今が旬の「ホタルイカ」の、刺身を食した

今時は「ホタルイカ」が旬である。ボイルされて酢味噌が和えられるメニューがほとんどであり、他には「沖着け」などがメニューに上っている。だがその他の希少メニューには「ホタルイカの刺身」なるものも有るのであり、この度はそんな絶品的メニューにあずかったのであり紹介して欲しくなりましたのだ。

今回「ホタルイカ」の語彙にてググってみたところ、刺身即ち生ホタルイカには、内臓には旋尾線虫という寄生虫が生息しているとされている。激しい下痢、腹痛があり、腸閉塞を起こす場合もあるが、たいていは腹痛が起こったり皮疹が出る程度、とのことであるが、生ホタルイカを食べると何だか寄生虫が沸くかの如くの表現ではある。

同様の事象は牛の「レバ刺し」にも当てはまるのであろう。「ホタルイカの刺身」が某寄生虫に汚染されているから市場に出してはいけない。或いは寄生虫に侵されているかもしれないので市場には出すな、等々の政治的パフォーマンスは、まるでちんどん屋の流しの芸のごとくに情けないの一言ではある。

肌寒かった今宵は、地元八王子のデッサン会に参加

休日なのに天候は肌寒くて、午後からは雨模様の日であった本日はと云えば、おいらはたまに参加している地元の八王子美術連盟が主催するデッサン会へと久しぶりに足を運んでいたのだった。凡そ月に2回程度のペースで開催されるデッサン会だが、今月は特別に、金、土、日の連続した日にちでの固定ポーズなのであった。おいらが参加したのはその最終日の夜の部。参加者は普段に比べて少なくて、却って熱中してデッサンに集中することができたのであった。

おいらにとって所謂「写実系絵画」などというものには、興味関心の埒外ではあるが、気持ちの感性の赴くままにコンテ(今日の素材である)を滑らせながらモデルさんと相対峙する時間はとても希少な代物ではあり、他の参加者の筆致やドローイングの息遣いに接することができて、それはまた希少性の体験であったのである。制作の時間は何時でも個人的で孤独な営みに終始しているが、こんなイベントに参加して、隣の制作者の息遣いや筆致に接しているのは悪くない時間の体験であった。

小金井「大黒屋」のクサヤとハブ酒で一献

その昔は「クサヤ」と云えば居酒屋の定番メニューであったが、近ごろはその匂いが敬遠されてか、中々メニューに見かけなくなってしまった。小金井の「大黒屋」はその「クサヤ」が味わえる今時の希少な店である。

■大黒屋
東京都小金井市本町5-17-20-101 1F

炭火にかざしてクサヤを炙れば、その匂いは店内に広まっていくのだ。酔客がその匂いにクレームを付けることも今では珍しくはないのである。

自家製の「ハブ酒」が提供されていたので注文してみた。35度の泡盛をベースに、ハブ蛇に十数種のハーブを漬け込んだという代物だった。

滋養強壮に良いという触れ込みだが、強いアルコールに強烈な眩暈を感じた。最近は強い酒はどうも苦手となってしまった。

今年も「ワラビ」が美味しい季節になったのだ

ことし初の「ワラビ」を食した。とても美味であった。

毒性が強いとか発癌性があるとか云う理由で「ワラビ」は一時期、不遇な非人気の時代を過ごしていたことがある。然れども科学的根拠の信憑度は未だ確たるものを見せてはいないようであり、今時の「ワラビ」は、美味だが毒かもしれない、食べ過ぎたら癌になるかもしれない、等々と云った巷間流布する悪しき評判と共にあると云ってよい。

旬の食材であるのにこうもマイナスイメージを背負ってしまっては、薄幸のイメージを背負ってしまった様でもある。何とかならないものであろうか…。

数多き山菜の中でもとりわけ存在感が強く、あくもまた強いのがワラビの特徴か。

少年のころ、ワラビ取りに出かけたのは母の実家の近くであった。群馬県利根郡の森の奥深くに続く歩道を歩いて行くと、寄り道するたびにワラビの群れに遭遇し、いつの間にかマイバッグの中にはワラビが充満していた。ワラビと共にゼンマイも同時期に収穫していたものではあった。

至極的上品な旨味が光る「キントキの刺身」

「キントキダイ」というぎょろりと大きな目をした赤い魚がいるのだが、この刺身の味わいは白身魚の中でも秀逸な味わいなのだ。関東の料理店では中々この魚に遭遇することは無かったが、偶然にも地元の居酒屋にてこのメニューを目にし、早速注文。予想通りに上品至極の味わいに遭遇して大変な満足を味わってしまったのであった。

