中野剛志の「TPP亡国論」は上滑りだが結論は正しい

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中野剛志氏については昨年からよくTV番組にも出演していることなどから、顔と名前は知っていた。反TPPの論陣を張る若手論客という扱いで、その他のメディア、マスコミにもちょくちょく顔を見せている。

今回その中野剛志氏による「TPP亡国論」を読んだのだった。多少の期待感を抱きつつ読み進めたのでが、読後の心象は決して満足できるものではなかった。何やら上滑りした筆致がいたるところで散見され、それが妙に気になってしかたがなかったのだが、最後までそれを払拭することはできなかった。恐らくは彼の議論の相手は、狭小な経営学村の住民か、或いはスポットをやたら当て続けるマスゴミなどがターゲットなのだろう。だから狭小な村の住民やマスゴミの舞台に関心がないおいらには、ぴんと来るものが極めて少ないのだ。

TPP参加という選択が誤りであることを、括弧つきの「学問的」見地から様々に述べているのだが、何かそこには肝心のものが欠けている。例えば生きた人間の「血液」を想起させる記述が極めて少ない。学者、研究者に対する攻撃的、皮肉的な、孤児を演じる様的言動は、却って彼の人間的浅ましさを浮かび上がらせてしまっている。こういう人間が書くもの、発言するものに対しては、一定の距離を置くしかない。過大な期待などせずに、その言動の部分を利用すれば良いのである。げんに今のところ彼の論理は、正しいことを示しているのだから。

中野氏の論理は「あとがき」に集約されているので、その一部を引用してみたいのだが、本日はここまでにし、別稿にて記すことにする。

凍える某日の、西新宿の夜景

上に掲載したのは、某日、新宿西口ニコンサロンの「第59回ニッコールフォトコンテスト入賞作品展」を鑑賞した帰りに撮影したスナップである。

父親がまた入賞したので作品を見に来たのがきっかけであったが、西新宿の夜景が見たくなったと云う気持ちもこの場所へと足を運ばせていた。

大都会新宿の、俯瞰した光景を眺めつつ、おいらは都会の喧騒と(矛盾するようだがそうではない)静寂とを、久しぶりにこの目に捉えてみたくなっていたのだった。

雪も嵐もない喧騒と静寂とがない交ぜにされている、おいらが大好きな風景である。

今と昔ではまるで隔世の感がある「ハムカツ」に関する一考察


居酒屋にて「ハムカツ」のメニューを食した。大衆居酒屋における定番的メニュー、すなわち「おすすめ」のボードに日々書かれて提供されるものではなく毎日日常的に看板に乗っている代物だったが、ついぞ注文することにためらいがあった。だがここは社会体験、後学のためと割り切って、注文することにしたのだった。

提供されてテーブルに乗ったのは、厚さ1cmもあろうかという分厚い代物だった。そもそもおいらが少年期に食していたハムカツとは、だいぶ風体が異なっている。こんな分厚いハムカツは、大衆料理メニューとは云い難いという印象を持ったのだった。

世に云う鍵っ子としての思春期を送ったおいらは、夕方近くになって帰って来た母親からはよく、このハムカツのおやつをもらって食べていたものであった。そのときのハムの厚さはと云えば、2〜3mm程度のものだったことを明瞭に記憶している。トンカツやメンチカツとは一ランク下の食べ物という印象だったが、間食としてのおやつには最適だったのであろう。だからハムカツはあくまで薄いハムを挙げたものでしかあり得なかったのである。

ところが昨今のハムカツと来たら、とんでもない、まるでトンカツにも匹敵するくらいの厚さである。トンカツと競ってどうするんじゃ! という突っ込みをしたくなるくらいの異様な風体。こんなハムカツは本来の正当的ハムカツじゃあないぞ! ということを主張しておきたいのである。

いつの間にやら時代の空気は「ハムカツ」に好意的てはある。トンカツにも増してカロリー高そう。しかもハムカツに特化したブログがブログ界をも席巻しつつあるという。嗚呼何たるおそれいりやの鬼子母神か。

