mixi vs twitterの勝者は?

「週刊ダイヤモンド」ではtwitter特集をやっている。おいらも今年に入って始めたばかりのtwitterであるが、いつの間にやら三日坊主モードに突入気味なり。そんなこんなでもう少し、twitterとやらにこだわって、可愛がってみたいな、等という邪心を持って、雑誌を購入して読んでみたのでありました。

“嫌悪度No.1”と云っても過言ではない勝間和代のあの嫌味な肖像が誌面を飾っていたのには辟易したのであるが、おいらも大人である。そんなことばかりは云っていられない。達人などと持ち上げられた「上級編」を飛ばし読みして読了した。

一読した限りでは、やはりおいらの場合はまずはフォローする人の数が少ないこと、そして、検索を役立てていないこと、等々、まだ未熟なところが多々ある。そんなことは判りきっているのであるが、そこを乗り越えていざtwitter名人を目指そうという気になるかどうかは、はてな、未知数と云わざるを得ないのである。

ところでこの「週刊ダイヤモンド」特集の記事の中でもっとも関心を抱いたのが、twitterとmixiらSNSサービスとを比較した囲み記事であった。約1800万人の会員を有するmixiに対してtwitterのユーザーは500万人。3分の1以下のメディアであるtwitterに対して、それでもSNS陣営は脅威に感じているというのだ。「ミクシーボイス」「アメーバなう」等といった、ほとんどtwitterのもの真似に等しいシステムを投入したことこそ、その本気度を物語っていると云えそうだ。果たしてどちらが勝者となるのか? 外野席から興味深く見つめて行きたいものである。

フランス大使館の「NO MAN’S LAND」は大賑わい

フランス大使館旧庁舎にて去年末から続いているアートの祭典「NO MAN’S LAND」を再訪した。前回は陽が落ちた後の時間帯に訪問したので、昼の展示会場をぜひ見たいと思っていたのだ。

http://www.ambafrance-jp.org/nomansland

会場に着いたらびっくり。入場制限が出来るほどの大賑わい、大人気である。200名かそれ以上並んでいただろうか、長蛇の列なのである。前回は暗くて気付かなかった会場入口に設置されたダンボール製の門を潜る。ハッポースチロール等の素材を駆使したオブジェで混沌を表現した、ジャン・デュビュッフェを彷彿とさせるが、スケールはこちらのほうが上であろう。コンコンと門を叩くと、ダンボールの軽くてスカスカの質感が応えるのだ。そのギャップが面白い。

30分くらい並んだだろうか、やっと門を潜ると手前の棟はパスして正面奥の本棟へと向かう。前回は制作途中で進行が気になっていた作家の部屋を覗く。イメージさせるアートが、室内の壁全体に広がっている。都会を女子大生風のギャルたちがさかんに感心している光景が目に付く。こんな展示に接すること自体がまれな経験なのだろう。旧大使館の事務室、廊下、階段、踊り場など、いたる場所がアートの空間となっているのだ。

著名な建築家、ジョゼフ・ベルモンの設計による旧庁舎は、今月末までのイベントを終えると取り壊される。設計者にとっても大変満足なイベントとなったことであろう。日本のアーティスト、アート関係者もこのイベントの成功に見習いたいものである。

「腑抜けども悲しみの愛を見せろ」レビュー 1

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映画化された本谷有希子のこの本、なかなか良い感じですってところです。先日、amazonにて注文した書籍が届いたので、早速読み進めているところであります。

「あたしは特別な人間なのだ。」というコピー、ありそうでいてこれまではなかったように思う。表紙イメージは、文庫本がカラーなのに対して書籍本のほうはモノクロイメージにて統一されている。中味をみてから評価してください的な、いわば高飛車的な匂いも感じさせる表題ではある。

