村上春樹さんの新作「女のいない男たち」を読む(其の2)

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甘酸っぱい香りがぷんぷん漂う当書籍掌編小説のスタイルは村上春樹作品に特有のものではあるに違いないが、掌編集の中の「女のいない男たち」という作品に限ってみれば、春樹さん個人の肉声が詰まったあたかもエッセイのように語りかけてきたのだった。おいらにとっては不意打ちの如き想定外の驚きを伴って襲い来た体験ではあった。軽々とした物語を紡いでいる春樹ワールドとは異質の何か、小説世界のビジョンとはまた別種の世界観のようなものを訴えかけた作品のように受け止められていたのである。

そもそも本書籍にまとめられた作品を含む春樹さんの近作諸々に関しては、近い将来に春樹さんがノーベル文学賞を受賞し得るか否かの判断材料ともなる極めて重大な意味を持つ作品たちなのである。であるから尚更に、扱うテーマに関しては重大な要素を伴うものとなっている。誰かも知れぬ欧米出身のノーベル賞審査員たちの支持を得るものであるのか否かには否応にも関心を抱かずには居られないのだ。もしかしてこれらの春樹さんの近作が、軽佻浮薄な、浅薄至極な、或いはそれらに近しいという印象を与えてしまったならば、ノーベル文学賞候補作家としての春樹さんの評価をおとしめる材料にもなりかねないからである。そうなってしまったら身も蓋も無いと云うべきである。

「女のいない男たち」というタイトルに示されているように、近作にて春樹さんが追求しているテーマは「男と女」「恋愛」「性と愛」等々に収斂されていると思われる。此れ等のテーマ性がはたして、欧米出身の審査員たちの支持を取り付けることが出来るのか否か? いま此処にて発表される近作のテーマ性は、作家の評価に関してあたかも海中に沈まれつつ在る錨の如くに重くあり、評価を得る上でも甚大なものがある。

そんな村上春樹さんの近作における、まるでエッセイのようにも綴られた肉声に込められたものたちに対して、しつこくなるくらいに向かい合って検証してみたいと考えているのである。

(此の稿は続きます)

村上春樹さんの新作「女のいない男たち」を読む(其の1)

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今月に発行されたばかりの村上春樹さんの新作本「女のいない男たち」を読んだ。久しぶりの短編集だと云うことである。地元の書店でもイチオシ的パフォーマンスを展開している。ハルキストの春がやってきたという光景が垣間見られている。

同書はテーマを同じくする6話が盛り込まれている連作集と云う体裁であり、なかの4話は「月刊文藝春秋」誌にて発表済みである。おいらは文藝春秋誌にて掲載された4話をすでに読了しており、其れ以外の2話については書店での立ち読みにて対応仕様と考えていた。村上春樹さんの本はどれもが好きであり、おいら自身がハルキストの末端を占めているのだという自覚もある。だが然しながら短編2話を読むのに1700円ばかりを支出するにはちょいとばかり深刻な、個人的な経済事情が関与していた。だが実際に同書を手に取り、書き下ろし作品としての新作「女のいない男たち」を読み進めるなり、其んな個人的経済事情を打ち破るくらいに、持っておきたい、購入したいと云う思いが満いつしたからの購入ではあった。

(此の稿は続きます)

村上春樹さんの「独立器官」という不思議な小説(1)

 

「月刊文藝春秋」誌に掲載されている村上春樹さんの「独立器官」という小説を読んだ。同雑誌における「女のいない男たち」というサブタイトルを冠したシリーズの4作目である。このところ文藝春秋誌を開けば村上春樹さんの連作作品に遭遇するのであり、些か此のパターンも飽きが来ているところである。

今、春樹さんが此処という状況の中で軽い連作を手がけているのかは、ほとんどぴんと来ることが出来ない。ノーベル文学賞候補作家であるならば、今此の状況下において、他にすべきことが大切な事柄が甚大に存在するのだろうと考えているからである。例えば「1Q84」の4章目、BOOK4の執筆である。オーケストラの大作が完結を迎えるには四楽章のスタイルを必要としていた。三楽章ではまだまだ大いなるストーリーを完結させるには不足なのである。これは特に、ノーベル賞関係者が多く棲息する欧州圏にて顕著なのであるからして、村上先生もそのところをじっくりと理解して対策を踏まえるべきであると考えている。

