我国の酒場におけるノンアルコール族の生態

先日、上野界隈の居酒屋にて一献やっているところへ、奇妙な客が訪れた。店員の「お飲み物は?」との問いかけに、「ノンアルコールで」と返していた言葉が、その場においては奇妙珍妙の類に感じさせていたのである。

「ノンアルコールビールは無いんですか?」

とそう穏やかに聞く客に対して、若き女性店員の対応は極めてぞんざいであった。酒を飲まない客など客の資格に値しないと、多分そのくらいの目線で客を見下している光景であった。その店員が何と答えたのかは残念ながら把握できなかったのだが、その後のやり取りで、客が出した注文の豊富さに、つまりは呑兵衛を超えるくらいの通的のオーダーを受けて、店員はそそくさと後ずさりをするしかなかったようである。

おいらの知人でも「酒は飲めないが、酒場の雰囲気が好きなので、一杯付き合う」とのたまわれて酒を酌み交わした人たちは少なくは無いのであり、ノンアルコール族の人権と云うべき問題がそこに横たわっているとも云えるのかもしれない。

ともあれおいらはそんな光景を目にしつつ、やはりそのおやじに言葉を掛ける気にはならなかった。素面の人間と酒場で一緒にした時のこと、つまりはノンアルコール人間と一献やっていたときの、その気まずさが、改めて記憶に浮かんできていたのであり、そんな異質の人間に対する、ある種一定の防御本能が働いたのかもしれないのであった。

TPPは断じて「ビートルズ」ではないのであり、そんな比喩を公言する野田馬鹿総理には「大喝!」なのだ

まるで学級討論会レベルの民主党内のごたごたがまかり通っていると云う昨今の政治状況のことは即ち、日本の政治も相当に劣化したことを感じ取らざるを得ないのだが、それ以上にこっけいなのが、野田佳彦首相が語ったとされる「環太平洋連携協定(TPP)はビートルズだ」との発言である。

「日本はポール・マッカートニーだ。ポールのいないビートルズはあり得ない」

「米国はジョン・レノンだ。この2人がきちっとハーモニーしなければいけない」

我が国に国会議員は大量過ぎるくらいに存在すれども、こんなお馬鹿な発言を些かの衒いも無く公にしてしまう野田馬鹿野郎の、人間としての資質やら脳足りん的存在に対しては、逸早くの撤退を声を大にして主張しておきたい。一体全体、自らを「どじょう」に喩えた馬鹿総理は、どじょうの脳味噌どころか蝿や蚊のそれほどもない低能至極であることを公言したに等しいのである。

(些か酔いが回ってきたのでこの先は別稿に続きます)

婚活毒女こと木嶋佳苗被告裁判(3)似非「良心の呵責」を吐露した被告の行末は?

婚活毒女、詐欺女こと、木嶋佳苗被告の裁判が先日結審した。そして4月13日には初公判の判決が言い渡されることとなった。結審前の被告は、云わば似非良心の呵責というものを訴えて、審議は終了した。弁護団はそんな被告の言い分を補強することに躍起となった。そんな茶番劇が繰り広げられていた。

これからの約1ヶ月の間、裁判員として司法の場に居合わされることとなった人たちの気苦労はと云えば、それは途轍もない甚大なものであろうと想像する。結果がどういうものになうとも、今のこの時点における裁判員の立場は、云わば尋常ならざる立場に立たされているのであり、このような司法の場の状況を招来させたことについて、釈然としないものを感じ取っている。

すなわちこのような司法の場の招来はつまりは、アメリカ式司法制度の「陪審員」制度を模倣、真似したものに他ならず、加えて指摘するならば、物的証拠に依って判決できない類いの事案について、所謂「状況証拠の積み重ねによる実証」の場に、日本国民市民が駆り出されたという現実的要素が、端倪すべかざらぬポイントであるということだ。

「物的証拠」が無いという状況証拠の判断を、一般市民に委ねるというのが、アメリカ的「陪審員」制度の柱である。そんな重要なことを曖昧にしながら日本の裁判制度の改悪が進行している。

