秋元康プロデューサーによる「AKB48」戦略の実態

「AKB48」と書いて「エーケービーフォーティエイト」と読ませる。2005年に誕生した秋葉原を本拠地として活動するアイドルグループの名称である。このプロデューサーがご存知、作詞家の秋元康氏だ。先日6月9日には「AKB48」の「総選挙」なるものが行なわれたと、スポーツ紙はじめワイドショーTVを賑わせている。ずっと2位に甘んじていた大島優子が昨年の1位前田敦子を逆転し優勝したという。選挙ブームにあやかってか「総選挙」などと名付けてイベント告知するやり口は、秋元康ならではである。

6月9日に開催された開票イベント会場では、2000名ものAKB48マニアが終結し、さながら政党の決起集会であったとされるほどの異様な盛り上がりなのである。投票結果の順位発表後の挨拶では、メンバーのほとんどが涙を流していた。これもまた秋元康によるプロデュースのたまものであった。

http://www.akb48.co.jp/

秋元康氏と云えば、かつて「おニャン子クラブ」をヒットさせたプロデューサーとして知られているが、当時の秋元は作詞家として関係していたTV番組「夕やけニャンニャン」の1スタッフであり、その大部を秋元に依っていたのは明らかであったが、しかしながらプロデューサーとして全てを仕切っていたのではなかった。当時のゴールデンコンビと呼ばれた一方の作曲家は後藤次利氏であり、おニャン子クラブの最人気アイドル、河合その子と結婚している。ちなみに秋元氏が結婚した相手もまた元おニャン子クラブの高井麻巳子であった。芸能作詞家として特段の才気を発揮していた秋元康ではあるが、芸能界で仕事を続けていく上での苦悩もにじませている。ブームが去ったあとの作詞家としては、やはり不安があったようでもあった。

そんなこんなの経過を経ての「AKB48」ブームである。つんくプロデュースによる「モーニング娘。」のブームを横目にしながら、新しい戦略として採用したのが「総選挙」戦略である。アイドル同士を競わせ、あるものには栄光を与え、あるものには屈辱の姿を晒していく。「総選挙」という名前を借りた芸能話題づくりの戦略なのである。

新しくナンバー1の称号を勝ち取った大島優子には見覚えがあった。藤原新也さんの初監督による映画「渋谷」に出演していたのだ。渋谷に巣くうギャルの一人として存在感のある演技が印象的であった。可愛いというよりもしたたかな「今」という時代のアイドル像を示しているようだった。

決して貧困と呼べないつげ義春の「貧困旅行記」

「この本、すっごく面白いですよ…」

とマスター云われて読んでいたのが左の書籍。図らずもつげ義春さんの本のレビューを続けることになってしまった。行きつけの居酒屋のマスターはつげ義春のファンであり、店内の書棚には何冊かつげさんの本が陳列されている。先日はその中から「貧困旅行記」(晶文社刊)なる一冊をお借りして読み終わったところである。

確かに面白い。「蒸発旅日記」という第1章の書き出しでは、九州に旅行したときのことを記しているのだが、一面識も無かった九州の女性と結婚して九州に住み着くつもりであるということが書かれていて、緩くだが驚かされる。嘘か冗談かと思いつつも、つげさんの旅日記の記述には気負うところなど無く淡々と進められていくために、いつの間にか「それもあるかな…」というつげ世界の住人にされてしまうのである。緩い衝撃の後には、ストリップ小屋でのあれこれやら見込み結婚相手の女性との関係やらが綴られていき、結局は日常生活にあっけなく戻ってきてしまう。ただその戻り方は、旅というものを通り過ぎた後だけに、それまでの日常とは異質な世界となって立ちはだかってしまうのだ。

