本日の気象はまるで台風が襲来したかの豪雨である。
おいらもそんな豪雨に巻き込まれており、所謂「帰宅難民」となってしまった。
お気楽なTVではプロ野球ジャイアンツ戦を放映しており、台風シーズンに味わった時とはこれまた違って居たのである。
機会があれば、詳細は後日に。
本日の気象はまるで台風が襲来したかの豪雨である。
おいらもそんな豪雨に巻き込まれており、所謂「帰宅難民」となってしまった。
お気楽なTVではプロ野球ジャイアンツ戦を放映しており、台風シーズンに味わった時とはこれまた違って居たのである。
機会があれば、詳細は後日に。
中国料理における鍋料理と云えば「火鍋」すなわち激辛のスープ鍋が基本である。先日は久しぶりに本格火鍋を食したことの余韻も相俟って、火鍋を作りたいという気分が満喫していたのであった。
しかしながら火鍋用の調味料を一つ一つ用意するのは大変であるのであり、ここはインスタント的火鍋料理の素として販売されている、丸美屋の「麻辣火鍋の素」を購入して調理したのだった。
中国の代表的辛味調味料である豆板醤を基本に、椎茸等の出汁がアレンジされている。中国山椒こと「花椒」も用意されており、中国版の辛味調味料の基本はこれでまかなえるのだが、「火鍋」の奥深いスープを作るには不十分である。鶏がら主体のスープのコクも無く、ただ辛さばかりが舌を突く。
これには中国鍋のもう一つの基本であるべき「薬膳」スープを構成すべき要素が欠けていたのであった。
自宅にとりあえず有った「クコの実」と「八角」を加えて煮込んだ。本来はこれに加えて「桂皮」「ナツメ」「朝鮮人参」等を用いるべきなのだが、準備がなかったので割愛するしかなかったのである。丸美屋のものに少々味のコクが加わっていたようではある。いわゆる一つの成功パターンではあった。
〆には激辛のスープに極細のそうめんを入れて食した。これは絶品であったことを強くここに記しておきたい。火鍋にはそうめんが良く似合うのである。
おいらがかつて住んでいた小金井市内を散策。帰りに、東小金井駅近くの「太平楽」にて一献傾けたのだった。
手作り餃子が人気の店である。流行的中華のショウロンポウの如くな、肉汁がジュワ~といった類いのきわものではなく、キャベツやニラの野菜がたっぷりとのったアンがジューシーでいて優しい。胃に優しく身体に優しいことを実感できる。餃子は野菜がいっぱい肉汁少な目の、しかしながらに大降りのものに限るのである。当「太平楽」の手作り餃子はまさにこの条件に叶っているのであり、呑兵衛には逸品のメニューとなっているのであった。
手作り餃子の後は、お新香を注文。今では珍しくもなった糠漬けなのだ。日により具材は変わるが今日の具材は、キュウリ、カブ、そして何ということかのサプライズの「山芋」が漬けられていたのであった。あまり重い漬物ではなくて浅漬け風の粕漬けであった。これはサラダ感覚であり、お新香のイメージを新たなものにさせたと云って良い。
■太平楽
東京都小金井市東町4-43-13
我国には「奈良漬」と呼ばれる漬物が在る。奈良地方で定着した漬物の一種と見えるが、なかなかこの漬物には、独自の道を行くという心意気にも似た方向性を感じ取るのであり、常に外食のメニューにはこれが在ったらとにかく口にしてみよう(美味い不味いは問わずに)という嗜好性をこのところ持っているおいらである。
奈良漬はとても風味豊かであり、其れはまず「甘い」のが特徴である。何度も新しい酒粕(さけかす)に漬けられながらその姿を琥珀色に染めていくのだ。材料となるのは、白うり、胡瓜、西瓜、生姜などの野菜であり、我国に一般的に自生する野菜の類に他ならない。つまり特別な食材へのレシピを施すのではなくて、一般的な野菜を素材にしつつ、極めて個性的な稀に見る類の逸品が生み出されているのである。
酒粕というものはいまでは「甘酒」の原料としても流通している。これが「奈良漬」の準主役的存在である。主役はやはり日本で自生もする白うり、胡瓜、西瓜、生姜などの野菜類である。母屋が店子に店を取られることは無いのであるからして、主役はあくまでも野菜類であることは強調しておきたいのだ。
