インパクトを増した川上弘美さんの短編集「どこから行っても遠い町」

[エラー: isbn:9784101292410:l というアイテムは見つかりませんでした]

文庫版の新刊コーナーにならべられていて、その魅力的なタイトルに惹かれて手に取ったところ、そのまま魅了されて購入して読み進めていた一冊だ。最近のおいらの読書傾向でもあった、途中で読書放棄などすることなく、云わば順調に読了することを可能にし読み終えたのだった。

かつて芥川賞受賞作「蛇を踏む」に接し、川上さんの独特で不思議な作品世界に魅了されて以来、文芸誌等では何度か彼女の作品を読んだことはあったにせよ、まとまった作品集として読み進めたのは稀であった。

今回手に取った作品集は予想以上にわくわくさせられた。尚且つ以前の川上さんの作品から得た手応えとは異質のものであったのだ。

今回の作品集から独特な手応えとして受け止めていたものは、何だったのかを改めて考えてみた。その一つが死者からの視線だ。

この小説集では何人もが死んでいる。何人もの死者が登場するばかりか、死者がいなければ成り立たないプロットで物語が進められていく。連作短編集として重要な某章ではなんと、死者が主人公を張っているくらいなのだから、おいらの分析もなまじ外れているとは云えないのだ。死者と生者との交流といったやや劇薬じみた味付けを加味されながら、実に川上さん一流のドラマが流れていく。そんな物語を追いつつ、読者としての恍惚感やカタストロフィーに浸ることが出来たのだ。まさに傑作短編集に値する一冊だったのだ。

一見日常的な体裁をまとっていながら、実は非日常的なプロットを、作者はそっと提供しつつ、物語を一段と高い人々の日常生活に持っていくのだが、そんな作家の狙いはそれこそまさに川上さんの独壇場とも云えるのだ。

大竹昭子さんの「図鑑少年」

[エラー: isbn:9784122053793:l というアイテムは見つかりませんでした]

「大竹昭子」という名前はとても気になる名前である。過去何度か、写真評論の文章に接していたが、作家や作品への洞察を通して時代の息遣いが渦巻いており、それを濃厚で香り高い料理を口にした時の様な刺激とともに感じ取ることができたのだ。

昨年10月に文庫本として出版された「図鑑少年」は、雑誌「SWITCH」と「フォトコニカ」に掲載されたものを纏めた小品集で、初出は1999年3月、小学館発行とある。小説も書いているんだなという興味で読み始めたが、久々にのめり込むことができた1冊であった。

決して新しい作品ではないが今読んでも色あせることの無い、現代人の息遣いが横溢している。大都会とそこに蠢き漂流している人間達との関係性が、まるで都会からの視点で描かれている様な不思議な感覚に包み込まれるのだ。何気ない日常と不可思議なストーリーを結びつけるのは希有な作家の想像力だが、それ以上に深い非日常性の魅力に嵌ってしまうのだ。傑作小説集と云うべきである。

町田康氏の「東京飄然」

[エラー: isbn:9784120036767:l というアイテムは見つかりませんでした]

おいらは現在、読書進行中の書籍が数冊在る。別段改まってのたもうような事柄で無いことは重々承知なのだが、今日は改まって記したくなってしまったので、何とも面映い心持ながら個人的事情も鑑みて寛大な評価をいただきたいとも思いつつ、それでは次の章に突入するのだ。

実は我が国の栄えある芥川賞、直木賞、あるいはそれ以上に人気抜群のカリスマ作家達を含んでいるのであり、これまで軽々に話題にすることさえ憚られていたのである。つまりはこれらの書籍を読了できずに中途半端に放っているという状況とはすなわち、読書のスピードが上がらずにもたもたしている様を示しており、煎じ詰めればつまりは該当の著書が面白くない、詰まらない内容だということを意味しており、そんな様を、ブログという半公共的な媒体にて表明してよいモノかと悩んでもいたのだ。だが悩みは人を廃人にかすことあれども人を強くすることもままありなんなのである。そして本日おいらは半分くらいのところを読み終えたところで「飄然」と悟ったのだ。「詰まらない本を詰まらないから読んだりしないで他の時間に費やしましょう」というメッセことージを堂々として発信することにより、我が国の文学愛好家たちの役に立つことが出来るのではないかと。そうしなないことには我が国の文学愛好家達は何時かはこの「東京飄然」を読むことになるし、そしてその延長として他の有意義な書物に接する機会を逸してしまっているということになるのだ。ここは腹をくくって、いかに立派で厳かな芥川賞作家の先生の本を読んでも詰まらなかったということを、公開することに決めたのだった。

