とてもグロテスクだが味は悪くない「手羽餃子」

鶏の手羽先を用いた餃子、或は餃子に見立てた手羽先料理と云うのが「手羽餃子」と云うメニューである。

もう何年も前だったが最初にこのメニューを視て接した時の驚きは筆舌に尽くせないものがあったことを思い出す。手羽先を餃子にすると云うのは快挙ではあるが途轍もなく無謀な試みと思われ、こんなグロテスクなメニューを開発した人間の気が知れなかったというのが本音であった。

だが、本日食したその「手羽餃子」は、グロテスクさを控えめに見せて出されていたので、箸を付ける前にも「美味そう」という印象を強くしていた。しかも箸を付けて喉にくぐらせれば、逸品料理の味わいにも感じさせるものであった。

この体験はまさに「手羽餃子」を見直すきっかけとなったのである。

日本人に「水餃子」が受けない訳

中国料理系居酒屋で飲んでいた際に「水餃子」を注文していた。何時もだったら「焼餃子」なのだが、今日は気紛れの風が吹いたようにて、普段とは違うメニューを食する羽目になったのだった。

出てきたその「水餃子」は、スープにも入っていないただの茹でた餃子であって、それに葱の切身がぞんざいにかけられていたのであり、おいらは一見して残念な思いにかられてしまったのだった。やはり焼餃子にすべきだったと考えたのも後の祭りであった。

凝視してしまったところ、その「水餃子」とやらは、薄っぺらい皮に包まれたワンタンを大きくしたような代物だったのだった。ワンタンも時々は食するが、取り立てて美味いものではない。ワンタンをわざわざ注文して酒を飲むのも、ある種の不条理と云わねばなるまい。

日本の餃子は焼くのが当たり前であり、こんがりと焼き目を付けて、其れを見た目でも味わいつつ食するのだ。それに引き換え「水餃子」ときたら、薄っぺらな生地から透けて見える肉のあんのみすぼらしき様相である。この違いは決定的であると云うべきと考えていたのであった。

しかるにして全く納得できないままにして、「水餃子」メニューを後にして、中国系居酒屋を立ち去ったのであった。

時々この味が恋しくなる、牛の「ネクタイ(食道)」

地元の焼肉店に立ち寄った。牛のモツが豊富なこの店は、様々な部所を味わえるので、時々訪っているお馴染みの店ではある。

例えば牛の、第1から4までの胃袋、すなわち「ミノ(第1胃)」「ハチノス(第2胃)」「千枚(第3胃)」「ギアラ(第4胃)」という4種類の胃袋などを味わうことが出来るということで、ある日にはまった。

本日食した希少部位とは、牛の食道部位である。「ネクタイ」というメニューで提供されていた。

「塩味がお勧めですよ」という店員の声にしたがって「ネクタイの塩味」を注文。脂の量は少ないと見え、炭火に乗せても炎が着火する兆しも無い。ゆっくりじっくりと焼肉の工程が味わえるのであり、じわじわと点火していく食欲ともあいまって、美味しい時間を過ごすことができたのだった。

塩味は些か強過ぎると感じたのだが、コリコリとして適度な食感が、またまた食欲をそそっていた。

稀にとは云えこんな食欲増強の時間を持つことは決してダイエットに良いわけが無いのであり、またまた反省しきりの今宵なのである。

土鍋で美味しい「鯛めし」を炊いたのだ

行き付けのスーパーで鯛の切身を目にし、早速「鯛めし」にしたのだった。鯛を見ると「鯛めし」がつくりたくなる、食べたくなる。

鯛の味を生かすには、昆布が必要であり、逆に云うならそれ以外は必要が無い。昆布と少量の醤油のみの味付けで充分だ。

研いだお米をいつもの御飯炊き用の土鍋に入れて昆布を敷く。鯛の切身は予め火にあぶっておき、焦げ目を付ける。生とは違い鯛の味を深めるひと手間となるのだから手抜きはできない。

ふっくらとした鯛の香りとともに炊き上がった土鍋から、昆布と骨付きの鯛とを取り出し、鯛の身をほぐしてから土鍋にもどした。鯛の身のみから滲み出た脂の香りが食欲をそそった。

円城塔氏の「道化師の蝶」は果たして、言語を無に帰する試みなのか?