それはともあれ、小説のプロットは「渡会」という名の整形外科医と「僕」という物書きによるやり取りによって進行していく。この作品の冒頭では、渡会という外科医の人格的形容を「内的な屈折や屈託があまりに乏しいせいで、そのぶん驚くほど技巧的な人生を歩まずにはいられない種類の人々」と説明がされている。女性関係においても極めてクールで計算高く、独身主義を貫いている人物だという設定だ。食うには困らないという形容以上に芳醇な経済力を持ち、女に困ったことが無いという安易な遊び人以上の恵まれた異性関係をものにしている。主に既婚者や決まった恋人のいる女性とのアバンチュール、不倫関係に限った関係を続けていた。

そんなプロットが、途中でひっくり返ってしまうのだ。まるで読者が作者によって裏切られてしまうくらいに、一気にやってくる。そんな作品「独立器官」後半についてのあれこれについては後の稿にゆだねることにする。

村上春樹さんの不可解な最新作「木野」を読む(2)

月刊「文藝春秋」に掲載されている村上春樹さんの「木野」を此の数日間じっくりと再読した。同じ小説作品を近い期間を経て再び読むということは珍しい。そんな珍しい体験をこの「木野」が要求していたということなのだう。

村上春樹さんの最新作「木野」では様々な登場人物および人間以外の生物、アイテム等々が登場している。ざっと列挙するならば、先ずはとりあえずの主人公の木野、不倫がばれて別れることになる妻、店舗の引き継ぎで濃く交流することになるが元々長い付き合いの伯母、そして、カミタという不思議な登場人物。「神田」と書くが「カンダ」ではなく「カミタ」と称している、云わば裏世界との関係を仄めかすカミタは此の作品のある意味で主役級の存在感を示しているのであり、そんなこんなからもハードボイルドを担ぐ役者としてのカミタの存在が此の作品上では特段にクローズアップされているのだ。その他、木野が成り行きで情事を交わす女と其の愛人等々が物語を盛り上げている。

ちょいと本筋から離れるが、登場人物の他に重要な生き物としては、「木野」という店舗に愛着を持って来る灰色の野良猫や、猫が店を去っていった後に現れる三匹の蛇たちの存在が特筆される。ともに登場人物たちに負けず劣らずの存在感を付与されており、物語の構成において重要な役割を担っている。

数日前に一読したばかりの時には、「カミタ」の存在が全能の神の申し子のごとくに捉えられたのだが、二度目の読書体験を経て後にその思いは消されていたと云って良い。むしろ全能神の存在が此の世の中から砕かれていく様態が描かれているのかも知れないという思いにビジョンを変化させていったのである。ハードボイルド的登場人物としての全能神は、小説全体の世界観をリードすること、やり遂げることを志向しつつも、その非現実性や無力さに目覚めるのである。作品途中にて主人公こと木野の戸惑いが生じていくのは其の為であると考えられる。主人公が依って頼るべきヒーローの存在が頼れなくなることと同様に、物語のビジョンも破綻をきたすように進んでいく。頼るべき神話を持ち得ない現代の物語のビジョンが示されているのである。

村上春樹さんの不可解な最新作「木野」を読む(1)

故郷へ帰省した帰りの各駅停車の電車内で、月刊文藝春秋誌に掲載されている村上春樹さんの書き下ろし的最新作「木野」を読んでいた。二十数頁の掌編作品ですんなりと読了したのだったが、此れがとても不可解極まる印象を抱かせる作品だったのであり、帰宅した後のおいらの脳味噌もそんな不可解感に捕われてしまったのである。

このくらいまではネタバレではないと考えて敢えて記すのだが、「女のいない男たち」というサブタイトルが示すように、表題の「木野」とは主人公の名前そのものであり、妻を寝取られた哀しくも切ない男の離婚劇とその後の姿などが描かれている。物語の設定はかような代物なのだが、読み進めていく中で、日本の小説世界にこれまで無かったごとくの不可解さを感じ取らずにはいなかったのである。

何しろそもそもとして、登場人物の設定が混乱を極めているのだ。主人公の木野の設定はともかくとして、ヤクザ紛いの行動をとる陰のヒーローが登場しつつ、そんな陰のヒーローの去就が詳らかにされないままに、主人公の不可解かつ不明瞭でなおかつ不条理な結末へと進行してしまうのだ。春樹さんの新しい開眼に基づくものなのかは知らぬが、このような日本人による小説に接したのは稀ではあった。本日は毎度ながらおいらの脳味噌がアルコール漬けになっているのでキーボードを畳むが、明日以降にその謎に迫りたいと考えているところなのである。

(この稿は明日以降のブログに続きます)

