我国の酒場におけるノンアルコール族の生態

先日、上野界隈の居酒屋にて一献やっているところへ、奇妙な客が訪れた。店員の「お飲み物は?」との問いかけに、「ノンアルコールで」と返していた言葉が、その場においては奇妙珍妙の類に感じさせていたのである。

「ノンアルコールビールは無いんですか?」

とそう穏やかに聞く客に対して、若き女性店員の対応は極めてぞんざいであった。酒を飲まない客など客の資格に値しないと、多分そのくらいの目線で客を見下している光景であった。その店員が何と答えたのかは残念ながら把握できなかったのだが、その後のやり取りで、客が出した注文の豊富さに、つまりは呑兵衛を超えるくらいの通的のオーダーを受けて、店員はそそくさと後ずさりをするしかなかったようである。

おいらの知人でも「酒は飲めないが、酒場の雰囲気が好きなので、一杯付き合う」とのたまわれて酒を酌み交わした人たちは少なくは無いのであり、ノンアルコール族の人権と云うべき問題がそこに横たわっているとも云えるのかもしれない。

ともあれおいらはそんな光景を目にしつつ、やはりそのおやじに言葉を掛ける気にはならなかった。素面の人間と酒場で一緒にした時のこと、つまりはノンアルコール人間と一献やっていたときの、その気まずさが、改めて記憶に浮かんできていたのであり、そんな異質の人間に対する、ある種一定の防御本能が働いたのかもしれないのであった。

TPPは断じて「ビートルズ」ではないのであり、そんな比喩を公言する野田馬鹿総理には「大喝!」なのだ

まるで学級討論会レベルの民主党内のごたごたがまかり通っていると云う昨今の政治状況のことは即ち、日本の政治も相当に劣化したことを感じ取らざるを得ないのだが、それ以上にこっけいなのが、野田佳彦首相が語ったとされる「環太平洋連携協定(TPP)はビートルズだ」との発言である。

「日本はポール・マッカートニーだ。ポールのいないビートルズはあり得ない」

「米国はジョン・レノンだ。この2人がきちっとハーモニーしなければいけない」

我が国に国会議員は大量過ぎるくらいに存在すれども、こんなお馬鹿な発言を些かの衒いも無く公にしてしまう野田馬鹿野郎の、人間としての資質やら脳足りん的存在に対しては、逸早くの撤退を声を大にして主張しておきたい。一体全体、自らを「どじょう」に喩えた馬鹿総理は、どじょうの脳味噌どころか蝿や蚊のそれほどもない低能至極であることを公言したに等しいのである。

(些か酔いが回ってきたのでこの先は別稿に続きます)

婚活毒女こと木嶋佳苗被告裁判(3)似非「良心の呵責」を吐露した被告の行末は?

婚活毒女、詐欺女こと、木嶋佳苗被告の裁判が先日結審した。そして4月13日には初公判の判決が言い渡されることとなった。結審前の被告は、云わば似非良心の呵責というものを訴えて、審議は終了した。弁護団はそんな被告の言い分を補強することに躍起となった。そんな茶番劇が繰り広げられていた。

これからの約1ヶ月の間、裁判員として司法の場に居合わされることとなった人たちの気苦労はと云えば、それは途轍もない甚大なものであろうと想像する。結果がどういうものになうとも、今のこの時点における裁判員の立場は、云わば尋常ならざる立場に立たされているのであり、このような司法の場の状況を招来させたことについて、釈然としないものを感じ取っている。

すなわちこのような司法の場の招来はつまりは、アメリカ式司法制度の「陪審員」制度を模倣、真似したものに他ならず、加えて指摘するならば、物的証拠に依って判決できない類いの事案について、所謂「状況証拠の積み重ねによる実証」の場に、日本国民市民が駆り出されたという現実的要素が、端倪すべかざらぬポイントであるということだ。

「物的証拠」が無いという状況証拠の判断を、一般市民に委ねるというのが、アメリカ的「陪審員」制度の柱である。そんな重要なことを曖昧にしながら日本の裁判制度の改悪が進行している。

そもそもといえば、悪しき米国的詐欺的犯罪が横行するようになって、我国の司法も「疑わしきは罰せず」「疑わしきは被告人の利益に」などと悠長なことを云っていられなくなったということに他ならないのである。其のくらいに現代日本も悪しく米国化が進行していると云ってよい。

