この時期の金目鯛の握りは絶品だ

昨日書いたイワシは血液サラサラの成分「EPA」「DHA」が豊富で美味い魚だが、それ以上に美味い魚はまだまだ沢山在るのであり、そんな美味い魚のトップを狙う位に美味いのが「金目鯛」なのである。この魚、見た目も赤々として派手ではあり、派手好きな親爺などの人気のツボをキャッチすることは容易であると推察する。更には身の味わいも一流であるとくれば鬼に金棒と云ったところであろう。白身魚でありながらその身は甘みとこくとが充溢していて、とても白身魚の淡白なイメージとはほど遠いものである。

本日はこの「金目鯛」を握り寿司で頂くことになったのだが、期待に違わずにこくも甘みもそして魚のエキスも充溢していて満足だった。

今こそ「いわし(鰯)」を食べて日本を元気にするのだ

福島原発事故の影響で東北を中心とした農畜産物の売り上げはさっぱりである。牛肉、農産物をはじめとしてこれから注目が集まる「新米」についても、果たして例年並みの流通が可能となるのかとても不安が広がっている。先日の栃木の旅では美味しい「岩魚」「鱒」等の川魚を味わったが、東北の、なかでもとりわけに福島近辺の川魚は全て出荷停止の処置がとられている。当たり前のように享受すべき川の恵みを、福島はじめ東北の人々が得ることが出来なくなっていると云うことをもっと深刻に捉えるべきである。怒りは収まる気配も見られないが、前向きに向かっていく心意気も至極重要なことなり。

と云う訳で、ここでは「いわし(鰯)」に注目。鰯と云う海魚は身体形が小さいことや陸上げされるとすぐに弱ってしまう、腐りやすい、等々のことからこういう呼び方をされてしまった魚である。同じ位の体長の鯵に比べても、何となく弱いイメージが付きまとってしまう。う~む、鰯の個性とは果たして何だろうか…?

以前にも書いたはずだが、鰯には青魚特有の「EPA」「DHA」という、血液をさらさら状態にする成分が豊富に含まれている。牛肉等の「アラキドンサン」に比べて、血液の健康状態を維持するのは鰯成分が何倍も勝っているのだ。同じ魚類のカツオ、マグロも、鰯の健康成分を吸収して大海を回遊している。もし鰯の身から摂取する「EPA」「DHA」等の成分が取り込めなかったとしたら、カツオ、マグロ、その他の魚介類は大海を回遊するほどのパワーを持ち得たのかと考えてみれば、とても難しかったと云うべきである。カツオやマグロを食している日本人にとっても同様のことが云えるのだ。

贅沢な味覚を追求することは一旦止めて、今こそ「いわし(鰯)」をはじめとする海魚の恵みにあまえて行こうではないか。

町田康氏の「東京飄然」は煎じ詰めれば詰まらない1冊だった

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おいらは現在、読書進行中の書籍が数冊在る。別段改まってのたもうような事柄で無いことは重々承知なのだが、今日は改まって記したくなってしまったので、何とも面映い心持ながら個人的事情も鑑みて寛大な評価をいただきたいとも思いつつ、それでは次の章に突入するのだ。

実は我が国の栄えある芥川賞、直木賞、あるいはそれ以上に人気抜群のカリスマ作家達を含んでいるのであり、これまで軽々に話題にすることさえ憚られていたのである。つまりはこれらの書籍を読了できずに中途半端に放っているという状況とはすなわち、読書のスピードが上がらずにもたもたしている様を示しており、煎じ詰めればつまりは該当の著書が面白くない、詰まらない内容だということを意味しており、そんな様を、ブログという半公共的な媒体にて表明してよいモノかと悩んでもいたのだ。だが悩みは人を廃人にかすことあれども人を強くすることもままありなんなのである。そして本日おいらは半分くらいのところを読み終えたところで「飄然」と悟ったのだ。「詰まらない本を詰まらないから読んだりしないで他の時間に費やしましょう」というメッセことージを堂々として発信することにより、我が国の文学愛好家たちの役に立つことが出来るのではないかと。そうしなないことには我が国の文学愛好家達は何時かはこの「東京飄然」を読むことになるし、そしてその延長として他の有意義な書物に接する機会を逸してしまっているということになるのだ。ここは腹をくくって、いかに立派で厳かな芥川賞作家の先生の本を読んでも詰まらなかったということを、公開することに決めたのだった。

