今日的「造反無理」政局の行方[1]

菅直人首相が退陣を表明したというニュースが慌ただしく飛び交っている。あわせて昨日提出された「内閣不信任案」はといえば、圧倒的な反対票にて否決された。

国民の誰もが感じるように、こんな政局的茶番の芝居を見てしまったことを情けなく思う。そして、管直人内閣の今後の行く末に思いは移ってしまう。いったいこの現状は、誰により誰が誰のために引き起こした事態なのか? もう少しして厳密な精査が行われることになるのであろうが、本日はこの不条理に対してのささやかなる分析に止めておくことにする。

今日の混乱を招いたきっかけは自民党連合の「不信任決議案」提出ではあるが、こんなものはただ単に否決すれば御仕舞の代物であるはずではあったが、そこに例の「小沢軍団+鳩山ポッポ連合」が、加入して可笑しな成り行きとなった。だがこんなことは政治的事象の一事例でしかないことは分かり切っている。

今日的政局を一言で表すならば「造反無理」的事象だということである。かつて中国では「文化大革命」のスローガンとして「造反有理」という言葉が幅を利かせていた。「造反に理有り」。すなわち造反することには道理が存在するのだという主張であった。この4文字熟語をスローガンとして、多くの若者、若輩者、莫迦者、いんちき詐欺師、その他諸々の人間たちを煽っていた。毛沢東の取り巻きであった江青その他がこのスローガンを主導していた。

そして我が国の今回の政局的成り行きを眺めるならば、まさに「造反無理」と呼ばざるを得ないのである。「造反には理が無い」。すなわち「小沢軍団+鳩山ポッポ連合」が図った造反劇が、ただただナンセンスな結末を示しているにすぎないのだということ。小沢一派の終末はいと哀れに候。それだけは確かなことである。

下手に出ると付け上がるあほ莫迦経営者どもの生態

いつの世の中にも云えることだが、あほ莫迦の類は消えうせることが無い。

殊に昨今の経済不況、大震災不況、等々の状況にあって、中小零細企業経営者達のあほ莫迦さ加減は目を覆いたくなるくらいだ。

こんなあほ莫迦中小零細企業経営者の多くは、自らの経営手腕が間違っていることを棚に上げつつ、その責任の所在を、従業員やスタッフのほうに転嫁しようとする。そしてその手段方法といえば、リストラ、整理解雇、等々の、自らの責任を棚に上げた無責任極まりないものであった。

もはや過去の事例になるが、おいらもこんなあほ莫迦経営者の関係する会社に関わったことがある。

あほ莫迦もいい加減にしろ! と、何度叫びたかったことかは記憶に消えることが無いくらいだ。最小限の法的措置は行なったのだが、一向に反省する気配も無く、自己満足の行動を取り続けている。

しかも、会社だけは存続させようとするのだから救いようが無いのだ。社員、スタッフ、関係者への支払いは後回しどころか、「遅配」という名の「未払い」という不法行為を行なっているのである。

そしておいらの知るところによれば未だに改善の気配も無いという。それでも会社存続が必要なのか? 断じて否である。これぞあほ莫迦人種の極みと云って良い。

人間、こんな類になったら救いようが無い。死後は一体何処に行く積もりなのか? 今日、改めてそう思った次第なり候。

斉藤和義の「ずっとウソだった」に拍手を送りたい

近頃はどのマスコミを開いても「頑張ろう、ニッポン」のオンパレードが続いている。別段そのことに意義を唱えるつもりもないが、これを思考停止と呼ばずして何と呼ぼうか。自粛ムードが高じて社会全体の思考停止状態が続いていくとなれば、由々しき状況であると云わねばならない。

そんな状況の中で、斉藤和義の「ずっとウソだった」ソングの発表はユニークであり、なおかつ極めて創造的な行為であった。ご存知のヒット曲「ずっと好きだった」の替え歌として歌われ、YouTubeにアップロードされた。その直後からネット上ではこの歌の話題が沸騰していたという。斉藤和義を語る偽者ではないか? いや本人だ! 等々の喧しいやり取りが行われてきた。

そんなこんなの末梢的なやり取りに対しては、斉藤和義本人がUSTREAMの生歌披露で吹っ飛ばした。番組で自らが替え歌を披露したのだから天晴の一言である。オリジナル曲を遥かに上回るインパクトとメッセージ性を有した名曲である。