そもそもといえば、悪しき米国的詐欺的犯罪が横行するようになって、我国の司法も「疑わしきは罰せず」「疑わしきは被告人の利益に」などと悠長なことを云っていられなくなったということに他ならないのである。其のくらいに現代日本も悪しく米国化が進行していると云ってよい。

(これは非常に大切なことなのであえて触れるが、TPPが今後我国にて適応されたならば、我が愛すべき日本という国が極悪の米国的国家となっていくことが必至である。絶対にTPPは阻止しなければならないのである)

木嶋佳苗被告裁判の弁護団はそんな点を突いてか、裁判人に対する圧力を極めている。人間の判断を阻害するほどの常軌を逸した主張は、今後の裁判の行方を左右するに違いないであろう。

婚活毒女こと木嶋佳苗被告裁判(2)男の落ち度とは?

昨日は木嶋佳苗被告裁判の一つの視点として、エッセイストの北原みのりさんが指摘した「男の落ち度」について触れた。男女間のトラブル、事件を惹起させる要素として「女の落ち度」と同様に「男の落ち度」が追及されてしかるべきであるという客観的視点とともに、やはり常識的には考え難い「男の落ち度」が蔓延しつつあることを感じ取るからであった。

一時代前までは、悪女、毒女と云った類いの女性は人並み優れた美貌がなくてはならなかった。男は女の美貌に目がくらみ、危険な罠へと囚われていくというのが、小説、映画、その他諸々のストーリーの常道であり、だからこそ男の「純情」が価値ある代物としてテーマと成り得たのである。

然しながら木嶋佳苗被告ときたら、人並みはおろかほとんどの男性陣にとっての興味関心の埒外であり、通常ではこんな女に引っ掛かるはずがないと云えるくらいのタイプなのだから、或いは逆転の興味津々状態であったといえるのかもしれないし、そう考えるしか納得がいかない。ともあれ、「何故にこんな女に引っ掛かるのか?」という男の関心と、「どうしてこんな女が男を蹂躙できるのか?」といった女の興味とが、綯い交ぜに交錯した故の、今日的に腐乱した興味関心のターゲットとなっているということが云えるのである。

「女ならば誰でも良い」「結婚できるなら騙されたとて構わない」「ロマンチックな恋愛がしてみたい」…等々の、当世男性陣に蔓延る情けなくもある願望が、木嶋佳苗被告を産み出す肥やしになったということは確かなことなのであろう。

婚活毒女こと木嶋佳苗被告裁判に関する一考察(1)

婚活詐欺師であり、3人の男の殺人罪で起訴されている木嶋佳苗の裁判が、稀に見る百日裁判となって、マスコミ媒体を賑わせていたが、興味関心の焦点はすでにそこにはなく、木嶋被告と殺害された男性達との関係に移っていると云えよう。

3名もの男性が毒女の歯牙にかかったのは、警察の初動捜査の見込み違い、怠慢だ、と云った見解が一般的である。男性達を殺害する以前に、睡眠薬で数度と眠らされて身の危険を感じ、警察に出頭した人物が少なからず居たにもかかわらず、警察が「事件性無し」として黙殺していたと云う事実、或は殺害されたことが明白である被害者の司法解剖を行なわなかったことなどが、警察への信頼喪失に拍車を掛けている。

だが最も注目すべきポイントはと云えば、毒牙にかけられた男性達が、何故ゆえに被害を防げなかったのか? 決して美人でも魅力的でもない、いわば整形不細工女に対して、あれほどに無防備になっていたのか? 毒牙を仕掛けた女が悪いのか、或はみすみすとしてそんな毒牙に掛かった男が悪いのか――と云うポイントにこそ、興味関心のスポットは集中的に当てられているのであろう。

「週刊朝日」誌上で「北原みのりの100日裁判傍聴記」を公開している北原氏によれば、殺害された男達は「馬車に乗った姫」を夢見たのではないか? という一面があり、しかも男達の「落ち度」に言及してこう書いている。