第2章からは、漫画家として名をなし所帯を持った生活者としての旅行記が綴られていくが、前作の「つげ義春とぼく」に示されていた若き頃の旅とは異なり、房総、奥多摩、甲州、箱根、伊豆など、近場の旅行記が中心となっている。妻子という同伴者が居れば無頼の旅を続けるのは不可能ということなのだろう。ただ、いつかは鄙びた鉱泉(温泉ではなく)を買って老後を鉱泉の親父として過ごしたいという願望を胸に、近場の鉱泉宿を訪ね歩く姿はジーンとさせるものがある。彼は今では叶わぬ夢として老後を送っているのかと思うとやるせなくなってくる。

「貧困旅行記」とは云いながらも、鎌倉の骨董屋で6万7000円もする千手観音像を買ったり、1万円以上の名旅館に宿泊したりと、おいらから見ればとても「貧困旅行」には見えねえやと呟きたくなるのは、果たしておいらのひがみなのか。

宮沢賢治の「風野又三郎」から「風の又三郎」への不可思議

月刊誌「サライ」では宮沢賢治特集が組まれている。商業誌において今なお、宮沢賢治さんは“売れる”作家の一人であるとされているようだ。誌面では、吉本隆明、天沢退二郎といった大御所作家による解説文が掲載されており、中々力がこもっている。

少年の頃から宮沢賢治という名前は、おいらにとって特別な意味合いを持っていた。誕生日の日付が同じであったこと。祖父が田舎の教師をしていて「◎◎の賢治さん」と呼ばれていたこと。そしてそれ以上に少年時代の書棚には「宮沢賢治作品集」が並べられていて自然と賢治さんの作品世界に入り浸ってしまっていたことなどが、特別な存在であったことの理由である。

賢治さんの故郷である岩手の花巻には何度も足を運び、そして彼の記念館等で賢治さんの原稿にも目を触れていた。いろいろな資料に接するにつれてもっとも不可解な謎としていたのが、少年の頃に読んでいた「風の又三郎」が実は「風野又三郎」という表題の作品であったということである。作品の内容を推敲するたびに訂正の赤字を入れていたことが知られている賢治さんではあるが、何故このような表題まで異なった作品が存在しているのか? 中々理解しがたい疑問ではあった。

本日はその賢治さんの代表作「風野又三郎」の自筆原稿の写真を目にしたのであるが、やはり「風野又三郎」の表題原稿は極めて自然な筆致にみえる。最後まで「風野又三郎」で通そうとしていた賢治さんだったとされるのだが、ではなぜ? どこからかの横槍によって作品名までが指し換わってしまったのだろうか? 今更ながらその理由が知りたいのである。

多摩で一番の焼鳥屋「小太郎」の玉ねぎベーコン巻き

多摩地区にも焼鳥店は多いが、中でも一番との評判の高いのが、八王子の南口に店舗を構える「小太郎」である。鶏と豚の二本立てで、どちらかといえば豚モツの串焼き、いわゆる「焼きトン」の人気が高いようだ。

この店でおいらがほぼ必ず注文するのが、「玉ねぎベーコン巻き」である。玉ねぎというありふれた食材をベーコンで巻いて串焼きにして出されるのだが、付け合せの専用ダレが絶妙でこれにはまってしまった。ベーコンの脂が玉ねぎに染みて、ポン酢よりあまくさらりとしたタレと相まって、頬がとろけるような味わいなのだ。

初夏の風物「そら豆」を黒焼き料理にて味わう

「天豆」とも呼ばれる初夏の風物が「そら豆」である。青くて大きな豆粒を口にするにつけ、夏の入り口に立ったということを知らし召されていたものである。ある種繊細ではなく大味であり、房を破って一つ一つの豆を取り出さなくてはならなくてもあり、それほど人気の食材ではないとみられる。

だがこの「そら豆」に対する認識を一変すべきメニューに先日は遭遇したのであった。そのメニューとは「そら豆の黒焼き」というもの。黒焼きとは如何なるものかと興味津津で出されるのを待っていたのだが、出てきたものは豆の殻をそのまま火に炙って焼いたという野趣溢れるものであったのである。

手で豆の殻を破って取り出したそら豆の実は、ぴんぴんと活き活きとしていてとてもフレッシュであった。余計な調理方法を介在せずに出されたシンプルなこのメニューにはうなったのである。味もまた申し分がない。