図らずとも騒動となった状況下にて、可笑しなやり取りがまだあった。ビデオ画像が投稿されたYouTube上にて、その投稿を削除しようとして奔走した人間どもがいた。投稿しては消え、また一般投稿者がアップした投稿ビデオを、さらにまた何者かが削除していた。いわばいたちごっこ状態を生じていたのだ。

その投稿ビデオの削除に関与していたのが誰か? という命題に移るのだが、そんなに難しい問題ではない。斉藤和義が所属するレコード会社、ビクター音楽産業の関係者であろうことは、推察容易なのである。これほどまでに堕落したレコード会社とアーティストたちの関係性については、稿を改めて論じていきたいものだ。

東電に踏み絵を踏まされたマスコミ関係者に猛省を求める

週末以外はほとんど毎日のように、多摩地区には「計画停電」が襲っている。今宵もまたそんな停電に遭遇した。

予め判っていた停電だが、関東住民の全てがそのように整然としているわけではない。現在の計画停電情報は、ホームページ上で予告されるものが現実的な唯一の情報でもあり、ネット未使用者にとってはとても不親切なものに感じさせている。現においらの実家などでは、何時来るかわからない「計画停電」に、とても戸惑わされているのが実情なのだ。

テレビでは告知できないということが、東京電力による「計画停電」問題の一つのポイントとなっている。同じ市内でもグループが違うということが、混乱に拍車をかけている。しかも今日の発表によれば、グループをさらに細分化するのだという。まるで東京電力の思うがままの行政政策によって関東市民の生活が牛耳られているといってもよい。

現状が極めて不条理な現実にあるのだということを、関係者の全てが自覚するべきである。これらについての啓蒙が不充分であることは、大手電力会社によるマスコミ操作に要因があることを想像させるのだ。

東京電力をはじめとする大手電力会社はこれまで、数多くのマスコミ関連に対し、「原子力発電は安全である」という誤ったメッセージを発信することを強要してきたといえる。そしてその為に、数多くの傀儡マスコミ業界の運営に力を注いできたという現実がある。

かつての知り合いの出版編集プロダンション社長は、東京電力のパンフレットの編集を手がけていることをおいらにアピールするとともに、「今の時代に“反核”なんて事を云っていては駄目なんだよ。核開発は安全なんだよ…」等々と、呆れた主張を述べていたものだ。いくらかの収入のために、とうのほんにんみずからが踏み絵を踏まされたと云う事も自覚せずにいるとは、まるで馬鹿げた呆れたマスコミ人種であったのである。

このような類のマスコミ操作は東電はじめ電力会社の力をもってすれば、日常的なものであったろう。東電の「踏み絵」を踏んで、良心を捨て去った関係者、当事者たちには猛省を促したいと思うのだ。

「買占めは控えて欲しい」という枝野コメントのピント外れ

枝野官房長官が「買占めは控えて欲しい」云々のコメントを出していたが、とてもピント外れの印象だ。反自民の思いで支持をしてきた民主党の現政権ではあるが、事柄の軽重を量れないかのごとき官房長官の発言は、致命的なものであると云わざるを得ない。

確かにここ数日間のコンビニにおける商品数の低下、就中、おにぎり、カップラーメン、即席麺、等々が姿を消したことが、一部パニックの原因となり得ることは推察できる。だが「買占め」などというような大きな事象ではない。

本日は久しぶりにいつものスーパーを訪れた(というより入ることが出来た)のだが、大勢の利用者が殺到していたことを除けば、商品棚それぞれの光景は、即席麺やおにぎり等の商品が無かったこと以外に、普段とそれ程に異なるものではなかった。野菜類、肉類、魚介類等の陳列棚には一定の商品が並んでいた。

地震の翌日から都内のコンビニからは、おにぎり、カップラーメンの類は消えていた。馴染のコンビニ店長、店員の人たちからは、「被災地への食糧支援にまわされている為におにぎり類は入ってこない」という説明を聞いていた。とても合理的な説明であった。

これに対して官房長官の「買占め」云々発言は、果たして本音よりのものであったのか? もしそうならば現状認識において極めて稚拙である。さらに述べるならば、そこに些かなりとも政治的思惑などが入り込んでいたとするならば、事は重大である。

日本の国民が、おにぎりやカップ麺を買い求めたとして、大した問題ではない。市場では禿鷹ファンドによる「円」の買占め、或いは国内株式市場に対する荒らしの所業がまかり通っている。これらに対する強い警告を何故行なわないのか? こちらの問題を見過ごすならば、現政権の存在理由など無いと云うべきである。