村上春樹さんの私小説的な最新作「イエスタディ」を読んだ

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月刊「文藝春秋」誌に掲載されている村上春樹さんの最新作品「イエスタディ」を読んだ。ビートルズの超有名な「イエスタディ」に絡めた物語が、主人公の男性こと「僕」と、彼の友人の木樽とその彼女こと栗谷えりかとの3人によって展開されていく。早稲田大学2年生の「僕」と2浪している浪人生の木樽と上智女子大生の栗谷。主人公の「僕」を春樹さん自身だと見立てれば、まるで私小説的なプロットが出来上がっている。いよいよ春樹先生も私小説的なジャンルで、これまで残せなかった作家的な足跡を刻もうとしているのか? などと云う想像も逞しくさせてしまうのだ。もちろんのこと村上春樹さんが此の小説で私小説的なプライバシーに基づいた物語を紡いでいるのかどうかは定かではない。

物語の冒頭で、「僕」の友人こと木樽がつけた「イエスタディ」の歌詞が開陳されている。共にビートルズ世代として思春期を過ごしていたことを示すのだが、其れ以上に深い三者の世代感を浮き彫りにさせている。事実的なことは判然としないのであり春樹さんの創作かとも思うが、とても力作であるのでここに引用してみる。

ーーー(引用開始)ーーー
昨日は
あしたのおとといで
おとといのあしたや
それはまあ
しゃあないよなあ

昨日は
あさってのさきおとといで
さきおとといのあさってや
それはまあ
しょあないよなあ

あの子はどこかに
消えてしもた
さきおとといのあさってには
ちゃんとおったのにな

昨日は
しあさっての四日前で
四日前のしあさってや
それはまあ
しょあないよなあ
ーーー(引用終了)ーーー

まるでパロディのような歌詞ではある。だが、全く真面目な意味合いがない訳ではない。女と別れて暮らす孤独な男たちの紡ぎ出す歌にも似ていて、孤独な男たちの本音の部分の心情を紡いでいるかのようなのである。ちなみに表題には「女のいない男たち2」とある。独身男性の生態をテーマにしているかのようだ。あらためて春樹さんの思春期の生き様が浮き上がって来る。それこそまるで私小説的なプロットの噴出である。まるで私小説的なプロットの新作を何故に春樹さんは著したのだろうか? 疑問は解けることはないが、一つの仮説がある。それは、過去における浮き世のごときの主人公たちの生態を消すということである。もててもてて仕様がないという一時期の春樹作品の主人公のにおいを消していきたいと図ったのではないのかという仮説である。ただし仮説はあくまでも仮説なので、其れ以上の追求は控えておくことにする。

村上春樹さんの最新掌編「ドライブ・マイ・カー」を読む

現在発売中の月刊文藝春秋誌に掲載されている、村上春樹さんの最新掌編的小説「ドライブ・マイ・カー」という作品を読んだ。

そうは売れていない役者の主人公の男性が、ちょっとした交通事故をきっかけにしてマイ・カーのドライバーを募集して、若い女性ドライバーがひょんな経緯により紹介され採用される。そして役者と女性ドライバーとの、新しい日常が始まっていく。ドライブに関しては非常な才能を持つ女性と役者の男性とがうちとけてきたそんなときのある会話がきっかけとなって、役者男性の過去のエピソードが明らかに、詳らかにされていく、と云ったストーリーである。

ドライブを行ないつつある男と女と過去の恋愛事情が交錯する、男と女の恋愛の苦悩をテーマにした86枚の書き下ろし小説であり、恋愛小説的にみればオーソドックスな筋立てであり、あまり春樹さんらしくはない。それでもやはり一気に読ませる村上春樹ワールドは健在ではあった。

「恋しくて」に収録された村上春樹さんの書き下ろし作品「恋するザムザ」を読む

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先日紹介した「恋しくて」には、村上春樹さんの「恋するザムザ」という作品が収録されている。最新の書き下ろし作品であり、小品的短編ではあるが、何よりも現在時点での春樹さんの立ち位置を示した作品として注目に値する。

「目を覚ましたとき、自分がベッドの上でグレゴール・ザムザに変身していることを彼は発見した。」

という書き出しで始まるこの作品は、改めて解説するまでもなく、フランツ・カフカによる名作「変身」がベースの元ネタになっており、「変身」の続きを連想させるかのように物語がつむがれていく。村上春樹さん自らのあとがきには、

「遥か昔に読んだぼんやりとした記憶を辿って『変身』後日譚(のようなもの)を書いた。シリアスなフランツ・カフカ愛読者に石を投げられそうだが、僕としてはずいぶん楽しく書かせてもらった」

