加藤智大がはまったネット掲示板の罠

秋葉原での連続殺傷事件の犯人こと加藤智大の被告尋問が行なわれている。加藤被告本人は神妙な反省の弁などとともに、自らが犯行に至った理由を幾つかの理由を挙げて述べているという。マスコミでも大きく取り上げられているその理由とは以下の三つである。

1.私(加藤智大)自身の考え方
2.掲示板での嫌がらせ
3.掲示板に依存していた生活のあり方

何とも驚くのだが、その理由のおおよそを「掲示板」が占めていると加藤智大は述べたのである。かつてはおいらも掲示板を主宰などしていたこともあり、この発言は看過できないものであった。擬似社会としてのネット掲示板を取り巻く遣り取りが、いまや実社会と擬似社会、似非社会との区別さえをもつかなくさせていたのであったようなのである。ネット社会に依存しながら真っ当な現実感覚を喪失していた加藤智大という男が居たという現実は、決して遠い世界の事柄では無くして身近なものとして迫ってくる。だがそんな一般論で遣り取りされるものとは異質の犯罪が勃発してしまったのであった。そんな男の日常とは、果たしてどのようなものであったのか?

平凡な日常、凡庸な毎日から逃避して、ネット社会に依存する人間たちは決して少なくない。実はおいらの周りにもごまんと居るのだ。これはかつて、名プロデューサーとももてはやされた小室哲哉が作詞した歌謡曲の歌詞に示されていた現象としても示されているものでもある。小室哲哉的な現実逃避、非現実的な「幻風景」への誘いというものが、犯罪の底流を形づくったというのは、果たして暴論であろうか?

もとより、匿名書き込みを基本としているネット社会、ネット掲示板という処においては、現実社会のたがが外れた「全能感」というものが羽根を拡げていくものである。小さな自分、ちっぽけな存在という「現実社会」から逃避し乖離した「全能的な」自己というものを主張したがる。そんな欲望が羽根を拡げたがるメディアなのである。それは、かつて数年間において掲示板の管理人を行なっていたおいらの体験から云える事実でもある。

ところで、加藤智大がスレッドを立ち上げて「管理」していた掲示板とは、某携帯サイトのものであった。この場合の「管理」というものは曖昧である。大手のネット掲示板の一部を拝借するといったものでしかない。お山の大将にもならないのだ。云わば、派遣社員として階級社会の底辺に彷徨う人間が、少し上の、中間管理職の夢を見た末の犯行だったとすれば、この巨大な「ずれ」を笑い飛ばしたりすることも出来ない。ただただ情けない犯罪の一端がここに垣間見えるのである。