(引用開始)―――――
まるで何も感じないかのように、次々に男たちから金を引き出す佳苗。頭がフラフラになりながら、田舎に帰ろうと首都高を歩いてしまったM氏や、1泊10万円のリッツ・カールトンをプレゼンするK氏ら、騙された男性たちはピュアだ、気の毒だ、という声もある。確かに気の毒ではあるが、私には公判が始まって以来、頭のどこかで考えてしまうことがある。
もしこれが男女逆だったら? 考えても仕方ない前提が、何度も頭に浮かぶ。初対面の男とホテルに行く女性や、男の家にすぐあがる女性や、婚活サイトで男を探す女に、世間は“ピュア”と言うだろうか。ラブホテルで睡眠薬を飲まされた女を“純情”と言うだろうか。「被害者にも落ち度があった」という聞き慣れた声がもっと飛び交うんじゃないか。女と男の非対称性に改めて気づかされる。私は佳苗に、いつも何か、気づかされる。
(引用終了)―――――

けだし当然の指摘である。男性の「落ち度」は滑稽なくらいに馬鹿馬鹿しさを増している。毒女の蔓延する土壌が開墾されつつあるのである。(この稿は続く)

橋下徹の「大阪都構想」の思い上がり

本日未明の「朝まで生TV」にて、橋下徹を囲んでの「大阪都構想」に関する云々の議論がなされていたのだが、けだし厚かましくも思い上がりによる橋下徹の議論展開に対してはとても胸糞悪き思いを充満させてしまったのであり、稀にみるほどのTV番組の如何わしさを露呈させるものであったと云わねばならない。

メインコメンテータの橋下に配慮して生番組の撮影は大阪にてなされていた。それは敵陣に乗り込んで行なった撮影とは云い難く、敵陣に塩を送ってなおかつもTV局自らの防衛力の放棄を示した行為にも異ならなかったのである。司会者田原の表面上は威勢の良い司会っぷりとは裏腹に、番組構成上の様々な汚点が垣間見える、悪しき典型の番組と成り下がってしまっていたのであった。

野田佳彦によるどじょうバブルで、庶民生活は逼迫しているのだ

先日、都内下町南千住の居酒屋「大坪屋」に立ち寄った際に、当店の売りの看板メニューである「どじょう鍋」が提供されなかったのだった。もとより「大坪屋」といえば、おいらが度々下町行脚のときには訪れるスポットである。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=2200

「どじょう鍋」を注文したおいらに鸚鵡返しに「どじょうは仕入れがないんです」と返答した女将、そのときの大きな掛け声でその場は収まったのだが、しかしながら疑問は却って益々増大していた。どじょうが売りの居酒屋にどじょうが入荷しないという異常事態である。

庶民の行きつけの居酒屋で、庶民の味こと「どじょう鍋」が、かの野田佳彦のぼんくらおたく風演説で、バブルに突入してしまい、今時流通するのは駒形あたりかあるいは料亭等の特別な場所に限定されてしまったのだ。どじょうバブルを惹起させた野田の責任は甚大である。彼はこの落とし前をどう取るつもりなのか聞いてみたい。

もとより「どじょう」には責任はないのである。おいらもどじょうが大好きである。どじょうを持ち出し、中途半端に会田みつおさんの詩を引用したいんちき野田佳彦。

野田は相田さんの詩を盗用しながらも自らの恣意的な解釈によってオリジナルを歪めていたのであり、詩人に対する尊敬の念をもかけている。一流の詩が台無しである。つまり野田は会田さんの名詩をいい加減に引用しつつ馬鹿下駄政治的メッセージにりようし、馬鹿げた政治的メッセージとして利用していたのだから、その罪は軽くない。 続きを読む

月刊文藝春秋に「尾崎豊の『遺書』全文」が掲載されている

先日発行された「月刊文藝春秋」に「尾崎豊の『遺書』全文」と題されたレポートが掲載されている。副題には「没後二十年目 衝撃の全文公開」とある。筆者は加賀孝英。

出版直後からセンセーショナルな話題となっているが、内容は、尾崎豊の「死」の真相を婉曲的に「自殺」と断じた内容となっている。その根拠とされているのが、尾崎豊が死の前に書き綴ったという2通の「遺書」の存在である。

遺書とされるその2通の内容について、今回初めて「公開」されたという形でのレポートなのである。ただしその物理的な証拠となるべき「画像」等については一切公開されてはいないのが、非常に残念であり不可解でもある。