何度も漬け込まれることにより、塩見が次第に引いていき甘味が際立っていくのである。これこそは我国におけるスローフードの代表的メニューではないかと考えているところである。
ウドが美味しい季節となった。一般家庭ではなかなかウドのメニューを調理することは困難である。しかる理由にて多くは外食にてこの季節の食材を味わうことになってしまっていることは残念ではある。
ウドという植物は単にがたいが大きいだけでなく、その身の瑞々しさが特筆される。水分量が極めて大きく、サクサクとした触感のほとんどがその瑞々しさによっているということが云えよう。
今回食した「ウドの酢味噌和え」は、厚さ2mm程度にスライスされたウドが、酢味噌に味付けされて提供されていた。一口齧ってみるととてもサクサクとして瑞々しさが際立っていた。栄養素などが薄くてもこの触感だけは特別なものであると納得。もっと厚くスライスしてじっくりと時間を掛けて煮込んだならば、もっとおいしく調理できるのではないかと想像した。いつか生ウドを手に入れて調理したいと考えているところなのである。
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こんな長ったらしい名前の本が、2年ほど前の書店におけるベストセラーなんだと云うことなんである。だからか略して「もしドラ」という名前でヒットしていた。「マネジメント」等と云うビジネス書風情のタイトルに、おいらもあまり気乗りしないながら、先日手にとって、少しずつ読み進めていた。
一時期は我国でも、マネージャーでなければ人にあらずというくらいに「マネージャー」が持て囃されており、マネージャー礼賛はあたかも自己啓発セミナーの洗脳の類いにも似て蔓延していた。些か気色悪いブームではあった。そんなマネージャー礼賛の風潮はピークを過ぎたと思えた頃に、出版されたのがこの本であった。
作者の岩崎夏海氏は「AKB48」のプロデュースを手掛けていており、主人公マネージャーは「AKB48」の高橋みなみをモデルにしたと云う。当代きってのちゃらちゃらアイドルをモデルにし、表紙には癒し系イラストを用い、「マネジメント」のブームの再来を企図したのかもしれないが、結局ブーム再来は果たせなかったが、ほんのヒットには結び付いたのであった。
ところでよくある東京都内の都立高野球部が、ドラッカーの「マネジメント」を読んだら、甲子園出場を果たしたという同書の基本的プロットは、かなりの無理があり、プロット自体が破綻していると云って良い。先ずはそこそこのピッチャーをはいしての高校野球がいくら「マネジメント」を駆使し得たと雖も、予選を勝ち抜くことなど不可能だ。バントをしない、ボール球を振らせるピッチングをしない、等々の戦略が功を奏することは有り得ないのである。所詮はドラッカー本の、二番、三番、四番煎じ的、色物的書籍の一つではある。
♪ あんこ椿は あんこ椿は
♪ あ・・・・あ すすり泣き
作詞 星野哲郎
作曲 市川昭介
唄 都はるみ
この「アンコ椿は恋の花」における「あんこ」というのは、当方方言による美女の形容詞だということであり、例えば沖縄方言の「ちゅら」という言葉に似ているのかもしれない。それはどうあれ、先日に調布市深大寺を散策した時に購入していた我が家の椿、岩根絞りの椿が、可憐な花を咲かせていたので、写真をアップしておきます。
白と紅白とのコントラストが思いの外にビューティフルであり、可憐な乙女が恋の花に身を焼き焦がれていくさまが、まさに都はるみのヒット曲のごとく可憐かつ鮮やかに浮かび上がってくるのである。
紅は紅のみでは単調な色彩であり、そこに白い色が加わることにより、云わばお邪魔虫が介入することにより、より恋模様をイメージさせていくのである。たかが紅色、されど紅色であり、そこにお邪魔に白が介入することによって、恋の色として定着するのであった。