トマトソーメンはおすすめ。夏真近の今こそトマトパワーで乗り切るのだ

日本人にはリコピンが足りないと、常日頃思っているおいらである。リコピンという栄養素は、トマトで摂取するのが早道であり、また食事の幅を拡げるので大賛成なのだ。活性酸素というものが人間の健康を阻害する要素であることはひろく口伝されてはいるが、トマトに含まれるリコピンが、活性酸素の除去に役立つことはあまり知られていないようである。βカロチンの仲間であり、トマトの赤く熟した成分に多く含まれている。

先日スーパーで見かけた「トマトソーメンの素」は、少々キワモノの風情ではあったが、おいらは迷わずに購入したのだ。夏バテ予防にトマトが一番良いことは経験上知っていたからでもあり、もともとおいらはトマト好きだったこともある。どうであろうか、この清々しい酸味の香りが漂うメニューは。トッピングしたトマトはもちろんであるが、なめこ茸、みょうが、しらす、海苔などを添えれば一段と食欲も増す。

余談であるが、毎日のように朝食のメニューには納豆があったのだが、この納豆にトマトケチャップをかけて食べるのが好きであった。上京して間もなくの頃にある女性にこの話をしたところ、面白がってトマトソースと納豆とを用意されて「本当だったら食べてみて」と云われたことがあった。もちろん大好きな取り合わせに躊躇することなく「トマトケチャップ納豆」を食してみせたのではある。その後、女性からは「お母さんに話したら気持ち悪いと云ってた」と云われて、ぎゃふんとしたものでもある。それだからと云っておいらのトマト好きはなくならないのである。

つげ義春の夢世界 [2] 秘湯の今昔物語

つげ義春さんが夢見た秘湯の風景はある種の桃源郷とも呼ぶべき異郷の姿を示しているが、彼が旅して訪れた現実の温泉地はさらにまた、理想的桃源郷的佇まいを示してくれている。おいらも訪れたことのある東北の温泉地は、夢と現とがない交ぜになった異郷の姿でもある。そんな中から特に二つをご紹介。

■夏油温泉

夏の油と書いて「げとう」と読ませる。その名の所以についてWikipediaでは、「『夏油』とはアイヌ語の『グットオ(崖のあるところ)』が語源とされる。」と記されているが定かなものでは無い。ただ北上の町からは遠く離れた崖の中に存在する温泉であるというのは事実である。つげさんの本では夏油温泉について、次のような書き出しから紹介されている。

「夏油温泉は、これまでの旅行案内書には、北上駅からバスで一時間、さらに徒歩三時間と紹介されているので秘湯めくが、現在は、林道を利用して湯治場まで車ではいれる。(…)」

車で行けるから秘湯で無いというのは些か暴論である。林道と云っても車同士がすれ違うことさえ困難な狭い砂利道であり、車輪をすべられたら最後、渓谷に転落しかねない危険な山道である。今でも地元の案内書などでは、運転に自信の無いドライバーは決して自家用車を運転して来ないようにと、注意を喚起しているくらいである。今なお秘湯の風情を湛えた数少ない温泉地なのである。

質素な自炊棟が並ぶ湯治場なのだが、なんとつげさんが訪れたときには「六百人のおばあさんが泊っていた」と記されているのだから驚きである。一体こんな狭い温泉宿に六百人もの高齢者が集えるのだろうかという素朴な疑問も生じてしまう。おいらも何度かこの鄙びた温泉宿にて湯治を経験しているのだが、夏のピーク時でも300人も入れば一杯に溢れてしまうだろうと考えられる。ごろ寝が常識であった昔は、狭い部屋にぎゅうぎゅうに床を並べて湯治を行なっていたということなのだろうか?