激戦区銀座の「博多天神」とんこつラーメン

久々に、銀座のランチにまつわる話題をエントリー。

意外に思われるかも知れないが、銀座は博多ラーメンの激戦区である。おいらも1週間に1回程度はトンコツこってりの博多ラーメン店へと足を運んでいる。そんな店舗が5軒くらいはあるだろうか。中でも定番的に足を向けるのが、「博多天神」である。これでもかと云うくらいに煮込んで白濁したスープは、余計な味付けがほとんどされていなくて、そこにお好みで辛子の素的なオリジナル調味料を足して食するのが流儀である。紅ショウガやゴマもお好みで。

シンプルな「ラーメン」のほかに、トッピングされた幾つかのメニューが並ぶが、中でもお勧めなのが「きくらげラーメン」である。コリコリとした独特の食感が心地よく、不老長寿の素とも云われるきくらげがどっさりと盛られて出されるさまは、ことのほか食欲をそそる瞬間である。

余談になるが、おいらはダイエット中の為、「替え玉」は注文しない。その代わりにスープはそっくりと飲み干すのだ。コラーゲンたっぷりのスープこそ美味なり。

「渋谷」繋がりで、佐津川愛美のDVD鑑賞

藤原新也さん原作の「渋谷」を観て感動したおいらは、綾野剛とともに主役を演じた佐津川愛美さんが過去に出演していた映画のDVD「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」をレンタルして鑑賞していたのでした。

まだまだ初々しかった愛美さんは、東京に憧れる漫画家の卵の役を演じていた。眼鏡が似合うその姿は、萌え系のアイドル予備軍と云っても過言ではなさそうであった。物語は自我が肥大した女主人公の売れない元女優が田舎に帰省してからのはちゃめちゃコメディーを軸にして展開していくのだが、そんな中で主人公の妹役の愛美さんは、凛として漫画作家の王道を歩もうとする姿が、これまた共感を呼ぶのである。漫画家の描く真実は家族の馬鹿げた日常をも素材にしてしまうのかと、見方によっては非難されそうな姿ではあるが、愛美さんの演じたその姿は、はちゃめちゃな物語を凛として通り過ぎるていく。それはまさに一条の光のように敢然として貫くのである。

この映画の原作者本谷有希子は、過去には芥川賞候補になったこともある実力派であり、さらにはかの松尾スズキの弟子であったこともあるという。なんというこの繋がりの密さは! おかげでおいらは、本谷有希子さんの原作本をアマゾンにて注文してしまったという訳なのだ。

オリンパスペンE-P1の使用感は○

行きつけの居酒屋のマスターが、「今度、オリンパスペンで撮影した写真を見せて下さいよ」というので、A4サイズにプリントしてみました。オリンパスのデジカメ「ペンE-P1」で出された料理を撮影したことから、マスターも関心を寄せているのだ。最新のデジタル機器だけあり、この程度の引き伸ばしでも解像度は充分に対応している。それ以上に嬉しく感じたのが、ピントの良さである。カメラの基本はレンズなりという古典的なセオリーを、ここでまた再確認することになったのだ。

このペンを購入する前に使っていたのが、リコーの「GX100」である。この機種と比較すれば瞭然なのだが、「ペンE-P1」の方は、ピントの山がはっきりつかめるのである。ここが使い始めてからこれまで、ずっと気に入っていた大きな理由である。ちなみにおいらはカメラの「オートフォーカス」を信用していないので、できる限りマニュアルでピントを合わせて撮影している。このマニュアル撮影の勘を取り戻してくれたのも「ペンE-P1」だった。

引き合いに出してしまったリコーの「GX100」にもひと言触れておこう。こちらもリコーの「GR」「GXR」などとともに人気の機種である。とくに「GR」のほうは広角スナップに適したシャープなレンズ描写が売りとなっていて、確かにその描写力はコンパクトデジカメの多機種を圧倒している。「GX100」のほうはそれにズーム機能を持たせたいわば折衷版という捉え方もできよう。だがおいらはここで主張したいのだが、「カメラに振り回される撮影に、何の価値など有りや?」と。「GR」で撮ったとされる写真のほとんどが、確かにシャープで心地よい調べを奏でているのだが、どれもが同様のテイストしか感じさせないのだ。これはおいらにとってはまことに看過しがたい点だったのである。