半分以上のところまで読み進めていたのでこの本のスタイルやポリシー、今時の言葉で言えばマニュフェスト的なる代物といった代物については把握している。「飄然」として東京都内を旅することをテーマにして、作家町田康氏が独りあるいは友人を引き連れて飄然と旅に出るのだが、この「飄然」の意味や風合いやその他諸々をこの芥川賞作家は少々はき違えており、なかんずく「飄然」が「漫然」の対語である等というしゃらくさい薀蓄を述べたり、王子近くの飛鳥山公園や江ノ島・鎌倉旅行を「失敗だった」と書き記し、そんなことしながら1万円以上のディナーに耽ったりという、作家風情を肩に切って歩いている様子には辟易したものであったのだ。

実はこの先を読み進めるべきかどうかは未だ迷っているところだが、素読みしていたところ、中央線沿線の旅も似たかよったかの様であるのでこの辺で止めに入るのが妥当であろう。

「だし奴」にみる美味い「冷奴」の条件

昨晩は「だし奴」に触れながらもその詳細について書き記すことをしなかったのは、睡魔に襲われていたからと云うのが主原因だが、然しながらそればかりではなかった。冷奴の中の筆頭メニューとも云うべきだし奴というものが、はてな通常の冷奴こと比べてどうなのか? そうした思いを整理する必要が在ると感じていたからでもある。

「だし奴」の「だし」というのは、山形県の郷土料理として名高いものであり、胡瓜、茄子、葱などの夏野菜を醤油ベースのタレに漬け込んだものだ。それを冷やして保存食とする。御飯に掛けて食べるのが定番だが、豆腐に掛ければ「だし奴」となる訳である。葱+生姜+鰹節といった通常の冷奴の具材に比べて夏野菜が主要具材であることから、夏のほてった身体を冷ます効能が発生する。鰹節を使わないで天然の野菜から生じる「だし」が隠された味わいの決め手なのだ。野菜出汁が主役なのだから美味くないはずが無かったのである。

御徒町ガード下の「佐原屋」で美味いホッピーを呑んだ

上野アメ横に接する御徒町界隈には数多くの居酒屋が乱立するが、長きに渡って営業し続ける店舗は極めて少ない。毎年のようにその街並みの光景は替わっていくし、季節の移り目とともに看板の貼り替えはひきもきらない。だがそんな中でも古くから呑兵衛達に愛されてきた繁盛店も存在する。そんな店の代表格が、御徒町駅ガード下の「佐原屋」なのだ。

本日は2番目の土用の丑の日であった事から何かを期待して訪ねてみた。鰻のメニューは何も無く、さりげなくその事を訊ねたところ、2、3軒隣の鰻屋さんへ行ったらどうかというようなそっけない応えであったが、隣に陣取っていた兄ちゃんがその鰻専門店の常連だとかで話がはずみ、ホッピーも普段以上に美味しく味わえたのだった。

ちなみに当店のお勧めはといえば、とんぶりメニュー、中でも「山かけとんぶり」は絶品なり。まぐろの切身と山芋の相性は言わずもながらだが、そこに山のキャビアこととんぷりの鮮烈なプチプチ感が加わることにより、3つの素材が3倍ならず3乗にも掛け合わされた程の濃密な味わいを放つのだ。このメニューは佐原屋以外で食べたことは無く、多分家庭でも食されることは無いものであろうから、佐原屋のオリジナルなレシピとして表彰してあげたい、それくらい嬉しい感動的なつまみなのである。その他、「だしやっこ」等のオリジナルメニューもうまかった。機会があったら「だしやっこ」のこともレポートしたいのだが、今宵はこれまで。

青々としたこの「枝豆」の青春期のエキスを味わう悦び

枝豆が美味い季節になった。今年も既に何度か食しているが、今年は何やら不作で市場価格も高騰していると聞く。特に直前の新潟・福島地方を襲った豪雨の影響によって、同地域の枝豆畑は甚大な被害を被ってしまった。上手いビールならぬホッピーに枝豆は欠かすることなどできず、多少の市場価格高騰にも目をつぶって良いものを手に入れて味わいたいと思っていたところであります。