NHK契約カメラマンによる、平成「内灘夫人」殺害の哀れな事件簿

NHKの契約カメラマンによる殺害で、金沢市内灘地区の婦人が哀れな死を遂げてしまったという。内灘河岸に婦人の死体が埋まれていたという、まことにむごい事件である。

そしておいらは、この地区、すなわち内灘地区を舞台とした小説「内灘婦人」のことを思い起こさずにはいなかった。
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「内灘婦人」とは、直木賞受賞者の巨匠五木寛之さんによる小説である。「青春の門」という一般大衆小説以上においらたちの魂を揺さぶった名作なのであった。

五木寛之さんによる名作「内灘婦人」の中で、苦悩する婦人の姿は極めて切実な問題であったと記憶している。かつて理想に燃えて内灘の基地反対運動に挺身していった婦人と、現実社会の中で妥協して生きる夫との葛藤が一つの軸となっていたと記憶している。現実と理想という当時の巨大なテーマが小説の中で蠢いていたことが歴史的な記憶として戦列に浮かび上がってくる。

こと実際に内灘婦人を襲った平成の男と云えば、NHKの契約カメラマンであり、市民の皮を被ったまさに鬼畜であった。狡猾、強欲、等々が悪辣な事件を惹起させたという、極めて重大な問題を孕んでいる。こんなことが蔓延する土壌を早く清浄化していくべきだ。

逮捕された元NHK契約カメラマンの容疑者は、あれこれと周囲に投資話などを振り撒きながら、自分のことは「国営の企業の人間だから安心だ」というような言葉で、投資を募っていたという。

全くもって外道の所業と云うしかない。こんな羊の市民の顔をした鬼畜人種の日本人が増えていることには失望の念を強くする。

この国はアメリカではなく日本だのに、アメリカの悪しき潮流は確実に我が国に流れ込んできている。極めて由々しき事態なり。

終戦内閣総理大臣、鈴木貫太郎翁の記念館を訪問

千葉県野田市の郊外、関宿の「野田市鈴木貫太郎記念館」を訪問した。東武野田線「川間」駅からバスを乗り継いで約1時間ちかく走った、利根川と江戸川に挟まれた、周囲には田畑が広がる長閑な土地にその記念館は建立されている。貫太郎の旧邸が在った隣というのが場所の謂れだという。

記念館の正面玄関前に着くと「為萬世開太平」と記された巨きな石塔が目に飛び込んできた。「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、以って万世のために太平を開かんと欲す」という、昭和天皇による所謂「玉音放送」の原稿からとられた一節である。鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長、迫水久常の手による書とされている。貫太郎自身の思いの強さをいやがうえにも知らされる。

館内には白川一郎、阪倉宜暢らによる多数の戦争画が展示されている。写真ではなくして絵画である。貫太郎が青年将校に襲撃された「二・二六事件」、終戦が決定された最後の「御前会議」等々、歴史的に極めて緊迫した舞台の一瞬一瞬がとてもリアルに描かれており、その描写力よりも戦時下での画家の思いに胸が締め付けられる。また、たか夫人の手による花木の彩色画、さらには愛用していた礼服をはじめとした様々な遺品が、館内狭しと並べられ、訪問者を温かく迎えてくれる。

記念館の隣には「鈴木貫太郎翁邸跡」が併設されている。地元の人たちは親しみを込めて「貫太郎翁」と呼んでいることが鮮やかに示されている。そして「終戦総理大臣」と敢えて大書することで、貫太郎以外は成し得なかったであろう終戦処理の大任を果たしたという貫太郎の大きな功績を称えているのだ。

この場所はかつて、当時民主党の代表だった小沢一郎が選挙運動の第一声を挙げたところでもある。所謂「辻立ち」と称して選挙演説をぶっていたのが、当時の全国ニュースで放映された。総理大臣当時の麻生太郎もまたこの場で選挙演説し「負けっぷりよくしなけばいけない」云々の貫太郎と吉田茂とのエピソードを語っている。

両者共に貫太郎翁の威光にあやかろうという魂胆が見えみえだが、残念ながら貫太郎翁の前では小さなガキ子供のように映ってしまう。政治家が尊敬する先達にあやかりたいのも理解できるが、真に有権者にアピールしようとするのならば、せめて貫太郎翁の懐の巨きさや清濁併せ呑む政治家の資質くらいは学びとってからにして欲しいものである。