と記されている。「1Q84」「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」といった長編大作をものにした後の息抜き的作品だと捉えたなら春樹マニア失格であろう。

もともと同作品は「恋しくて」という些か甘っちょろいタイトルに依存するかの如くのラブストーリーを網羅して仕上げたアンソロジーである。春樹さんが選者、訳者となって編まれていても、その甘っちょろさはどうしようもないくらいだ。

書き下ろしの春樹作品「恋するザムザ」は、甚大な影響を受けたであろうカフカの作品イメージとは少々異なっていて、シンプルで突破的なものが通底に流れている。相当略して云えば、単純なものの強みとでも云おうか…。

整理して述べてみれば、村上春樹さんはノーベル文学賞受賞に向けて自らの立ち位置を示すために敢えてこの小品的作品を発表したのだ。そしてその立ち位置はノーヘル文学賞受賞者としてマイナスには働かなけれども、決してフラスの要因をも生むことがない。カフカに迎合することが村上春樹の世界にとって有効であるはずがないのである。

この数年間が村上春樹さんの旬だと云われている。旬が過ぎれば春樹さんのノーベル文学賞などは泡と消えるのである。旬を過ぎて老いぼれた村上春樹さんなどおいらは見たくもないし、そんな老いぼれた後の彼の作品などは読みたくもないのである。

今の此の出口無き状況を突破するには、以前からおいらが何度も提言しているように「1Q84」の第4章、即ち「1Q84 BOOK4」の世界を新たに描ききることしかないのである。春樹さんははたしてそれを判っているのだろうか? はなはだしく疑問なのである。

ノーベル文学賞作家、アリス・マンローの「ジャック・ランダ・ホテル」(村上春樹訳)を読んだ

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今年のノーベル文学賞作家、カナダ人アリス・マンローの「ジャック・ランダ・ホテル」を読んだ。翻訳したのは村上春樹さん。本年9月に刊行されたばかりの「恋しくて」中の10作品の中の1作として収録されている短編である。

カナダ人女性作家アリス・マンローは、誰もが認める短編小説の名手だという評価が定着している。「現代のチェーホフ」等という最大級の評価もあるという。カナダ人としては初めての受賞であり、米国の隣の衛星国的な立場のカナダ国民にとっては非常に歓迎すべき受賞であったに違いない。村上春樹さんを差し置いて今年のノーベル文学賞を受賞した政治的背景には、カナダ人作家だと云うことが大きく影響していることが推測可能である。

一読した感想としては、まずは、男女の物語にしてはとてもテンポの良い成り行きや、乾いた表現の中に埋め込められている会話表現のユニークさなのだ。会話には直に顔を直面した音声的なものの他に、手紙の遣り取りとしての会話があり、実は後者が其の重要なポイントとなっている。

「ジャック・ランダ・ホテル」は、読み始めてのところではさっぱりといった遣り取りが続くのだが、実は別れた男と女の会話が、特別な文書の遣り取りの中で展開していくというストーリーである。翻訳者の村上春樹さんをして「まるで壁に鋲がしっかりと打ち込まれるみたいに。こういうのってやはり芸だよなあと感心してしまう。」と云わせたくらいな希有なる名人芸的な描写が活きていた。

村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の現在的意義(2)販売元の売らんかな的戦略はマイナス的要因となる

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「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の先日の発売日には、昼前の午前中に某ターミナル駅近くの書店で予約購入していた。だが翌日には他のターミナル駅近くの書店にてみたところ、店頭に1冊も無い状況であった。超人気作家としての村上春樹さんの人気度、存在感、影響力を改めて思い知らされることとなっていた。

村上春樹作品が売れる理由は一概に述べることはできかねるが、その一つに出版元の特異な販売戦略がプラス的に機能していることは否定できない。今回の出版元となる文芸春秋社も「1Q84」で新潮社が用いた販売戦略をそのまま借用して、図星的奏功を得ているという図式が見て取れる。発売日まで新作の内容を明かさず、潜在的ファンに対して最大限の飢 餓的状況を編み出しているのだ。

先週末の新作販売の熱狂のほとぼりが幾分冷めた今日抱いているのは、出版元による「売らんかな」的戦略は、春樹さんのこの後の展開にとってはマイナスに働くのではないか、という思いである。我が国における特筆される世界的作家の春樹さんだから、近年の間でノーベル賞受賞の期待が高まっている。そのような状況下において、出版元による謂わばごりおし
的販売戦略がもたらすマイナス的要因は決して取るに足らない問題ではないのである。