この温泉地には大小8つ程度のかけ流し温泉が存在し、そのほとんどが露天風呂である。老若男女が裸で露天風呂のはしごをするという光景が、なんとも自然に感じるのだ。都会に生活していることを不自然に感じさせるくらいの、当温泉地ならではの独特な地場のエネルギーを発しているのである。

■黒湯温泉

秋田の乳頭温泉郷の奥にある。鶴の湯温泉が人気だが、鄙びた秘湯の佇まいは黒湯温泉が上手である。つげ義春さんの画に文を寄せた詩人の正津勉は、黒湯温泉を訪ねるにあたり、柳田國男の「雪国の春」という文庫本を携えてのぞんだという。

「おもうに、その錯覚も柳翁のこの小冊への偏愛が一瞬間かいまみせた蜃気楼とでもあるいは説明もつくが、そこへどうしてすーとわたしが誘われていったものか。可笑しい。」」(正津勉)

男同士2人で何を語り、そして何を感じ取ったのか。蜃気楼と見えていた夢の世界が、秋田の雪国に現存していたことを喜んだのはなかろうか?

70年代的エロスとタナトスが交錯する、つげ義春の夢世界 [1]

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「夢」というのは通常、夜間睡眠時に限定された無意識の世界にて羽根を拡げて、朝の目覚めとともに消失していく類いのものだが、つげ義春さんの描く夢の世界は、昼間の覚醒の世界にまで侵入して人々の記憶に強烈な痕跡を焼き付けていく。

1968年に発表されたつげ義春さんの代表作「ねじ式」は、漫画界のみならず日本の極一部の愛好家に熱狂的に受け入れられたという傑作である。70年代に入ってからこの作品に接したおいらのそのときの衝撃は、今なお忘れ得ない漫画体験となって刻まれたのである。それは、「鉄腕アトム」から「巨人の星」等々と繋がる漫画読書体験とは質的に異なる、全く新しい体験であった。

最近になって、ある古書フェアーの会場で「つげ義春とぼく」というユニークなタイトルの古書に触れ、彼の描いた深遠な夢の世界の想い出が、また甦ってきたのだった。著者はつげ義春さん本人である。書名タイトルに関する考察は本日はスルーする。彼は日本全国、鄙びた温泉地を中心に多くの旅を経験してきたが「つげ義春とぼく」は、そんな旅の想い出などのあれこれを絵と文章にてまとめた1冊である。思えばかつて、いくつかの雑誌でつげさんの旅行記を目にして必死に立ち読みなどをしていた少年時代を懐かしく回顧するのだ。

誰が記述したものかは知らないが、Wikipediaの「つげ義春」のページには、ほぼこの本に書かれている内容が転記されていた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%92%E7%BE%A9%E6%98%A5

(この稿は続く)

「司修画集 壊す人からの指令」を購入

地元の古書店にて、司修のサイン入り画集「壊す人からの指令」を発見して購入したのです。奥付を見ると「昭和55年5月30日初版発行」とある。今から30年も昔の画集である。実は初版の発行当時においらはこの本にとても関心を持っていて、何度か購入しに書店に向かったという想い出が鮮明である。だがその度に「定価6,800円」という高価な価格に思いを遂げずに居たのであった。

今にして振り返れば、当時のおいらは6,800円の画集を購入する経済的余裕が無かったということなのだろう。懐かしくもあり、またほろ苦くもあるのだ。こんな本はそうはない。生涯をともにしたいという特別な一冊として大切にしていきたいと考えたのである。

司修という画家については、大江健三郎の著書の装丁家として初めて目にしたという記憶がある。当時、新潮社の純文学シリーズとして続々と出版されていた大江健三郎氏の小説本には、司修による自身の版画や絵画作品をモチーフにした丁寧な装丁の仕事が光っていた。クレジットには「司修」の名前が静に輝いて見えていたものである。それから少しして、おいらとは出身が同じであることを知り、より親近感を感じつつ今に至っているという訳なのである。司修さんの著した著書は、「描けなかった風景」をはじめ数冊購入して読んでいる。愛著として大切にコレクションしているのだ。

