「私しか書けないこと」を書くのが「自己テキスト」である

 

美味しそうなボジョレヌーボーの前を黙って通り過ぎたのです

美味しそうなボジョレヌーボーの前を黙って通り過ぎたのです

ボージョレヌーボーがいよいよ解禁したのだが、おいらの関心は、相変わらずレヴィストローク博士なのである。今日も小雨の降るなか銀座の某喫茶店で、レヴィストローク先生の講演集を読んでいた。やはり百歳まで生き延びた学者の言葉はとても重いのだ。「悲しき熱帯」が何たらこうたら、構造主義の限界がこうたら云うより、長老のドンとした重みのある講演語録には圧倒される。

ボージョレヌーボーのことを書きたくない理由は他にもある。職場からの帰り際に某未来のIT長者から、「最近飲み過ぎですよ」というきついひと言が身にしみていたからなのである。であるからして飲み物の話題は極力避けることとなったのである。美味いであろうその陳列棚をカメラに収めて、今宵は普段の買い物をするのに留めたのです。まあいずれ復活するでしょうが、しばしのお別れなり。

という訳でいつもより前書きが長くなったが、昨日の五十嵐茂さんの発言をもう少し引用してみたい。

「自分という人間は世界とどうかかわるか、他者にどう接し、受け入れるのかという問題を、問うていかなければならない。それこそが人間が生きている意味、自分が抱えてきたテーマを浮かび上がらせることになる。そのときの言葉は自己テキストと言える内容をあらわすようになると思うんだ。表現するからにはやはり、『このことに気づいているのは私しかいない。このことは私しか書けないことのような気がする』というものを書きたいし、読みたいよね。」

引用も普段以上に長くなってしまったのだが、これからもおいらしかかけないことを一所懸命書き続けようと思ったということなりにて候。とすれば、おいらもまたネット人種の一員なのかもしれないなぁ。嬉しいような。哀しいような。

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