■野田市鈴木貫太郎記念館
千葉県野田市関宿町1273番地
TEL 04-7196-0102

日本サッカー、ザッケローニ監督采配の妙について〔2〕

昨日の続きである。

アジアカップ決勝戦でのザッケローニ監督采配で際立ったのが、後半11分、藤本を下げて岩政を起用したことである。それにより守備的な位置にいた長友が左の攻撃的な場面へと転移的に移されてしまった。

こんな芸当を可能にするのがザッケローニ流の配置転換だったのかと思うのだ。これまでの日本の指揮官はもとより世界のほとんどの指揮官が想像していた埒外の戦略だったのではないか? このような芸当を実現化する日本サッカーに、これからもっと過大な期待が集中することであろう。

いつかはザッケローニ氏も日本を去ることになるのだろうが、それまでじっくりと、彼の独特かつ天才的な戦略的指揮について、注目していこうと考えているところである。

日本サッカー、ザッケローニ監督采配の妙についての一考察

祝!日本サッカーがアジアカップ優勝。日本時間で土曜の深夜だというのに、平均視聴率が異例の33パーセント以上(日韓戦よりは劣る)だったという。それだけ注目されていたアジアカップの決勝戦に勝利した日本チームには、天晴れの一言である。

この優勝によりイタリア人監督ザッケローニの采配に評価が高まっている。就任以来8戦戦って無敗だというくらいに勝ち負けに強い。勝利を導く指揮官としての評価だ。客観的に数字を見ても、これまでの日本チーム監督の戦績を凌駕していることは明らかである。何故に彼はこれほどまでに秀でているのか?

様々なマスコミ情報にて周知のように、ザッケローニ氏はプロサッカー選手としての経験が無かったようである。青春期にプロを目指していたものの、重篤な病気に罹患したことからプロへの道を諦めたようだ。それでも諦められないザッケローニ青年が選んだのは、サッカー指揮官の道であったという。

日本の全試合を視聴した訳ではないが、ザッケローニ・ジャパンの試合は、常に戦略が仕組まれているようだ。今回の決勝戦にて、延長戦での選手交代にその一端を垣間見ることが出来る。

(知人の電話により中断したこと等により以後の原稿は後送)

「住みたい街」ナンバー1の吉祥寺、井の頭公園を散策

雑誌「東京ウォーカー」アンケートによれば、今年もまた「住みたい街」の1位に吉祥寺がランキングされたという。
http://www.asahi.com/business/pressrelease/ATP201101240016.html

確かに訪れたくなる街の上位にランクしたくなる。おいらはこれまで吉祥寺に住んだことはないが、友人、知人が何名か此処に賃貸していたことがありよく出かけた街であり、途中下車度が高い街でもある。つまりはおいらにとっても途中下車したくなる街のナンバー1と云ってよい。

手が凍えるくらいに冷え冷えとした黄昏時の井の頭公園の井の頭池周辺は、枯木と共に凍えた都市の風貌を垣間見せていた。春には桜を咲かせ、秋には紅葉で賑わう井の頭周辺ではあるが、冬には見世物がないことを露呈してしまっているかのようだ。それかあらぬか公園の風景は田舎染みていた。それが悪いというのではなく、逆であり、吉祥寺という街の持つ田舎臭さに親近感を抱いたということなのである。

さらに此処にはミュージシャンが集うライブハウス、人気漫画家の仕事場アトリエがあり、おいらも公私において幾度も訪れつつ、そんな彼らとの交流を愉しんだものである。まさに特筆に価する都市であることは間違いがないだろう。

そして忘れてはいけないのが、呑兵衛お気に入りの居酒屋が、まさにごった煮のようにしてひしめき合いない交ぜにされているという独特の街の姿だ。高田渡さんに出会ったのもこの街であった。高田先生との想い出は深くハーモニカ横丁の路地の記憶に刻まれているのだ。

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「ファスト風土化する」と指摘している日本都市の問題を研究している三浦展氏が、渡和由筑波大学教授とまとめた共著のスタイルをとっている。ただただ軽い軽薄な都市論となっている。特に米国で学んだという渡和由氏の論は、横文字が多すぎて辟易した。筆者2名の個人的理想論に基づく軽薄な吉祥寺学的コラムとして読み進めていた1冊なのです。

旧型TV対応の「地デジチューナー」はなかなか使える

先日、アマゾンから「地デジチューナー」を注文した。BUFFALO製の「DTV-S110」。アマゾン通販で最も廉価だった機種だ。これを14インチの小型TVに繋いでみた。リモコンも付属されていて、設定を済ませればTVのオン・オフをはじめチャンネル、音量等の操作を1台で済ますことが出来て便利だ。