同著が出版される少し前には、大江健三郎の「同時代ゲーム」が発表されていた時代である。大江氏は司さんのこの本に対して、「ゲームと器用仕事(ブリコラージュ)」という力のこもった一文を寄せている。レヴィ・ストロースの「ブリコラージュ」を「器用仕事」と訳すことには強い違和感を感じるのだが、小説家・大江健三郎が画家・司修に宛てた極私的プライベートな献文ともなっていて興味深いのである。

近頃「おっ!」と唸った海鮮メニュー。「さより」と「花咲蟹」

おいらは「さより」という名前の人物を2人知っている。ともに30歳前後の、いわゆるピチピチ肌がよく似合う、今を吾が世の春とばかりに謳歌している女性たちなのである。さよりの刺身を注文して出されたその姿には目を瞠った。まさに肌艶ピチピチ。口にすれば若肌の如き弾力ある歯ごたえなり。ピチピチ弾力にはしとどに酔い痴れたのである。味は淡白であるが見た目が◎(二重丸)なり。

真っ赤な身を晒すようにして店舗入口の棚に並んでいたのが、花咲蟹である。これを竹材による蒸し器で蒸して出された。いわゆる身の部分は多くは無いが、毛蟹よりも身を食しやすい。そして緑色に光って見える「みそ」の部分が、とても食しやすいのである。おいらはこんな高級食材がテーブルに出されて、とてもあせってしまった。程よい食べ方というものを知らなかったからである。まずは緑色した「みそ」に箸を伸ばして口に運ぶ。磯の味がしてくる。これが何よりの挨拶。

内田樹著「村上春樹にご用心」は前書きが面白い

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何よりもまず前書きが面白い。

はじめに―――
ノーベル文学賞受賞のヴァーチャル祝辞

そういう表題の下で、ユニークな前書き文が始まっている。2006年の10月、ノーベル文学賞者発表の前日に、あるマスコミから依頼されて記したというコメントである。村上春樹党の党員としての凛とした筆致がとても印象的である。

この書こそ世に云う「村上春樹心酔派」の筆頭とも目されている評論家による「村上春樹論」であり、何故に春樹さんは凄いのかということを手を変え品を変えて特異なる緩い筆致で読者を巻き込みながら啓蒙しようという魂胆を(たぶん)隠し持った1冊となっている。

やはりと云うべきなのだろうか、最も興味を引いたのが、村上春樹さんの担当編集者であった安原顕氏に関するくだりである。なんと、春樹さんの生原稿を質屋だかそれに類する店に持ち込んで換金したということを詳らかにしているのだ。公となるこのような著作の中でこの様な個人的とも思えるエピソードを開陳したという意味は大きいと見るべきだろう。内田さんは安原氏に対しては相当怒っていると見えるのである。

鳩山由紀夫は現代の近衛文麿か?

鳩山由紀夫首相がついに辞任を表明した。予想はしていたこととはいえ、大変ショックが大きい。実質的に戦後初めての政権交代による内閣が、これ程あっけ無く崩壊したという事実は、これからの日本社会の行末に暗雲をもたらさずにはいかないだろう。

今更指摘してもせんないことではあるが、この内閣にはプロの参謀が居なかったということが、政権の混迷や崩壊に繋がったとみることができる。ここ数ヶ月間、徹底的に大手から弱小までの様々なメディア(弱小なので「マスコミ」とは呼べない)の餌食となってしまったことの責任は、鳩山首相のブレーンが負うべきである。平野某では政治家としての能力も資質も無いことは明白であるし、平田オリザなる滑稽なアマチュア文化人の名前を目にするにつけ、鳩山人脈の薄さを感じてもいた。何故に糸井重里級のプロの文化人を起用しないのか、大変に訝しく感じていたものであった。政党政治を基本とする民主主義的政治社会にとって、政治家がプロの文化人をブレーンとしているか否かは、今後もっと重要視されていくべき要素となるだろう。

もう一つ、本日の事態に直面して述べておかねばならないことがある。ショックだというだけで済ませて置けないこと。それは、鳩山由紀夫は近衛文麿か? という疑問である。鳩山由紀夫氏を戦時中の近衛文麿になぞらえて論じていた雑誌記事のことが未だ脳裏を離れないのである。