常時携帯カメラにとって、ズーム機能は必須と思われ。

ニュースペーパーの新ネタ発見

ご存知、政治現象を風刺するお笑い集団「ザ・ニュースペーパー」の新ネタが見てみたいと、久々にYouTubeにて検索してみたところありました。

かつて、小泉純一郎から始まって、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と、四代続いた総理大臣の滑稽至極の物真似は、まさに抱腹絶倒させる毒々しさとリアリティーを有していたものである。丁度、政権交代前の熱気が彼らの芸のパワーを後押しさせていたともみえる過去の光景である。だがここにきて、彼らの出番は減ってしまったようなのである。

鳩山内閣の船出の前後には、また新しい「偽鳩山」が芸を披露していたものであった。だがパッとしないままに終焉を迎えたのであろうか? いくら対象を観察したところで、それ自体が芸をパワーアップさせていく原動力とはならないことを露呈させていた格好でもある。諧謔の根底には研ぎ澄まされた観察力とともに、混沌へと導く爆発力が不可欠なことを、あらためて確認するところなのである。

このままザ・ニュースペーパーが埋もれた芸人人生を歩むことにになるのか否か? それはあらたなる攻撃対象=敵を見出すことから始まっていくのであろう。

新井満著「死んだら風に生まれかわる」を読む

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都内の某TSUTAYAにて新井満氏の「死んだら風に生まれかわる」を購入した。周知のように新井氏は「宣の風になって」という曲の作詞家として一躍脚光を浴びることになった。その著者による初のエッセイ集という触れ込みでTSUTAYAに並んでいたのである。

♪ 私のお墓の前で
  泣かないでください
  そこに私はいません
  眠ってなんかいません

この大ヒット曲となった「千の風になって」を作詞(訳詩)した彼は、2003年に同タイトルの写真詩集を上梓している。それからじわじわと主に口コミで評判を呼んで、2007年の大ヒット曲となったわけである。アメリカインディアンかアポリジニかによってつくられた曲とされているのだが、このプリミティブな曲をわかりやすくしかも力強く訳し切った新井氏の手腕は見事であった。

ほどほどにエスプリの効いたエッセイが、まるで一服の清涼剤のように心地よく心に響いてくる。夫婦として、家族として、或いは他人同士として巡り合った人間との愛。はたまたそれ以上に研ぎ澄まされた熱い葛藤模様などが、よどんだ心を浄化させてくれるような一冊である。

新潟出身の著者は、同郷の名士たち―良寛、坂口安吾、田中角栄ーに対して強烈なシンパシーを抱いているようである。おいらにとっては、萩原朔太郎、福田赳夫、国定忠治といった面々が思い浮かぶが、朔太郎さんを除いてはそれほどに深い思い入れはない。この違いについては後日自己分析とともに解明していきたいと考えているのである。

ホームページの今と昔

当ブログの親ページ「みどり企画」のページは、それ以前のものからドメインを移して10年になるが、最初のデザインを変えないできた。コンテンツや項目は、ときどき追加したり入れ替えたりしてきたが、トップページは10年前のままである。HTMLの基本を覚えてページをつくったのはいいが、その後、CSS、FLASH、JavaScript、PHP、等々の華々しいスタイルが蔓延するネット界において取り残された気分なり。流石に現在の仕様には相応しからぬと感じて、リフォームが必要だと思っているのだ。

ホームページ全てをWordPressやMovableTypeでつくり上げるといった手もあるようだが、それはまた余計な制約をつくり出すことにもなるので取らないでおこう。とりあえずはCSSを使ってスタイルだけは整えておかねばなぁ。

今日はそんな事情もあり、過去に撮影した写真などを引っ張り出して整理しているところなのであります。いずれ本家のほうも改装オープンするつもりなので、その節はまた見に行ってくださいませ。

