「フォト蔵」に「きらきらファッション」を公開しました

登録したばかりの「フォト蔵」に「きらきらファッション」を公開アップロードしました。とても簡単な手続きで、スライドショーとして見られるので、遅れてきた「フォト蔵」ユーザーとしては少々感激モードに入ってしまいました。

http://photozou.jp/photo/slideshow/306040/1124129

みどり企画の「きらきらファッションショー」でもお馴染みの、衣装デザイナーこときらきら泉さんの手づくりファッションです。オーガニックコットン、日本の古布、インドのワイルド・シルクなどの自然素材を使って、大変魅力的な衣装がデザインされています。

現在のホームページに続く第2弾として撮影されていたものの、みどり企画HPでは長らくお蔵入りにされていた貴重な写真たちです。モデルは神田さおりさん。この機会にぜひご鑑賞ください。

http://www.midori-kikaku.com/kirakira/

ちなみに、よしこさんが作成した公式ホームページ「きらきら泉…at Works」はこちらです。同じ写真が使用されています。どちらもおいらの撮影です。

http://www4.ocn.ne.jp/~xaba/index.htm

写真共有サイト「フォト蔵」に登録

遅ればせながら「フォト蔵」に会員登録をした。先日までは「flickr」にしようかどうかと迷っていたのだが、結局、使い勝手やら日本語全面対応(笑)などといった些少の違いから、フォト蔵を選択したということになる。

flickrを欧米向に特化して発信するという案も捨てた訳ではない。「twitter」や「facebook」を欧米人とのコミュニケーションに特化して利用しているユーザーが少なからず居ると同様に、このスタイルもまた捨てがたいと思うからである。

という訳で、最近は既存の写真データのアップロード作業に追われているのである。今あるおおよその写真データをアップし公開した後で、どんな活用ができるか、少しずつ試みていきたいと考えている。まずは「タグ」を付ける作業と、ジャンル分けに注力していこうかと、我ながら殊勝な心がけを抱いているところなのである。

話題の冷製おでんにがっかり

手が凍えるほど寒い夜なのに、久しぶりに出かけた某居酒屋にて冷製おでんなど頼んで食べたりしたので、今宵はちょいと調子が悪い。ちょいとした寒気や頭痛やらが襲ってきた。

その話題のおでんは、おでんの出汁でトマト、アスパラ、鶏肉、そして炒め玉ねぎなどを煮込んでいる。狙いは悪くないのだが、それにしても注文する客のことをまるで考えていない代物である。

帰宅途中のスーパーにて398円の鍋材料を暖めて、ようやくほっこりと暖をとっているような有様である。

高田渡の特集番組、4週連続放映中

高田さんは吉祥寺の愛酒会の人気者であった。

NHK教育の「知る楽」では、高田渡の特集番組が4週連続で放映中である。先週の第1回放映を見逃していたので、本日は早朝目覚ましで起き、5時35分からの再放送番組を視聴した。「随想 吉祥寺の森から」の杉本さんより番組情報を提供していただいていた。

http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/52082820.html

第1回放映では、高田渡さんの少年時代にスポットが当てられていた。裕福だった岐阜での幼少期とは裏腹に、破産して東京に逃れ着いてからの一家の生活は、とても苦しいものであった。飯場の労働者たちと接しながら育った渡さんのの少年時代の環境が、彼の音楽性に甚大な影響を与えていたことは想像に難くない。

高田渡さんと云えば、かつておいらが西荻窪の「ほびっと村」にて二人写真展を行った際、祭りのライブ会場で渡さんを撮影した写真の展示許可をもらうことやご挨拶などから、彼の住む吉祥寺を訪ねたことがある。南口改札前で待ち合わせた渡さんは、とても静かに現れて、とても想い出深い面会となった訳である。かねてからの行きつけであるハーモニカ横丁でのお付き合いを願い出たところ快く応じてくれたのである。ビール、焼酎と杯を重ねながら、奥さんが写真関係の仕事をしていて渡さんも写真に関心が深いことや、息子さんのことなど、とても熱っぽく語ってくれたことを昨日のことのように思い出すのだ。その日はおいらも少々深酒してしまい、帰宅するなり妻にじっくり叱られたという、ほろ苦い想い出もあったりするのである。