関東でもメジャーな魚ことキンメダイにも、身の色が赤いことや白身の感触が、あるいは触感が似ているが、別物である。おいらは「キントキ」の身が大好きなのであり、メジャー級の「キンメダイ」以上だと確信しているのだ。

見た目もまた麗しいのである。紅色のピンク系色彩とでも云おうか。一般にピンク系は俗的印象を与えてしまいアンチ麗しの代表的要素ではあるが、こと「キントキの刺身」の身の色合いはそれらとは一線を画して優雅で麗しいのだ。この見た目も鑑賞に値すると云ってよいのだ。

庭のチューリップは赤色系類が今朝満開

昨日の強烈な大雨で我家の庭のチューリップの成長があやぶまられたが、今朝確認したところ、庭に咲いていたチューリップは殊に赤色系類が満開であった。大雨の影響など微塵も感じさせないくらいに生き生きと茎と葉とそして花弁を満開に開花させていたのであった。そして他の種類のチューリップは満開に向かって生命の羽根を伸ばしていたというところであった。

然しながら赤色係累のチューリップにも様々な種類が存在しており、その品種を突き止めるには少々の時間と手間が要ったのである。この鮮赤のチューリップの品種は、どうやらイルデフランスという種類のものらしいということが判明した。

鮮やかさと優雅さと、そして早生の品種としての跳びっきりの活き活きしさがこのチューリップの姿を厳かに感じさせていた。春のチューリップにもそれなりの生き様が感じ取られていたのであった。

高崎市美術館にて「ユーモアのすすめ 福田繁雄大回顧展」開催

戦後のグラフィックデザイナーとして活躍した福田繁雄さんの大回顧展「ユーモアのすすめ 福田繁雄大回顧展」が、群馬県高崎市の高崎市美術館にて開催されている。

■ユーモアのすすめ 福田繁雄大回顧展
〒370-0849 群馬県高崎市八島町110番地27
高崎市美術館
電話027-324-6125
http://www.city.takasaki.gunma.jp/soshiki/art_museum/art/fukuda_shigeo.htm

個人的なことではあるが、おいらは学生時代に福田繁雄さんの事務所でアルバイトを行った経験があり、福田繁雄さんの仕事に関してはそれ以後も常に注目をしていた。ひょうひょうとした福田繁雄さんの風貌や声と共に、若き頃の記憶として鮮やかに蘇ってくる。改めて大回顧展の作品を目にしつつ振り返れば、どこかしこに福田繁雄さん自身が作品中に登場していることが印象的である。

映画「ノン子38才」の舞台、寄居の「もつ煮込み」

寄居で途中下車して町内を散策していると、「金太郎」という居酒屋の看板が飛び込んできてして自然ななり行きで杯を傾けていた。そもそもこの街はと云えば、映画「ノン子36才」のロケーションの場所となっており、映画関係者の注目を浴びている。なかんずくこのおいらが訪問した「金太郎」店は駅前に2店あり、一つは焼き鳥の専門店であり、もう一方の店は七輪焼きの店であったので、おいらは迷うことなく「七輪焼き」の方の店に入って、まずはホッピーを注文。

映画「ノン子38才」の舞台としてこの街が注目されており、云わばよくある普通の小地方都市である寄居が、実は地味でありながら凄い街であるということの、人気度がアップしている。

殊に「金太郎」という居酒屋のモツ煮込みは、映画「ノン子38才」の主役女優の坂井真紀さんがとても満足したうえに、某TV番組のお取り寄せ商品にも指定して人気度もともに高まっていたのだ。

この時期の菜の花の蕾は絶品の味わい

菜の花が一面に咲き誇る風景を故郷ではよく観たが、東京の街中ではなかなかそんな勇壮な風景にお目にかかることはない。その代わりにか、菜の花の蕾が凝縮した菜の花料理に接することがしばしばある。今の時期は千葉県などの温暖地の菜の花だろうか、これから群馬をはじめ北国の花が、黄色い絨毯のような満開の花畑をかたちづくるのだろう、とそんなことを想像しながら、菜の花料理を味わっている。

菜の花料理の多くはお浸しとして提供される。中でも和辛子でピリリとさせた醤油ベースの調味料が添えられたものがスタンダードとなっている。辛味がでしゃばってはいけないが、ピリリとした辛子の刺激は、幼い生命力が満ちた蕾のお浸しには絶好の取り合わせではある。