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芥川賞受賞作こと円城塔氏の「道化師の蝶」を「文藝春秋」誌の最新刊にて読了した。だが然しながらであるが、実は今回は、言葉を失っている。感想はおろか、作品分析の取っ掛かりさえ掴めないような、ある種の言葉を失っているような状態なのである。

タイトルとなった「道化師の蝶」には、「道化師」「蝶」といった云わば想像力を存分に刺激するべき語彙的要素を有したタイトルではあるが、然しながらそんな想像力やら期待やらを抱いて書物にのぞむと完全に裏切られてしまうことが請け合いである。

それはまるで、言語を無に帰する壮大な試みなのかとも感じ取らせてしまうくらいである。果たしてそうなのであれば、円城塔氏は途轍もない天才作家と云うことにもなろうが、そんな作家が居るのかどうか、存在可能なのかどうかさえ、覚束ない。

芥川賞の今回の選考委員会は、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」受賞時のそれほどではなかったにしろ、そこそこに紛糾し揉めたかのようである。「選評」を読む限り、積極的に推した選考委員は居なくて、初回投票にては過半数にも達しなかった。通常はこれで選外となる運命なのだろうが、今回は特別に、主宰者である文藝春秋社側の特別な要請で、再度の受賞討議が行なわれて、結局のところはそこそこ揉めた末に受賞作品となったとのこと。

「支持するのは困難だが、全否定するのは更に難しい、といった状況に立たされる。」(黒井千次氏評)

「〈着想を捕える網〉をもっと読者に安売りしてほしい。」(山田詠美氏評)

「この作品だって、コストパフォーマンスの高いエンタメに仕上がっている。二回読んで、二回とも眠くなるなら、睡眠薬の代わりにもなる。」(島田雅彦氏評)

「これは小説になっていないという意見もあれば、読んだ人たちの多くが二度と芥川賞作品を手に取らなくなるだろうと言う委員もいた。賛否がこれほど大きく割れた候補作は珍しい。」(宮本輝氏評)

「『道化師の蝶』なる作品は、最後は半ば強引に当選作とされた観が否めないが、こうした言葉の綾とりみたいなできの悪いゲームに付き合わされる読者は気の毒というよりない。」(石原慎太郎氏評)

「今回の『道化師の蝶』で初めて私は『死んでいてかつ生きている猫』が、閉じられた青酸発生装置入りの箱の中で、なゃあ、と鳴いている、その声を聞いたように思ったのです。」(川上弘美氏評)

川上弘美氏は好感度を込めて選評を記しているが、戸惑いの評をもまた綴っている。川上さんは授賞式にて「二人のカメレオン」と受賞作家を称揚したという。川上さんのそんなコメントを確認してから、もう一度この受賞作品と向き合って行きたいと思うのである。

今時の注目野菜トマトをたっぷり用いた「ロールキャベツのトマト煮」

メタボに効くとして大人気の野菜ことトマトを用いて、「ロールキャベツのトマト煮」をつくった。トマトの脂肪燃焼効果は、京都大などの研究グループが10日付の米オンライン科学誌に掲載されたことから、スーパーの野菜売り場から姿を消したほどの人気だと云う。価格も高騰現象を呈している。

もともとトマト好きのおいらにとっては、トマトにメタボ効果があると云うことなど云わば常識の範疇だったのだが、今時のニュース種はこんなことをトピックスとして報じているのが何とも意外な印象を抱くのだが…。

ともあれ、トマトをたっぷり使った「ロールキャベツのトマト煮」は、弱った胃袋への優しい癒し効果も感じ取られており、リコピン効果充満した夕食に舌鼓だったのではありました。

ダイエットに向くかと「チャプチェ」を注文してみた

韓国料理に「チャプチェ」という料理がある。韓国風の春雨を基本に、玉葱、人参、竹の子、ほうれん草、等々の野菜と炒めて、ゴマを振り掛けるというシンプルな料理だ。味付けの多少の相違はあるが、日本や中国の料理メニューにも、同様のものが無い訳ではないが、やはりこの手のメニューの代表格は「チャプチェ」ということになる。

巷間流布され聞くところによれば、お隣の韓国という国においては、美容整形及びそれに付随するダイエットの風潮が満開の様子ではある。おいらがチャプチェを注文した某店にても「野菜たっぷり」などと、美容に良いという点が強調されていたのであり、おいらもそんな文言に惹かれてしまったことは否定できない。

今回食したチャプチェは、辛味もほどほどに抑制されていて、味付けは程よい韓国風といった塩梅だった。日本風、或いは中国風の春雨炒めとの、云わば決定的な違いというものを捉えることは、残念ながらできなかったと告白しておかねばならない。