本日はこれから、第2回目の放映がある。テーマは「“日本語フォーク”の先駆者 」となっている。フォークシンガーの中でもとても異色であった彼の音楽が生み出された背景や必然や、その他諸々のドラマが展開されるだろうと期待しているところである。

群馬のアンテナショップ「ぐんまちゃん家」で水沢うどんを当てたのだ

マスコット「アルティ」君も大活躍である。

銀座にある群馬のアンテナショップ「ぐんまちゃん家」(銀座5-13-19)では、伊香保・渋川フェアを開催中である。

http://kikaku.pref.gunma.jp/g-info/

2Fのイベント会場に入ると、沢山のパンフレット類に「エチケットセット」までもが無料提供される。そして簡単な2問のクイズに答えると抽選の権利が与えられるのだ。1等賞は伊香保の一泊旅行券である。久しぶりに気合が入って臨んだのだ。早速簡単なクイズに合格して、次なる抽選の機械をぐるぐるっと回す。

「お目出とうございます!」の大きな掛け声とともに、チャリン! チャリン! と、鐘の音が鳴り響いたのです。見事引き当てた賞品は「水沢うどん」でありました。知らない人も多いだろうが、日本3大うどんにも称せられる名物である。3大うどんとして名を連ねる他の讃岐うどん、稲庭うどんに比べても、この水沢うどんの方が断然と品良く高級であることは明らかである。即ち、水沢うどんこそ日本のNo.1うどんと云っても過言ではないのである。

家に持って帰って食してもよかったのだが、群馬出身のピチピチOLの「うどんちゃん」に差し上げることにした。もちもちとした柔肌のうどんちゃんには、水沢うどんが良く似合うと感じたからである。

吉行淳之介編「酒中日記」にみる懐かしき文豪たちの日々

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吉行淳之介編「酒中日記」には、文豪の酒道の数々が述べられていて興味津々である。初版が1988年、講談社からの発行ということだから、かなりの古豪たちの肉声にも接することが出来る。それがとても稀有な同書の持ち味となっている。ちなみに再録再編集された文庫本が中央公論新社より出版されているのである。

編者、吉行淳之介の前書きにてこの随筆集は始まっている。「某月某日」の日記というスタイルにて、各執筆者たちの酒にまつわるあれこれが展開されていく訳である。読み進めでいて心地よいのは、古豪とも称される筆者の筆致のそれぞれが、決して武勇伝に陥ることがないということである。これはまさに新発見である。文豪、古豪と云えば、おいらにとっても雲の上的存在ではあるが、彼らの多くが「酒」に対して成功談よりも失敗談に終始していたということは、文豪たちの日常を表すある種のシンボルとして注目に値するだろう。

リレー式にバトンタッチされていく同書の編集は軽んじて、おいらは好きだった作家、懐かしさの濃い作家の順にページをめくって行くことにした。吉行さんから始まって、北守夫、そして以下飛び飛びに、五木寛之、笹沢佐保、野坂昭如、渡辺淳一、筒井康隆と読み進んで、生島治郎に戻って、一呼吸置いていたところである。

生島治郎さんと云えば、「片翼だけの天使」という名作で、トルコ嬢(今はこれ、禁句だっけ?)との一途な純愛を描いた先生である。この偉い先生をスルーしてしまったことを反省。改心しつつ文章を追っていると、直木賞受賞前後の記念碑的日々のあれやこれやが、酒中日記ならぬ酒中御見舞いのごとくに丁寧な筆致で記されているではないか! 昭和42年秋の生島先生の晴れの日を思いつつ、改めて心からの乾杯をしたところなのでありました。

司修が描いた、朔太郎の「郷土望景詩」幻想

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先日、群馬県前橋に帰郷した際、故郷の書店にて司修という版画家の著した「萩原朔太郎『郷土望景詩』幻想」を購入した。

萩原朔太郎が郷土を謳った詩に、インスピレーションを得た画家の司修が作画化したものとなっている。詩集に添えられた単なる挿絵集ではなく、もっと濃密な司修的世界が、そこには表出されていて、読む者たちを独特な郷愁の世界へと誘って行く。