「辛味煮込み」料理についての考現学的考察

居酒屋の定番メニュー「煮込み」について、その味付けに変化が生じていることを痛感しているのだ。甘い味付けから辛味を効かせたものへとの変化である。そもそも料理の技とは味覚を競うべきものなり。それが辛いか甘いか、そのどちらかが勝利を得ることになるならば、それがもとでのライフスタイルの変化が起こって当然である。辛いものを好むか、或いは甘い味覚を好むかということは即ち、ライフスタイルへの甚大な影響をもたらすからである。そうなってしまったときには外的なライフスタイルの変化を強制させられることを覚悟せねばならない。

そんなこんなことからして昨今の「辛味煮込み」の隆盛を捉えるならば、煮込みは確実に辛味傾向にあると云って良い。そして辛味煮込みの具材の基本はというのが、牛筋なのだ。これはまさにチゲ鍋になくてならない具材であり、コラーゲンの宝庫と云えよう。韓国料理の最も重要な具材に数えられる代物なのだ。

味噌仕立ての煮込みの具材は小腸、大腸のモツ部分が主体であるが、これから辛味系モツ煮込みが覇権を競っていくにつれて牛筋という部位の需要がいや増していくことが必至である。

カツ丼の具である「カツ煮」を肴に一献

地元でときたまに足を向ける大衆居酒屋に「カツ煮」なる新メニューを発見し、早速注文してみたところ、これは「カツ丼」の具の部分をそのまま提出したメニューであることが判明したのだ。

先ずはカツと玉葱他の野菜類とを、出し汁にて煮込んでいき柔らかくなったところで卵とじにする。それに三つ葉の若葉をのせて出来上がり。日本人であれば日常的に食している「カツ丼」の具、そのものではある。

試しにこれを肴にして一献やったところ、まずまずの相性であった。揚物料理のとんかつのメタボ的要素は控えめになり、肝心の味わいはと云えば、日本人の食味に似合ってマイルドな味わいなのであった。

これならばメタボ指導を受けているおいらにと、優しい肴の一品となるのであろう。侮ることは出来ないのである。

今年も庭のチューリップが恥らいの紅を付けた

我が家の庭にはチューリップが植えられており、桜が散るこのころになると蕾を開かんとする。長い冬の寒さに耐えて地表に幹を伸ばし、もうすぐに開花の時を迎える。今年は昨年より数日遅かったようだが、可憐で恥らいの紅を見せていたのだ。

少し前に花を咲かせたヒヤシンスは、可憐な花びらから春の香りを振りまいていたのだが、強風にも煽られたせいだか、すぐに花びらを閉じて幹を横たえてしまった。花の命は短かけれど、とても儚く感じさせていた。

地元の花屋では何種類ものチューリップが可憐な姿を示している。庭に育ったチューリップはそれら以上に可憐でかつ華麗な姿を見せてくれるだろう。

ジュリーこと沢田研二さんの「F.A.P.P(フクシマ・アトミック・パワー・プラント)」

F.A.P.P(フクシマ・アトミック・パワー・プラント)
作詞:沢田研二 /作曲:柴山和彦


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太陽と放射能 冷たいね
子供はみんな校舎の中育つ
死の街は死なない かけがえのない大事なふるさと

我が家へ帰れない 希望はあるけど
こんなにしたのは誰だ

BYE BYE A.P.P BYE BYE 原発
苦しみは いつも複雑すぎる 当然
BYE BYE A.P.P BYE BYE 原発
HAPPINESS LAND 終息していない福島

地球が怒る 何度でも
大人はいつも 子供を想い悩む
死の街が愛しい あらゆる不安に苛まれても

偽善や裏切りも これ以上許すの
何を護るのだ国は

BYE BYE A.P.P BYE BYE 原発
哀しみはは ひとりひとりで違うよ 当然
BYE BYE A.P.P BYE BYE 原発
HAPPINESS LAND へこたれないで福島

NO 長崎  MORE 広島
人は何故 繰り返すのか あやまち 当然
BYE BYE A.P.P BYE BYE 原発
HAPPINESS LAND 世界が見てる福島
世界が見てる福島

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往年のアイドル、ジュリーこと沢田研二氏の作詞およびボーカルによる、反原発のメッセージソング。とても心を揺さぶる名曲である。

アイドル時代のジュリーを知らない若い世代にとっては、この歌も凡庸なメッセージソングの一つとしか聞こえないかもしれないが、元アイドルが時代を引き継いで、今のこの時代の歌を歌うと云うことは、格別に重大な意味が存在するように思う。時代と向き合うことの重要さを今こそ感じ取らざるを得ないとひしひしと感じている。そんなときはおそらくこれまでおいらの人生には無かったこと、なのであるから…。