「亜美ちゃんは美人」作家の綿矢りささんの美人度を考察

昨日の綿矢りささん作品「亜美ちゃんは美人」の話題の続きである。果たして作家本人のりささんは、「美人」と「もっと美人」の間のどの位なのかと云うことが気になってしょうがないのである。紛れもない美人作家のりささんであるが、彼女は自分を果たしてどの程度の「美人」と捉えているのか? と云うことが今回のテーマである。

「亜美ちゃんは美人」の亜美ちゃんのイメージは、芸能人で云えば例えば戸田恵梨香であり、その注目度は群を抜いている。誰もが認めるであろう美人中の美人だ。そしてもう一人の美人の「さかきちゃん」はと云えば、たとえば、井上真央のようであり、AKB48の前田敦子か大島優子のようでもある。綿矢りささんがどちらに近いイメージかと問われれば、やはり井上真央であろうか…。

普段はNHK番組を滅多に視聴しないおいらであるが、年末年始を実家で過ごしたことから、NHKの「紅白歌合戦」を視聴しながらの年末を過ごしたのであった。そのときに視ていた井上真央さんの司会者ぶりは、その初々しさがハラハラどきどきの、あたかも保護者的気分を醸し出していたのである。そして最終のシーンにて流した涙はまるで、女優が流した涙の中では特別な位に異質な尊いものだと感じ入っていた。そんな姿と綿矢さんとが何故だか被ってしまったと云う訳なのだ。即ち「亜美ちゃんは美人」の作家の綿矢りささんは、例えば井上真央のイメージなのだ

ハードボイルドはあり得ない綿矢りささんの「亜美ちゃんは美人」

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綿矢りささんの新作小説集「かわいそうだね?」には、もう一つ「亜美ちゃんは美人」という作品が収録されている。作品の完成度やストーリーの勢いやらりささんらしさやらでは表題作品に一歩を譲るが、このサブ作品も中々の力作であり、りささんの作家活動の今後に期待を抱かせる出来栄えであるので、ここに紹介しておきたい。

美人のさかきちゃんと、さかきちゃんよりもっと美人の亜美ちゃんの二人の主人公の物語。さかきちゃんは亜美ちゃんの友達だが、実は亜美ちゃんのことが嫌いだという、云わば女の「悪意」にも近い心情が展開されていく。

そしてもう一人の重要登場人物が、亜美ちゃんの彼氏の問題児こと崇志君だ。いかがわしい職業人であり、態度も常識はずれてでかくあり、とても美人の亜美ちゃんには似つかわしくないのだが、男性経験豊富な当の亜美ちゃんが、初めて好きになったというくらいに惚れてしまったという、云わば悪男の典型。元の級友やら家族やらがこぞって二人の「

結婚」に反対している中で、さかきちゃんがとった行動がまた出色なのだった。女同士の「好き」と「嫌い」の狭間に揺れ動いたそのときのさかきちゃんの心情に思いを仮託しつつ、おいらはまた別の思索にふけっていたのだった。

すなわち当小説のプロットにおける「美人の中の美人」こと亜美ちゃんは、りささんの化身ではなく別の女性だったのか? と…。とすれば、「美人の中の美人」こと亜美ちゃんよりは劣る美人のさかきちゃんの視点から、この小説のプロットが出来上がっているのだろうと…。

とても可愛く美人小説作家、綿矢りささんの立ち位置について、あれこれと詮索することにも事欠かないのであり、綿矢マニアにとっては必読の作品なのである。

浅草の名門居酒屋「ニュー浅草」本店は何だか酷く寂れていたのだ

浅草の浅草寺にお参りした後で、何処かで一杯やる店を探していた。有名な「神谷バー」は行列が出来るくらいの混雑であり、並ぶことが大嫌いな(殊にグルメ雑誌やらで取り上げられている店舗における行列の一員になることなどまっぴら御免なる)おいらは、さっさとその場所を離れて、名店街を散策していたのだ。