団塊の世代から遥かに遅れた戦後に生を受けたおいらではあるが、近衛文麿の生涯のあれやこれやについては、以前からよく聞き及んでおり、たしかに鳩山氏とは類似点が多いのである。貴族然とした風貌や物腰。社会主義的思潮に対する関心の高さとある種の強い偏見(これは関心の高さから来る反意的な誤解が大部を占めている)。そしてもう一つが長身の身なりから来るのであろう自画自讃的振る舞いである。簡単に謝ってはしゃあしゃあとしていられる態度というのは、これらが三位一体となって現れるものであると分析されるのである。

さてそろそろまとめに入るが、近衛文麿の時代を振り返るに思うことは、彼が首相を辞任してからの混乱である。東条英機とともにA級戦犯の汚名を浴びることを潔しとせずに自害した近衛文麿。彼は一途潔癖な政治家ではあったのだろうが、現実の大衆の悪意というものを過小評価していたようでもある。清濁併せ呑む度量が政治家には必要である。鈴木貫太郎という政治家が、敗戦後の日本の基礎を作ったと云うことは忘れてはならないのだ。ちなみに鈴木貫太郎はおいらの出身高校の先輩なので(それだけではないが)尊敬しているのである。

「TOKYO大衆酒場」はせいぜい50点の出来栄え

最近は「せんべろ」酒場がブームとみえて、安くて美味い居酒屋の雑誌類がそこかしこに飛び交っている。そのどれもが信じるに足りるものとは云い難く、やはりおいらの足と目と舌と鼻と、その他諸々のフィルターを介した当「みどり企画のブログ」のレポートは、それら玉石混交なるマスゴミ情報とは一線を画するものであるとの矜持を抱きつつ、レポートを続けているのである。そんなこんなから今日は特に目に付いたコンビニ雑誌「TOKYO大衆酒場」について述べていこう。

この雑誌のつたないところのNo.1は、「TOKYO大衆酒場」と書名で銘打っていながら、都下の武蔵野、多摩地区の名店をごっそりとお払い箱にしたことである。吉祥寺の名店「いせや」やハーモニカ横町の酒場などが全てスルーされているのだから、ぜんぜん論外なのである。

「TOKYO大衆酒場」という書名にはまるで相応しくない内容であることを特別に問題にしなければならない。もしも仮にであるがおいらが、この雑誌編集長を務めていたならば、こうした愚挙は犯さなかったことは明らかである。否、そんなことを述べていこうというのではなく、もっともっと、武蔵野地区や多摩地区への心配りを今後は徹底していかねばならないと云うことなのである。

酒の肴のナンバー1。イカの一夜干しに舌鼓なのだ

日本人は世界一「イカ(烏賊とも書く)」を食べる国民であると聞いて誰も驚かないが、日本の魚介類の中で「いか」が一番食べられていると云われたならば、多少意外な感じがしないであろうか? マグロやアジやカツオといった魚類は、料理店やスーパーマーケットの鮮魚棚には大量に並べられ、日本人の口から胃袋へと運ばれているのだが、イカの多くはスーパー、料理屋、魚屋で売られる以上に、コンビに等で売られている「スルメ」「サキイカ」「イカ軟骨」等の加工品、酒のつまみとなって日本人の胃袋に運ばれているものとなっている。

コンビニで目にする加工品とは少々違い、グルメに好まれる酒のつまみが「イカの一夜干し」である。八戸や房総や北海道の産地にて取れたイカを、その土地で一夜干しにされるものが大変美味なのである。生で焼いたイカの場合は少々独特なえぐみがあるのだが、それが取れてしかもしっとり柔らかなる豊穣な味わいは、まさに「イカの一夜干し」ならではのものである。タウリン、亜鉛等の必須成分を多く含み、EPA、DHAという血栓予防の栄養素を有しているから、もっと注目されて良い食材である。