春雨炒めというメニューであれば、或いは日本風か中国風のものの方が優れているのかもしれない。ということを本日のクエスチョンとして指摘しつつ、キーボードを置くことにする。

TANITAの体脂肪計で体重管理(2)夜太りをなんとかしたい

先日購入したTANITAの体脂肪計で、体重管理を行なっているおいらである。初期設定も無事に終了することができ、今では体重計(体脂肪計)に乗るだけでスイッチが入って、体重はおろか、BMI、体脂肪率、筋肉量、内臓脂肪レベル、基礎代謝量、そして体内年齢が、自動的に測定されるようになっている。流石は体脂肪計で鳴らすTANITA製だけのことはある。

おいらに健康指導をして下さっている指導医の女医さんの指導に従って、出来る範囲での朝と夜(寝起きと就寝前)の体重を量るようにしているのだ。この値を見ると、就寝前には体重はピークを迎えているようであり、逆に寝起きの間際の体重の値は極めて低くなっている。その差は最大にして1.5kg、平均的に0.5kg程度の差異が見て取れるのだ。

何しろ夜の就寝間際には、1日の中での最大の体重が計測されているのであるから、この値を如何にして下げるかと云うことが、ダイエットの成功のつぼであると考えられる。夜の食事を控える、飲酒量を控える、特に就寝前の食事はしない、等々の基本を踏襲するならばおいらの基本的体重は下がって行くことが見込まれるのだが、こと深夜の飲酒量を下げることだけは極めて至難の業ではある。これがおいらの前に立ち塞がっている巨大なる壁ではある。

脂が乗った冬の「〆鯖(しめさば)」も悪くない

冬のこの頃は鯖も脂が乗って美味い季節だ。然しながらなかなか鯖の刺身にありつくことは滅多に無く、鯖の旬のメニューは「〆鯖(しめさば)」と凡その相場が決まっているのだ。スーパーやコンビニの生ものコーナー等にはこの〆鯖にもお目にかかるがなかなか食べたいと思うことが無い。工場で大量生産された〆鯖の残念な味わいがずっと尾を引いているからに他ならないのである。

ところがどっこい、居酒屋のこの時期のメニューとして提供される〆鯖には、ひと手間、一仕事を通ってこそ出来た、味わいぶかきものが屡見受けられており、「〆鯖」のメニューに接するたびに注文したくなる。

このたび上野アメ横界隈で食した〆鯖もまた、〆鯖の醍醐味を味わうに足る逸品であったのだった。先ずは大切なことだが、決して塩辛くは無いということ。大量の塩で〆た〆鯖は日持ちはするだろうが決して本来の〆鯖の美味さを有してはいないのだ。コンビニ、スーパー等で販売されているものは往々にしてこのような代物が多い。

決して塩辛くは無く、酢の酸味が喉を潤してくれる。青魚でありながら鯖の紅い身の色合いがまた食欲を誘っている。この時期にこそ食べたいメニューであることは間違いない。

若布のしゃぶしゃぶ鍋が美味い

茹でる前の生若布を使って、若芽のしゃぶしゃぶ鍋をつくった。

艶やかな茶褐色の色合いをした生若布は、鍋の熱湯にくぐらせてしゃぶしゃぶとすることにより、鮮やかな緑色に変色、変身させていく。その様はまるでカメレオンが身体中の色素を取り替えるかのごとくにドラマ仕立ての装いであり、何度接しても気持ちを揺さぶられること必至也。

新鮮な若布であるので、さっと火を通して、刺身風に味わうこともできるし、野菜をたっぷり入れた鍋のスープに、しゃぶしゃぶとして味わうのは稀に見る食体験となること請け合いだ。若布等の海藻類に豊富に含まれる「クロム」という成分が、糖や脂質の代謝を活発にされることから、ダイエット効果をもたらしてくれる効能が期待できる。

そしてもう一つの特筆される要素であるが、若布には極めて強力な整腸作用がある。食べて30分と経たないうちに、お腹がごろごろ云って来るのを感じる。腸が蠕動作用を活発にしていることを実感するのである。

味付けは和風のカツオ出汁に生姜のすりおろしをたっぷり加えた。冬にさっぱりと味わえる鍋としては、この「若芽のしゃぶしゃぶ鍋」こそ特筆するに価するのだ。

みどり企画ギャラリーを新規オープンしました

みどり企画が企画、公開するギャラリーをお楽しみください。

みどり企画の主宰者こと小林活夫の作品の他、主宰者がお奨めする作品なども、これからどんどん紹介していきたいと考えています。

第1弾として、先月に旅した「奥飛騨」「新穂高温泉」界隈で撮影した写真群をアップしました。

これからしばしばに公開作品内容を入れ替えていきますので、時々は当ページにも見に来てください。

http://midori-kikaku.com/gallery/

「アメ横焼」は果たしてアメ横の新名物となるか?