ーーーーー
先立つ不幸をお許し下さい。
先日からずっと死にたいと思っていました。
死ぬ前に誰かに何故死を選んだか話そうと思ったのですが、
そんなことが出来るくらいなら死を選んだりしません。
(略)
あなたの歌が聞こえてきます。
まだ若かった頃のあなたの声が、
あなたのぬくもりが甦ります。

さようなら 私は夢見ます。
ーーーーー

引用した文章を「遺書」と見るか否かについては見解が異なるところだ。アーティストであり生来の詩人であった尾崎豊が、気まぐれに、あるいは思い付きで記した言葉だととることも可能である。レポートの筆者はこの文書をもって繁美夫人への「遺書」だと断じるのだが、いささか無理筋の論理展開ではないのかと思う。

以前からおいらは、繁美夫人が尾崎豊の死に影響を与えた等々という「推理」には与しないし、死の当日のあれこれを聞き及んでいる人間としては、彼の死が不遇なアクシデントの積み重ねによる極めて不幸な死であると感じているものなのである。それだからこそ、ここに来ての尾崎豊の「自殺」論の主張には大いに首を傾げざるを得ない。自殺する人をおいらは決して否定しないが、尾崎さんについては、彼はまだまだ生に対する執着が強かったであろうし、おいそれと「自殺」という幕引きを演じることなどは決して無かったであろうと確信している。

いつか改めて、加賀氏のレポートの論理矛盾について記していきたいと考えているところだ。

TPP絶対反対! TV芸者みのもんた等よ恥を知れ

TPPの実態がわが国民にはほとんど何も知らされることの無いままに、数日の間で野田内閣のなかでTPP参加の方針が決定されようとしている。全くもって馬鹿馬鹿しく由々しき事態と云わねばならない。

野田某と云うポッと出の政治家の存在意義がこんなことであったとするならば、倒閣運動に追い込まねばならないと考える。あるいはもっと云って民主党という政党の内実が自民党以下のこんなものだったとするならば、こんな政党などは百害有って一利無しの代物であると決するべきである。

日本国民の知的レベルに期待すること等は望むべきも無く、しかも報道各局はといえば、「まずはTPPありき」といった誤ったメッセージを発信し続けている。

そんなメッセージの伝達者としてのみのもんたにいたっては、推進、反対の意見の中での論点整理することも無く、「やるといったらやるんだ!」という、過去の莫迦総理の発言を自らの意志発言の傍証とみなせるような発言を、云わば確信犯的に繰り返している。こんな莫迦なTV芸者を持った日本国民こそ、大きな迷惑であると声を大にして主張したい。TV芸者風情が国政を牛耳られるなどと考えて欲しくは無いものであるし、もしそんな勘違いが罷り通っているとしたら、万難を排して勘違いの矯正に努めていきたいと思うものである。TV芸者みのもんた等よ恥を知れ! なのである。

上杉隆「ジャーナリズム崩壊」から読み解くメディアスクラムの異常な姿

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菅直人前首相に対する異常な追い落とし劇については未だに記憶に生々しいが、その背景にある大きな要因の一つが、日本マスコミ界に特有の「記者クラブ」という奇妙なる親睦団体の存在なのだ。この一冊によりそのことを認識した。

改めて上杉隆氏の「ジヤーなリズム崩壊」を読んでみたのだが、滑稽なまでに形骸化して糞ったらしい我国マスコミ人種達のあきれた所業と様態とが浮き彫りにされたと云って良い。

同書でも重ねて述べられているが、我国のマスコミ人種の横並び意識というものは日本固有のものだ。これは、ジャーナリストという職業的自覚を涵養する以前に、会社組織(所謂大手マスコミ)の一員としての意識を優先するのだという、途轍も無く愚かな慣習により雁字搦めにされているものであり、何をか云わんやの極北であるのだ。

本来は辞任すべきはずの無かった菅直人前総理である。誰が、何を目的にして、どういう方策にて、追い落としをはかっていったのか? 東電を始めとする腐った産業界の人脈によるものであることは明らかなのだが、それらの走狗として、マスコミ(マスゴミとして揶揄されるそのもの)の、恥ずべき生態が、日に日に明らかになっていく。