(これは非常に大切なことなのであえて触れるが、TPPが今後我国にて適応されたならば、我が愛すべき日本という国が極悪の米国的国家となっていくことが必至である。絶対にTPPは阻止しなければならないのである)

木嶋佳苗被告裁判の弁護団はそんな点を突いてか、裁判人に対する圧力を極めている。人間の判断を阻害するほどの常軌を逸した主張は、今後の裁判の行方を左右するに違いないであろう。

婚活毒女こと木嶋佳苗被告裁判(2)男の落ち度とは?

昨日は木嶋佳苗被告裁判の一つの視点として、エッセイストの北原みのりさんが指摘した「男の落ち度」について触れた。男女間のトラブル、事件を惹起させる要素として「女の落ち度」と同様に「男の落ち度」が追及されてしかるべきであるという客観的視点とともに、やはり常識的には考え難い「男の落ち度」が蔓延しつつあることを感じ取るからであった。

一時代前までは、悪女、毒女と云った類いの女性は人並み優れた美貌がなくてはならなかった。男は女の美貌に目がくらみ、危険な罠へと囚われていくというのが、小説、映画、その他諸々のストーリーの常道であり、だからこそ男の「純情」が価値ある代物としてテーマと成り得たのである。

然しながら木嶋佳苗被告ときたら、人並みはおろかほとんどの男性陣にとっての興味関心の埒外であり、通常ではこんな女に引っ掛かるはずがないと云えるくらいのタイプなのだから、或いは逆転の興味津々状態であったといえるのかもしれないし、そう考えるしか納得がいかない。ともあれ、「何故にこんな女に引っ掛かるのか?」という男の関心と、「どうしてこんな女が男を蹂躙できるのか?」といった女の興味とが、綯い交ぜに交錯した故の、今日的に腐乱した興味関心のターゲットとなっているということが云えるのである。

「女ならば誰でも良い」「結婚できるなら騙されたとて構わない」「ロマンチックな恋愛がしてみたい」…等々の、当世男性陣に蔓延る情けなくもある願望が、木嶋佳苗被告を産み出す肥やしになったということは確かなことなのであろう。

婚活毒女こと木嶋佳苗被告裁判に関する一考察(1)

婚活詐欺師であり、3人の男の殺人罪で起訴されている木嶋佳苗の裁判が、稀に見る百日裁判となって、マスコミ媒体を賑わせていたが、興味関心の焦点はすでにそこにはなく、木嶋被告と殺害された男性達との関係に移っていると云えよう。

3名もの男性が毒女の歯牙にかかったのは、警察の初動捜査の見込み違い、怠慢だ、と云った見解が一般的である。男性達を殺害する以前に、睡眠薬で数度と眠らされて身の危険を感じ、警察に出頭した人物が少なからず居たにもかかわらず、警察が「事件性無し」として黙殺していたと云う事実、或は殺害されたことが明白である被害者の司法解剖を行なわなかったことなどが、警察への信頼喪失に拍車を掛けている。

だが最も注目すべきポイントはと云えば、毒牙にかけられた男性達が、何故ゆえに被害を防げなかったのか? 決して美人でも魅力的でもない、いわば整形不細工女に対して、あれほどに無防備になっていたのか? 毒牙を仕掛けた女が悪いのか、或はみすみすとしてそんな毒牙に掛かった男が悪いのか――と云うポイントにこそ、興味関心のスポットは集中的に当てられているのであろう。

「週刊朝日」誌上で「北原みのりの100日裁判傍聴記」を公開している北原氏によれば、殺害された男達は「馬車に乗った姫」を夢見たのではないか? という一面があり、しかも男達の「落ち度」に言及してこう書いている。

