レヴィストロースの遺言 [2]

先日当ブログでも紹介したかもめさんのブログ「新平家物語」では、おいらが引用した五十嵐茂さんの「自己テキスト論」について述べられていた。やはり想像したとおりにかもめさんも「自己テキスト」を駆使してネットの世界を闊歩しているようだ。さらに彼の論の後半はといえば、いつもの独自の「言葉は私語につきる論」で占め尽くされていており、おいらの引用は其処でも又前書きに利用されているかのようである。我田引水の力をまざまざ見せ付けられたごとくに天晴れであった。「小林さんもそうなのだろうが、われらには、言葉なしには、一日たりとて過ごせない。」といういささか買い被り的評価もいただいたようである。

自身を振り返ってみれば、おいらは「言葉なしには一日たりとも過ごせない」といった自覚はないのだが、言葉にかかわらずに表現することへの欲求は一日たりとも欠かして過ごしたことはない。ブログによる「自己テキスト」の発信は、その一つであると自覚するものなのである。

さて本題である。先日触れたレヴィストロースの「ブリコラージュ論」では、人間の知的活動をコラージュになぞらえて展開されているのだが、身の回りの素材を駆使して、創造活動を行なっていく様が、まさに人間活動の原点であることを示しているようで興味深いのだ。マスメディアが膨大な量の情報を垂れ流しにし、まさに小市民をマッサージさせつつ魂を奪い去っていくこの現代という時代に抗って、コラージュ=創造活動を継続させていく重要性をレヴィストロース先生は示しているのである。

ところでレヴィストロースによれば、前髪を前面に垂らすことが仮面の第一歩であるという。市橋容疑者が整形逃亡の果てに逮捕されたニュースは真新しいが、その逮捕の報道に取材陣が殺到して写された彼の姿には垂れ下がった前髪が特徴的でもある。この垂らした前髪に胸キュンして熱いラブコールを送っていたのが、いわゆる「市橋ギャル」であることは当ブログでも指摘した。メディアがマッサージとして猛威を振るった結果でもある。その件についての考察は後日にまわすことにしたい。

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