半分以上のところまで読み進めていたのでこの本のスタイルやポリシー、今時の言葉で言えばマニュフェスト的なる代物といった代物については把握している。「飄然」として東京都内を旅することをテーマにして、作家町田康氏が独りあるいは友人を引き連れて飄然と旅に出るのだが、この「飄然」の意味や風合いやその他諸々をこの芥川賞作家は少々はき違えており、なかんずく「飄然」が「漫然」の対語である等というしゃらくさい薀蓄を述べたり、王子近くの飛鳥山公園や江ノ島・鎌倉旅行を「失敗だった」と書き記し、そんなことしながら1万円以上のディナーに耽ったりという、作家風情を肩に切って歩いている様子には辟易したものであったのだ。

実はこの先を読み進めるべきかどうかは未だ迷っているところだが、素読みしていたところ、中央線沿線の旅も似たかよったかの様であるのでこの辺で止めに入るのが妥当であろう。

パウル・クレーの「子供の領分」と谷川俊太郎の「選ばれた場所」

新潟・福島を襲った豪雨の影響で昨夜から激しい雨が続いていたので、本日は外出することも避けて、アクリル画の制作に没頭していたのだ。2〜3年前から続いている制作意欲を何かのかたちにしたいと考えているのだが、昨年初夏頃のチャンスを逃して以来、具体的な道筋は見えてこない。かといって受動的態度で時を過ごすことも出来ないので、日頃の制作活動の時間は、たとえ少々なりともとるようにしている。

[エラー: isbn:4938710137:l というアイテムは見つかりませんでした]

夕刻を過ぎて雨も上がり、街に出て駅前の古書店を覗いていると、パウル・クレーの「子供の領分」という画集が目に付き衝動的に購入した。1997年に「ニューオータニ美術館」というところで開催されたパウル・クレー展で頒布された展覧会の図録であるようだ。

本年開催されたクレーの「おわらないアトリエ」展の出品作品とはまた違った傾向の作品が収められており、つまりは幼児画的パウル・クレー作品とその創造の背景にスポットが当てられ纏められており、至極興趣をそそられているところだ。幼き時の制作スタイルを常に踏襲しながら、名声を博した後も常に幼児の目線を制作の根本に据えていたクレー師の偉大さは図録を一瞥するだけで漂ってきており、その創造の原点の逞しい息遣いを感じ取らざるを得ないのである。

この図録には谷川俊太郎さんの「選ばれた場所」というポエムが収められている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
選ばれた場所
谷川俊太郎
そこへゆこうとして
ことばはつまずき
ことばをおいこそうとして
たましいはあえぎ
けれどそのたましいのさきに
かすかなともしびのようなものがみえる
そこへゆこうとして
ゆめはばくはつし
ゆめをつらぬこうとして
くらやみはかがやき
けれどそのくらやみのさきに
まだおおきなあなのようなものがみえる
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

夢は爆発し、暗闇は輝き、暗闇の先に大きな穴の様なものが…とうたっている、その俊太郎さんの思いは、今のこの時代における最も今日的な課題に立ち向かっている詩人の魂の言葉であろう。

町田康氏の新著「ゴランノスポン」

[エラー: isbn:9784104215027:l というアイテムは見つかりませんでした]

一部ではカリスマ的な人気を誇るパンク小説家、町田康氏の新著「ゴランノスポン」を読了した。7つの小・中編による作品集で、表紙カバーにはこれまたカリスマ的アーティスト、奈良美智氏の新作「Atomkraft Baby」が採用されており、至極目を惹かれることとなっていた。この表紙によって購入を決めたと云っても良いくらいだ。

表題作「ゴランノスポン」は雑誌「群像」2006年10月号にて「ホワイトハッピー・ご覧のスポン」として発表されたものを改題してある。タイトルだけ見たら何を意味しているか見当もつかない様な可笑しなタイトルだが、かつての「群像」での作品名を知り、漸くその意味するところの合点がいったのだった。なった訳だが作者のほうは何故だか知らぬが、一般人には韜晦の至りかのごとくのチンプンカンプンな表題に変えて、敢えてその「意味の無さ、希薄さ」を表出させて愉しんでみたのではないかと睨んでみたところだ。こんな表題作に出来るのがパンク作家としての面目躍如といったところだろう。ご覧の様にスポンと落ちる。落ちます、落とします。スポンという擬態の音…。底を見せぬ闇の中へと連れ去って行ってしまいそうな、厳粛かつ滑稽な擬態の音だ。天使か悪魔かは知らぬが大きく両手を広げて手招いているかのようである。

