月刊文藝春秋に「尾崎豊の『遺書』全文」が掲載

先日発行された「月刊文藝春秋」に「尾崎豊の『遺書』全文」と題されたレポートが掲載されている。副題には「没後二十年目 衝撃の全文公開」とある。筆者は加賀孝英。

出版直後からセンセーショナルな話題となっているが、内容は、尾崎豊の「死」の真相を婉曲的に「自殺」と断じた内容となっている。その根拠とされているのが、尾崎豊が死の前に書き綴ったという2通の「遺書」の存在である。

遺書とされるその2通の内容について、今回初めて「公開」されたという形でのレポートなのである。ただしその物理的な証拠となるべき「画像」等については一切公開されてはいないのが、非常に残念であり不可解でもある。

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先立つ不幸をお許し下さい。
先日からずっと死にたいと思っていました。
死ぬ前に誰かに何故死を選んだか話そうと思ったのですが、
そんなことが出来るくらいなら死を選んだりしません。
(略)
あなたの歌が聞こえてきます。
まだ若かった頃のあなたの声が、
あなたのぬくもりが甦ります。

さようなら 私は夢見ます。
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引用した文章を「遺書」と見るか否かについては見解が異なるところだ。アーティストであり生来の詩人であった尾崎豊が、気まぐれに、あるいは思い付きで記した言葉だととることも可能である。レポートの筆者はこの文書をもって繁美夫人への「遺書」だと断じるのだが、いささか無理筋の論理展開ではないのかと思う。

以前からおいらは、繁美夫人が尾崎豊の死に影響を与えた等々という「推理」には与しないし、死の当日のあれこれを聞き及んでいる人間としては、彼の死が不遇なアクシデントの積み重ねによる極めて不幸な死であると感じているものなのである。それだからこそ、ここに来ての尾崎豊の「自殺」論の主張には大いに首を傾げざるを得ない。自殺する人をおいらは決して否定しないが、尾崎さんについては、彼はまだまだ生に対する執着が強かったであろうし、おいそれと「自殺」という幕引きを演じることなどは決して無かったであろうと確信している。

いつか改めて、加賀氏のレポートの論理矛盾について記していきたいと考えているところだ。

尾崎豊の実父も彼の「遺書」に疑問を呈している

尾崎豊の死因が「自殺」だったという月刊文藝春秋の記事に疑問符を呈したばかりだが、其れを裏付けるように、彼の実父による「自殺ではない」というコメントが紹介されていた。http://www.news-postseven.com/archives/20111118_71059.html

「豊は気分が落ち込んでいるときに、突発的に遺書のようなものを書くことがあった。亡くなる3年前に自殺を考えたことがあるらしいが、そのときに書いた可能性もある」

このようなコメントは、身内でなければ発し得ないものだ。実父の発した疑問であれば、それなりの重みがあるはずである。

「いまとなっては、他殺だとは思ってないけど、あれは自殺じゃない。豊じゃないからわからないけど、なんで死んだんだって…いまでも思ってます」

他殺説を実父は封印した。そしてなおかつ、尾崎豊さんの死に関する疑問符は付きまとってしまう。稀な存在感を持ったアーティストであったが故の宿命であったのかもしれないと考えている。この「宿命」という語彙にはもちろん、豊さんへの多大なリスペクトが含まれているのだが…。

尾崎豊ハウスがホーメストの家に建て替えされるという

1992年(平成4年)4月25日に26歳と云う短い生涯を閉じた天才シンガー、尾崎豊。彼が最期の日に倒れていたのを見つけて手厚く介抱をし、病院への搬送を行なっていたのが小峰さんであり、小峰さん宅は今からもう19年と数ヶ月の間ずっと、「尾崎ハウス」と呼ばれ続け、その後小峰さんの家には、全国からの尾崎豊のファンが訪れるようになっていた。

その倒れていた日に運ばれた病院から何故か自宅マンションへと戻された尾崎豊はその日のうちに容態が悪化し、死ななくてよいはずの身であったはずだが基本的な生命維持の治療も施されることなくとても残念な不遇の死を遂げてしまったのである。

そんなファンにとっては忘れられない「尾崎豊ハウス」が改築されるというニュースに接したおいらは、おいらにとっても非常に思い出深い、古くからのそのハウスを目に焼き付けたくなり、訪れていたのだった。京成本線「千住大橋」駅から徒歩で5分程度の下町の住宅地である。近くには「中央卸売市場足立市場」という卸市場が控えている。もっとずっと前からその場所は通称「やっちゃば」と呼ばれる下町の市場であり、「やっちゃば通り」という歴史的街道も近くには残されている。戦時中の大空襲にも焼かれることなく下町住宅地の風情を今なお残している一帯に「尾崎豊ハウス」が在るのだ。

5~6回は訪れたろうか、その場所へ何年かぶりに訪れていた。ドア扉は締め切っており、中には人の気配は無かった。たしか4畳半の部屋の壁面には大きな建築計画の看板が掛けられていた。マスコミ情報によればこの9月末までに旧ハウスが取り壊されるとのこと。そして新しくホーメストの家が建立されることになる。

話はだぶるが、おいらも20年あまりの間に何度かハウスを訪れ、天才尾崎豊を介して、若い人たちとの貴重な交流を得ていた。若いファンがこの場に集どるのは尾崎豊さんだけではなくて、小峰さん家族の人たちの、厚い心により添って集まってくると云うものではあった。若い人、特に甚大な悩みを抱えている人たちをも、小峰さんが受け入れていたのだ。

つまりは此処は、そんな特別な場所だったのである。古き「尾崎豊ハウス」のレクイエムを歌いたい気分でこの場所を訪れ、そしてあとにしたのだ。近くの「やっちゃば街道」添いには地味だが白いユリ科の花が咲いていて来る訪問者を歓迎しているようだった。花言葉は「純潔」という。まさに尾崎豊さんのハウスに相応しい。