高円寺のせんべろ居酒屋「四文屋」で「煮豚足」を食す

中島らも氏の「せんべろ探偵が行く」という本に接してから、安くて心地よく飲んで酔っ払える店に関心が向くようになってしまった。否、そういうより元々そういう志向性が在った上にいわゆるひとつの大義名分的命題が加わってしまったため、一層関心の炎がめらめらと燃え上がってしまったということになるだろう。

本日立ち寄った高円寺の「四文屋」は、駅を降りてガード下を阿佐ヶ谷方向に歩いていくと見つかる、小さな露店のような小店舗である。もつ焼き、焼鳥がすべて100円という手頃な値段でありながら、素材の鮮度や焼き具合共にナイスなものばかり提供するので、度々足を向けている。

殊に近頃は気に入って注文するのが「煮豚足」である。豚足を大鍋に入れてぐつぐつ煮込んで調理するというシンプルな一品なのだが、火力全開にして長時間ぐつぐつ煮込まれて出されたことを強くアピールしている。出色の出来栄えであることをシンプルに主張されて、ぷりぷりっとしたゼラチン質を口に含めば自ずと頬がゆるむのである。夕方に店が開店してから煮込まれるので、あまり早い時間には食べられない。「煮豚足はあと1時間くらい経たないと出せないんですよ」と云われて、何度悔しい思いをしたことか。

もつ焼きは常時12~13種、焼鳥も4種、その他アスパラ、ししとう、椎茸などの大振りな野菜串焼きも旨い。もつの刺身も用意されている。常連客たちは「レバーを炙りで!」などと云って、半生のもつ焼きをポン酢で食べたりなどしている。地元呑んべいに愛される人気店なのである。

代々木公園「GIVE PEACE A CHANCE」であんじゅなライブに出逢う

代々木公園の野外ステージで「GIVE PEACE A CHANCE」というイベントが今日と明日、開催されている。昼1時50分からは、あんじゅなこと多田弘一氏のユニット「PEACE WINDS」ライブが行なわれることを知り出かけたのでありました。

サイトやmixiやらで、彼の歌声は耳に目にしていた。だが生あんじゅなライブに触れたのは今日が最初だったのである。mixiにて数年前にマイミクして以来、ライブ情報とお誘いを受けていたのだったが、中々時間がとれずに過ごしてしまっていた。本日は義理も果たせて気分も頗る快調なり。

ライブはギター1本肩に下げた、あんじゅなの大きく口を開いて沸き出されるアコースティックな歌声から始まった。2曲目「HIMARAYA」ではギター奏者の独特なハモリもあってとてもユニークなユニットの世界に導いてくれた。小雨が降る少々肌寒いときではあったが、会場は天高く突き抜けていくような、自然児あんじゅなの歌声に包まれていたのである。

暇つぶしの贅なる機器「iPad」狂想曲 [2]

今日の銀座は朝っぱらから「iPad」狂想曲で賑わっていた。2日前から並んでいたというくらいに異様に長い行列が銀座通りを覆っていたのであったのだから喫驚なのである。本日販売が開始された「iPad」を求めて並んだ人々の群れである。だがおいらは昼の休み時間にこの場所に訪れ、Apple Store店内に普通に入れたのはもとより新作「iPad」にも触り続けていたのであるのだから、マスコミが流す似非情報と実譲情報との乖離を今更ながら知り得たということなのでもありました。

それでおいらが「Apple Store」にて実際のiPadを触って確認した画像がこれ。行列の前に触っていたユーザーはしきりにゲーム関係のアプリをいじっていたが、おいらはゲームは全然関心外なのでスルーして、インターネット関係をチェックしてみたのです。まずはおいらがほぼ日更新している「みどり企画のブログ」をチェック。なかなか見応えのある画面なりである。そして次に向かったのが「twitter」のページであった。そこで文字入力をしようとしたところで軽いトラブルに遭遇。文字入力をしようとするとバーチャルなキーボードが表示されるのだが、タイピングをしようとするのに上手く行かない。中々に難儀なのである。