そんなときに偶然、「ニュー浅草」本店に出喰わすことになったおいらは、その看板に吸い寄せられるようにして入口の門を潜っていた。

店内に入ると、巨大な提灯に迎えられたのだった。ちょうど、浅草雷門の提灯にも似ていて、浅草らしさをアピールしていたと云えるだろう。

個人的に「ニュー浅草」で思い出すのは、神田神保町界隈の「ニュー浅草」支店における、様々な光景である。出版関係者の集いの二次会でその場所を利用することが多かった。神田に存在する「浅草」が本場の居酒屋と云う、憧れる条件を有していて、個人的にも何度か利用したことがあった。同様に中野にも同支店が存在し、近辺の取材やらではが終了した暁には、よくその場で癒しの時を過ごしていたものだった。

そうして今回の、いわば偶然的な本店来訪である。簡単に説明すれば、「ニュー浅草」は「神谷バー」と「ホッピー通り」の間に位置している。其処はまさしく浅草商店街の真ん中に近い。だが、店内に足を踏み入れたおいらがまず感じたことは「寂れているな」の一言であった。支店の活気がここでは感じられないのだ。しかも、つまみとして注文した「肉じゃが」やらその他諸々も、ありきたりであり、隣の客の焼き鳥もパッとしなかった様也。あまりに常識的過ぎて興味を半減させていたのだった。

もしかすると本店よりも支店の方が活気があって、本店は単なる飾りなのではないかと感じていた次第なのであった。

春の七草を鍋仕立てで食してみた

本日1月7日は七草の日。「七草かゆ」をつくって食するのか日本全国一般のならわしである。ここ数年はならわしに則り「七草かゆ」をつくっていたが、本年はちょいと志向を変えて、鍋仕立てによる七草を食することにしたのだった。

基本的に七草と云えば、スズナ、ハコベラ、ナズナ、スズシロ、ホトケノザ、ゴキョウ、セリの七種の薬草を指している。薬草とは云いつつも、スズナはカブ、スズシロは大根のことを指しており、セリは定常的にスーパーに並んでいる食材だ。これらの七種をまとめて調理することに特別な意味か存することは明白であろう。即ち、日常的素材に少しばかりの祭りの要素を取り込んだという、伝統的なイベントなのである。

ヴィム・ヴェンダースによる「もし建築が話せたら…」

先日当ブログにて紹介した東京都現代美術館での企画展「建築、アートがつくりだす新しい環境」展では、とても興味深いブースがあった。

ヴィム・ヴェンダース「もし建築が話せたら…」という、3Dインスタレーションのブースである。

イメージとしての例えばアップル社の社屋が連想される建築物が、声を放って語りかけている。

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ある場所が気に入って
そこで長い時間を過ごしていると
声が聞こえてくることがあります。
場所には声があって
建築は話をするのです。
そう、あなたに話しかけています。
聞こえますか?
話し方は本で勉強しました。
私は勉強することが得意なのです。
勉強のための建物だから、何の不思議もないけれど。
私は本が好きです。
本を読む人たちが好きです。
さあ来て、読んで、学んで。
中に入って、そして歩き回ってほしい。
行ったり来たりしてほしい。
私はいつでもここにいます。
動くことができないから。
みなさんのように旅ができたらどんなに良いでしょう。
もちろん私も、他の場所のことは知っています。
でも、本を通じた知識しかないのです。
(以下略)
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ちょうど我が「みどり企画出版」では、建築写真集「瞬間の連続性」を刊行したところであり、建築が語りかけるかのごとくのシーンも、ページのかしこに見て取ることができるのである。

同写真集のお求めは、下記アドレスからどうぞ。

http://midorishop.cart.fc2.com/ca0/2/p-r-s/

■瞬間の連続性 the continuum of moments
ISBN978-4-905387-01-5
定価:本体1000円(+税)
発行:みどり企画出版
企画・編集:川澄・小林研二写真事務所
判径:250×250mm
頁数:60ページ
体裁:並製本