(引用開始)―――――
まるで何も感じないかのように、次々に男たちから金を引き出す佳苗。頭がフラフラになりながら、田舎に帰ろうと首都高を歩いてしまったM氏や、1泊10万円のリッツ・カールトンをプレゼンするK氏ら、騙された男性たちはピュアだ、気の毒だ、という声もある。確かに気の毒ではあるが、私には公判が始まって以来、頭のどこかで考えてしまうことがある。
もしこれが男女逆だったら? 考えても仕方ない前提が、何度も頭に浮かぶ。初対面の男とホテルに行く女性や、男の家にすぐあがる女性や、婚活サイトで男を探す女に、世間は“ピュア”と言うだろうか。ラブホテルで睡眠薬を飲まされた女を“純情”と言うだろうか。「被害者にも落ち度があった」という聞き慣れた声がもっと飛び交うんじゃないか。女と男の非対称性に改めて気づかされる。私は佳苗に、いつも何か、気づかされる。
(引用終了)―――――

けだし当然の指摘である。男性の「落ち度」は滑稽なくらいに馬鹿馬鹿しさを増している。毒女の蔓延する土壌が開墾されつつあるのである。(この稿は続く)

橋下徹の「大阪都構想」の思い上がり

本日未明の「朝まで生TV」にて、橋下徹を囲んでの「大阪都構想」に関する云々の議論がなされていたのだが、けだし厚かましくも思い上がりによる橋下徹の議論展開に対してはとても胸糞悪き思いを充満させてしまったのであり、稀にみるほどのTV番組の如何わしさを露呈させるものであったと云わねばならない。

メインコメンテータの橋下に配慮して生番組の撮影は大阪にてなされていた。それは敵陣に乗り込んで行なった撮影とは云い難く、敵陣に塩を送ってなおかつもTV局自らの防衛力の放棄を示した行為にも異ならなかったのである。司会者田原の表面上は威勢の良い司会っぷりとは裏腹に、番組構成上の様々な汚点が垣間見える、悪しき典型の番組と成り下がってしまっていたのであった。

野田佳彦によるどじょうバブルで、庶民生活は逼迫しているのだ

先日、都内下町南千住の居酒屋「大坪屋」に立ち寄った際に、当店の売りの看板メニューである「どじょう鍋」が提供されなかったのだった。もとより「大坪屋」といえば、おいらが度々下町行脚のときには訪れるスポットである。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=2200

「どじょう鍋」を注文したおいらに鸚鵡返しに「どじょうは仕入れがないんです」と返答した女将、そのときの大きな掛け声でその場は収まったのだが、しかしながら疑問は却って益々増大していた。どじょうが売りの居酒屋にどじょうが入荷しないという異常事態である。

庶民の行きつけの居酒屋で、庶民の味こと「どじょう鍋」が、かの野田佳彦のぼんくらおたく風演説で、バブルに突入してしまい、今時流通するのは駒形あたりかあるいは料亭等の特別な場所に限定されてしまったのだ。どじょうバブルを惹起させた野田の責任は甚大である。彼はこの落とし前をどう取るつもりなのか聞いてみたい。

もとより「どじょう」には責任はないのである。おいらもどじょうが大好きである。どじょうを持ち出し、中途半端に会田みつおさんの詩を引用したいんちき野田佳彦。

野田は相田さんの詩を盗用しながらも自らの恣意的な解釈によってオリジナルを歪めていたのであり、詩人に対する尊敬の念をもかけている。一流の詩が台無しである。つまり野田は会田さんの名詩をいい加減に引用しつつ馬鹿下駄政治的メッセージにりようし、馬鹿げた政治的メッセージとして利用していたのだから、その罪は軽くない。 続きを読む

月刊文藝春秋に「尾崎豊の『遺書』全文」が掲載されている

先日発行された「月刊文藝春秋」に「尾崎豊の『遺書』全文」と題されたレポートが掲載されている。副題には「没後二十年目 衝撃の全文公開」とある。筆者は加賀孝英。

出版直後からセンセーショナルな話題となっているが、内容は、尾崎豊の「死」の真相を婉曲的に「自殺」と断じた内容となっている。その根拠とされているのが、尾崎豊が死の前に書き綴ったという2通の「遺書」の存在である。

遺書とされるその2通の内容について、今回初めて「公開」されたという形でのレポートなのである。ただしその物理的な証拠となるべき「画像」等については一切公開されてはいないのが、非常に残念であり不可解でもある。