少し前までは独特なボキャブラリと俗的世界の話題を操るパンク兄ちゃん、過剰な才能を持て余している一人よがりの空回り的存在、的な評価を抱いていた町田氏だったが、色々とこの世間とやらに対して挑発する様は勇ましくもあり、可能性をも伝えて来るものがある。

ある種の三文小説の落ちとも変わらないプロットやそうぞうしいばかりの展開やらには辟易していたが、つまりは、小説一つ一つの評価は、あまり点数を付けにくいのだが、読み終わってみればそれらを含めて現代作家たる才能を撒き散らしているということなのだろう。

谷川俊太郎「黄金の魚」の詩を松たか子が朗読

昨日あるきっかけできっか思い出した谷川俊太郎先生の「クレーの絵本」を押入れから探し出して見ているところだ。1995年10月初版発行(おいらの蔵書は99年発行の第12刷)、講談社刊、定価1456円という名著だ。

パウル・クレーの絵画作品に触発されたという俊太郎さんが、自由闊達な詩をつくって、時代を超えて両者がコラボレートを行ったという形態をとって発行されている。安易なコラボ企画本とは一線も二線も画した立派な企画本となっている。云うまでも無いが、おいらの愛読書の中でもトップクラスの一冊である。

表紙画にも採用されているのが「黄金の魚」。簡易な言葉から紡がれた詩の内容には感動の雨霰の心情を禁じ得ない。

―――――以下引用―――――――――――――――
黄金の魚
おおきなさかなはおおきなくちで
ちゅうくらいのさかなをたべ
ちゅうくらいのさかなは
ちいさなさかなをたべ
ちいさなさかなは
もっとちいさな
さかなをたべ
いのちはいのちをいけにえとして
ひかりかがやく
しあわせはふしあわせをやしないとして
はなひらく
どんなよろこびのふかいうみにも
ひとつぶのなみだが
とけていないということはない
―――――引用終了―――――――――――――――

ところで3.11の東北大震災への応援サイトにて、この谷川俊太郎さんの「黄金の魚」の詩が、松たか子さんによる朗読によって公開されているということを知ったのだ。

http://youtu.be/DAv4tFuZl_4

松さんの朗読は凛として清々しく、名詩の存在を重層的に拡散させているかのようだ。丁度、Twitterにおけるリツイートの様だと云えば良いだろうか。とても素直な松たか子さんの声質、仕種が、名詩の魂をビデオメッセージとして拡散させることに強力なエネルギーを得たかのようなのだ。

そしてパウル・クレー、谷川俊太郎、松たか子といった、ジャンルも世代も違うアーティストが本来の意味での「コラボレーション」を実現している。じっくりと松たか子さんの言葉に聞き入っていると、東北震災地の復興にも希望が持てるのではないかと思う。

岡本太郎さんの青春が投影された「青春ピカソ」

[エラー: isbn:4101346216:l というアイテムは見つかりませんでした]
岡本太郎さんの生誕100年記念の今年、書店のブックフェアにて「青春ピカソ」を購入し、読了した。

「ピカソに挑み、のり超えることがわれわれの直面する課題である。」という、巨大な意志を持って制作活動を行なった太郎さんによる、極めて個人的なピカソ論となっている。「個人的な」という意味は、ピカソを超えたいという太郎さんの切実な思いに加えて、ピカソという愛するべき存在に自分自身のありうべき姿を投影しているからだろう。

太郎さんは生涯に2度ほど、絵の前に立って涙を流したという。その一つが「セザンヌ」であり、もう一つが「ピカソ」だった。そのときの岡本太郎さんが放ったという言葉が凄い。

「ピカソの作品は私とともに創られつつあるのだ。」というのだから。

その後の太郎さんの活動はまさに、ピカソとともにあったのだろう。果たしてピカソを超えることが出来たのかは不明、否定的であるが、太郎さんだからこそ挑んで花開かせた世界がそこにあった。