これからは「第3の権力」と称される「マスゴミ」の動向に監視の目を注いでいくことがますます不可欠になってていくのだ、残念なことではあるが…。

食べるラー油は中華料理にこそ似合うもの、ご飯にかけるものではない

一時期の異様なブームは去ってほっとしたが、「食べるラー油」なる、調味料とも、食材とも何ともいえない代物には些か参っていたのだった。

中華料理、中国料理の店に行けば、以前から其れらしき調味料は在ったのである。餃子に添える調味料の一つとして、酢や醤油と合わせてみれば、それは絶妙の味のハーモニーを奏でていたものであった。だがそんなものを後生大事にマスコミ報道に載っけてしまったが故に、異様な「食べるラー油」ブームは作り上げられたといってよい。

そもそもラー油の材料となるものは、唐辛子を筆頭にして大蒜、生姜、葱、玉葱、等々をたっぷりの胡麻油等々の食物油に入れてエキスを抽出すると云う行程を経て作られる。

言葉を換えれば胡麻油(あるいはサラダ油等を含む)にエキスや味付け等を施されたものであるからにして、これをご飯にそのまま掛けたりしたらば、ご飯に胡麻油、サラダ油を掛けて口にするのと大差無い悪しき食物摂取の連鎖が生じてしまうことになる。こんな非常識な食物摂取の連鎖は在り得無いと云うのが理性的な判断である。

つまりには、ご飯には胡麻油やサラダ油を掛けたりすることは至極邪道な食文化であると同様に、食べるラー油などというものを簡単にご飯にのせて食べたりしては、食物連鎖の異常を来たしてしまうのであり、そういうのはいけないぞということなのである。

TV番組とはこうにも詰まらない代物だったのか

TV番組編成替えがこの時期の様であり、どのチャンネルをひねっても特番だらけのウイークの様でもある。

TV人間ではないおいらにとってTV番組とは、今では雑音、雑ビジュアル、雑動画…等々の類でしかないメディアなのだ。

幼少の頃からニュース報道番組に対しては人並(子供並)外れた好奇心を抱いていたこともあったが、今やそれらのジャンルは、ITニュースをはじめとするITメディアにとって替わられている。

例えば先日の台風襲来の日などは、ツイッター掲示板にてターミナル駅の混雑ぶりや列車の運行状況を把握することが出来たのであった。こうした痒いところに手が届くくらいの情報ツールとしては最早ITメディアはTVを遥かに凌いでいる。

最近のTVツールはと云えば一々にチャンネルをひねる必要もなくリモコン操作での変更が容易であるので、色々なチャンネルをチェックしていたのだが、やはり何処もが詰まらない番組の垂れ流しをしていたのを目の当たりにしたのだった。

大衆迎合ツールとしてのTVは、最早、ニュース報道を伝える意義も消え失せて、娯楽ツールとしての意義も失せつつある。いずれは泡沫メディアとしての地位に陥るのは必定の感がある。TV番組とはこうにも詰まらない代物だったのか。

TVでの池上彰解説のどじょう内閣賛歌は異様だったが…

新聞報道等によれば、野田佳彦新総理の評判がなかなか良いそうだ。

新聞各社の調査によれば軒並み60%以上の支持率ということであり、戦後内閣の何番目だとか云う報道がされていた。本日のTV番組でも池上彰という元NHK子供番組担当者が小学校の社会科授業よろしく、野田首相の高支持率の解説などを行なっていたのであり、またまたTV芸者よろしく復帰したい意向のようなのでもある。

低姿勢であり慎重、かつ周囲への目配りもよろしいと云うのが理由のようだが、新米通商大臣の舌下事件などもあり、内閣自体はそれほどの安定しているとは云えない。自らをどじょうになぞらえた新首相だが、これからどのような日本の舵取りをして行くことになるのか?

野田新政権には期待も何も無いということを前提に、これから述べていくのであるが、どじょうだか何だか知らないが、どじょうの泥の皮がいずれ剥がれていき、そんな泥のはがれた野田氏の素顔は、果たして国民にどう映っていくのだろうか?