改めて書くのもなんなのであるが、「枝豆」というのは「大豆」が成長する前の、云わば未成熟のときのものを収穫しているものを指す。未成熟とは云えどボリュームも味わいも充分に一人前の体裁はとられており、何故に未成熟等と称されねばならないのかという、当事者達からの不満や異議などが噴出するかと思えば現実は決してそんなことは無く、極めて友好的な、枝豆と大豆との棲み分けはげんとして存在している。外野風情が余計な心配などすることもなかったという訳なのだ。

居酒屋でホッピー(昔はビールだったが今は通風対策でホッピーなのだ)を注文し、つまみとして出された鮮烈なる黄緑色の枝豆を見る度に、このシンプルな取り合わせの妙には心を動かさせたのだった。つまりはこの未成熟期の枝豆は呑兵衛のために完熟後のライフを犠牲にしてこうして我国において最大ポピュラーな酒のつまみとなってここに居てくれるのかと、特別な感慨を抱かざるを得なかったのである。

パウル・クレーの「子供の領分」と谷川俊太郎の「選ばれた場所」

新潟・福島を襲った豪雨の影響で昨夜から激しい雨が続いていたので、本日は外出することも避けて、アクリル画の制作に没頭していたのだ。2〜3年前から続いている制作意欲を何かのかたちにしたいと考えているのだが、昨年初夏頃のチャンスを逃して以来、具体的な道筋は見えてこない。かといって受動的態度で時を過ごすことも出来ないので、日頃の制作活動の時間は、たとえ少々なりともとるようにしている。

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夕刻を過ぎて雨も上がり、街に出て駅前の古書店を覗いていると、パウル・クレーの「子供の領分」という画集が目に付き衝動的に購入した。1997年に「ニューオータニ美術館」というところで開催されたパウル・クレー展で頒布された展覧会の図録であるようだ。

本年開催されたクレーの「おわらないアトリエ」展の出品作品とはまた違った傾向の作品が収められており、つまりは幼児画的パウル・クレー作品とその創造の背景にスポットが当てられ纏められており、至極興趣をそそられているところだ。幼き時の制作スタイルを常に踏襲しながら、名声を博した後も常に幼児の目線を制作の根本に据えていたクレー師の偉大さは図録を一瞥するだけで漂ってきており、その創造の原点の逞しい息遣いを感じ取らざるを得ないのである。

この図録には谷川俊太郎さんの「選ばれた場所」というポエムが収められている。

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選ばれた場所
谷川俊太郎
そこへゆこうとして
ことばはつまずき
ことばをおいこそうとして
たましいはあえぎ
けれどそのたましいのさきに
かすかなともしびのようなものがみえる
そこへゆこうとして
ゆめはばくはつし
ゆめをつらぬこうとして
くらやみはかがやき
けれどそのくらやみのさきに
まだおおきなあなのようなものがみえる
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夢は爆発し、暗闇は輝き、暗闇の先に大きな穴の様なものが…とうたっている、その俊太郎さんの思いは、今のこの時代における最も今日的な課題に立ち向かっている詩人の魂の言葉であろう。

サバの味噌煮をつまみで食べたらとても良かった

サバを使った定番メニューとくれば、サバの味噌煮、しめサバ、サバの文化干し、蒲焼き、等々となるが、サバの味噌煮は特に昼の定食屋で定番のメニューであり、注文度がかなり高い。そうかといっても夜の居酒屋で注文してみればまた新たな感動が発生したのであり、昼食メニューとはちと違う、一風違った趣だったのでここにレポートしておきたいと思ったのである。

定食屋のサバ味噌の切り口とは違い、背骨をざっくりと残して寸胴切りにしてある。見た目の美味しさが引き立っている。そして箸を付けて一口。う~む、なかなか味噌味が利いているようでありグッドな出来栄え。サバに味噌は良く似合うのは当然だが、塩味が程よく中和される味噌という絶妙な調味料の仕事の様については改めて尊崇の思いを強くしたのだ。