最も虜とされ、何度もページをめくってしまうのが、朔太郎の「中学の校庭」という詩と司修の画とがコラボレートしたページである。

 中学の校庭 (萩原朔太郎)
  われの中学にありたる日は
  艶めく情熱になやみたり
  いかりて書物をなげすて
  ひとり校庭の草に寝ころび居しが
  なにものの哀愁ぞ
  はるかに青きを飛びさり
  天日直射して熱く帽子に照りぬ。

旧制中学の校舎とその横に不安定に佇む青年。シルエットとして表出された青年は、まだ幼くも見えてしまうが、左ページの建物は校舎という存在そのものを遥かに越えて佇む、青春期の迷宮的世界。永井苛風的表現を借りれば、精神的ラビランスである。そんなラビランスの世界に舞い戻って、過去の時間を歩いてみたい欲望に駆られてしまうのである。

この1冊に出遭ったことから、おいらの見る夢の世界も少々様変わりしてきたことを感じている。朝目覚めたときに記憶している情景は、郷土のこうした校舎をモチーフとしたラビランスではなかったかと、確信を強くしているのである。

岩手県軽米産の「韃靼蕎麦」を食す

昨日の筑前煮風根菜煮込みに、なめこなどの茸類、葱、ホウレン草を加えて蕎麦にして食べました。根菜の甘みを含んでまろやかな汁が、なんとも豊潤な味わいなり。

この蕎麦はただの蕎麦ではなく、知る人ぞ知る「韃靼蕎麦」なのです。ロシアの韃靼人という小部族が好んで食べていたことからこの名が付いたとされるが、普通の蕎麦に比べて「ルチン」という成分が百倍以上含まれている。ルチンは血管の弾力性を高め、血液の循環を良くする働きがあり、血管障害の病防止に役立つとされる健康成分である。蕎麦好きに健康者が多いという根拠の一つともなっているものだ。これが通常の百倍というのだから、食べないわけにはいかないのです。

岩手県軽米町は、日本には数少ないこの韃靼蕎麦の産地でもあります。以前は通信販売で取り寄せては時々食べていたものだが、近頃は「いわて銀座プラザ」というアンテナショップにこれが置いてあることを知り、食する機会も増えてきてて居る。お勧めの逸品であります。

冬のマクロビオティック風根菜料理

季節の料理はその季節にとれた食材で調理すべし、というのが確か、マクロビオティックの基本(掟)であったものと記憶している。今宵はそんな基本を噛み締めつつ、マクロビオティック風(この風が大切)の料理にチャレンジしたのでありました。

地元のスーパーマーケットにて、人参、牛蒡、大根、といった冬の根菜類と、蒟蒻(これはもちろん群馬県生産のもの)などを買い込んできて、それら根菜類に加えて鶏肉(これも何故だか群馬県製だった)をぐつぐつ煮ること15分以上は経ったであろうか? 醤油、味醂、そして砂糖と、甘辛く煮込まれた根菜煮込み料理は定番の筑前煮にも似ていて、それだけでご馳走でありました。

明日は筑前煮風料理の残りを使って、もう少しゴージャスなレシピをご紹介したいと思うのでご期待ください。

大好きなやんちゃ横綱、朝青龍が引退

おいらにとっては些か衝撃的ニュースが飛び込んできた。朝青龍が引退したというニュースである。かつて大好きだった玉の海と同じくらいに、おいらは朝青龍が好きである。その朝青龍が本日、引退を表明した。何かとお騒がしい騒動に巻き込まれてはいたといえ、まさかの展開である。

玉の海と同様に朝青龍は小兵である。体格的な優位性で横綱を張っていた相撲取りではない。小兵力士が何故あれだけバネの利いた力感的な相撲を取れるのかが、否取れたのかが、未だ疑問の一つである。

弱冠29歳の朝青龍。これからどう生きるのか? 温かく見守っていきたいなどと、柄にも無く大人じみて感じ入っていたのである。

みずほ銀行が井上真央をCMに起用した理由

真央ちゃんといっても浅田真央ではなくて井上真央である。井上真央といえば、映画やTVドラマに引っ張りだこの当代きっての人気アイドルである。可愛らしいのはもちろんだが、同じ人気アイドルの新垣結衣、戸田恵梨香たちと比較して、凛とした気品がある。愛くるしいだけのおバカタレントたちとは一線を画していると云ってよい。