おやじ評論家風情を頷かせるであろう綿谷りささんの最新作品「かわいそうだね?」

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20歳のときに「蹴りたい背中」で由緒ある日本の芥川賞を受賞して以来、何かと気になる作家の綿谷りささんが手がけた最新作品の「かわいそうだね?」を読了した。

先輩αブロガーのイカちゃんもかつて絶賛していたように、綿谷りかさんの賢こ可愛らしさは特別なものであり、芥川賞を受賞しようがしまいが、綿谷ワールドはおやじのハートを引きつけて止まない。

云わばストーカー的色彩を放っては、日本全国のおやじ評論家風情があれやこれやと評するものだから、りささんも何かとやり難いのではないのかと推察しているのだが、当「かわいそうだね?」においてはとてもりささんらしい、期待を裏切ることの無い作品として出世の道を得たとも云えるだろう。

主人公の女性は百貨店でブランドものの販売を担いつつ、彼とその彼の元カノとの板挟みになって悩みもがいていく。本人にとっては切実であろうがあまり社会一般の行く末に影響を与えることの無いという、ノンポリ的物語が展開していくのだ。

いまを時めく20代後半の女性の感性を満開に匂わせながら、りさワールドに導いてくれるのだから、おやじ評論家風情も願ったり叶ったりであろう。

結末に近づくと勃発するドタバタ的悲喜劇の顛末は、ドラマのプロから見たらば突っ込みどころ満載の出来栄えかと、即ち未熟なストーリーテラーによる展開かと感じる向きもあろうが、おいらは却ってその未熟さが、清々しさにも通じるものとして受け取っていたのである。

20代の後半にこのような作品を世に問うて、この後のりささんは30代の熟女のときを迎えていく訳なのだが、若きときへのレクイエムとしてこの本を読んでいくのも、あながち間違った志向ではないのである。

東京都現代美術館にて「建築、アートがつくりだす新しい環境」展が開催

建築写真集「瞬間の連続性」に関わったこともあり、このところ、建築物等の物理的社会環境と人間生活との関係に深く関心を抱くようになった。ちょうど今現在、東京都現代美術館にて「建築、アートがつくりだす新しい環境」展が開催されていることもあり、鑑賞に訪れていた。

■「建築、アートがつくりだす新しい環境」展
2011年10月29日(土) ー 2012年1月15日(日)
東京都現代美術館 企画展示室3F・1F
〒135-0022 東京都江東区三好4-1-1
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/129/

否が応でも現代社会に向かい合うとき、いかなる人間も現代建築が与える影響を受け取らざるを得ない。個人的にはマンション等の「集合住宅」に嫌悪の念を抱いているおいらだが、個人的感情にて現代生活の全てを選び取ることは不可能である。避けてする暮らし方などしたいとも思わないのだ。

建築家をはじめ建築に関与する写真家、デザイナー、映像作家、等の職業人の多くは、無機物としての建築に生命を宿すことを夢見つつ、極めて些細なことから天才的なアイデア迄をも駆使して、日々の営みを行なっているように思える。そんなこんなを体現できる展示会となっている。

“魂の陰影を剥ぎ取る”建築写真集「瞬間の連続性」を刊行しました

みどり企画の出版事業部であるみどり企画出版では、このほど7人の写真家集団による建築写真集「瞬間の連続性」を刊行しました。「建築」という身近な素材をモチーフにしながら、日常的には余り接することのできない、特別な一瞬間の表情等が巧みに捉えられた作品集です。

現代美術作家の上野憲男さんが、巻末に同写真集への手書きのコメントを寄せてくれているのでここにご紹介しておきます。(誌面では手書きのそのままで掲載していますがここでは活字に置き換えてご紹介します)