そもそもサバは足が速いので、生食されることは滅多に無い。その代わりに保存食として古今東西より珍重されきており、サバ味噌などはそんな珍重的文化メニューの代表格なのだ。そんな珍重的文化メニューを昼の定食のみに押し付けていたことの不条理は、これから明らかになっていくだろうが、それはともあれ夕食のつまみ的食としてのサバ味噌が絶品であることを今日は逸早くキャッチしたのであるから、ラッキーだったと云うべきであろう。

造反無理政局の行方5 海江田万里の三文芝居に惑わされてはならない

海江田万里という経産大臣は色々なパフォーマンスを駆使して政局の混乱に拍車を掛けている。絶句してみたり涙の無い嗚咽を演じてみたりと、まるで三文役者そのものである。もともと役者の自覚があるならば、本物の涙を流すくらいの演技的訓練はしておくべきだがそれさえも無い、ただ単に付け焼刃的パフォーマンスの醜い光景を見せられるばかりである。

海江田が意図すべきは菅直人総理大臣の追い落としに間違いないが、ここに来てまるで、勲功章を目指しているのではないかと勘繰られる動きが見られるほどであるからいいかげんにして欲しいのだ。くだらないタレント政治家の最後のパフォーマンスを黙って見過ごしていくわけにはいかないのだ。

現政局にあっては造反無理的政局の動きに加担する政治家は須らく、こそこそ政局を嗅ぎまわる政治屋風情に過ぎないことは明らかであり、今後の菅直人内閣の意義が浮かび上がってくるのである。

マスコミはほどよく傀儡されている。傀儡する主語的存在は、日本の軍産複合体である。抽象的に云えばそうなのだが、もっと具体的な姿が明らかになろうとしている。東電をはじめとする電力産業複合体である。電産複合体はピエロやポチ犬を雇っていて、ときどき誰彼がそんな役目を買って出ている。彼らにとって三文芝居役者の海江田万里を操ることなどは至極簡単なるオペレーションのひとつに過ぎないのである。

町田康氏の新著「ゴランノスポン」

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一部ではカリスマ的な人気を誇るパンク小説家、町田康氏の新著「ゴランノスポン」を読了した。7つの小・中編による作品集で、表紙カバーにはこれまたカリスマ的アーティスト、奈良美智氏の新作「Atomkraft Baby」が採用されており、至極目を惹かれることとなっていた。この表紙によって購入を決めたと云っても良いくらいだ。

表題作「ゴランノスポン」は雑誌「群像」2006年10月号にて「ホワイトハッピー・ご覧のスポン」として発表されたものを改題してある。タイトルだけ見たら何を意味しているか見当もつかない様な可笑しなタイトルだが、かつての「群像」での作品名を知り、漸くその意味するところの合点がいったのだった。なった訳だが作者のほうは何故だか知らぬが、一般人には韜晦の至りかのごとくのチンプンカンプンな表題に変えて、敢えてその「意味の無さ、希薄さ」を表出させて愉しんでみたのではないかと睨んでみたところだ。こんな表題作に出来るのがパンク作家としての面目躍如といったところだろう。ご覧の様にスポンと落ちる。落ちます、落とします。スポンという擬態の音…。底を見せぬ闇の中へと連れ去って行ってしまいそうな、厳粛かつ滑稽な擬態の音だ。天使か悪魔かは知らぬが大きく両手を広げて手招いているかのようである。

少し前までは独特なボキャブラリと俗的世界の話題を操るパンク兄ちゃん、過剰な才能を持て余している一人よがりの空回り的存在、的な評価を抱いていた町田氏だったが、色々とこの世間とやらに対して挑発する様は勇ましくもあり、可能性をも伝えて来るものがある。

ある種の三文小説の落ちとも変わらないプロットやそうぞうしいばかりの展開やらには辟易していたが、つまりは、小説一つ一つの評価は、あまり点数を付けにくいのだが、読み終わってみればそれらを含めて現代作家たる才能を撒き散らしているということなのだろう。

西荻窪「戎」の邪道系旨メニュー「イワシコロッケ」

居酒屋メニューの中にはウケを狙って顔を出すだけの邪道メニューが少なくない。特に激安を売りにしたチェーン店のメニューには、毎月毎月品を換えてそういた邪道系料理がメニューブックを飾っている。これは駄目だと思いつつも、1度くらいは試してみようかと、ついつい注文してしまうもののようなのだ。ほとんどが月単位、季節の変わり目には姿を消すが、ある一定の比率でこうした料理が店舗の売り上げを支えていることは疑いないのである。