 

かつておいらは、カード評論家として数多のアイドル・テレカを評価鑑定していたことがあった。


「必勝アイドル・テレカ虎の巻」

それらは「必勝アイドル・テレカ虎の巻」(JICC出版局発行)の1冊にまとめたのだが、今の時代がもし、テレカ全盛の時代であったならば、井上真央のテレカは間違いなく、超の字の付く程のプレミアム的価値を生んでいたはずである。たんに人気の高いということにプラスするαが、井上真央の何処かに潜んでいるのである。企業CM関係者にとっては、もっともスカウトのし甲斐のあるアイドルであったのだ。

今回彼女が起用されることになったのが、みずほ銀行のカードローンCMである。「カードローン」などと小奇麗な呼び名で繕われているが、何てことはない。所詮は消費者ローン、即ちサラ金のCMである。当代きっての人気アイドルをCMに起用することができて、みずほ関係者はさぞホクホク顔を隠せきれない事だろう。

そう古くはない昔には、一流人気タレントといえば、出演するCMのジャンルや内容を取捨選択していたものであるが、今や何でもござれである。吾が国は今ここに来て、ある種のルビコンの川を渡ってしまったのではないのか? という疑念が生じる。行き着く先はといえば、アメリカナイズされた殺伐として味気ない渇きの風景か…。いやいやそんなことはあってはならないのである。

「BRUTUS」の吉本隆明特集は晩年の起死回生のヒットかもしれない

雑誌「BRUTUS」の最新号では吉本隆明特集をやっている。

http://magazineworld.jp/brutus/679/

おいらの中学・高校の先輩でもある糸井重里さんがコーディネイトをしているということから大変期待をもって読み進めていたのであるが、何なんだ、この意想外な感覚は? まるで吉本さんらしくない「ことば」がいろいろ引用されていて、呆気にとられてしまった。まるでゆるいコメントである。ぬるいと云っても良いくらいである。

現代のコギャル(古いか?)ことAKB48の人生相談など、吉本さんの仕事とはとても云えない筈なのになあ。だが少しずつページをめくっていくうちに、糸井さんはじめ特集の作り手たちの云わんとすることはだいぶ理解できていた。こうした日常の言葉遣いのコミュニケーションを大切にして、吉本さんの巨大な思想は成立したんだなあということも、納得できたのである。

吾が国の思想界の巨人と称されて久しい吉本さんだが、少し前には小沢一郎賛美などとも捉えかねない変てこりんな色が付いちゃって残念だったのですが、好々爺吉本先生の姿としては、とても微笑ましいものがあるなと感じたのでした。

銀座の「ブランド」考現学或は鳩山内閣の使命

東京の下町をこよなく愛した作家、永井荷風さんは、名作「墨(変換不能文字)東綺譚」の随筆的後記「作後贅言」のなかで、銀座にふれて次のように記している。

「もとの処に同じ業をつづけているものは数えるほどで、今は悉く関西もしくは九州から来た人の経営に任ねられた。裏通の到る処に海豚汁や関西料理の看板がかけられ、横町の角々に屋台店の多くなったのも怪しむには当らない」

この文章を、「関西」を「欧州」、「九州」を「亜細亜」、「海豚汁や関西料理」を「イタリアンもしくはエスニック」、「屋台店」を「立呑み店」に置き換えてみるならば、まさしくそのまま、現在の銀座を云い当てていると述べても過言ではない。つまりは、現代銀座を荷風さんの先見の明を借りた表現にて述べるとするならば、以下のような表現が成り立つ。

「もとの処に同じ業をつづけているものは数えるほどで、今は悉く欧州もしくは亜細亜から来た人の経営に任ねられた。裏通の到る処にイタリアンもしくはエスニックの看板がかけられ、横町の角々に立呑店の多くなったのも怪しむには当らない」