さらに上下に黒地が入っていたのが消えたり、「地デジ対応」云々の鬱陶しいメッセージが表示されなくなり、すっきりした印象だ。数年前よりずっと、TV業界の嫌がらせ的でもあるこんな鬱陶しいものに慣らされていたのを思うと複雑であり、もとのすっきりした画面で見られてほっとしている。

これでまだ数年は、ブラウン管の小型テレビを視聴することが出来ることになった。電気店に行けばどこも地デジTVの一大セール中だが、もっと「地デジチューナー」をPRしてもよいはずだ。だがそうならないのは、家電業界の裏談合的な力が働いているのではないかと推測されるのだ。

韓流アイドル「KARA」の解散騒動は日本芸能界の鏡像なり

へそを出して尻を大きく振り回す踊りを「ヒップダンス」と云うのだそうな。それはともかくやっと日本でも知名度の広まった「KARA」メンバーが、専属契約解除を通知したニュースは、相変わらず日韓のマスコミを席巻している。

「奴隷契約」と呼ばれる、韓国特有の契約システムが原因だと云う論調が主流だが、そんな前近代的な土壌は我が国にもあったし、未だ一部には隠れて存在している。対岸の火事を眺める野次馬のごとくああこう喋る知識人の姿は、いと滑稽である。

思い出す事例は我が国にも少なからずある。例えば「ピンクレディー」である。彼女たち二人は働き詰めにされた後に解散したが、結果として二人には、ほとんど資産が残されなかったことを当事者が語っている。70年代当時に数億円もの歌謡ビジネスマネーが飛び交った挙句に二人に残されたのは、芸能ビジネスに根こそぎ毟り取られた喪失感だったであろうことは想像に難くないのである。

韓国の芸能ビジネスは日本のそれを手本としていることは明らかであり、それ故に「KARA」を巡る騒動もまた日本の芸能ビジネスとも無関係では有り得ないのだ。

プリンタの不具合に見る、ソフトウェア至上主義的ものづくりの陥穽

使っていたプリンタがついに云うことを聞かなくなり、新しいものを購入。本日その機械が届いたので、設定やらソフトのインストールの格闘を行なったのです。キヤノンかエプソン製を購入するつもりで量販店へ向かったが、在庫がなかったりという事情から、ヒューレットパッカード社製を購入する羽目になった。店員からいろいろ云い含められたことも選択の一因となっている。まあちゃんと動いてある程度綺麗にトラブルがなければ、メーカーはどこでも良かった。

ところが実際にテスト印刷してみると、墨版しかプリンとされない。グレー画像が印刷されるばかりだ。コピーテストもまたしかりである。何度試みても同様なので、カスタマー・ケア・センターに電話した。土曜日だが担当者は居てそれなりに丁寧に対応してくれた。

マシンの再起動から始まりインクの再チェック、設置方法の確認、機械部分のクリーニング、等々と電話先のケア担当者の云う通りにチェックを続けていったが、結局のところ問題解決には至らず、同梱されたカラーインクに問題がありそうだと云うことになった。「正しいインクを再送するのでそれで試して欲しい…」との説明を聞かされた。つまり今回同梱されていたインクは「誤って」送られてしまったものだと云うらしいのだ。この間50分近い時間を要してしまったのだ。

もう少し解説すると、設置して最初のインクは「Setupインク」という特別な種類であり、そこには特別なソフトがインプットされているらしい。それが誤って「Setupインク」以外の普通のものが紛れてしまったとの説明だ。純正品であれ模造品であれ、そんな特別なインク以外は受け付けないのだと云う。

だがしかし、何故にそんな特別なことをする必要があるのか? あえて質問もしなかったが合点がいかないのだ。全く不可解でならないのだ。一つ考えられるのは同業他社製品に対するガードだろうか? ちょっとした付加価値をソフトウェア上に加えたことで、簡単に他社に盗まれることを防いでいる? あるいは公表はされないがユーザーに対するガードが仕組まれているのかもしれない。

問題なのはそうしたソフトウェア的トリックを施すことにより、実際に使用するユーザーとマシンとの決定的な距離感が生じていることだ。利用者にしてみれば余計な「ブラックボックス」の存在により、マシンに対する愛着を持つことが出来ない。それどころか、どこか割り切れない、そして計り知れない気持ちの悪さに囚われてしまうのである。