只の紅色の「椿」。これはおいらの実家に生息していた椿の花である。
下町の外れとも云うべき「赤羽」には、戦後から呑兵衛に継承されて息づく町並みが存在している。「OK横丁」とはまさに、そんな呑兵衛の息吹を発する界隈となっており、地元の活性化にもしとどに寄与しているのであるから侮ることは出来ないのだ。
■ホルモン煮
「タン」「ハツ」「コブクロ」「ガツ」「ミミ」等の食べどころのモツ部分を、焼くのではなくて煮て提供される逸品たち。
■チャーメン
大量のモヤシに、ニラ、ホルモンのミンチを炒めたメニュー。モヤシが麺の代わりと見えて、麺類は使用されてはいないのでとてもヘルシーなメニューである。
(株)八起
〒115-0045 東京都北区赤羽1丁目18−8
03-3901-5843
桜はおろか梅の花さえ未だ見ることのない今年の初春である。
そんな今年の最初の満開桜を眺めたのは、上野駅構内の桜であった。造花ではなくなまの桜である。これ異常、否以上はないくらいに満開に咲き乱れていた。
桜も温室栽培か何かの人工栽培を施せば、天候に左右されない満開花を咲かせることができるのだと、ある種「人工」のパワーを認識し、それと共に、そんな人間の叡智を、温暖化防止等の価値有る営みに結び付けられないのかと考えていた。
上野駅からいつもの列車に乗って、故郷上州へと向かった。上州も東京と同様に桜の開花の気配など無かったのだが、出身高校の跡地に程近い双子山古墳の周りの梅が花を咲かせているのを目にすることが出来た。未だ3分咲きといったものだが、可憐で桜より強いピンクの花弁が風趣をそそったのであった。
まるで学級討論会レベルの民主党内のごたごたがまかり通っていると云う昨今の政治状況のことは即ち、日本の政治も相当に劣化したことを感じ取らざるを得ないのだが、それ以上にこっけいなのが、野田佳彦首相が語ったとされる「環太平洋連携協定(TPP)はビートルズだ」との発言である。
「日本はポール・マッカートニーだ。ポールのいないビートルズはあり得ない」
「米国はジョン・レノンだ。この2人がきちっとハーモニーしなければいけない」
我が国に国会議員は大量過ぎるくらいに存在すれども、こんなお馬鹿な発言を些かの衒いも無く公にしてしまう野田馬鹿野郎の、人間としての資質やら脳足りん的存在に対しては、逸早くの撤退を声を大にして主張しておきたい。一体全体、自らを「どじょう」に喩えた馬鹿総理は、どじょうの脳味噌どころか蝿や蚊のそれほどもない低能至極であることを公言したに等しいのである。
(些か酔いが回ってきたのでこの先は別稿に続きます)
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著者の「山崎ナオコーラ」という名はペンネームであるということは、数々の客観的事実としてはっきりしている。そして想像するに「直子」or「尚子」or「奈央子」or「菜穂子」さんという名前の女性が、「コーラ」という語尾を付けて遊んでみたという光景が浮かび上がる。
まあ作家さんの本名についてはどうでも良いのだが、語尾に付けられた「コーラ」はとても詮索力を掻き立てられる。「コーラ依存症」なのか? 或いは「コーラマニア」か、或いは「コーラ好き」「コーラ偏食」「コーラ愛好家」等々のイメージが惹起されるのであり、そんなコーラを象徴的にイメージするのが、アメリカ的毒食なのではある。今はまさにコーラやハンバーガー等と云った、ジャンクフードが花盛りであり、そんなジャンクの申子的メーカーの「マクドナルド」が「食育」等をPRするくらいなのであり、不可解この上ないくらいだ。
そんなナオコーラさんの代表作「人のセックスを笑うな」を読んで、いたく感動したのであった。何故か? と自ら内省的に問えば、その作品世界のテンポのよさとともに、軽々とした世界観でありながら、真摯な人生観とでも云おうか…。20代前半の男と30代後半の女の年の差カップルのやり取りが、まるで俎板の上のセックスのごとくに描写されていくのであり、テンポやセンスが光る描写とともに、達観したごとくの人生観が垣間見られていたのであり、憧れにも近い思いに駆られていた。この作家の色々な作品が読みたいと思ったのであった。