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魂の陰影を剥ぎ取る

日本初の高層ビルディング「霞ヶ関ビル」の写真をシャッター音も心優しく包むようにして撮影した川澄明男の作品はその設計者の名と共に今にして輝きを放ち続けている。

その川澄明男を師と仰ぐ小林研二をリーダーとする建築写真家集団。無機的な建造物に“やるせない”位の生命を映し出すPhotographer達。

硬い石の中にも鋭い鉄鋼、硝子の中にも、そして木や紙、植物にも、あらゆる材質の骨格の中に、風のようなしなやかさで吹き抜け、魂の陰影を剥ぎ取り、現代美術作品と見まごうような見事な映像を造形化した。

本写真集がスタートと言うこの「瞬間の連続性」は今後、益々鋭敏に豊かに展開してゆくことは間違いないだろう。

上野憲男
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■瞬間の連続性 the continuum of moments
ISBN978-4-905387-01-5
定価:本体1000円(+税)
発行:みどり企画出版
企画・編集:川澄・小林研二写真事務所
判径:250×250mm
頁数:60ページ
体裁:並製本

http://midorishop.cart.fc2.com/ca0/2/p-r-s/

新春2日の心情等、ネットブック、ネットショップへの未練や期待も少々

新年2日ともあれば、街中何処も寂れているというのが戦後十数年間の習いとなっていたのだった。だが昨今の正月事情はそんなこんなの習わしをものともせずにぶち壊しており、新時代の習わしを仕組みつつある。これはいたって世の中の健全なる斯業にありて今後の健全たる習わしに悪影響が及ぼされること無きように希うばかりである。それにしてもネットブック環境はとても酷いものであり、日本語の変換さえままならずにあれやこれやの失敗事ばかりなり。いずれはこんな酷い状況は解決していかねばなるまいという志は強く持っているものなり。

謹賀新年 2012

謹賀新年 2012 本年も宜しくお願いいたします。とはいえ年末からの「2012年は元気な年に」「明るい年に」の合唱コールには流石に辟易しつつ、今年は先ず古きを温めて、発酵させることから始めてみたいと思い立った。その具体的狙いや成果については今後またの機会に…。

新春恒例の上州駅伝のルートでもある街道を自転車で走って、昨日もふれた「KEYAKI WALK」の中を歩いた。旧市街地の機能がごっそりとこのモールに移ったように、元旦早々賑わっている。建物の入り口を潜り抜ければまるで青山や原宿の町並みの様な錯覚を与えてしまうくらいである。

時間潰しにシネマの「源氏物語 千年の謎」を観てすごす。光源氏役の生田斗真は様になっていたが、ストーリーのほうはまるで史実の登場人物をつぎはぎしただけの代物でがっかり。まるで色物映画と見紛うばかりだ。角川書店刊行の原作本によるものだとされるが、こういうのが現代風のメディアミックス作品の代表的作品と云うのかな。

老舗書店「煥乎堂」も時代の波に取り残されていた

上州前橋に本店を構える老舗書店「煥乎堂」を訪れた。明治初年創業という伝統を持つ県内随一の総合書店として、地元の人々から親しまれてきた。おいらも物心ついた少年期から愛着を持ってこの書店を通ってきていた。川端康成さんがノーベル賞受賞した直後の小学生の頃には同店2階の文学コーナーを訪れ、女性店員のお姉さんに川端文学の美しさやお勧め作品のレクチャーを受けていたのであり、その講義内容はぼんくらな国語教師らを超えていた。いわばその場所は特別なスポットなのである。
http://www.kankodo-web.co.jp/

ところがそんな由緒ある老舗書店に異変が生じている。年々、訪れる度に客が減っているのだ。もっとも端緒なきっかけが「KEYAKI WALK」という一大ショッピングモールが駅南口の郊外にオープンしたことによる。ショッピングモール内には「紀伊国屋」書店が出店し、スペースや扱い書籍の数、等々で県内他店を圧倒している。