ユーザーがうかがい知れないところで実はマシンのソフトウェアに支配されている。そうした現実は我々が知らないところに根を伸ばしつつある。ソフトが人間を支配するという関係性は、このような極めて身近な機器利用の現場で、既に現実となっていることを思い知ったのである。けだし悪しき未来を思わざるを得ない体験なのであった。

春の七草粥を食しつつ、正しい食生活について考える

早く通風を脱したいという思いで菜食を続けている処なのだが、丁度よい頃合に、本日1月7日は人日の節句、別名「七草の節句」なり。即ち七草粥を嗜む日となっている。

という訳で兎にも角にも大急ぎで七草粥を作ったのでした。先日からの通風は、ピークの5~6割程度の猛威を振るっており、街中を歩くにもままならないくらいである。これまでの食生活が祟ったのかと、本日は改めて反省をした次第なり候。そして食生活改善の良き一歩となるのが「七草粥」であろうと踏んだのだ。最近は有難いことに「春の七草」として七草粥の材料パックが売られている。パックの内容は以下の七種である。

せり
なずな
ごぎょう
はこべら
ほとけのざ
すずな
すずしろ

淡白な七草の味を出来るだけ味わおうと、味付けは、一振りの塩のみにて調理した。すずな、すずしろはほのかな甘味があり、せり、なずなは程よい苦味成分がじんわりと傷んだ内臓を癒してくれそうだ。

塩以外に一切の調味料を廃して調理した七草粥は、七草それぞれが個性的な味わいを有していることを示していた。多少大袈裟な表現を用いるならば、甘い、辛いといったそんな言葉に出来ない、食物そのものの味わいを愉しむことが出来たのである。

食物は生命を授かる全てのものにとって大切な代物だが、そもそも人間とくに現代人は食生活を蔑ろにし過ぎるのだ。欲望に任せて好みの食物をあさる姿はまさに、餌をあさる狂犬と大した違いなどなく、いつとち狂って豚や牛を襲うかも知れぬ。そうならないように人間が食べるものは確かなものを吟味する必要がある。

七草のように、大地に静かに根を生やし生きている野草類には、食欲ではなくして心に直に通じて染み入るものがある。栄養素や科学的分析では決して捉えきれない、昔からの人間と食物との関係性が存在している。食欲と食物との関係はいずれ破綻を来たすことになるが、古くからの叡智として受け継げられた食文化は、貪欲な人間たちに正しい道を示してくれるのだろう。

こんな野草粥は、本日に限らずこれからときどき調理して食したいメニューなのだとつくづく思う。七草はなかなか揃わないだろうか、三草、四草ならばいろいろ揃うことだろう。これからもときどきは、野草粥を有り難くいただきたいと考えている今宵なのである。

「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」を読む

取り立てて秀でている訳でもなく、感動的でもない内容の書籍なのだが、ずっと気にかかっていて、先日古書店にて購入し読了した。
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もともとニート(NEET)で新卒の主人公は、他に当てもなく中小のITプログラミング系の企業に就職してしまうのだが、初日からおおわらわの体験を味わって、現代社会における企業の「ブラック」を認識し、そしてそれに耐えられずに悶々とした日々を過ごすことになる。そして、それら悶々とした日々のあれこれを、某大手の掲示板に吐き出して纏められたというのが、同書の基本的な構成となっている。

サービス残業は当り前。這いつくばって仕事をしていても未来は来ないのは当然なのだが、そんな世界でも一生懸命に働いてみようという若者が存在することこそ不可思議でもあり、世の不条理を冗長させている要因でもある。そんな不条理の世界をこれでもかと見せ付けられる読書体験となってもいるのだ。

「マ男」というハンドルネームが付いて、主人公は粉骨砕身し頑張っていくのだが、次第に矢折れ刀つき、予定調和もままならぬ結末に突き進んでいくことになる。それにしても今時の経営者のモラルハザードは酷い。こういう奴らが少し前には大口叩いて、経営がどうの日本がどうの文化がどうのと云っていたのだからあきれ返る。結末はそれぞれに受け止めて感じ止めて頂きたいと思うのだ。

赤城おろしという名のからっ風に吹かれた大晦日

上州赤城山の麓にある峰公園に隣接した墓地に、亡き妻が眠っている。毎年お盆やこの時期などなどに墓参りをしているのだが、今年はいつになく冷たい厳しいからっ風に襲われてしまった。そしてこの冷たい風が、記憶の底に埋もれかかっていた「赤城おろし」という名のからっ風であることを思い出したのだ。

