太宰治さんのらっきょうの皮むきから学ぶ、自我の儚さとその痛み

 

先月の19日に漬けた自家製らっきょうを、少しばかり瓶から取り出して食してみたのです。

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う~ん。濃目の甘酢たれに負けることなくらっきょうらっきょうしているのに、ほっとしたような感動を味わう。噛み締めれば、しっかりとした野性味が味覚を刺激する。そんな刺激がこの6月という季節を思い起こすことになりとても清々しく感じ入った。毎年この時期にらっきょうを漬けていたのは、過去の想い出であった。そんな甘味な想い出を取り戻すかのように今年は無理してらっきょう漬けに挑んでいたというのが、今日までの経緯である。

そしていつもこのらっきょうの漬け込む時期には、太宰治さんがらっきょうについて記した小説の一節を思い起こさずにはいないのであった。

「Kは、僕を憎んでいる。僕の八方美人を憎んでいる。ああ、わかった。Kは、僕の強さを信じている。僕の才を買いかぶっている。そうして、僕の努力を、ひとしれぬ馬鹿な努力を、ごぞんじないのだ。らっきょうの皮を、むいてむいて、しんまでむいて、何もない。きっとある、何かある、それを信じて、また、べつの、らっきょうの皮を、むいて、むいて、何もない、この猿のかなしみ、わかる? ゆきあたりばったりの万人を、ことごとく愛しているということは、誰をも、愛していないということだ。」(太宰治「秋風記」より抜粋)

洒落た文章の背後に流れているのが、芸術家としての太宰さん自身の矜持であり、そしてそれはまた彼の自我が皮むかれ、中身を晒され、かつその上で、自身の空疎な姿を衆目に公開してしまうと云ったことへの忸怩たる思いの表出である。何重にも重ねられつつ、それこそまさに道化としての姿かたちを描写しているかのごとくでもあった。