さらに述べるならば、銀座の表通りには「エルメス」「ルイヴィトン」をはじめとして高級ブランドのショップが軒を連ねている。「エルメス」「ルイヴィトン」は誰もが知るが、そう有名でもない二流、三流のブランドショップの名を知っていないと、銀座界隈における会話でつま弾きにされてしまうのである。おいらもそうしたつま弾き的痛恨の目にはしばしば遭遇しているのだが、かといって二流三流のブランドの名など覚えようという気はさらさら持ち合わせては居ないのである。そもそもは「ブランド」といった概念の生成過程における矛盾は、銀座のみならず日本国全般に覆い尽くされていると云って良いだろう。

先日は鳩山首相も引用した、インドのガンジー元首相の言葉「七つの大罪」を正しく理解するならば、「富みなき労働」を作り出しているものこそ「ブランド」にほかならない。悪しきブランドの弊害は、日本国全般を蔓延しつつあるくらいに重大な問題である。銀座がこれからブランド化していくことは、即ち日本国が虚業化、空洞化していくことに繋がっていく。この一連の動きこそ、止めていかなくてはならない鳩山内閣の使命なのである。

姿を隠した銀座三越ライオンの行方とは?

銀座四丁目の三越では最近になって突如改装工事を始めた。あの猛々しいライオン像が見られなくなって、何やらいぶかしい匂いを感じ取っていたのであるが、このライオン像がいつの間にやら他の場所へと移動させられたというニュースを目にした。

新しい移転先は、墨田区内の三囲(みめぐり)神社だという。だが、ネット上でいろいろ検索していくと、このライオン像は、閉店した三越池袋店にあったものらしいのだ。簡単には移動させることもできないであろう、重々しい青銅製のライオン像というのも一致している。もっとよく調べてみれば、もともとライオン像は日本橋本店に周囲を睥睨するかのようにあったというが、いつの間にか銀座店、池袋店などに模造品が建てられたというのだ。

我が世の春を謳歌していた時代のライオン像は、とても厳かに映っていたが、今になってみれば、幾つもの模造品の引き取り場所にその身を隠すように居るのだろうか。いずれにせよ銀座三越のライオン像は、この場所から離れることなく生涯を全うしてほしいと願いのである。

鳩山由紀夫首相スピーチにおける「正」と「邪」

twitterにて鳩山由紀夫首相をフォローしている(フォローされてもいる)せいだか知らぬが、首相の施政方針演説の内容が気にかかって仕様がない。「命を守る政治」を声高々に宣言したということはマスコミの報道で知ったが、その内容の詳細についてはなかなか詳細が伝わってこなかったのである。具体的なイメージが、いまいちピンと来ないのだ。

あらためて全文を読み進めてみたのであるが、これはまっとうな政治宣言である。これくらいに高々く宣言をした政治家は、近頃の我が国首相のスピーチにはたえてなかったのではないかと感じ取れるくらいに、首尾一貫している。鳩山首相が以前に発表したとされ、米国マスコミに勝手に引用され叩かれていた某論文ほどのインパクトと正道性は失せたが、それでも一国の首相の演説に値する何かはある。なかなか政治的メッセージとしての読み応えは確かにある。

この演説に関して、平田オリザなる人物が関与している。彼がスピーチライター的な役割を担っているという報道もある。平田オリザ氏が苦学して国際基督教大学を卒業したのち、演劇の世界などで活躍中の人物であるということは周知である。少し前にはTBSのニュース番組のコメンテータとして出演していたこともあり、興味深く、かつ有能な人物であるのだろう。ちなみに「晩聲社」という出版社から多くの著作を著していたことなど今知ることとなり、あらためて読んでみたいと思っていた次第である。

鳩山首相のスピーチ内容については関係者により精査したものであろうことから、ここでは徒な助言は避けるつもりであるが、スピーチの方法、演技指導にまで平田氏の助言が回っていたとすれば、これはちと首を傾げざるを得ないのである。以下に、今回の鳩山首相施政方針演説における、演出上の誤ったポイントについて2点ほど指摘しておきたい。