ところがこうした邪道系メニューの中でも一定の、ユーザーの舌を捉えたものもたまに在る。西荻窪「戎」の「イワシコロッケ」は、地元の呑兵衛たちに支持された珍しい料理と呼んでも過言ではないだろう。

■イワシコロッケ
コロッケの具材の脇役は、牛肉、タマネギ、人参、あるいは山芋、茸、等々数在れどもあくまで主役はジャガイモである、とずっとそう思い込んでいた固定観念を覆させるかも知れないメニューである。レシピは簡単であり、通常のコロッケの具材のジャガイモにイワシがプラスされたというもの。半分がコロッケ、もう半分がイワシフライの味なのだが、妙にイワシの味がとんがっている。コロッケの主役がジャガイモではいけないのだと主張しているかのように、妙に口の中で生き生きとして主張するのである。イワシフライばかり食べていても、イワシの主張のトンガツタ様を感じることは無かったであろうが意外な味覚の主役となって、イワシの存在感を知らしめたのだと云うことになるのだろう。

美味い「ヤマメ」は日本の自然が育てたものだ

しつこいようだが奥鬼怒関係の最後のネタである。奥鬼怒に滞在中には、マスやヤマメなどの川魚の焼き物を味わうことが出来た。特にヤマメは川魚の中でも希少な分類のものであり、東京都内ではなかなか味わうことも出来なくなっている代物だ。

漢字では「山女魚」と記す。山の清らかな水の中に生息する魚と云う意を汲んでいるのだろう。たしかにそれなりの厳かな食味を味わうこととなった。若干なりとも濁った水の中では棲息することのない清らかな川魚の代表選手なのである。

遠火の炭の炎でじっくりと時間を掛けて焼かれた「ヤマメの炭焼き」は、これ以上の評価がないくらいの絶品の川魚料理である。美しいとされる日本の自然の賜物でもある。変梃りんな保守派政治家たちの言葉に惑わされることのないように、一口一口味わったのだ。

この妙なる味わいはといえば、変梃りんな政治家たちが口にするほどのえぐみも無く、とても清々しい川魚の味わいだったのである。

奥鬼怒で鹿刺しを食べて感じ取ったマタギ讃歌なのだ

奥鬼怒を旅して今は東京に舞い戻っている。都会的市民生活にまた埋没しているのだが、奥鬼怒の「食」については極めて大切な知見を得ることとなつたのであり、しつこいようだがここに記しておきたいと思うのだ。栃木県の北部地域には、マタギと呼ばれる狩猟の民達、すなわち土着の人々達が存在している。彼らの食事の多くは、鹿や猪等々の野生動物の肉に依っているところが大きいようである。

マタギとは、古来からの方法を用いて集団で狩猟を行う狩猟者集団たちのことを指すとされている。北海道や東北地方の伝統的な狩猟民族のことを指して云うことが多いが、それのみならず関東圏内でもまたぎは今なお存在しており、栃木の奥鬼怒でもまたぎの生業を続けている人々は多いのである。このようにして関東にも居るマタギたちによって、里山の維持、管理がなされていることを思い知ったのである。森林に居住する熊をはじめイノシシ、カモシカ、シカ、等々の野生動物たちとの共生共存を維持していくことは並大抵のことではない。地域の人々による古来からの伝統的な狩猟方法等を含めた生業によつて、人間と世界との関係が保たれてきたということなのである。人間が大手を振るって自然界を支配しようとするのではなくして、野生動物やその他諸々の存在との調和を図ろうとして築いてきた人々の営みの印を感じ取ったのである。

宿で食した「鹿の刺身」は、冷凍していたものが解凍されて出されていたことは明らかだった。冷々しくて食感は良かったが、少々ガサガサとしたシャーベットを食する時の感じが思い出されてもいたのだった。これくらいに冷やせば食中毒等も防止できるのであろう。文明の利器の存在理由(レゾンデートル)もまたそのときには実感として感じ取ることにもなったのである。マタギ頑張れ! マタギ万歳! なのである。

