某ターミナル駅近くの書店で予約購入していた。だが翌日には他のターミナル駅近くの書店にてみたところ、店頭に1冊も無い状況であった。超人気作家としての村上春樹さんの人気度、存在感、影響力を改めて思い知らされることとなっていた。

村上春樹作品が売れる理由は一概に述べることはできかねるが、その一つに出版元の特異な販売戦略がプラス的に機能していることは否定できない。今回の出版元となる文芸春秋社も「1Q84」で新潮社が用いた販売戦略をそのまま借用して、図星的奏功を得ているという図式が見て取れる。発売日まで新作の内容を明かさず、潜在的ファンに対して最大限の飢 餓的状況を編み出しているのだ。

先週末の新作販売の熱狂のほとぼりが幾分冷めた今日抱いているのは、出版元による「売らんかな」的戦略は、春樹さんのこの後の展開にとってはマイナスに働くのではないか、という思いである。我が国における特筆される世界的作家の春樹さんだから、近年の間でノーベル賞受賞の期待が高まっている。そのような状況下において、出版元による謂わばごりおし
的販売戦略がもたらすマイナス的要因は決して取るに足らない問題ではないのである。

村上春樹著「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の現在的意義(1)

 

村上春樹さんの3年ぶりの書き下ろし長編小説となる「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んだ。書店では発売前から最大級の新刊案内が行なわれており、滅多にすることのない新刊予約というものをしてしまった。万一新刊が購入できないことを考慮しての保険だったが、初版部数や重版も多く、その必要はなかったようだ。部数は発売時点で4刷50万部に達したという。

主人公の多崎つくるは、自分の氏名に色彩が無いことを自覚しながら生活している。高校時代の5人の仲間は、つくるを除いて名前に色彩を持っていた。赤松慶、青海悦夫、白根柚木、黒埜恵里は、それぞれを「アカ」「アオ」「シロ」「クロ」と呼びあっていたのだが、つくるだけが色がないという奇妙な疎外感を感じていたのだ。グループの5人は高校の同級生だがボランティア活動がきっかけで友達となり親密なグループであり続けていた。強固な絆で結ばれた特別な仲間たちであるはずだったのである。しかし高校卒業後につくる一人が地元の名古屋を離れて大学2年になっていたある時、仲間の4名から突然の拒絶の言葉を云い渡されるのであった。身に覚えのなかったつくるにとってのショックは筆述に尽くしがたいものであり、故郷にとどまることもできずに帰京していた。それ以来のつくしは毎日毎日、死ぬことばかりを考えて日々を送るのだった。

新著の表題にある「色彩を持たない多崎つくる」とは主人公の一面を表しているものだが、それは換言すれば、とりたてて個性や能力を持たないことを自覚している主人公の特性を示しているといえよう。現代人の多くが胸の奥底で抱いているものを、主人公の氏名の設定にて表してしまっているのであり、こんな軽いアイディアを実作品に反映させていく春樹さんの軽妙な感性はなかなか真似できるものではない。小さな「天晴れ」をくりかえしながら、本作品でも軽妙かつ奥深い村上ワールドがつむがれていく。

仲間からの唐突な拒絶から16年ほど経った多崎つくるは、人生で何人目かの彼女こと木元沙羅と付き合うようになったある日に、沙羅からの提案で、人生の岐路となった仲間からの絶交の原因を追究することを決心し、元仲間たちを訪ね歩く旅にでることになった。これらの行為がまた、表題の「巡礼」にかかっているが、実はさらに、フランツ・リストのピアノ曲集「巡礼の年」にかけられていて、新著の通低を流れるメロディーを奏してもいる。「ノルウェイの森」「1Q84」でも使用されたテクニックがここにもまたごくさりげなく用いられている。

仲間の16年後を追究するなかで、つくるは幾つもの謎に遭遇する。作品中のある箇所ではまるで推理小説風の記述で読者の興味を惹いていくが、そこはあくまで春樹流のストーリー仕立てのひとつに過ぎず、けっして推理ねたを追う展開にはならないのであり、謎はあくまで謎としての存在理由を保ち続けているので、奇異に感じさせるかもしれない。逆にみれば、謎解きを拒否してまで村上ワールドをつむぐという独特のスタイルで、読者をひきつけているのだ。

(この稿続く)