1.クライマックスにあたり、前を見据えて大声を発するという手法は邪道である。

この手法は、田中角栄、小泉純一郎がかつて成果を博していた手法なのであるが、鳩山さんには決して似合わないのであります。そのことを自覚した方が良いと思うなり。この手法は悪くするとヒトラーを想起されるものでもある。ちなみに弟の邦夫さんは田中角栄さんの秘書もされていたということなので、その影響が未だに尾を引いているのかなどと思ってもみたのです。悪しき影響などなければ良いのだが。

2.ガンジー師に対する尊敬の念を表明するのは賛成だが。

日本の政治について言及するに当たっては、やはり日本人について述べていただきたい。例えば、良寛、親鸞、といった日本の仏教家や芥川龍之介、太宰治、萩原朔太郎、永井荷風、などなど、その深甚なる世界観を引用することが日本人の有権者にとってはどれだけ訴えかけることになるのか、多分、平田氏は思いもつかないことだったのであろう。

春の訪れを告げる、ふきのとうの天麩羅を食す

行き付けの店で飲んでいたらメニューに「ふきのとうの天麩羅」とあったので、早速注文してみました。

むかしはどこでも自生していたとされるふきのとうであり、かつておいらが小金井市に住んでいた頃には、自生のふきのとうを見つけては、友人たちに天麩羅料理を振る舞っていたものである。だが近頃はとんとふきのとうの発芽する芽を見かけなくなっていた。こうして特別な食材を用いた特別な料理にありつけるのは、とても嬉しきことなり。

私はいつも都会をもとめる[西荻窪「ほびっと村」編]

途中下車して駆け込んでみる酒場の光景も悪くない。通りすがりの者ですがと、注文しながらやり取りする会話が盛り上がることもあれば、他所者扱いされて白けるケースも少なくない。地元意識が強い小さな駅前の一杯飲み屋などには、その傾向が強いだろう。中央線沿線の「西荻窪」などはその典型だろうか?

今宵はふと、探検家気分になり、西荻窪にて途中下車してみたのであります。西荻窪と云えば、南口を降りて徒歩3~4分のところには「ほびっと村」というユニークなカルチャー施設がある。1階は自然食栽培にこだわった八百屋である。2階が食事処である。そして3階は本屋とイベントスペースで占められている。本屋といえどもここには、どこにでも売っている種類の本はほとんど置いていない。独特な品揃えが特徴のオンリーワン書店である。かつてこの書店にて「とろん」の本を購入したことがあった。そしてとろんの口利きで写真展を開いたこともあった。

http://www.nabra.co.jp/hobbit/hobbit_mura.htm

もう10年も昔の話になるが、この施設の踊り場スペースを借り切って、彼女と二人展を開いたことがあったのである。展覧会タイトルは確か、「祭りで出遭ったアーティストたち」。とろん、きらきら、高田渡、花&フェノミナン、エトセトラのアーティストたちを撮影した写真を展示したのだが、初日のオープニングパーティーには、2階の食事処を埋め尽くすくらい大勢の参加者でごった返したという想い出がよみがえってくる。オープニングパーティー後のアキンと某同窓生との二次会では、西荻駅前の赤提灯酒場で酒を喰らい、酔ってトイレに出たが最後は迷い続けてしまい、手荷物も置いたままほうほうの体で自宅に彷徨い帰ったという苦々しい想い出も、ぎゅうぎゅうに詰まっているところなのである。ちなみにおいらにとっては大切だった手荷物を、わざわざタクシーで遠回りして届けてくれたのは、アキンではなく某同窓生であった。感謝、多謝、謝謝なのである。

過ぎ行く冬を惜しんで「鍋」考現学なのだ

人間にとっての厳しい季節である冬も、あともう少しで通り過ぎようとしている。昼間ポツポツと降りかかっていた雨も上がり、何やら生暖かい空気が吾が身を包んでいた宵なり。一杯やろうかと立ち寄った店にて食したのは「餃子鍋」であった。

鶏がらの出汁をベースにした濃い目のスープに大型の餃子と白菜などの野菜類、それに白滝風の麺が顔を覗かせている。肉や魚が無いぶん、それだけカロリーも低く抑えられ、しかも存分に鍋を食した気分になれるのである。ありそうでなかった鍋のアールヌーボーと云って良いだろう。

昨今の鍋事情を振り返って、ベスト5を挙げてみれば、次のようになるだろうか?