ネットブックと比較して、反応は頗る良いのであるが、内実が伴っていないというのが印象であった。さて、おいらはこれからこの「iPad」を購入するべきか否かという問題であるが、とりあえずは購入することなくこのまま過ごしていこうということを結論として擁いた次第である。新しいメディアを取り込むためにはそれなりの理由付けが必要であるが、今回の「iPad」騒動にとっては有意義な理由付けが見つけられなかったということに依っている。

銀座に聳える岡本太郎の「若い時計台」

写真は、銀座の数寄屋橋公園に陣取って聳える岡本太郎さんの彫像である。タイトルを「若い時計台」というのが、まるでフツーであり、岡本太郎さんらしくないのが却って愛嬌である。1966年に当時のライオンズクラブからの依頼によつて制作された。大阪万博にてシンボルとなった「太陽の灯」が注目を浴びる4年も前の作品である。岡本太郎さんの創作の原点がこの作品にあると呼んでも過言ではないくらいにベーシックな太郎風スタイルがここにある。とてもシンプルな構成でありながら、人間存在のシンボルをイメージさせているのである。

80年代的エロスとカオスの雑誌「スコラ」がついに廃刊

1982年に創刊され、以来28年という長きにわたって世の男性たちのエロスとカオスのニーズに応えてきた雑誌「スコラ」が、今年の7月号を最後についに廃刊となった。「スコラ」という書名は西欧文明の「スコラ哲学」から由来しており、広く学問を指し示す言葉ではあるのだが、雑誌のコンテンツから受けるイメージとのギャップが印象的であった。「エロス」と呼べば聞こえは良いのだが、内実は「エロ」と呼ぶのが相応しいものであったからである。それでも時代の混沌を表徴するがごときのなんともいえない持ち味、存在感があった。

実はおいらもこの「スコラ」に関係していたことがあったのである。しがない雑誌編集者をしていたそうとう昔のことであるが、当時の「エロス」と「カオス」を象徴していたこの雑誌に一筆献上したいという思いから営業を行ったのち、幾つかの「ドキュメンタビュー」記事を掲載したのであった。「ドキュメンタビュー」とは「ドキュメント」と「インタビュー」との造語であることは云うまでも無い。その一つが井筒和幸映画監督への5ページにわたる「ドキュメンタビュー」の執筆である。このときのおいらは「二代目はクリスチャン」を撮影中であった井筒監督に会いに、京都の撮影所へと足を伸ばして数泊の取材を敢行していたのであった。

コンビニで久しぶりに開いてみた「スコラ」最終号は、おいらが若き情熱を注いで執筆していた頃とはまるで趣きが異なっていて、エロが全開となっていた。これでは「エロス」と「カオス」を求める男性人のニーズに応えることはできないのは当然である。いつからこんな詰まらない雑誌になってしまったのだろうか。とても残念である。

中島らもが名付けた「せんべろ居酒屋」考

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千円札1枚ででべろべろになるほど酔っぱられるというのが「せんべろ居酒屋」である。デフレの時代、激安居酒屋ばやりの昨今、こんな店も珍しくは無くなった。作家の中島らも氏が「せんべろ探偵が行く」という著書にて使ったのが始まりだとされている。

だがよくよく考えてみれば、可笑しな話である。中島らもという人は相当な酒豪であったという伝説がまかり通っているのだが、「せんべろ居酒屋」の一件を耳にすれば、些か疑問符も沸いてしまう。例えば千円札を握り締め1杯250円の焼酎を4杯飲んだところで、これだけで酔っ払ってしまうというのは「酒豪」の名前に相応しくは無いものである。

まあそれはそれとしてではあるが、おいらはいわゆる一人の「せんべろマニア」なのではないかと自問自答してしまうことが最近は多くなった。美味しい立ち呑み屋があると聞けば出かけてしまうし、都会を散策していて疲れて立ち寄るのは、こうした「せんべろ」系の居酒屋である。

安ければ良いというものでもない。居酒屋チェーンがこうした激安店舗の出店に力を入れ始めている。安さに誘われて足を踏み入れたは良いが、べろべろに酔うことも無くがっかりして店をあとにしたという経験も少なくないのである。