「パン屋を襲う」に掲載されたカット・メンシック氏のイラスト

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昨日記した村上春樹さんの新著「パン屋を襲う」でイラストレーションを描いているのが、カット・メンシックというドイツ人の女性イラストレーターだ。新潮社によるプロフィール紹介には以下のごとくに説明されている。

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1968年、東ドイツ・ルッケンヴァルデ生まれ。ベルリン芸術大学、パリ国立美術大学で学び、「フランクフルター・アルゲマイネ」日曜版やファッション誌「ブリギッテ」ほか、ドイツの代表的メディアに寄稿する人気イラストレーター。2007年、トロースドルフ絵本賞受賞。
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「パン屋を襲う」の前にも「ねむり」のイラストレーションを手掛けている。同二書はと云えば、決して大作ではない小品に、カット・メンシックのイラストを添えた「絵本」という体裁をとっている。村上春樹さん自身があとがきで、「僕は彼女のシュールレアリスティックな絵が個人的にとても好きなので、嬉しく思う。彼女とは一度ベルリンで会って、一緒に食事をしたことがある。旧東ドイツで過ごした少女の話をしてくれた。」とそう説明しているのが印象的である。

正直に記せば、おいらはカット・メンシック氏のイラストがシュールリアリスティックだというよりもポップアート的だと感じとっていた。人体や動物の一部位や近代文明の象徴としての一部位を切り取って再構成する彼女の作風は、春樹つてなかワールドに、かつて無かった彩りをもたらしている。

村上春樹さんのリメイク的新著「パン屋を襲う」

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村上春樹さんの「パン屋を襲う」とは、かつて1981年に発表された作品を元にリメイク的にして先月に出版されたばかりの近著である。

その中味といえば、「パン屋を襲う」という表題そのままに、主人公の「僕」と友人、あるいは「僕」と妻が、パン屋に押し入って襲うというストーリーだ。その理由というのが、「腹が減っていたから」というのであるから、物語はとてもシンプルである。

主人公自らが物語の始まりで解説してくれる。

「神もマルクスもジョン・レノンも、みんな死んだ。とにかく我々は腹を減らしていて、その結果、悪に走ろうとしていた。空腹感が我々をして悪に走らせるのではなく、悪か空腹感をして我々に走らせたのである。なんだかよくわからないけれど実存主義風だ。」

いまやほとんどの日本人にとって「空腹感」を実感することは稀になったが、1981年当時はまだ日常的に感知しえる経験のひとつであった。村上春樹さんの創作の原点のひとつが、空腹感というような極めて形而下的なことで成り立っていたということは、いま改めての発見であったと云うべきだろう。

http://www.shinchosha.co.jp/book/353429/

 

村上春樹さんのノーベル文学賞受賞は今年もならず。「1Q84」の「BOOK4」に期待

前評判では当確のごとくの報道が流れていたのが、村上春樹さんのノーベル文学賞受賞。本日その発表があり、残念ながら村上さんの受賞はならず、中国の莫言氏が受賞したという。

莫言氏についてはおいらはその名前以外に詳らかにせず、彼の受賞の背景は判らない。下馬評では村上さんの次につけた2番手だとされていたので、それなりの文学的実力があるのかもわからない。

然しながら本年の文学賞大本命として名前が挙がった村上春樹さんが受賞を逃したことは、村上春樹ファンの一人としては、やはりという、受賞に達するための予想以上の高い壁が存するのではないかと云う思いが沸き起こってくるのだ。

おいらがとても残念に感じるのは、「1Q84」をはじめとする春樹さんの代表作品におけるアピール度の低さが、受賞を逃したのではないかと云う可能性である。

以前にこのブログ上でも書いたことだが、春樹さんの代表的作品として挙げられる「羊をめぐる冒険」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」「1Q84」等々の作品には、連作としての主要な作品群があり、二部作、三部作のものはあれども四部作が無い。このことが重篤な受賞に対するネックとなっていることが改めて考えられるのである。

村上春樹のノーベル賞受賞はありや否や?
http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=280

云うまでも無くノーベル賞選考委員のほとんどはスウェーデン・アカデミー関係者はじめ西洋的思潮の流れを汲むものたちで占められている。西洋的思潮の観点からすれば、二部作、三部作的作品に対する評価は低いと云わざるを得ないのだ。