ーーーーー
先立つ不幸をお許し下さい。
先日からずっと死にたいと思っていました。
死ぬ前に誰かに何故死を選んだか話そうと思ったのですが、
そんなことが出来るくらいなら死を選んだりしません。
(略)
あなたの歌が聞こえてきます。
まだ若かった頃のあなたの声が、
あなたのぬくもりが甦ります。

さようなら 私は夢見ます。
ーーーーー

引用した文章を「遺書」と見るか否かについては見解が異なるところだ。アーティストであり生来の詩人であった尾崎豊が、気まぐれに、あるいは思い付きで記した言葉だととることも可能である。レポートの筆者はこの文書をもって繁美夫人への「遺書」だと断じるのだが、いささか無理筋の論理展開ではないのかと思う。

以前からおいらは、繁美夫人が尾崎豊の死に影響を与えた等々という「推理」には与しないし、死の当日のあれこれを聞き及んでいる人間としては、彼の死が不遇なアクシデントの積み重ねによる極めて不幸な死であると感じているものなのである。それだからこそ、ここに来ての尾崎豊の「自殺」論の主張には大いに首を傾げざるを得ない。自殺する人をおいらは決して否定しないが、尾崎さんについては、彼はまだまだ生に対する執着が強かったであろうし、おいそれと「自殺」という幕引きを演じることなどは決して無かったであろうと確信している。

いつか改めて、加賀氏のレポートの論理矛盾について記していきたいと考えているところだ。

TPP絶対反対! TV芸者みのもんた等よ恥を知れ

TPPの実態がわが国民にはほとんど何も知らされることの無いままに、数日の間で野田内閣のなかでTPP参加の方針が決定されようとしている。全くもって馬鹿馬鹿しく由々しき事態と云わねばならない。

野田某と云うポッと出の政治家の存在意義がこんなことであったとするならば、倒閣運動に追い込まねばならないと考える。あるいはもっと云って民主党という政党の内実が自民党以下のこんなものだったとするならば、こんな政党などは百害有って一利無しの代物であると決するべきである。

日本国民の知的レベルに期待すること等は望むべきも無く、しかも報道各局はといえば、「まずはTPPありき」といった誤ったメッセージを発信し続けている。

そんなメッセージの伝達者としてのみのもんたにいたっては、推進、反対の意見の中での論点整理することも無く、「やるといったらやるんだ!」という、過去の莫迦総理の発言を自らの意志発言の傍証とみなせるような発言を、云わば確信犯的に繰り返している。こんな莫迦なTV芸者を持った日本国民こそ、大きな迷惑であると声を大にして主張したい。TV芸者風情が国政を牛耳られるなどと考えて欲しくは無いものであるし、もしそんな勘違いが罷り通っているとしたら、万難を排して勘違いの矯正に努めていきたいと思うものである。TV芸者みのもんた等よ恥を知れ! なのである。

上杉隆「ジャーナリズム崩壊」から読み解くメディアスクラムの異常な姿

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菅直人前首相に対する異常な追い落とし劇については未だに記憶に生々しいが、その背景にある大きな要因の一つが、日本マスコミ界に特有の「記者クラブ」という奇妙なる親睦団体の存在なのだ。この一冊によりそのことを認識した。

改めて上杉隆氏の「ジヤーなリズム崩壊」を読んでみたのだが、滑稽なまでに形骸化して糞ったらしい我国マスコミ人種達のあきれた所業と様態とが浮き彫りにされたと云って良い。

同書でも重ねて述べられているが、我国のマスコミ人種の横並び意識というものは日本固有のものだ。これは、ジャーナリストという職業的自覚を涵養する以前に、会社組織(所謂大手マスコミ)の一員としての意識を優先するのだという、途轍も無く愚かな慣習により雁字搦めにされているものであり、何をか云わんやの極北であるのだ。

本来は辞任すべきはずの無かった菅直人前総理である。誰が、何を目的にして、どういう方策にて、追い落としをはかっていったのか? 東電を始めとする腐った産業界の人脈によるものであることは明らかなのだが、それらの走狗として、マスコミ(マスゴミとして揶揄されるそのもの)の、恥ずべき生態が、日に日に明らかになっていく。

これからは「第3の権力」と称される「マスゴミ」の動向に監視の目を注いでいくことがますます不可欠になってていくのだ、残念なことではあるが…。