私はいつも都会をもとめる 4〔浅草ホッピー通り編〕

つい最近までは浅草の「六区」「ロック通り」等と云っていた界隈の通りが、今では「ホッピー通り」「煮込み通り」などと呼ばれているらしい。かつて浅草のストリップ劇場で芸を磨いていたビートたけしは、この辺りで出される煮込み料理には、牛や豚ではなく犬の内臓が煮込まれている等と云い放って物議をかもしていたのである。そんなことも今や昔のことに思えるくらいに、浅草ホッピー通りはすっきりとした街並みを、これ見よがしに顕示しているのである。外国人観光客のメッカとも呼べる浅草で、この通りが今まさに変貌を遂げつつあるということに、今更ながらに驚くのである。

これから下にアップする写真は、以前に訪問した際に撮影したものである。近くには伝法院通りなる観光名所もあり、こことセットで訪れる観光客のスポットとなっている。

ホッピー発祥の店でみる人間模様

 本日立ち寄ったのは、有楽町駅近くガード下の店舗なり。入口前には「ホッピー発祥の店」の看板が目に付く。何となく入りたくなる風情に誘われて、何度か通っている店である。入口をくぐって地階に潜れば居酒屋、半2階の階段を上がればアイリッシュパブ風の店舗が広がっている。和洋折衷なのである。

おいらの行きつけはホッピーの飲める半地階の居酒屋だ。客の半数以上がおそらくホッピーを注文している。焼酎のいわゆる「なか」を、ボトルで注文する猛者も少なくない。名物女将のおばあさんが店を取り仕切るいつもの光景。

「今日は金曜だからさあ、これから忙しくなるんだよ…」

と、愚痴とは云えない小言を述べては注文を取りにくるのだ。今日はお勧めの太刀魚の刺身と小さな里芋(何とか云うメニューの名前があったが忘れてしまった)を注文、お酒はもちろんホッピーである。

隣席では、欧米客カップルにエスコートするペラペライングリッシュの女性と合わせて3名が、豪華な刺し盛りを挟んで談笑している。脂の乗ったトロの色が刺激的である。熱弁を振るっていたのがエスコート歴も長いであろう妙齢の美女である。地下鉄線のMapを広げて、これから次に向かおうとする場所の説明をしているのであろう。GoogleMapを印刷したような地図を広げつつ、エスコートを続行中なり。酔人観察には目がないおいらは、そっとその光景を眺めていたのだが、ふとエスコート美女と目が合うと美女は、

「ちょっとすいません。この駅は何という駅ですか?」

と尋ねたのだ。Map上にある駅は「木場」。「きばですよ」と、おいらは答えた。ただそれだけのやりとりではあったが、何となくエスコート役の案内美女にシンパシーを感じた、今宵の銀座の夜であった。

松尾スズキの芥川賞落選で高まる期待

本日発表された今年上期の芥川賞・直木賞で、芥川賞には「該当作なしとなった。昨年の受賞作「」終の棲家」などといった凡作にうんざりしていたおいらは、芥川賞に対する憧れなどとうに無い。そもそも「天才」太宰治や「世界の」村上春樹を落選させてきたという負の歴史を担うのが芥川賞なのである。望まずにして名を使用された芥川龍之介先生こそはこのような歴史をなげんでいるに相違ない。

今日記しておきたいのは、候補者として名を連ねた中に「松尾スズキ」という名前を発見したこと、そして見事にも落選(2度目だそうだ)を果たしたということなのである。

あらかじめに断っておくが、おいらは今回スズキ氏が候補作となった作品を読んでいない。であるからこれから読むことになるのであるが、それが傑作であろうが駄作であろうが、そのような評価、側面とは関係なしに、考えることがあるのだ。それはいわゆるひとつの「人徳の無さ」ということだろう。

新人作家にとっては文壇に人脈を持たないことは当然であり、それ自体は不利な条件にはならないものだ。だがスズキ氏の場合、おそらくは文壇に「敵」をつくっているのではないかという推論が成り立つのである。