かつては「書物の宝庫」と自他共に認めた煥乎堂書店だが、現在は残念ながらその面影はない。陳列されている書籍群のほとんどは都内の有名書店ならばどこでも入手できるものばかりであり、「地元コーナー」扱いものの充実度も、過去の数十分の一という印象だ。げんに地元出身「司修」本の過去出版本はほとんどなく、近作数冊が並べてあるのみ。紀伊国屋KEYAKI店に後塵を拝していることは客観的に認めなければならないだろう。

実家の暮れの定番は「カニスキ鍋」

上野のアメ横に立ち寄り上州の実家に帰省した。アメ横の目当ては蟹であるる。いつも買い求める大降りの冷凍タラバ蟹と、今年は毛蟹を併せて購入して帰省電車に乗り込んだのだった。

この数年間、我が実家の暮れの定番は「カニスキ鍋」となっているので、今日もまたそんな鍋料理に精を出したのだった。

鱈よりもワイルドな味わいがナイスな「ドンコ鍋」

これから冬も真っ盛りの季節には、美味い鍋料理を発見することも所謂一つのテーマとなっていく。その第一弾として記念しておきたいのが、「ドンコ鍋」だ。実にラッキーな偶然から地元の居酒屋にて食することとなった。

湯豆腐鍋には欠かせない「鱈(タラ)」の様な白身の淡白な味わいである。然しながら鱈の身と比較すると、ワイルドな味諏に満ちており、身はざっくりと筒切りにされており、いささか小振りだがワイルドな白身のエキスを味わいたいときには取って置きのメニューとも云うべきなる、おすすめ食材てあり、鍋料理なのである。

ドンコとはハゼの一種とされており、姿形もハゼを一回り大きくした様な格好である。だが鱈よりはかなり小振りである。何とも特徴を示し難いが、ドンコの身はとても美味だったことは間違いないのだ。

断捨離をしたくはあれども知恵も技もなし

昨今の日本社会は「断捨離」がブームであるようだ。ヨガの「断行(だんぎょう)」、「捨行(しゃぎょう)」、「離行(りぎょう)」という考え方が基本にあるとされていて、老若男女が思い思いの断捨離を行なっている光景に出会すのだ。

朝方の通勤電車の中で見かけた初老の女性が、何やら大きめの、A4版程度かそれ以上はあろうかという大判のMOOKを開いていたので、ついつい覗き込んで見たりしていたら、所謂「断捨離本」なのである。熱心にそのMOOKに見入る姿には、それこそ断捨離への厚い思いを感じ取ってもいたのだった。

こういうおいらも「断捨離」には思いを強くしており、この年末こそは断捨離を断行したいという密やかなる計画を抱いているのだ。引っ越しの度に数を減らしていた書物は最近になってまたぞろ数をとかすをを増やしており、我が家における余計な収容スペースを要している。一度読了した書物を手元に置いておく意味などはほとんど無いことを、「断捨離」以前の考察から感じ取っていたのであり、何とか早く処分したいと思っているところなのだ。

だがいかんせん、生来のものぐさ的性格が災いして、未だに成し届けないままのおいらなのである。

ところで「断捨離」関連のベストセラー本は、やましたひでこ、近藤麻理恵の両氏によるものである。ともに「ときめくもの」か否かを捨てるか捨てないかの基準に置いているようであり、ときめきの無いものなどはどんどん捨て去ってしまいなさい! というメッセージを発信している。このメッセージが新鮮に映るのは、今日的な社会状況が背後に控えているからに他ならない。

誤解を恐れずに書くならば、やましたひでこ、近藤麻理恵の両氏による書物などはまやかしであり、本来のヨガの精神とはほど遠いものであると云ってよい。まやかしが跋扈するという現代日本社会を象徴しているかのごとくの「断捨離本」に関しては、疑ってかからなければならない。ヨガや或は禅宗の教えとも連なる本物の断捨離を行なうには、おいらもこから勉強しながら技を磨かねばならないということを痛感しているのである。

寒い特別な日の「ブリカマ焼き」

本日もまた寒い日であった。熱燗、お湯割りと云った酒類が居酒屋で飛び交っている中、おいらは相も変わらずに定番のホッピーをすすっていたのだった。ところで今日の日はある種の特別な日であり、亡き妻へのささやかなプレゼントなどを用意して時を過ごしていた。