ご存知のように音楽における四部作は完成度を得て達せられた作品としての「カルテット](Quartet、Quartett、Quartette)」と称される。二部作、三部作の作品群に比べて圧倒的な高評価の評価の基準である。四部作を創り得てこその最大限の評価が「カルテット」という尊称に隠されているのである。二部作、三部作は、其れ等に比べて評価は低いのだ。カルテットに達するまでの仮の姿がそこにある。未だ完成されない作品的評価なのであろうと考えられるのだ。

「1Q84」の「BOOK3」が発表されてかなりの年月が経過しており、「BOOK4」の可能性については話題にも上らなくなってしまっているが、おいらは未だに来年こそはという期待を込めて、「BOOK4」の発表に期待を抱き続けている。まだまだ可能性は無限にある。

さり気なく刊行されていた村上春樹さんの「ねむり」

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村上春樹さんの「ねむり」を読んだ。眠ることが出来なくなった女性の一人称による告白形式の小説である。

刊行されたのは2010年11月。「1Q84 BOOK 3」が発刊されて、「BOOK 4」の刊行が期待されていた当時のものである。つい先日に同書刊行の存在を知り、購入して読み進めていたものであった。

とはいってもこの作品は、春樹さんが1989年に書いて発表した「眠り」をリライトした作品である。この最新の時期のオリジナルという訳ではない。同書のあとがきにて春樹さんは書いている。いわく、

「そのときのことは今でもよく覚えている。僕はそれまでしばらくのあいだ、小説というものを書けずにいた。もう少し正確に表現するなら、小説を書きたいという気持ちにどうしてもなれずにいた。その原因はいくつかあるが、大まかに言ってしまえば、当時僕がいろんな面において厳しい状況に置かれていたため、ということになるだろう。」

村上春樹さんにとってこの作品については、当時の特別な、何かしらよくない事情が介在していたようなのである。そんなときに執筆されて発表されていたのが「眠り」という作品であった。この「眠り」は当時に執筆された「TVピープル」という作品とともに、文庫版にて収録されている。

今年もまたノーベル文学賞の受賞に期待がかかる村上春樹さんの、最新発表作である。これがきっかけであれなんであれ、春樹さんのノーベル文学賞受賞を、ファンとしてこの季節には、たっぷりと願っている。

村上春樹さんのカタルーニャ賞受賞スピーチ

スペインの「カタルーニャ賞」を受賞した村上春樹さんのスピーチ内容を記録しておきます。twitterでも呟いたのだが、こういう大切なメッセージは、何よりも日本国民に対して発せられるのが必要だと感じている。日本国民が村上春樹さんのメッセージを素直に受け取れ、次の行動に移せる、真っ当なる、誇れる国民であることを信じて、ここに掲載したいと思う次第なのだ。

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この前僕がバルセロナを訪れたのは、2年前の春のことでした。サイン会を開いたとき、たくさんの人が集まってくれて、1時間半かけてもサインしきれないほどでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性読者が僕にキスを求めたからです。僕は世界中のいろんなところでサイン会を開いてきましたが、女性読者にキスを求められたのは、このバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがよくわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい都市に、戻ってくることができて、とても幸福に思います。

ただ残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。

ご存じのように、去る3月11日午後2時46分、日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転がわずかに速くなり、1日が100万分の1.8秒短くなるという規模の地震でした。

地震そのものの被害も甚大でしたが、その後に襲ってきた津波の残した爪痕はすさまじいものでした。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ遅れ、2万4千人近くがその犠牲となり、そのうちの9千人近くはまだ行方不明のままです。多くの人々はおそらく冷たい海の底に今も沈んでいるのでしょう。それを思うと、もし自分がそういう立場になっていたらと思うと、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せてしまった町や村もいくつかあります。生きる希望をむしり取られてしまった人々も数多くいらっしゃいます。

日本人であるということは、多くの自然災害と一緒に生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になります。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。それから各地で活発な火山活動があります。日本には現在108の活動中の火山があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、4つの巨大なプレートに乗っかるようなかっこうで、危なっかしく位置しています。つまりいわば地震の巣の上で生活を送っているようなものです。
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ユリイカ「村上春樹総特集号」インタビューで春樹さんが示したメッセージ

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先月12月25日発行の「ユリイカ」最新号では、村上春樹総特集が組まれている。文芸誌というよりも詩の専門誌として評価され歴史ある「ユリイカ」だが、特別に詩とは深い関わりを持っているとも云えない村上春樹さんを俎上に載せて、文壇人によるあれやこれやの村上春樹論が展開されている。今や全ての文芸誌に於いて村上春樹さん無しには商売も何も成り立たないと、業界の裏側で囁かれているようだが、その一端を垣間見たような気分に陥ってしまう。