以前のスズキ氏の候補作「クワイエットルームへようこそ」は、精神病院を舞台に展開されるストーリーの切れ味の良さに目を瞠ったものである。そして久々に書物で接した容赦の無い人物描写には、度肝を抜かれたくらいの衝撃があった。確かにスズキ氏は才能豊かである半面で毒ガスを噴射している。この毒ガスに対する拒絶反発の動きがあったとして不思議ではない。

とりあえずは審査員たちがスズキ氏落選の弁をどう述べていたのかが興味津津の的である。「純文学ではない」「新人ではない」などといった古典的な言い草は聞けないのだろうが…。スズキ氏にはこれから、日本の文壇を蹴散らすくらいの活躍を期待するのである。

生樽ホッピーは銀座の味か?

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先日、銀座のガード下で立ち寄った居酒屋で、「生樽ホッピー」なるものに遭遇した。樽で発酵されたウイスキーみたいなホッピーかと思いきや、そうではないらしい。生ビールのようなタンクに入ったホッピーを、これまた生ビールみたいにジョッキに注いで出したものらしい。焼酎は「キンミヤ」というブランドものを使用しているとのこと。まろやかな舌触りとのど越しが心地よい。

だが残念なことに、あの純ビール(即ち発泡酒ではないビール)のような苦味が感じられないのだ。この生樽ホッピーは果たしてありやなしや?

ホッピーを飲んでいて中(なか、即ち焼酎のこと)を2杯、3杯、4杯と注文していくうちに「ちょっと酔っ払ったな…」と思うとき、外(そと、即ち焼酎を入れないビンのままのホッピー)を、ジョッキに注いでグイッと飲み干すときのあの苦味走った快感が、ホッピーならではの味わいなり。この快感は生樽ホッピーでは味わうことが出来ない。弱点もありなのである。

私はいつも都会をもとめる 3 〔渋谷篇〕

まずはじめに余談だが、今日は若手No.1の某女史に「惣領の人徳ですね」と云われて、何故だか嬉しくなってしまったおいらである。

では本題。週末の日曜日、映画「渋谷」を鑑賞する為に渋谷を訪れていたおいらは、映画が始まるまでの4~5時間、渋谷周辺を逍遥散策していた。上映会場の「ユーロスペー」は道玄坂から一歩入ったところに位置している。そこは歴としたラブホテル街である。かつて友人とともに渋谷を散策していたときその友人は「まるでシンガポールのような街並み」と称していたものである。それくらい綺麗に見えていたのだろう。だが一歩小道を入れば、決して綺麗という形容にはあたらない、雑多でドロドロとした街並みを目にすることになる。

渋谷の魅力については、おいらもまだはっきりと把握できないのだが、映画「渋谷」に出演する一少女は「ずっとこの街にいたい」と語っている。銀座のように敷居が高くなく、自分の手の届くところに、欲しいものが何でも揃っているということなのだろうか? ただしそんな生活を手にする為には、売春やらをも引き受けねばならないということの、表裏一体もまた、渋谷という街が抱えている事実なのだろう。

藤原新也さんの「渋谷」が発表された当時のころのおいらは、その本を購入することを躊躇っていた。いわゆる風俗レポートの一種ではないかと誤解していたようである。その少し前には、家田詔子の風俗本を読んでは辟易していた。また村上龍の小説にも渋谷ギャルなどが登場していたが、どうにも読み進むのに躊躇を感じていた。この違和感が何だったのだろうかは分析途中なのだが、きっと、風俗レポートなるノンフィクションやらフィクションやらが、受け入れ難き風俗の跋扈を助長されていたことへの抵抗だったと思う。だがしかしながら藤原新也さんの「渋谷」のような、素晴らしいドキュメントが、確かに存在していたことを大変嬉しく感じているのである。