泥臭くて不細工だったのは実は表の顔であり、いずれは素の顔(泥の皮が剥がれた相貌)をあきらかにさせることが来ることなのだろう。

改めて云うがおいらは何も期待していないのだが、そんなときが来てあたふたするのは民主党関係者のみならず、(協定的活動を行っている)報道関係者や、あるいは自民党等の野党関係者、その他様々な関係者なのかもしれない。

菅直人前総理をコケにしていた輩達に対しては、いずれ刃が己にのしかかってくることはお天道様ならば良くわかっていると思われる。馬鹿者たちの哀れ也候。

造反無理政局の行方6 野田佳彦内閣どじょう政治の限界

この「造反無理政局の行方」のサブタイトルでブログを記すのもいよいよ最後となった。

野田佳彦氏が海江田万里を破り民主党代表に就任したことで、最悪のシナリオは回避されたようだ。ただ野田という政治家については知名度も低いどころかこれまでにほとんど政治的活動に関して注目されたことが無く、いかにもぽっと出の感が否めない。代表選挙の演説が高い評価を得ているようだが、日本国内の政治環境の中ではそうかもしれないが決して国際的に通用する様なレベルではない。彼の経歴についてはほとんどを知らないが、年期の入った雄弁役者といった以上のインパクトを与え得るスピーチでなかったことは確かである。

そんなスピーチで彼は自らを「どじょう」になぞらえ、金魚になれはしないのだから、自分はどじょうのように泥臭い政治を行なうのだと宣言してみせている。どじょうは美味いが金魚は食えない。食ってなんぼのどじょうがエライのだという、泥の中に生活の基盤をもち活動を行う人々の心情に仮託させた比喩として捉えることもできよう。新幹事長に任命された輿石東氏の座右の銘に、野田氏が乗ったという報道も一部には流れている。政治的駆け引きの言葉として受け取ることも可能である。

野田氏のこうした発言は相当な自信の現れとして受け止められている。自らを地味な存在、卑下した存在として定義してみせることで、相手との融和を導き出そうという狙いを秘めているのだろうことが推測可能だ。菅直人前代表が相手との対立軸をひたすら強調することで、「脱原発」や「脱金権政治」を少しずつ実現させてきたことと比較すると、一見大人の態度にも見なされないことは無い。「泥臭い大人の政治家」といった評価が定着するのにそう時間はかからないだろう。だがそれこそが最大の欠点であり、そう遠くない今後において思い掛けない陥穽を招来する大きな要因でもあるのだ。

党内融和や大連立等というものは何の意味も持たないことは、数々の歴史が証明していることでもある。「融和」を目指した政治等というものは前世紀の遺物であるということを、野田氏ははっきりと認識する必要があるだろう。つまりは彼が在任中の政治はこれまで以上に停滞した意味の無い(ナンセンスな)時間とともにあるということが、残念ながら内閣の発足前から見て取れるのである。

造反無理政局の行方5 悪夢の政局が押し寄せている

このサブタイトルでブログを記すのも最後かもしれない。あるいはもう1回くらいは機会が訪れるのかもしれないが、本日は菅直人総理が正式に辞意を表明し民主党の新しい代表を選ぶスタートの日となった訳であり、何か日にちの因縁を感じるのだ。かといって新しく選出される新代表、新総理に期待はおろか興味がある訳など毛頭無く、云わばこれがレクイエムの序章とでも云ったところだろうか…。

期待も興味も無いと記しながら、新代表が海江田万里有利と聞いては穏やかではあり得ない。小沢一郎の支持を取り付けたことで一躍トップランナーの仲間入りとみなされている。仮に海江田が新総理になったらば、脱原発に向かうはずのエネルギー政策の全てがご破算になることが目に見えている。何としてもそれだけは阻止したいという思いが強烈に湧き上がっている。小沢一郎に操られる海江田万里など悪夢でしかないことははっきりしている。

ここまで来たらもう菅総理の続投の芽は無くなったが、他にまともな候補は居ないのか? 他の誰でも脱原発の道程を進むしかないのだが、あまりにも信頼できない候補者ばかりである。