上野アメヤ横丁(通称アメ横)を散策していたら、「アメ横焼」なるメニューの屋台に遭遇した。1個200円也。さっそく一つ頬張ってみたのだった。

大判焼き用に似た鉄板に、お好み焼きにそっくりの粉モノ系素材が乗って焼かれていく。生地の間に卵が1個分挿入され、たっぷりのソースとお好みでマヨネーズがかけられて提供される。ソースやマヨネーズはとても甘ったるく、これ無しで食べたかったと、後になって思った。

関西大阪のお好み焼きに対抗しての新メニューと思われるが、果たして当メニューがこれからアメ横の新名物になっていくのかどうか? けだし興味深いところではある。

TANITAの体脂肪計で体重管理

TANITAの体脂肪計を購入した。先日の健康相談にて「あと3kg体重を落としましょう」とアドバイスを受けてのことだ。「出来れば毎日、体重を量る癖をつけてください」と、健康相談を行なってくれた妙齢の女医さんが熱心に指導をしてくれ、「針で見るのではなく、デジタル式の数字でチェックできるのが良いですね」と、まあTANITAのまわしものではありませまいが、まるでTANITAの体重計を買いなさいと、薦めているに等しく受け止められたのであった。

地元の「ヨドバシカメラ」店の売場へ赴くと、TANITAの製品と並んでオムロン製のも同数くらいに並んでおる。オムロンと云えば、浅田真央ちゃんこんなが登場する「無論オムロン」のCMで名高い。どちらも体重計の主力企業であり、しばし悩んだが、結局はTANITA製のものを購入することに決めた。TANITA製の製品というのは、体脂肪等の付加価値的測定でのトップランナーという企業イメージに、結局ははまってしまったかのようである。

単なる体重計とは異なり、最初に器械の設定を行なうのだが、今日の日付から、利用者の登録、身長、生年月日、性別、等々の登録を行なう必要があり、これが存外面倒だった。体脂肪を測定するには靴下を脱いで裸足になって測定器に乗る必要があり、またそれ以前に体重を測定するには、身体に身に付けた洋服、ズボン等の衣類を脱ぐ必要が生じる。こんな極寒の夜に行なうには至難の業と云うべきであり、おいらも多少ならずに躊躇し、結局は登録や細かな測定を明日以降に持ち越してしまっている。明日からはしっかりと自らの体重、体脂肪、その他諸々の管理に励むつもりのおいらなのである。

婚活毒女こと木嶋佳苗被告裁判(2)男の落ち度とは?

昨日は木嶋佳苗被告裁判の一つの視点として、エッセイストの北原みのりさんが指摘した「男の落ち度」について触れた。男女間のトラブル、事件を惹起させる要素として「女の落ち度」と同様に「男の落ち度」が追及されてしかるべきであるという客観的視点とともに、やはり常識的には考え難い「男の落ち度」が蔓延しつつあることを感じ取るからであった。

一時代前までは、悪女、毒女と云った類いの女性は人並み優れた美貌がなくてはならなかった。男は女の美貌に目がくらみ、危険な罠へと囚われていくというのが、小説、映画、その他諸々のストーリーの常道であり、だからこそ男の「純情」が価値ある代物としてテーマと成り得たのである。

然しながら木嶋佳苗被告ときたら、人並みはおろかほとんどの男性陣にとっての興味関心の埒外であり、通常ではこんな女に引っ掛かるはずがないと云えるくらいのタイプなのだから、或いは逆転の興味津々状態であったといえるのかもしれないし、そう考えるしか納得がいかない。ともあれ、「何故にこんな女に引っ掛かるのか?」という男の関心と、「どうしてこんな女が男を蹂躙できるのか?」といった女の興味とが、綯い交ぜに交錯した故の、今日的に腐乱した興味関心のターゲットとなっているということが云えるのである。