奥鬼怒旅のスナップ

慣れない登山で足はよれよれになったが、普段の都会の生活では出遭うことの無い光景に遭遇した。途中、蛇に出遭ってどきつとしたり、道を間違えて歩き続けていたりしていたのだが、道草していたルートの丘陵からの眺めは特別なシーンを幾つか見せてくれ、日頃の気持ちのもやもやなどを晴らしてくれたようである。

奧鬼怒の旅の宿から

ぶらり旅にて奧鬼怒に滞在中。ノートバソコンのネット用ツールは電波の圏外だが、ソフトバンクの携帯はかろうじて使用可。慣れないスマホのキーボードをいじっている。若者みたくスラスラ出来る筈もなく悪戦苦闘中なり。時間に追いたてられることの無いこうした旅の時間をいつしかとても愛おしく感じとることが増えて、携帯電話にも馴染み初めているのかもしれない。ちなみにブログ投稿用のアイフォンアプリまで有ることを知り、更に身近なツールになりつつある。

さて、奧鬼怒温泉郷の中で最も奧には四軒の宿が存在するが、加仁湯、八丁湯に予約していない客が襲ってそこに行くには片道1.5時間もの登山道を歩かねばならない。おいらはこの山道を歩いて目指すことにした。露天風呂に浸かってひと息ついたはずが、慣れないことをしたつけでモモがつって歩行困難となっていた。この地域は月のわグマの生殖地域であり、登山道にも出現するらしい。熊よけの鈴も何も用意していなかったので少々恐くなったのだが、幸いに遭遇することなく悪戦苦闘の時間を終えたのだった。

今年は特に希少品となった「ほや」のつまみ

東北大震災の影響で、海産物の流通が悪い。八戸、気仙沼などの大漁港は営業を再開させているが、沿岸の小さな港町は例年のようにはいかないようだ。

東北の味覚を象徴する「ほや」といえば、居酒屋の看板メニューになっているところが少なくないが、今年は中々入手が難しいようで、いつもの店にもなかなか出されることはなかった。メニューを外すのも出来ずに苦労も少なくないようなのだ。

そんな状況の中、ぶらりと入った居酒屋のボードメニューで「ほやの漬物」とあるのを見つけたので慌てて注文。「漬物」というくらいで生に比べて鮮度は落ちるが、ほやの懐かしい味であった。地元の漁港関係者も希少な海産物を漬物のにして流通させようと、知恵を絞っているかに見える。しっかり塩味が効いていて、これはこれで悪くない味だ。

夏野菜、ズッキーニ、パプリカ入りのグラタンはおすすめ

乳製品の品薄感も収まったようであり、牛乳を使った料理が食べたくなった。スーパーで茄子やきのこに加えてズッキーニ、パプリカ等の夏野菜を購入した。一度に夏野菜を味わえるメニューとしてグラタンにして食することにした。

夏には夏の夏野菜というのはありきたりの法則ではあるが、特にこの時期、夏野菜を摂取して身体を冷やすことは長期的な体調維持において極めて重要である。夏になったらば充分に汗をかいて、そして身体の中からクールダウンできる体質を身に付けておくのが肝腎だ。そういう意味で夏野菜を充分に摂取していくことが重要なのは、これまでの自分の身体によって学んでいる。

ズッキーニ、パプリカといった云わば新種の夏野菜を使ってみたのだが、これがなかなかのマッチングだったのだ。ズッキーニはキュウリよりも熱を加えた調理に適するし、パプリカはピーマンよりも甘味と旨みとが滲み出ていて程よく夏の味を謳歌できる。何しろオレンジ、黄色、赤色といった彩りも鮮やかに添えられるのであり、この時期には欠かせなくなる気配が濃厚。料理には見た目も大切なのである。

石川セリの「八月の濡れた砂」テーマ曲を聴いて想い出すことは、そのオリジナリティーの凄さだろう

先日逝去した原田芳雄さんが出演した映画「八月の濡れた砂」について、昨晩は書き損なったことがあるので、しつこい様だが併せて書き記しておきます。

上に紹介した動画に登場する石川セリさんは、まるで肝っ玉母さんのように迫力満点ですが、その昔はクリッとしたその瞳の眼差しやその他諸々で人気であり、ニューミュージックのアイドルとして世の男性陣の羨望の的となり、いつしか井上陽水さんの奥さんとなってしまったので、おいらを含めて男性陣の失望を買ったという凄い人なのです。