今のここに来て記すのが妥当かは判断しかねるが、菅総理がもしあの時(9/11以後の数日間)総理でなくて誰か別の人物が、例えば麻生太郎か安倍晋三などが居座っていたらと考えるとぞっとする。官邸で例えば「どんと構えて」動くことなく、ただただ東電からの報告を待っていたような馬鹿な総理が居たらとすれば、最早壊滅的な東北地方の原発汚染がもたらされていたことが明らかであろうからだ。

其の時東電の幹部が「撤退」という名の責任放棄を企図していたことは様々なメディアが報じているところだ。当時、自衛隊や消防隊が駆けつけて大変な尽力を傾けていたことは感服するばかりだが、ここに東電の人間が居ない、もっと云えば逃げてしまった状況を想像すれば、現在の復旧、復興どころか、更なる対原発の一手も打つことが出来ない状況がもたらされたことも在り得るのだ。ソドムの市への第一歩となった可能性がある。

菅直人がそんな東電の逃亡を阻止したことはもっと評価されるべきでる。麻生太郎か安倍晋三でなくて良かったと本当に考えているところなのだ。

詐欺師跋扈の世の中をどうにかできないのか

上州の実家に帰省して親の話を聞いていると、「オレオレ詐欺」「振込め詐欺」紛いの電話や勧誘やらが増えているのだという。少し前には町内会から注意するようにという告知があったのだが、その前後にはしつこい電話の勧誘が続いていたので、なるほどこのことかと合点していた。どこからか入手した個人情報リストを元に高齢者宅を狙って電話を掛けめくるパターンの様であり、特に独居高齢者が狙われていることが見て取れる。

我が両親は幸い呆けてもおらず独り暮らしでもないのでそのような電話は何度も撃退してきたが、今後のことを考えるとこのままでは居られる訳も無く、地域の生活相談所や警察関係の連絡先を調べておいたりと、何らかの予防的対策をとる必要が生じているようだ。

人を騙し騙されることをまるでゲームのように捉えて放置し続けてきた金融市場主義、新自由主義的風潮のつけが、ここへ来て破裂しそうな社会不安を煽っている。これも元をただせば、小泉・竹中らによる金融市場主義的新自由主義の過ちの帰結である。こんな主潮は逸早く断ち切っておく必要があることは明らかである。

余談になるが米国によって今まさに押し付けられようとするTPP等は、断然として即刻拒否の態度を示すべきなのだが、現民主党政権は優柔不断で何とも頼りない。第二の自民党と云われる所以でもある。菅直人総理には、脱原発のみならず、アンチTPPにおいてももっと決然としてリーダーシップを発揮してもらいたいものだ。

造反無理政局の行方5 海江田万里の三文芝居に惑わされてはならない

海江田万里という経産大臣は色々なパフォーマンスを駆使して政局の混乱に拍車を掛けている。絶句してみたり涙の無い嗚咽を演じてみたりと、まるで三文役者そのものである。もともと役者の自覚があるならば、本物の涙を流すくらいの演技的訓練はしておくべきだがそれさえも無い、ただ単に付け焼刃的パフォーマンスの醜い光景を見せられるばかりである。

海江田が意図すべきは菅直人総理大臣の追い落としに間違いないが、ここに来てまるで、勲功章を目指しているのではないかと勘繰られる動きが見られるほどであるからいいかげんにして欲しいのだ。くだらないタレント政治家の最後のパフォーマンスを黙って見過ごしていくわけにはいかないのだ。

現政局にあっては造反無理的政局の動きに加担する政治家は須らく、こそこそ政局を嗅ぎまわる政治屋風情に過ぎないことは明らかであり、今後の菅直人内閣の意義が浮かび上がってくるのである。

マスコミはほどよく傀儡されている。傀儡する主語的存在は、日本の軍産複合体である。抽象的に云えばそうなのだが、もっと具体的な姿が明らかになろうとしている。東電をはじめとする電力産業複合体である。電産複合体はピエロやポチ犬を雇っていて、ときどき誰彼がそんな役目を買って出ている。彼らにとって三文芝居役者の海江田万里を操ることなどは至極簡単なるオペレーションのひとつに過ぎないのである。