藤原新也原作の映画「渋谷」を鑑賞

昨夜、渋谷の「ユーロスペース」という映画館で「渋谷」(藤原新也原作)を鑑賞した。メジャー系の映画と違い、製作費用も最小限のものだったという同作品は、1日1回、しかも夜間のレイトショーという不遇な扱いを受けている。だからファンにとってはそれだけ格別な思い入れ、気合が入るものなのだ。初日(9日)に観に行く予定でいたが、チケット完売とのことで当てが外れた。この日は藤原新也さんをはじめ監督、主演俳優らの舞台挨拶があった。やはり新也さんに久しぶりに会いたかった。惜しいことをしたものである。

西谷真一監督による「渋谷」のストーリーは、当然のことながら原作にかなりの手が加えられている。一遍の物語として仕上げなければならないムービーというものの宿命なのだろうが、細かなところまで目を行き届かせている(こういうのを被写体の機微というのだろう)あの原作を、もっと活かせなかったものかと、いささか残念に思う。

主役の若手カメラマンを演じた綾野剛はミュージシャンの顔も持っているらしい。初々しくシャイな感性を存分に発揮している。ただ突っ込みどころは沢山あった。例えば「これが俺の全財産の半分だから」と云って少女(相手役の佐津川愛美とは別の少女)に1万円を手渡すのだが、彼が使用している写真機材その他が豪華なことをみれば、とても納得がいかない。エプソン製の高級デジカメにライカのレンズ、最新のマッキントッシュにプロ用ソフトウェア、そして渋谷に構える事務所兼用の自宅…等々。これらを揃えるとなったら、簡単に百万円はかかるだろう。

まあそんな滑稽な矛盾点をチェックしていくのも、映画の楽しみの一つである。

北尾トロ著「裁判長!ここは懲役4年でどうすか」がばか売れ

北尾トロ著「裁判長!ここは懲役4年でどうすか」を読んでいる。単行本の刊行が2003年11月(鉄人社)で、文庫本化は2006年7月(文藝春秋社)である。この数年間「裁判員制度」導入による動きから、一般の関心が高まって来たのにつれて、本も売れ続けているようだ。ブックオフのお勧め本のコーナーに積み重ねて置かれていたのだ。

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本の中身はと云えば、「裏モノJAPAN」という雑誌の企画で連載されていた記事をまとめたもの。ひょんなことから裁判を傍聴することになってしまった著者が、全くの素人としての目を通して面白可笑しく、ときに不謹慎ととれるあっけらかんとした好奇心を武器にレポートしていくのである。おいらも著者とは面識があり(魚仲間の1人なり)、本人のキャラクターを十全に発揮した切り口がモットーとなっている。そのあまりに軽薄な描写は、事件レポートには相応しかねると思えるのだが、裁判の現場を知るという意味において役に立つものとなっている。

しかもこの本を元にして、同名のコミックが発行され人気なのだとか。映画やTVドラマ化もされていくようで、時代のポジションに乗っかっているかのごとくなり。作家とはどこでどういう売れ方をするのか、とんと判らないものである。

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つぶやききれないおいら〔Twitter格闘記〕

折角Twitterに登録したのに、ぜんぜん上手くつぶやくことができませぬ。人見知りのおいらにとっては、この新ツールは使いこなすのにも骨が折れそうな気配。…そうブログで愚痴ってみたところではじまらない。やっぱりブログを中心にして、一日一筆を行なっていくのがよさそうである。

ところで「村上春樹」さんが登録していたので早速フォローしてみたのだが、本物の春樹さんなのだろうか? とても懐疑的なのである。「やれやれ」などとさかんにつぶやいているし、20,630人もからフォローされているのにフォローしているのがただ1人、というのも怪しいものがある。他のつぶやきかたも、作品の一部を引用しているような感じで不自然である。公式ナビゲーター「ついなび」を探しても春樹さんが見つからないのだ。

http://twitter.com/Murakami_Haruki

暗イウチハマダ滅亡セヌ(太宰治より)