本日のニュースによれば、北から南まで全国中に寒波が襲い、全国的に大雪を降らせているという。だが、こと上州近辺の関東平野一帯だけに晴れ間が訪れているようだ。一見して妙な真空スポットが現出したようだが、そうとは云えないのだ。北国が寒波に襲われた日に赤城山が立ち塞がって関東平野を守りつつも、からっ風という乾いた冷たい風を吹かせることになる。

駐輪場に止めた自転車が倒れたり、乾いた風に喉をやられたりというのは日常茶飯事である。それでも北国の吹雪、寒気を遮って立ち塞がる赤城山に敬意を払いつつ赤城おろしを受け止めている。こんな乾いた風景が、結構好きでもあるのだ。

天気予報によると明日もまた全国的に大雪が降る中で、上州および関東圏は好天気の予報だ。「ニューイヤー駅伝」の舞台がここ上州でもあり、このイベントに対して赤城おろしが大きな影響を与えていることを実感するのである。

山路徹との不倫で女を上げた麻木久仁子さん

戦場ジャーナリストの山路徹という男。当代切ってのモテ男とばかりに、TVニュースを賑わせている。麻木久仁子、大桃美代子といった美女にモテまくり、ある時は不倫関係、ある時は二股ヒモ生活に明け暮れていたそーな。

一方の当事者、大桃美代子からはツイッター上で不倫関係を暴露されてしまった。そのニュースを最初に耳にした時においらは、大桃も洒落たメディアの使い方をするものだなぁと、謂わば感心していたのだが、騒ぎがここまで拡大するとは思わなかった。発信源である大桃自身も同様に感じたに違いない。

それにしても麻木久仁子の女っぷりは凄い。アラファイ(50歳前後の人間)でありながらあれだけの色気、若さを保っている人間など、そうそう見つかるものではないのだ。やはり「恋」という媚薬こそが、彼女の若さ、美貌の維持に大きく寄与していることは明らかである。

しかも麻木の女っぷりは外見だけではない。愛する男(少し前までは夫)の為に、金銭的援助さえ行なっていたというのだから、敬服の至りである。世の男ならばほとんどが、麻木さんみたいな美女に貢がれたいと希っていると思うのだが、どうだろうか? 過去の一時期にせよそのような行幸に浴した山路氏には、嫉妬さえ覚えてしまうほどだ。

そもそも不倫文化の国、フランスには、年齢を感じさせないい女を沢山輩出している。例えばフランス女優のイザベル・アジャーニは、年齢を感じさせない女として長らく世界に君臨していた。アジャーニこそは、恋や不倫に寛大な風土、国民性が生み出した稀有な女優だと云えるだろう。おいらは多少生理的に、アングロ・サクソン人種を嫌悪する傾向があるのだが、フランス人についてはケルト系とその混血が主流であるので別格である。アジャーニはアルジェリア系の混血であることを自ら公言しており、更にあの美貌の由来を感じ取るのである。

そして男優に目を開けば、フランス系男優の雄と云えばアラン・ドロンということになる。山路徹という男にアラン・ドロンの面影を投影させることは不可能ではない。彼の発する声質は、かつてドロンの声優を務めた野沢那智以上に嵌ってしまうだろう。金銭問題等々の渦中に投げ込まれた山路氏が、たとえこの後にジャーナリストを失業しても、声優、男優の道が残されているのであり、まだまだ捨てたものではない。

まぁこれも、所謂ひとつの余計なおせっかいということではあるのだが…。

下町に聳え立つ東京スカイツリー、現在529メートルなり

日本一ののっぽタワービルこと「東京スカイツリー」。先月末には500メートルを突破し、今日現在529メートルとなった。634メートルの完成形には未だ100メートル以上の建築を要するが、第二展望台の形も姿を現し、最終的なタワーのイメージを披露している。先日この周辺を散策したときの印象で云えば、濃紺の青空に向かってすっきりと伸びていく様が見事なりであった。

地元墨田区の押上、業平橋地区では、タワー完成を見越して様々なイベントが企画されているようだ。だがそんなイベント以上に興味を引かれるのが、新旧が交錯する地元の景観の推移である。古きものが取り壊されて新しいものばかりで占拠される街になって欲しくない。