プロの作詞家ではないから、詩の内容や言葉遣いには稚拙な要素が存在し、それが却ってこの曲の存在感をより印象付けている。ジュリーはまだまだ現役であり、アイドルであり、素晴らしい曲を作っていたということを記しておきたい。

新じゃが、新玉ねぎで「麻婆じゃがいも」をつくったのだ

春のこの今の季節には「新じゃがいも」「新玉ねぎ」と云った季節野菜が旬のアイテムとして八百屋やスーパーに顔を見せており、大々的なセールスの的ではある。そんな季節の食材を使って調理してみたのが「麻婆じゃがいも」である。「新じゃがいも」「新玉ねぎ」の旬が揃いぶみでとても瑞々しい味わいであった。

薄皮が故に皮をむかずにそのまま煮込むのが、この場合の正当なレシピである。それでも煮込むこと15分程度は要したであろう。柔らかくなったところでとろみ調味料の片栗粉を投入し、続けて2~3分煮込んで完成。辛味は控えめに、新じゃが、新玉ねぎの生き生きしさが味わえるメニューとなったのである。

「田中慎弥の掌劇場」は駄作が多いがそこそこ楽しめる小作品集だ

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ご存じ「わたしがもらって当然」発言で、一躍ときの人となっている、芥川賞作家こと田中慎弥氏の最新作品集である。出版元は毎日新聞社。おいらは全く知らなかったのだが、田中氏が無名のころの2008年頃から、もう新聞連載など行っていたのであり、それらの小作品をまとめて編集出版されたのが同書である。

購入して半分くらいを読了しているところであるが、ほとんどの印象はと云えば、所謂「習作的小品」と云った印象だ。例えば川端康成氏の「掌の小説」に匹敵するインパクトや完成度はまるでなかった。そもそも「…掌劇場」と云った同書のタイトルは、川端康成氏の「掌の小説」の線を狙っていたものであり、二匹目か三匹目かのドジョウを狙ったものだと推察されるが、それが只の小作品集となって編集出版されてしまったことはいと残念なことではある。気鋭の芥川賞作家の力量を問う前に、出版元の編集的お粗末さについて問題とするべきであると考えている。

そんなこんなの印象はさておいて、作家の田中慎弥氏は小作品の執筆を楽しんでいることが散見され、作家が執筆を楽しむのとほぼ同様な楽しさを感じ取ることができた。

一例で「男たち(一幕)」には、舞台上に10人ほどの男が登場する。麻生、金、オバマ、小泉、三島、太宰、石原、吉田、鳩山、そしてもう一人の鳩山が登場している。もう一人の鳩山とは由紀夫の弟か祖父かではあるが、そんな些少な推理的アイテムが散りばめられているとともに、執筆当時の時勢へのアイロニーもまた表現されている。容易に想像されるように、ここで表されているのははちゃめちゃてき悲喜劇である。ドラマツルギーの一つの要素でもある悲喜劇の一種なのだ。

だがそんな浅薄なアイロニーが読者を感動させることなどは全く無くて、ただ単に面白さの一種としての刺激でしかないことに気付くのである。果たして読書の体験というのは、今や純文学といえどもこの程度の代物に成り下がってしまったということなのであろうか?

浅草の「伝一郎」にて「キムタク炒め」を味わった

花見に浅草へと乗り込んでいった後で、「ホッピー」の看板に引き付けられるようにして入ったのが天空酒場の「伝一郎」。まるで仮の芝居小屋かと思わせるような木造の建物。天空との境は半透明の板で仕切られていて開放感が漂っている。

賑やかな店内に入るとモヒカン刈りの青年が注文を取りに来た。パンクロックのボーカルでもやっているのだろうか。バイトがこんな店では正規職にも感じさせ溶け込んでいるから不思議だ。大衆居酒屋らしく串焼き、煮込み、唐揚げ等々がメインのメニューであり、先ずはホッピーと共に串焼きの盛り合わせを注文する。

咽と胃袋とを潤わせながらメニュー表をめくっていると「キムタク炒め」というメニューが飛び込んできた。初めて聞くメニューであり、料理の写真の代わりにキムタクこと木村拓哉の写真が添えられている。キムタクが好き好んで食べる料理なのか? 或いは…?? との疑問は抱きつつ、試しに注文することにしたのだ。