目玉となっているのが巻頭インタビューだ。「『1Q84』へ至るまで、そしてこれから…」という副題が付いている。「魂のソフト・ランディングのために」といった意味深のタイトルも設けられている。
小澤英実という聞き手がメールにて質問を投げ掛け、春樹さんがそれに答えるといったスタイルがとられている。春樹さんにとってみればそれだけじっくりと時間をとって、質問者に答え得るのであり、軽い乗りのインタビューでないことは明らかだ。

春樹さんがこのインタビューで最終的に云いたかったのは、「物語」の可能性についてであったと思われる。言語への失望、あるいは物語への疑問提起を経て、やはり彼は、小説家としてのある種の社会的使命を自覚したということに至ったと思われる。その言葉はあっさりとしているが、とても重く響いている。以下にその一部を引用しよう。

(以下引用)-----------
「言語には二つの機能があります。ひとつは個々の言語としての力、もうひとつは集合体としての言語の力です。それらが補完しあって流動的な、立体的なパースペクティブを立ち上げていくこと、それが物語の意味です。スタティックになってしまったら、そこで物語は息を引き取ってしまいます。それは常によどみなく最後まで流れ続けなくてはならない。それでいて同時に、個々の言語としての力をその場その場でしっかり発揮しなくてはならない。状況と切り結びながら、正しい(と思える)方向に着実に歩を進めていかなくてはならない。これはもちろん簡単なことではありません。(後略)」
(引用終了)-----------
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村上春樹原作映画「ノルウェイの森」の限界〔1〕

村上春樹さんの原作、ベトナム系フランス人トラン・アン・ユン監督による映画「ノルウェイの森」を、遅ればせながら鑑賞した。単行本、文庫本を併せ総計1000万部以上を売り上げたヒット作が原作ということもあり、書店では毎日、同映画のPRビデオが流れている。懐かしいビートルズのメロディーがあれだけ流されていると、見ない訳には行かなくなってくるもんだ。仕方ない、見てみるか…。初めから過度な期待は持たずに府中の映画館へと向かった。

http://www.norway-mori.com/top.html

本編が流れて数分後に驚かされた。なんと糸井重里さんが大学教授役で出演し、ギリシャ悲劇についての講演を行なっているではないか。村上&糸井コンビで共著を持っている二人の仲だからこんな配役もあるかと、妙に納得させられる。村上ワールドの案内役として、うってつけの人選である。

スタッフカメラマン、マーク・リー・ビンビンによるカメラワークも悪くない。長回しシーンにも独特の揺れがある。常にカメラの視線が揺れている。決してうるさくも不安定さも感じさせることなく動いている。成程、村上ワールドの表現者としてのことだけはあるなと思う。監督とカメラマンとの良いコンビネーションだ。

だが直子役の菊地凛子ちゃんはちといただけない。元々村上春樹の大ファンでありオーディションでも積極的にアピールしたというのだが、彼女にこの役は不向きだろう。国際女優であり美人でもある。だがやはり、小説の世界の「直子」像を傷つけてしまっていると感じさせずにはおかないのだ。とても純な直子が病気を発症し、謂わば壊れていく様を表現できる資質を感じない。彼女を起用した必然性を感じ取ることが出来ないのだ。とはいえ仮に、井上真央、戸田恵梨香、新垣結衣、等々の人気女優が演じたところで、直子を演じ表現できるという保証など無いだろう。無いものねだりというものである。

もう一人の主役、松山ケンイチは、特段の美男子というではなく丸っこい顔立ちやら雰囲気に、春樹さんの面影があり、好意的に受け止めることが出来た。喋り方もこれならば、村上ワールドに登場する主役として異議は無い。

ところで主役二人の会話は、原作のそれとはだいぶ異なっている。春樹さんは映画制作に先立って、監督やプロデューサーに対して、「僕の台詞は映画向けじゃないから直したほうがいい」と語ったとされている。監督、プロデューサーへのプレッシャーを低減させようとする心遣いだったのかもしれない。細かい処ではあるが、「あれっ、こんな台詞があったっけな?」という違和感を持ってしまった。納得できないところも何箇所かあるので、これから原作を読み直して検証したいと思っているところなのだ。