本日体は調が優れぬために、一日ぼんやりと読書なりをして過ごしていたのでした。「吉本隆明のメディアを疑え」という一冊を主に読書していた。吉本隆明さんの本を読むのは久しぶりである。その本で、吉本さんも尊敬する太宰治さんの小説に述べられていたと紹介されていたのが、表題の言葉なり。非常に重くてジーンと感じてくる。すべての日本人にとって非常に貴重な言葉であると想うなり。

出版されていたのが2002年4月なり。小泉純一郎が我が世の春を謳歌していたまさにその時期である。様々に吉本さんの提言が述べられていて、それはそれで重みのあるものなのではある。だがしかし、吉本さんの提言やらは無視されながらその後の時代は推移したのである。

小泉純一郎なる政治家は確かに他の政治家以上に洗練されてかっこよかった。当時は何か明るい未来を期待させたのかもしれない。しかしながら現代日本にとっては類まれなる悪党と云わざるを得ないくらいに重い責任を負っている。

余計な明るさこそ無用なり。こんなシンプルな真実を理解できないでいた小泉純一郎やそのかぶれ信者やほか関係者は、深い反省が必要である。それさえ真っ当に出来ていない日本の現状とはなんぞやである。

私はいつも都会をもとめる 2「銀座のホッピー」(C)萩原朔太郎

たまにはおいらも、都会の味をもとめて銀座で一献傾けることもある。今宵のテーマは、銀座のホッピーとその味についてである。

銀座にも当然のことながらホッピーを出す店は多数存在している。頑固親父が仕切っている老舗店舗についても、次第にその垣根は低くなっているとみてよさそうである。焼鳥、焼きトンを出す店にその傾向は顕著とみえる。例えばメニューに「ホッピー」は載っていなくても「ホッピーください」と云えば当然のようにホッピーを出してくるお店は腐るほどある。あるいは「ホッピーはないんですか?」と問いかけると、気まずそうに「そんなことはないですよ」といいつつ、周囲を気にするようにしながらホッピーを出してくれた店もあったのである。それぞれに事情は異なれども、今やホッピーを置いておかずには居酒屋経営もまずい局面に呈しているということなのであろう。

時代は発泡酒全盛だが、しかしながら発泡酒が居酒屋経営に対して何の貢献ももたらさなかったことに比べれば、ことホッピーの果たす役割はいや増すばかりと云ってよいのである。

ところで銀座で飲むホッピーの値段はといえば、価格がまちまちである。「ホッピー=150円」というメニューに気を良くして飲んでいたら、最後に高級焼酎代を請求されたというケースもあったのだ。ご用心してください。

老後の生活に関する一考察

昼間、おいらの携帯電話に見覚えのないナンバーからの通信が数回あった。そのつど立て込んでいたこともあり放置していた。その後、帰宅途中の電車内で鳴ったので、そっと出てみる。相手は初老の声で、「○○の弟ですが…」と名乗っていた。他の乗客を気にしつつ、小声で会話を続けていると、電話相手のお兄さんの某作家さんが、昨年亡くなったということを知った。それでご丁寧に、お礼の電話をしてくれたという訳である。知らずに年賀状を出してしまった詫びを述べてその電話を切った。

亡くなったと知らされた作家は、生前は相当なキャリアを積んだ人物である。おいらがお会いしたのは某編集プロダクションの事務所で、二~三回のことであり、それほど深い付き合いはなかったのだ。数年前での御年は70年代とみえたが、当時も現役で、企業史や個人史の執筆を請け負っていたとのこと。相当なキャリアを積んだベテラン作家が、老後になって他人の自分史や企業史の執筆(その中には割に合わない「ゴーストライター」としての仕事も含まれる)を請け負うのだろうかと、以前のおいらはいぶかしくも感じていたものであった。だがやはり、時代がそうさせているのであろう。日本が急激にアメリカナイズされていた当時の世相を思い起こす。

老後くらいは、自分がやりたい仕事だけやって過ごせる人生を送りたいものだ。そうしみじみと想う今宵なり。