そして出てきのが上の写真である。一見して赤々としたキムチが大量に使用されているメニューを見てすぐさま合点がいった。これは「キムチがたくさん入って炒めた」料理だから「キムタク炒め」なのだということ。

何だ駄洒落じゃないかとほくそ笑みながら、当のキムタク本人も駄洒落CMで世間を賑わせていることを思い出し、所謂一つの駄洒落症候群の具体的現象をこの目と舌とで確認したという訳なのである。

キムチの他には玉葱と少々の豚肉、それに白胡麻、唐辛子などが用いられていて、キムチの瑞々しくピリリとした食感を生かしていてそこそこいける味わいであった。

■伝一郎 浅草炭火焼き天空酒場
東京都台東区雷門2‐20‐8

桜橋界隈で満開の桜に出会った

この週末が都内の桜のピークだと聞き、浅草から桜橋へと向かった。

今年は相当遅い桜前線の様相と思っていたが、例年より1週間程度の遅れであったようである。隅田川沿いの歩道を歩くと、薄桃色の桜の大群が迫ってきた。

想像以上の満開桜であった。

高尾山におけるお勧めグルメ「ごま団子」と「天狗ドック」

先日は高尾山へ登山した際、けっこうな体力を消耗しており、ご当地グルメのお世話になっていたのであった。

観光リフトの山頂の「山上駅」に降り立ったすぐの展望台付近には、「天狗ドック」となる代物が大々的にアピールされていたのであり、体力と空腹解消を求めるべくごく自然な成り行きでおいらはその「天狗ドック」にかぶり付いていた。天狗の鼻のように巨大な長さ50cm近くはあるほどにはみ出したそのソーセージを齧り付いていたのであった。驚かせ系地域グルメの中でもそのインパクトは絶大であったと云って良い。

そしてもう一つの、こちらが本命的グルメであるが、「ごま団子」の滋味豊かな、しかもワイルドな味わいに、うっとりと舌と喉とを潤わせていたのだ。たっぷりと豊富な黒胡麻をすって生地に練り込まれた団子を、遠火の炭火でじっくりことことと時間をかけて焼いていく。そこにあっさり風みたらし団子的醤油味の餡をかけて提供されている。その味わいは登山客を魅了するに充分なものがあったのである。

高尾山では新緑の若葉が芽生えていた

高尾山へ登った。とはいっても足を使ったのはそう長いルートではなく、観光リフトに搭乗しての登山であった。

リフトに乗ったのは子供のころにスキー場で搭乗した時以来だ。久しぶりの体験であった。幅1メートルあるかないかの席に乗り込んで、空中遊覧散歩が始まった。初めのうちは山肌をすぐ近くにしながらの長閑な散歩ではあった。しかしながら中腹を過ぎたところ辺りから突如として山の崖を眼下に眺めるようになり、掌には冷や汗がにじみ、体が凍り付いてしまったのだ。足はぶらぶら、とても空中散歩を長閑に楽しむ気分ではなくなってしまっていた。

それでも山上駅に到着するころには、空気も澄んでいることを実感し清々しかった。初春の季節はまだ緑が色付くものではなかったが、灰色の枝から薄緑色の若葉が芽生えていたのを目にし、春という季節の訪れを視覚的に味わうことができたのだった。

上野で久しぶりに「どじょう鍋」を食した

帰宅困難者となっていた昨日のおいらは、上野へと向かっていた。低廉価格のホテルでチェックインを済ませると、アメ横界隈へと向かっていた。そもそも「爆弾低気圧」とも呼ぶ台風並みの暴風雨の影響で、下町上野の繁華街も閑散としていて人通りもまばらであった。ガード下の本道を逸れてある看板、即ち「八起」が目に付いたおいらはその暖簾をくぐっていたのだった。つい先日には赤羽の同名の居酒屋の名前が引っ掛かっていたこともある。

そこで偶然にも出会ったのが、麗しの「どじょう鍋」である。他で食したのとは少し違い、と云うよりもだいぶ違って、卵とじの調理法で出されていたのだった。そんな卵とは余計な食材では決して無くて、充分に旨みとマイルドさとに加えて及びの+アルファーは、エグミであった。こんなエグミこそは生命を生きさせる。生き生きとさせていくための必須の要素なのである。エグイ=生きるという方程式を忘れてはいけないのである。

馬鹿総理こと野田は、自らをどじょうになぞらえながらも、どじょうのエグミには知識が及ばないようである。こんないんちき野郎の総理大臣は早く退散してもらおう。