村上春樹的ビールの飲み方の虚実

夏の猛暑日になくてはならないのが冷やしたビールであるが、こう猛暑日が続くと、胃袋も悲鳴を上げている。かといって猛暑をビール無しで済ますことはできないので厄介なのである。暑さを冷やすというよりも、暑さを誤魔化す、紛らわすといった効果を期待してビール缶に手が伸びる。

かつて、村上春樹さんは処女作「風の詩を聴け」にて、登場人物の鼠に次のように語らせている。

―――――――【以下「風の詩を聴け」からの引用】
「ビールの良いところはね、全部小便になって出ちまうことだね。ワン・アウト一塁ダブル・プレー、何も残りゃしない。」
―――――――【引用終了】

ずっと若いときは、名句だと感じて疑うことが無かった。ただ最近になって、必ずしも真実とは云えないということを感じとっている。ビールは飲めば飲んだぶんだけ、確実に身体に溜まる。小便として出て行くなどとは決して云えないのである。

雑誌「考える人」で村上春樹のロングインタビュー掲載 [その2]

村上春樹さんのロングインタビューを読んで、最も強く感じ取ったのは、「物語」についてのメッセージであった。「物語」については、おいらもかつて主宰していた「みどり企画の掲示板」にて、次のように書き込んだことがある。

―――――――【以下、過去のおいらの掲示板投稿からの引用】
振り返って自分なりのルーツを訪ねてみたのです。すると、下記のようなイメージが浮かんできたような、はたまた思い当たる思春期の出会いなどが想い浮かぶ。

十代だったそのころのぼくは、片翼飛行機のパイロットだったようにして、急切なる思春期を送っていたようだったのです。それはまるで、巨大な積乱雲の中に閉じ込められて、錐揉み状にして墜落するセスナ機よろしく、誰の力を借りることも出来ずに、しかも自分ではもう力役を尽くした後の飛行だったように、自分にとっての切羽詰ったものがあったのです。

アートや文学にのめり込む事によって、当時の片翼飛行の試運転が持ち直したというようなイメージが強く思い浮かんで来るのです。片翼なりに自らの飛行を続けていくため、急降下錐揉み的墜落を免れるために、あるいはさいきんメロディさんからも教えられたことですが前を見て生きるために、当時のぼくは欠けた片翼をどうにか支えて飛行可能にする手段をアートに挺身する道を選んだのだ・・・というのは甚だ大仰に過ぎますが。そんな心持ちがあったということは云えると思います。
―――――――【引用終了】

当時はネット掲示板でのやり取りが、結構熱く取り交されていたのを、遠い眼差しにて想い出す。メロディさんや、いか@ちゃん、きくちゃんたちからのコメントやら茶々やらを受けて、掲示板は益益の盛り上がりを見せていたのだ。

そして今回の、村上春樹さんのインタビューに接したのだが、そこで述べられていた春樹さんの大量のメッセージの中でも特に胸に届いたのが「物語」に関しての春樹さんのそれであった。だが、その内容についてはおいらがそれまでに認識していたものとは異なるものであった。そんな春樹さんのメッセージの一部を引用してみる。

―――――――【以下「考える人」の春樹さんインタビューからの引用】
物語という穴を、より広く、深く掘っていけるようになってから、自分を検証する度合いもやはり深くなっています。もう三十年以上、それをやりつづけているわけだから、より深く掘れば、違う角度から物事が見えるし、より重層的に見られるようにもなる。その繰り返しです。逆に言うと、より深く穴を掘れなくなったら、もう小説を書く意味はないということです。
―――――――【引用終了】

考えれば村上春樹さんの作品といえば、お見事というくらいに日本文学的テーマの定番でもある「自我」とは無縁である。そのスタンスを徹底して保っている。天晴!と云いたくなくなるくらいにそれは徹底している。だからそれが主たる要因で「芥川賞」を逃していたのである。けれどもここに来て村上春樹さんの評価は国際的に高まっている。「ノーベル文学賞」の候補者として何回も名前の挙がっている有力候補者なのである。「芥川賞」と「ノーベル文学賞」とを計りにかければ、「ノーベル文学賞」に分があることは明らかである。日本文学的テーマの「自我」を捨象したことが「ノーベル文学賞」候補者として有利に働いたのかもしれない。

さて、村上春樹さんとおいらとの「物語」に対するアプローチの違いやら共通項やらについて述べていきたいのではあるが、些かの深酔いやら参議院選挙の興奮やらにて、次稿に持ち越すことにしたのです。ご容赦あれ。