一例で云えば、スカイツリーの公式キャラクターは「ソラカラちゃん」ということになっているが、それ以前にあった「おしなりくん」の方が知名度も人気も高かったのだが、主催者側の思惑などにてある種の横槍的に決定されたと想像される。嫌な噂や予感はまだまだあるのだ。東武鉄道の思惑によって、改造された似非下町が出来上がったりしては良い訳が無いのである。

日本の伝統的ラーメンに於ける「叉焼」「メンマ」「なると」の三味一体的トライアングルについての考察

自家製叉焼をつくったので、折角なのでラーメンを調理してみた。叉焼をもっとも美味しく味わえるのが、醤油ラーメンである。そして、他に合わせるトッピングに、メンマとなると等を用意した。

醤油ラーメンに於ける「叉焼」「メンマ」「なると」の3者はとても絵になる具材である。時代が移り変わろうともその3者のコンビネーションは衰えることが無いようだ。叉焼が醤油スープに浸ってジューシーな肉汁が溶け出したならば、その後ですかさずにメンマを取って頬張る。成程、豚肉の濃厚な味わいの後にはすっきりして繊維質のメンマの味わいが欠かせない。そして繊維質のメンマは更になるとを欲しがるのだ。なるとを頬張った後にまた、ジューシーなる叉焼が欲しくなる。ここに味覚のトライアングルが成立するのだ。この三位一体ならぬ「三味」が一体としたラーメンの具材こそは、伝統的ラーメンの姿かたちを強固にさせているのだろう。特段に理由も考え付かないが、とにかく醤油ラーメンといえば、「叉焼」「メンマ」「なると」の3者が欠かせない。

それ以外にあえて醤油ラーメンに加える具材として挙げるならば、海苔、ほうれん草、葱、煮卵、等々が提示されるだろう。だがしかしながら、「叉焼」「メンマ」「なると」の三位一体的トライアングルに比べれば、その姿かたちは主役の座を明け渡した脇役の様でもあり、とても弱々しく映ってしまう。一体全体どうしてなのか? そんな疑問に対する一番分かりやすい答えとして考えられるのは、それら3種食材が「肉」「野菜」「魚」といった食の3要素を代表しているという考え方である。科学的かつ医学的にも聞こえるので、採用しやすい論理ではある。だがしかし、疑問は解消された訳ではない。殊に注目すべきは「なると」である。これは同様の原材料からなるかまぼこにて代用するラーメンが無きにしも非ずだが、どうにも絵になり難いのである。

かつてはもしおいらの記憶が確かならば、子供の頃に食べていたラーメンには、かまぼこは無くて、なるとがトッピングされていた。では何故に、なるとではなくかまぼこが用いられなかったのか? その答えの一つがなるとの渦巻きであろう。なるとの語源は「鳴門」である。徳島県鳴門市の鳴門海峡には潮の満ち干に応じて、ダイナミックな海流の渦巻きが生じる。この渦巻きをモチーフにして渦巻き模様の練り製品が誕生したのだ。「の」の字を描いていて縁起が良いだとか、右巻き、左巻き、等々の説があるようだが、肝心なのはぐるぐるとした渦巻き模様が発するイメージである。すべてを飲み込んで渦を巻いていくイメージは、日本のラーメンにはとてもマッチングするものであったと思われる。子供の頃にはとてもラーメンが食べたかった。御飯があまり美味しくないと感じるたびに、ラーメンを欲していた。そんな過去の日本の原風景を、なるとが象徴しているとは云えないだろうか?

死者を食って生きる魍魎たちの生態

政界ではまたぞろ魑魅魍魎たちが、怪しい動きをおっ始めたようだ。ところで「魑魅」や「魍魎」と云えば今では絶滅間近ともいわれる妖怪の一種である。妖怪研究の第一人者、水木しげるさんによれば、魍魎とは木石の怪とも云われその特徴として、死者を食べる性癖があると教授している。以下に「妖怪画談」から引用してみよう。

(以下引用)-----------
昔から墓地のあたりに住み、葬式のときには棺桶から死者を引きずり出して食べることもあった。
また、昔は土葬であったから、墓を掘り返して死体をむさぼり食うということは“魍魎”にとっては容易なことであった。
しかし、“魍魎”は虎を恐れるので、墓の上に虎の像と柏の枝を置いておくと、“魍魎”除けになったという。
(引用終了)-----------

特異な性癖ではあるが、成程、その世界に死者が多いというのも納得なり。金庫番や元側近という多くの人間たちが不審の死を遂げている。死者が眠るところにこそ魍魎が群がるということなのだろう。