「女ならば誰でも良い」「結婚できるなら騙されたとて構わない」「ロマンチックな恋愛がしてみたい」…等々の、当世男性陣に蔓延る情けなくもある願望が、木嶋佳苗被告を産み出す肥やしになったということは確かなことなのであろう。

婚活毒女こと木嶋佳苗被告裁判に関する一考察(1)

婚活詐欺師であり、3人の男の殺人罪で起訴されている木嶋佳苗の裁判が、稀に見る百日裁判となって、マスコミ媒体を賑わせていたが、興味関心の焦点はすでにそこにはなく、木嶋被告と殺害された男性達との関係に移っていると云えよう。

3名もの男性が毒女の歯牙にかかったのは、警察の初動捜査の見込み違い、怠慢だ、と云った見解が一般的である。男性達を殺害する以前に、睡眠薬で数度と眠らされて身の危険を感じ、警察に出頭した人物が少なからず居たにもかかわらず、警察が「事件性無し」として黙殺していたと云う事実、或は殺害されたことが明白である被害者の司法解剖を行なわなかったことなどが、警察への信頼喪失に拍車を掛けている。

だが最も注目すべきポイントはと云えば、毒牙にかけられた男性達が、何故ゆえに被害を防げなかったのか? 決して美人でも魅力的でもない、いわば整形不細工女に対して、あれほどに無防備になっていたのか? 毒牙を仕掛けた女が悪いのか、或はみすみすとしてそんな毒牙に掛かった男が悪いのか――と云うポイントにこそ、興味関心のスポットは集中的に当てられているのであろう。

「週刊朝日」誌上で「北原みのりの100日裁判傍聴記」を公開している北原氏によれば、殺害された男達は「馬車に乗った姫」を夢見たのではないか? という一面があり、しかも男達の「落ち度」に言及してこう書いている。

(引用開始)―――――
まるで何も感じないかのように、次々に男たちから金を引き出す佳苗。頭がフラフラになりながら、田舎に帰ろうと首都高を歩いてしまったM氏や、1泊10万円のリッツ・カールトンをプレゼンするK氏ら、騙された男性たちはピュアだ、気の毒だ、という声もある。確かに気の毒ではあるが、私には公判が始まって以来、頭のどこかで考えてしまうことがある。
もしこれが男女逆だったら? 考えても仕方ない前提が、何度も頭に浮かぶ。初対面の男とホテルに行く女性や、男の家にすぐあがる女性や、婚活サイトで男を探す女に、世間は“ピュア”と言うだろうか。ラブホテルで睡眠薬を飲まされた女を“純情”と言うだろうか。「被害者にも落ち度があった」という聞き慣れた声がもっと飛び交うんじゃないか。女と男の非対称性に改めて気づかされる。私は佳苗に、いつも何か、気づかされる。
(引用終了)―――――

けだし当然の指摘である。男性の「落ち度」は滑稽なくらいに馬鹿馬鹿しさを増している。毒女の蔓延する土壌が開墾されつつあるのである。(この稿は続く)

下仁田産葱の旨みが引き立つ「下仁田葱の天ぷら」

上州の下仁田町で生育されることから名つげられた「下仁田葱」は、別名「殿様葱」とも呼ばれ、そのでんぐりと太って丈の短な外見が特徴的だが、その個性的な外見もさることながら、独特のワイルドな旨みの味わいにおいて、多くのファンを獲得している。近頃では東京都内の料理店やスーパー、八百屋の店頭等でもよく見かける品種となっている。通常の葱に比べて食べ応えがあり、辛味も強く、鍋料理の具材には適しているので、おいらも家の鍋料理には下仁田葱を用いることが増えているところだ。熱を加えることにより、少々きつい辛味風味も一転してマイルドな甘さに変身していくさまが、これまたファンにとってはたまらないところだ。

そんなところで遭遇したメニューが「下仁田葱の天ぷら」だ。そもそも葱は天ぷらの具材としては少々役不足であり、玉葱や他の野菜に比較して、どうにも主役にはなり得なかったものだが、下仁田葱ならば堂々と主役がはれることを見せてくれていた。大きくカットされて揚げられた天ぷらをかじると、葱の繊細な香りが口に拡がっていた。滑らかな葱の触感も美味く生かされており、天つゆも要らないくらいに奥深い味わいに満足したのだった。

身体の芯から温まった「粕汁鍋」

そもそも「粕汁」というものは、甘酒として甘受してきた、云わばスイーツの一つであった。それが「粕汁る鍋」というメニューとして提供されていたのであり、しかもこの鍋がホッコリと心身を温めてくれたものであったのだから、興味は尽きないのである。

今回食したその「粕汁鍋」は、玉葱、大根、人参、キャベツ等の冬野菜に豚肉をあしらって提供されていたものだった。粕の風味の奥には味噌の香りが漂っていて、やはりこれこそが日本の鍋なのだと云うことを実感していた。

花屋で見つけた「四季なり いちご ファーストラブ」は、果たして実をつけるのか?