以前には同原作のDVDを鑑賞していたのであり、エロビデオの類いにしか感じなかったが、原作は租の様に剃の様にもっと刺激的で関東的な作品であったのであった。
久しぶりに「火鍋」を食する機会が持てた。「麻辣」「白湯」の二種のスープで味わう中華鍋の代表的メニュー。具材は豚肉、海老、豆腐、白菜、人参、椎茸、春菊、春雨、と充分すぎるほどのバリエーションだ。
先ずは赤々とした辛いほうの「麻辣」スープで豚肉をしゃぶしゃぶ風に味わう。辛味が食欲を刺激する。細長い一般的な唐辛子と共に丸くてずんぐりした唐辛子が沢山スープに浮いている。これが例の四川唐辛子(朝天辣椒)なのだ。細い唐辛子ほどは辛くなく、味に変化がついている。中国山椒も入っているだろうが極少量のようであり、この痺れるような辛さを感じられなかったのが残念だった。
寒い冬ももうすぐあけて春近しのこの頃、これがこの冬の鍋料理の食べ収めになるかもしれないが、やはり侮れない鍋料理ではあった。
八王子のオーナーシェフ、天野順子さんが営むインド料理店として、つまりはインド人の経営ではない日本人のインド料理専門店として地元の老舗店である。とても美味しくおいらも以前からお気に入れである。
http://www.geocities.jp/lorcachi/
久しぶりに訪れたら、チキンや野菜のカレーと云った定番メニューに加えて「なすカレー」というメニューが目に付いた。TV番組の中でも取上げられたと云うことであり、大々的にアピールされていたのであり、おいらは其れに飛びついてしまったと云う訳ではあった。
見た目は「キーマカレー」の様ではあるが、挽き肉は控えめであり、茄子が味をマイルドにさせており、瑞々しい茄子の出汁とカレーのスパイスとが相俟って、独特絶品と云える風味を醸しているのである。此れはこれでまたおいらの好物の一つとして記しておこう。ちなみにおいらの学生のときからの知己である竹中直人氏が、ユーチューブで当店について語っているので紹介しておこう。
八王子市夢美術館
〒192-0071東京都八王子市八日町8-1 ビュータワー八王子2F
Tel. 042-621-6777 / Fax. 042-621-6776
2012年2月10日(金)~3月25日(日)
http://www.robot.co.jp/article/?id=kunio
先週の「八王子画廊散歩」のスタンプラリーで入手した入場券を使って、八王子市夢美術館の「加藤久仁生展」を鑑賞した。「加藤久仁生」という名前には聴き覚えが無かったので、まったくの白い、何の先入観も無い気持ちで鑑賞に臨めたのが幸いであった。ポスターを見る限りではそのタブローとしての作品に迫力は無かった。それがタブローと云うものとはまったく別なカテゴリーの代物であると云うことを知ったのは、会場に足を運んでいたその場所その時であった。
アニメーション作家として、国際的な賞を受賞した加藤久仁生氏の、構想段階のスケッチから、絵コンテ、アニメの原画、更には同名の絵本の原画作品等々が展示されており、充分に加藤久仁生の世界を堪能できたのである。
フランスのアヌシー国際アニメーション映画祭でアヌシー・クリスタル賞、米国アカデミー賞短編アニメーション賞、等の国際的な賞を獲得した「つみきのいえ」というアニメ作品は、海面が上昇したことで水没しつつある街に一人残り日々の生活を送りながら、毎日新しい積み木を積み重ねる老人が主人公の短編作品である。台詞は無く、近藤研二氏の音楽とのコラボレーションが絶妙のコンビネーションだ。鉛筆画をもとにパソコンで着彩されたというその作品世界は、控えめで擦れる様な加藤久仁生氏の息遣いを伝えている。アニメ作品の新しくもありベーシックでもあるスタイルが其処にはあった。