高純度の純愛小説。村上春樹の「1Q84 BOOK3」は、馥郁たる古酒の香りが漂う

当ブログへのアクセスが激増している。何があったのかと思い「Google Analytics」をチェックしてみると、村上春樹さんの「1Q84 BOOK3」の発売と関係していることが判明した。すなわち、BOOK3の後にはBOOK4という続編が出るのではないかという疑問が、ネットを取り巻く 書籍ファン、関係者たちの間に巻き起こっているのだ。そしてこの現象が要因となり、おいらがかつて2009年10月4日に投稿(エントリー)しBOOK4 について述べていたページへのアクセスが急上昇しているという訳なのである。ちなみに「1Q84 BOOK4」とググッてみれば、3番目にヒットするのだ。

http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4ADBF_jaJP314JP321&q=1Q84+BOOK4&lr=&aq=f&aqi=g-s1&aql=&oq=&gs_rfai=

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=138

予感は的中したのではなく、すでにはじめから既定の路線であったと考えている。三部作よりも四部作である。四部作こそ歴史に名を刻む世界的名著とし ての条件なのである。春樹さんはここに来て、世界の文学界を眺望しつつ、本格小説の完成に向けて更なる野望の一歩を踏み出しているところなのである。

村上春樹さんの新作「1Q84 BOOK3」を読了。600ページにも及ぶ大作章であるが、とどまることを許さないスピード感に乗って一気に読み進めることができた。その筆致はまさに作家をして一気に書き上げたとさえ感じさせる筆遣いである。立ち止まることのできない春樹さんの独特の筆遣いに導かれて、彼の魔界的な物語の世界観に耽ってしまう。そのリズムは懐かしい、「ダンス・ダンス・ダンス」のリズム感である。

ところで、今回の「BOOK3」の読後感を一言で述べるならば、それは純度を上げて蒸留された如くの馥郁たる香りが漂う純愛小説であったと云いたい。純度の高い、国産の純愛小説であり、泡盛や本格焼酎を永年寝かせた「古酒」の如くなりである。

いわゆる読者のニーズに応えるかの如く、ドラマはクライマックスに至るところまでを一気に、それこそ周囲の雑音を排除して突っ走っていく。そしてその行き着く先こそ、読者が求めていたであろうクライマックスの到着点でもある。作家としての村上春樹さんはこの作品で、大きく羽根を拡げているのである。天性のストーリーテラーでもある作家は、まさにここにきて、これまでの全ての「枷」を振り払うかのごとくに、彼の思いをいかんなく存分に解き放って、一気呵成に展開させた物語であると評価するべきである。であるからして前章「BOOK1」「BOOK2」から引き継いでいる物語の、細かな矛盾点や疑問点は、今ここでは論ずるに値しないものとなっている。「BOOK4」の発表をまって氷解していくだろう。

二つの月が浮かんで見える世界を脱出して、天吾と青豆は、月が一つだけ輝いている世界へと辿り着いた。そこはまさに「1984」年の世界であった。「BOOK4」の話題は尽きないが、ここから続いていくであろう「BOOK4」のタイトルを「1Q85」となるだろうと推測する説があるが、けだし邪道である。何となれば月が一つだけ輝いて見えている世界を「1Q85」年と呼ぶことは決してできないからである。しかして来たるべき「BOOK4」は、「1Q84」年の1~3月を時間軸に展開する物語となるはずである。そして物語のテーマとして考えられるのは、次のようなものとなるのだろうか。

・1Q84年の月は何故に二つ見えていたのだろうか?
・新興宗教は、如何にして増長伸長していったのか?
どちらも思いつきで記したに過ぎず、もっと重要であり、必須のテーマが存在するのであろう。

春樹さんの描いた「1Q84」の物語世界は、春樹さんのこれからの「BOOK4」の展開次第では、我が国文学界が誇るべき初めての「総合小説」の姿を指し示すことになっていくだろう。それはまさに作家という特権的な人種にのみ許された、特権的な権利と云えるのかもしれない。

村上春樹「1Q84」にみる「リトルピープル」

過日も記したが、現在村上春樹の「1Q84」を読み直しているところである。再読しているのではなく、ところどころ気になる箇所について、その文面を追っている。追いながら、イメージを追体験しているといったところだろうか。