いつもは自転車で通り過ぎる花屋の前でふと目を止めて立ち寄った店頭にあったのが、この「四季なり いちご ファーストラブ」だった。

些か大袈裟に長く受け狙いの商品名であることは明らかである。小振りな鉢の中を眺めれば、イチゴの花とも思える赤き花弁(なのだろうな?)が、喩えてみれば、奈良美智の目線でおいらなどの消費者にコンタクトを取っているらしく思えた。コンタクトと云うのは表現の綾でもあり、実は挑戦的に喧嘩を売られていたのかもしれないくらいの状況であった。本当にいちごの実はなるのか? といった疑問を、徹底して撥ねつけるかのごとくに、その視線は尖っておいらに突き刺さってきていたのだった。

遅ればせながら、田中慎弥氏の「共喰い」を読んだ

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昨日、田中慎弥氏による芥川賞受賞作品の「共喰い」を書店で入手し、早速読み進めていた。集英社刊、定価1000円+税、p144、上製本なり。

先日には田中慎弥氏の既刊本「切れた鎖」を読んだ時とは裏腹に、遅滞なく、ほとんど何もの違和感などなく読み進めることができた。云わば小説の体を成していて極めてオーソドックスなつくり、構成がそうさせていたのであろう。翻ってみれば、「切れた鎖」を読んでいて感じた、実験的要素はほとんど影を無くしていた。ちょっとした期待外れの印象を禁じ得なかった。

様々なサイトやブログ上で、本作品のプロットについては述べられているので、ここでは最小限度のそれに留めておきたいと思うが、それにしてもこのプロットは、極めてオーソドックス過ぎるくらいに意外性を持つことがなかったのである。

おそらくは作家の故郷である下関市内であろう、糞の臭いのする海沿いの町を舞台に物語りは進んで行く。主な登場人物は高校生の遠馬と、彼の父、別れて暮らす彼の母、ガールフレレンドの千種、そして父と暮らす今の愛人たちだ。限定された人間関係の中から、とても濃密でおぞましい物語が紡ぎ出されていく。

遠馬の父は相手の女性を殴ることによってしか満足を得ることができないという、云わば性行為における変態性欲の持ち主として描かれる。父の血を継いでガールフレンドと向かい合う遠馬にもまた同様の嗜好性があり、高校生は其れ故の葛藤におののくのだ。父と対峙しつつ、父と子供という対決へとは向かわずに、物語は横道に逸れたように、主役以外の人間へとバトンタッチさせられてしまうというのも、的外れ、期待外れの念を禁じ得ない。

今回の選考を最後に芥川賞選考委員を辞退した石原慎太郎氏は「馬鹿みたいな作品だらけだ」と感想を述べていたが、「共喰い」に関しては頷けるものがある。つまりはこの作品のプロットが作り込まれた極めて「人工的」なものであるという所以から、発せられる感想でもあるからだ。変態性欲やそれが元になる事件を純文学で扱うことへの抵抗感がおいらの中に芽生えていた。特殊な性欲をあたかも当たり前に扱うことへの抵抗感とでも云おうか。

作家の身体性に基づくものではなく、小説のプロット構築の為に作り話を組み上げていく作業というものは、果たして純文学に必要なる仕業だろうかという疑問に、ひどく蔓延とさせられているおいらなのであった。

大衆寿司店にて久々の熱燗を一献

日本酒を飲むのは月に1度程度と決めている。生活習慣病対策においては残念ながらではあるが欠かせないこととなってしまった。

おいらはそもそも、日本酒、ことに熱燗を口にしたときの、先ずは湯気と日本酒特有のあまさが相俟って鼻からそそって入り来る得も云えぬ香りに感激する。ことに今日この頃のような寒気に被われている日々においては尚更である。

月に一度の掟破りの贅沢だから、つまみは何にしようかと思案したのだったが、結局は大衆寿司店の寿司と決めた。懐も寒いこの節には大衆寿司店も通い慣れた店となっている。