地元で立ち寄った居酒屋で、「ブリカマ」ことブリのカマ焼きを食した。遠火でじっくりと時間をかけて焼き上げて出されたそのカマ焼きは、想像した以上にさっぱりと、塩味も控えめに味付けされて、とても美味であった。鯛の身よりもコクがあり、味わいも深いものであった。ブリと云う魚もまた調理の仕方次第で、特別な料理になり得るのだった。

師走の上野「アメ横」界隈を散策

師走のこの時期になると、買い物客でごった返すのが上野のアメ横。ほぼ毎年のように暮れ正月の帰省前にはここアメ横に立ち寄って買い物をしていくおいらである。今日はその下見も兼ねての散策である。「庶民のアメ横 楽しい買物」という巨きな横断幕が入り口で迎えていた。

マグロ、カニ、ホタテ、等々、鮮度良好の魚介類売場に混じって、伊達巻、カマボコ、等おせち食材の売場も賑わっていた。おせち食材は多少ものもちが良いことから、今ごろが購入のピークだと見られる。そしてここアメ横だからこそなのだろう、クリスマス関連ものがほぼ見られなかったことがとても新鮮に感じ取られた。

上野から御徒町にかけてのガード下界隈には、古くからの居酒屋が林立している。やはりここはいつもの「佐原屋」にて一杯引っ掛けることになる。身体が温まるおでんとともに、これまたいつもの「納豆とんぶり」を肴にしてホッピーで喉を潤す。

もう一週間もしないうちにお正月を迎えるが、「佐原屋」はといえば、チェーン店ではなく自営店であることを良いことに、9日までの長期休養が予定され、母さん、娘さんはじめとして店員嬢たちは、今から浮き浮き気分の様なり。

新しく発見したメニュー「ハスキン」を注文。出てきたのは蓮のきんぴらであった。どおってことは無い、が、好きなメニューであることには違いなく、蓮根のシャリシャリした触感をかみ締めつつ、師走のときを過ごしたのでありました。

宮城みゆきさんの「名もなき毒」は、これからの人間社会の「毒」を象徴しているのかもしれない

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クリスマスの今日の話題には些か相応しくない書名かもしれないが、本日、宮城みゆきさんの「名もなき毒」を読了したので記しておきます。

地元の某書店のランキングに依れば、文庫本の売行きNo.1なのだそうである。決して売れていると云う理由だけではなかったが、数年ぶりに宮城みゆきさんの作品に接していたのだった。時代の空気というものを小説と云うメディアに描くのが得意なこの作家には、かねてから注目していたのだが、作品に接するのは数年のブランクが存在していた。

物語はまず、青酸カリという「毒」による無差別殺人的事件を描きつつ展開していく。被害にあったのは5名、彼らのほとんどの間に特別な関係性は見当たらない。このうちの幾つかが便乗犯によるものだと云うことで、幾重にもの重層的な物語が展開されていくのである。

そしてもう一つの「毒」が描かれていくのだが、そのテーマ的主人公が、原田いずみというトラブルメーカーの困った女性なのだった。某大手企業の広報室のアルバイトとして雇われた原田いずみは、数々のトラブルを起こした後に解雇され、広報室に関係者に対して毒殺ならぬ「睡眠薬殺」を企てる。そして全国的な指名手配犯としての後半の犯行が待っていた。彼女の姿に描かれた生態こそがもう一つの「毒」となっていた。

世の中の数々の「毒」をテーマにして、所謂「市民」の関わりが物語の中心的なテーマとなっていくのだ。

そもそも人間存在の「毒」というのは、今始まったことではなく、昔からの人間存在の中で在ったものではある。だがしかしながらそういう言葉では示せないくらいの「毒」は、改めて現代人にとっての脅威の的となっているのだ。

簡単で即効性のある解決策などは存在しない。