造反無理政局の行方4 菅直人総理の目指すべき展望について

ここへ来て「電力」を取り巻く利権絡みの異常な実態が漸く明らかになってきている。それかあらぬか電力利権にあずかってきた一部人間達による、菅直人総理の追い落としをはかったあれやこれやの企みは異様を極めていると云って良い。

経団連会長だか、大学の学長だかが、菅直人氏をののしっている報道映像等を映像で見れば、「電力関係者」たちの浮き足立った様が目に透き通る映像として明らかになっているのである。

まさに「裸の王様」にも例えられる菅直人総理には、もうひと踏ん張りして頑張ってもらって、我国の「脱原発」への確かな道筋をつけてもらいたいと希望している。「大連立」などというもっともらしい政治的駆け引きは、電力絡みの守旧派を利することは明らかであり、絶対に阻止しなくてはならない。これは民主、自民、公明、その他諸々の政党を横切って侵食した邪悪的政局のパワーを阻止しなければならないことをも意味しているのだ。

猛暑に突入する中で関東圏その他の国民は、きちんと電力のコントロールを維持している。「電力不足」といった仮想の危機を煽り立てているのは、東電をはじめとする電力関係者であることは、時間の経過と共により一層明らかになっていくことだろう。

誰かが菅直人氏を称して「バルカン政治家」と述べていた。決して褒め言葉ではないが、当たらずといえども遠からずの評価が与えられているということだ。こんな評価も逆手にとって、菅直人氏にはまだまだ「脱原発」の確固たる道筋を付けてもらいたいと思うのである。

マスコミ先行で取り沙汰されている「脱原発解散」もありだ。こういう時期において、このくらいの政治的パフォーマンスは必要である。民主党が下野するくらいの矮小な展望を吹っ切って「脱原発解散」すれば、その先の展望も見えてくると云うものなのである。

造反無理政局の行方3 海江田大臣の辞任後の僅かな希望が見える

菅直人内閣総理大臣追い落としの政局は相変わらず続いているが、本日国会では海江田大臣の辞意が表明され、菅内閣の脱原発シフトは進んでいく条件が漸く生まれつつある。

いずれ辞任するとはいえ菅直人の最後であり最大の使命が浮かび上がりつつある。脱原発というこの道を開き突き進むことが、菅内閣の使命なのであり、ここへきてかまびすしいマスコミ、野党、一般市民、等々の雑音に惑わされないことが大切だ。何時最期のときが訪れるかも分からない菅直人内閣に、今こそのエールを送っておきたいと思う。

誰が云い出したか知らないが、今の政局が「液状化」を来たしているという指摘は当たっているだろう。そもそも液状化を発生させる要素と云うものは、旧海岸地域の埋め立て、陸地化といった不自然極まれる自然に対する余計なアプローチが生み出したものである。

こんな人工的な地域を「ウォーターフロント」等と称していたことなどは、まさに人間の浅知恵が生んだ、浅はかなる驕りの結末であると云うしかない。

「液状化」を生じているのは政界のみならず、マスコミ界も同様である。「市民主義」「リベラリズム」等々の、聞こえの良いマスコミ関係者たちが依って立つそのドクマは、どろどろの液状化した絵空事として水泡に帰そうとしている。

暗愚な夢を見た、あるいは見させてきたマスコミ関係者達の総括が、これから行われなければならないのである。

松本龍(元復興相)とは、ただの莫迦なのか?

鳴り物入りで創設された「復興相」の初代大臣こと松本龍という男が、その発言で物議を醸していたのは、ほんの2日位前だった。被災地の岩手、宮城に出向いては、それぞれの県知事との奇天烈な遣り取りが、TVニュースを賑わせていたものであった。

詳細に関してはその事情が判然としないのだが、松本龍という男は、なんだか大臣にでもなれば世の中が自分の思い通りになるとでも考えていたのか? あるいは、たとえば自社の社員か平取締役役員か何かの気分で被災地に乗り込んで行って、対知事会談に臨んだということなのだろうか?

いずれにしても中途半端な結末であり、事後のイメージは最悪である。もう少し引っ張って次なる筋立てを楽しませてくれるものだという、昨日まではある種の期待感もあったが、それさえも無かったという事か。妙にがっかり気分なのである。