そこで今更ながら、何を云いたいのかといえば、原田芳雄さんの代表的な映画を支えていたのが、藤田監督やその他諸々の人々が居る中でも、石川セリさんのこの映画にかなえたものの重量面積その他諸々は限りなく凄かったのだろうと云うことだ。このテーマ曲無くしては「八月の濡れた砂」の絶大なる評価は成り立たなかったのだろうと感じているのだ。

日本映画のアウトローこと原田芳雄さん逝く

井上陽水、栗田ひろみに対するオマージュの言葉、メッッセージ等を整理しようとしていたら、いきなり原田芳雄さん逝去のニュースが飛び込んできた。先日は原田さんが主演した映画「大鹿村騒動記」の試写会に、やせ細った姿で出席をしたというニュースもあったので気にはなっていたのであるが、まさかこれほど早く逝ってしまうとは思わなかった。死因は誤嚥性の肺炎によるものだという。

原田芳雄さんが出演した多数の映画には、おいらにも強烈な印象や記憶が刻まれている。中でも強烈だったのが「八月の濡れた砂」であった。学生時代に3度は鑑賞し、これまで4〜5回はその映画のドラマに接しているという最も鑑賞度の高い作品の重要な役者なのだ。けっして原田さんが主役という訳ではなく存在感ある中堅どころの出演者であったが、この時代のアバンギャルドを体現する役者としては、原田芳雄以上の存在を探すことが難しい。

実際に、同映画で主演したテレサ野田という女優のことはその後の活躍やエピソードを耳にしないし興味も生じさせることがないし、今では有名人の村野武範という役者の印象も薄いものである。それに対して原田さんは強烈なる存在感で映画館の視聴者たちを圧倒していたのだ。

その後、ある意味での牧歌的な学生時代を終えた後のおいらは、芸能記者としてのときを過ごしていたのだが、当時も原田さんの存在はぴか一に光っていたと云えよう。

アウトロー的な役を演じることが多かった原田さんだが、当時、悪童、異端児として恐れられていた松田優作が、原田さんだけは先輩役者として恭順の意を通したということで、原田さんの評価は一挙に上昇することになっていた。何しろ当時の松田優作と云えば記者泣かせで有名であり、文字通りパンチを食らわされて泣き寝入りした記者が相当数存在していたのである。文学界の中上健次先生とも並んで恐れられていた松田優作氏だが、原田芳雄さんの前では素直にしおらしく云うことを聞いていたのだという。腕力だけではおさえきれないものを原田さんには感じとつていたのであろう。「優作も原田さんには適わないな」といった評価が浸透して、原田さんはまた存在感を増していたのであったのである。

今日はここで原田芳雄さんへの哀悼の意を表するとともに、遺作となった映画「大鹿村騒動記」への興味関心がとても高まっていて是非観に行かねばという気持ちを強くしていることを添えておきます。

♪いつの間にか、なでしこは~

朝方いつもの最寄り駅へ向かっていると、女子サッカーの「なでしこジャパン」がアメリカを破って優勝という、快挙の知らせが「号外新聞」の紙面から飛び込んできた。このところほとんどテレビに遠のいていたおいらにとってそのニュースはとても新鮮であり、日本の底力を感じ取るものでもあった。

「なでしこ」等という名札を付けられてはさぞかし戦い難いだろうとも推察したが、結果オーライであった。優勝の美を飾ったのだからこれ以上の賞賛は必要ないということなのだろう。いつかしら知らないうちに彼女たちはびっくりするほどに強くなっていた。

井上陽水さんの名曲を口ずさんでこの快挙を喜びたい。

♪いつのまにか~

本当は栗田ひろみさんの動画があればよかったんですけど、見つかりませんでしたので、よく知らない人のバージョンをリンクしました。ちなみにおいらのアイドル1号とも云うべきは栗田ひろみさんであり、いつか栗田さんや陽水さんへのオマージュを開陳したいと考えているところです。