3名に貸し出していたところ、そのうちの1名は家族がらみで回し読みをしていたこともあり、およそ2ヶ月程度のブランクが有ったから、丁度良い追体験になっている。焦らずじっくり、気の向くままに追体験にいそしんでいるのである。やはり一番気になっていた箇所は、「リトル・ピープル」に関するくだりである。何箇所にも及んでいて、その一つ一つにイメージと表現の確認を行っている。

先日、貸し出ししていた友人からの情報で「BOOK3」の件を知ったのだが、彼が示してくれた情報ソースが以下の毎日JPサイトのインタビュー記事であった。

http://mainichi.jp/enta/book/news/20090917mog00m040001000c.html

いろいろ注目に値するインタビュー内容のなかで、最も強調されているのが作家自らの口でリトル・ピープルを解説するくだりだ。彼は語っている。

「はっきり言えば、原理主義やリージョナリズムに対抗できるだけの物語を書かなければいけないと思います。それにはまず『リトル・ピープルとは何か』を見定めなくてはならない。それが僕のやっている作業です」

これほど明瞭な意思表示は珍しいくらいにすがすがしい。世に蔓延る「文芸評論家」なる人種によるたちの悪い妄言をまとめて吹っ飛ばすくらいの意味ある意思表示である。この「リトル・ピープルとは何か」を抜きにした議論ほど不毛な議論はないということを示している。

そしてその序章として示したいのが、数ヶ月来続いてきた、酒井法子へのパッシングに象徴される、無名性の跋扈するパッシングなのである。これについては後日まとめて示していきたいと考えているところである。

村上春樹の「1Q84」について、この作品がジョージ・オーウェルの「1984年」をベースにしているとの指摘は、文藝関係者以外からもことあるごとに打ち出されている。どれくらいの比重があるかないかをはいざ知らず、この指摘を否定することはもはやありえないであろう。

たしかに旧ソ連邦に象徴される高度管理社会は、巨大な悪の権化としての「ビッグ・ブラザー」を想定して議論していくことが可能であった。厳然としてある支配層による管理システムが、明瞭な顔を持って行う権力の行使は、顔の見えるものであった。だが現在においてその図式は成り立たないものとなった。村上春樹さんもその辺のところはとっくにわきまえており、新しい時代を体現する人間たちを「リトル・ピープル」と称したかったのではないか?

「オウム心理教」「ヤマギシ会」などの特定のカルト教団が、そのモデルとして設定されているものの、物語が示しているのは、そんな狭小なものにとどまってはいない。「衆愚の民」と新潮文化人だったらそう呼ぶかもしれない、ある条件に限られた一部大衆にも、「リトル・ピープル」たる資格が備わっているのかもしれない。あるいは、ネット社会における「祭り」に参入して煽り立てるネット流民たち、2ちゃんねる掲示板に群がる匿名ユーザーたちも、その例外であるはずがない。

「正義」の御旗を振り回して「ビッグ・ブラザー」を自称するタイプの人間は周囲に見なくなったが、その反面で「リトル・ピープル」の陥穽におちいっていくタイプの現代人は増えつつある。つまり、一般大衆の多くが好むと好まざるにかかわらず「リトル・ピープル」に変容する環境条件は至る所に散らばっており、そのひとつひとつを検証することに、建設的な価値は見出せなくなっているのである。

村上春樹の「1Q84」について、特にそこで展開されている「リトル・ピープル」に想いをはせるにつれて、彼らに対する拒絶反応とともに、奥深いところではある種のシンパシー、或いは興味深い畏友ではないのか、といった想いを払拭できないでいる。かつて村上春樹さんが著した「アンダーグラウンド」というノンフィクションの最終章を、今宵読み返している。

興味深い一節がこれだ。

「(前略) 私たちが今必要としているのは、おそらく新しい方向からやってきた言葉であり、それらの言葉で語られるまったく新しい物語(物語を浄化するための別の物語)なのだ――ということになるかもしれない。」

新しい物語のモチーフを、ある意味にてオウム真理教のドラマに求めたのかもしれない春樹先生の、肉声を聴いた気がした。

翻って「1Q84」のト゜ラマツルギーにおける「空気さなぎ」の位置づけはどうだったのだろうか? 芥川賞候補作として売り出す経緯やら、最終章(あくまでBOOK2におけるものとしての)で10歳時の天吾と青豆のファンタジーとやらは、現実としての「オウム真理教」体験を浄化させた、新しい物語として、昇華されたものと、受け止め得るのか否か?