1 アンコウ鍋(やはりこれは別格)
2 テッチリ鍋(やはりこれも別格)
3 しょっつる鍋(これまた絶品の相性なのだ)
4 ほうとう鍋(味噌と南瓜の相性が○なのだ)
5 餃子鍋(中華スープの鍋が○なのだ)

その他の多くの鍋類(寄せ鍋、ちゃんこ鍋、モツ鍋、カレー鍋、トマト鍋、火鍋、おでん鍋、芋煮鍋、等々その他諸々)に関してはおしなべてごった煮風の鍋であるゆえ、評価の対象外とさせていただきました。

保守王国「群馬」の県民性は保守的にあらず

郷里に愛着を持つものがいれば、そんなものいらないというものもいる。先日は、新井満氏の随筆集「死んだら風に生まれかわる」を読んでいて、彼の強烈な「新潟」への郷土愛をこれでもかと云うほど目にとどめつつ感じ入ったのではあったが、吾が身を翻って思うに、そんな郷土愛がいささか薄いということを感じてもいるのである。

先日もここで書いたのだが、新井満氏が挙げている新潟県的人間は、良寛、坂口安吾、そして田中角栄である。これに習えば群馬県人的人間とは、国定忠治、萩原朔太郎、そして福田赳夫ということになるだろう。この3人を並べて見て、敬愛する朔太郎さん以外の2名にはとてもいけ好かない。郷里の恥と云ってはなんだが、ネガティブな思いしか抱かないのだ。

かつて田中角栄と総理大臣の椅子を争った福田赳夫は、東大法学部を首席で卒業したのち大蔵省へ入省する。大蔵省主計局長だった当時、収賄罪の容疑で逮捕されたことがきっかけとなり政治の世界へと入ったという。彼の出身校の高崎高校(旧制高崎中学)には、「福田の前に福田なく、福田の後に福田なし」といった、福田赳夫を称えるうたが詠まれるくらいなのである。保守本流のエリート政治家を輩出した風土は、群馬県の高崎に根差していると云えよう。だがこれにて群馬県人の多くが福田を尊敬しているかといえば、そんなことなど決してない。敵方強かれば己もまた強くなりである。却って反保守、脱保守の論陣をこの地で培ったという人間は多いのである。

おいらの出身校である前橋高校(旧制前橋中学を含む)では、田辺誠元委員長ら、かつての野党社会党の代議士を多数輩出している。過去に福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三の3名の衆議院議員を同時に選出していた群馬3区でもう1人、当選者としていた山口鶴男もまた前橋出身であった。しかるにおいらの出身地・前橋は、反保守、脱保守の気風は少なからずあったのである。邪道・高崎に対して、正道・前橋の気風である。

本谷有希子の奇書「生きてるだけで、愛。」を読む

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映画「渋谷」つながりで読みかけていた「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」を途中で放り出した。ストーリーが判っている本に向かって熱中することができなかったのである。だがその代わりに読み始めていた「生きてるだけで、愛。」にはまったのでした。

いやいや作品としてはこちらの方が断然上である。奇書的傑作とでも呼んだら良いのだろうか? 鬱病持ちで奇行の目立つ女主人公寧子と零細出版社の編集長男性とのドロドロの恋愛絵巻なのだが、ストーリーのはちゃ滅茶ぶりとは裏腹に、妙に訴えてくるリアルが確かに存在する。

例えば太宰治の「ヴィヨンの妻」はといえば、破天荒な夫に振り廻され翻弄される妻の姿を描いた傑作であるが、この男女の関係性を反転してみたらこうなるであろう、不思議に生々しいリアリティがそこにはあるのだ。本谷有希子さんには「女太宰治」の称号を差し上げたいくらいである。

女の身勝手な衝動に振り廻される男の姿は、一面で滑稽であり痛々しい。だが男の何処かには、特別な女に振り廻されたい的願望が巣喰っていることも見逃すことはできない。いつかは壊れてしまうかもしれない、否きっとそのうち、崩壊するであろう、決して甘くはない肥大した、恋愛という対幻想の姿かたちを、この奇書的傑作は写し示してくれるのである。