今朝からずっと、吉本隆明さんが亡くなったというニュースにふれて、悲しみにくれている。
高齢ではあるがここ近年においてもなお旺盛な執筆活動を続けていたことと、今日の逝去のニュースとのギャップが中々埋まらなかったのだ。巨星が逝ったことを理解するに相当程度の時間を費やしていた。
こんなことは肉親、身内の人間以外には無かった事だし、恐らく、今後とも考え難い、とても耐え難いことがらであった。
遥か昔になるが、おいらがまだ20歳に届かない思春期の一時期に、吉本隆明さんの詩作に触れていた。
難解且つ晦渋なその詩的世界を理解しようともがきつつ、彼の思想的な著書をむさぼり読んでいた。
多分その関係性は、入れ込んでいたとか好きだったとか云った位相を凌駕しており、関係の絶対性という、吉本さんのキーワードにも繋がるような、強固な関わりがあったのだ。
おいらは所謂団塊の世代よりもずっと後に生を受けており、先輩たちの受け取り方とは異質に、吉本さんと相対していたと云えよう。最も尊敬すべきは、「思想」という代物が、舶来輸入品ではなくて確乎たる人間としての営みからのみ作り上げられるものだとして、吉本さんの思想的営為が受け入れられたということに他ならない。
思想することは生きることの同義であり、産経新聞論壇に代表されるお馬鹿な大衆保守主義や所謂戦後民主主義といった、出来合いの思潮的風潮をけち飛ばすくらいのパワーで、戦後の日本の思潮的一里塚を築き上げたのである。こんな営みを他の誰がなしえたといえよう。
晩年の吉本さんは、小沢一郎に入れ込んだり反原発を批判したりといった、おいらの考えとは異なる発言を発していたのであったが、たとえそれはなかろうぜ、といった言説に触れていても、吉本先生の思索のたまものだと受け取ることができたのである。
本日はそんな日でもあり、おいらも献杯を重ねて思考力が著しく鈍ってしまっているようであり、また日を改めて、吉本隆明先生の偉大さに触れていきたいと思うのである。
婚活毒女、詐欺女こと、木嶋佳苗被告の裁判が先日結審した。そして4月13日には初公判の判決が言い渡されることとなった。結審前の被告は、云わば似非良心の呵責というものを訴えて、審議は終了した。弁護団はそんな被告の言い分を補強することに躍起となった。そんな茶番劇が繰り広げられていた。
これからの約1ヶ月の間、裁判員として司法の場に居合わされることとなった人たちの気苦労はと云えば、それは途轍もない甚大なものであろうと想像する。結果がどういうものになうとも、今のこの時点における裁判員の立場は、云わば尋常ならざる立場に立たされているのであり、このような司法の場の状況を招来させたことについて、釈然としないものを感じ取っている。
すなわちこのような司法の場の招来はつまりは、アメリカ式司法制度の「陪審員」制度を模倣、真似したものに他ならず、加えて指摘するならば、物的証拠に依って判決できない類いの事案について、所謂「状況証拠の積み重ねによる実証」の場に、日本国民市民が駆り出されたという現実的要素が、端倪すべかざらぬポイントであるということだ。
「物的証拠」が無いという状況証拠の判断を、一般市民に委ねるというのが、アメリカ的「陪審員」制度の柱である。そんな重要なことを曖昧にしながら日本の裁判制度の改悪が進行している。
そもそもといえば、悪しき米国的詐欺的犯罪が横行するようになって、我国の司法も「疑わしきは罰せず」「疑わしきは被告人の利益に」などと悠長なことを云っていられなくなったということに他ならないのである。其のくらいに現代日本も悪しく米国化が進行していると云ってよい。
(これは非常に大切なことなのであえて触れるが、TPPが今後我国にて適応されたならば、我が愛すべき日本という国が極悪の米国的国家となっていくことが必至である。絶対にTPPは阻止しなければならないのである)
木嶋佳苗被告裁判の弁護団はそんな点を突いてか、裁判人に対する圧力を極めている。人間の判断を阻害するほどの常軌を逸した主張は、今後の裁判の行方を左右するに違いないであろう。