下町居酒屋で「鯛のカブト焼き」を味わう

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東京下町の某居酒屋に入って目に付いたメニューが「鯛のカブト焼き」であったのであり、おいらは思わず知らずに(すなわちオートマティック的に)注文していたのである。

注文して出てきたその期待のメニューは予想に反して小振りであった。20㎝未満、15cm程度であったと記憶している。

時間をかけてじっくりと焼き上げたそのカブト焼きは、鱗が光る鯛カブトの表面をまるで芸術作品のような手が加えられて出てきたもののようではあった。

先ずは鯛の身の表面に慎重に箸をつける。するとこんがりと塩焼きにされた鯛の皮の先には、生身感漂うジューシーな鯛の身が姿を見せて、おいらはそんな愛すべき鯛の身にむしゃぶりついていた。塩味がきいていて、いつもより塩辛い味の鯛かま焼きであったが、ほっとする味わいに満足至極なり候。

鯛カブトの目の裏の部分には、ご存知健康成分の筆頭とも云えるDHA(ドコサペンタエン酸)の宝庫である。頭がよくなり血液さらさらにさせるというのだから、有難くいただいていたのである。

八王子南口の「小太郎」本店の「小太郎焼き」

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八王子南口の焼き鳥、焼きトンの名店「小太郎」本店に足をんだ。綺麗な二号店ではなくて煤が覆い茂っている本店に足を運んでいた。

ここの「ホッピー」はといえば、大きなジョッキにて提供されるもので、馴染み親しんでいるタイプのものとはことなるので、おいらはそんなホッピー注文をためらうことしきりなりであり、代わりに注文するのはチュウハイ、瓶ビールだったりする。やはり今晩もそのとおりの注文なり。

最初に注文したのは同店自慢のヤキトンであり、生豚つくねの「生小太郎焼き」を含む数点を注文。豚のモツは折り紙つきである。おいらが注文した串焼きの皿には、カルビや軟骨など、此処でしか口にできない絶品メニューが並んでいる。「生小太郎焼き」は中でも異彩をはなっていたのであり、口腔の中でひろがっていた味わいは美味のひとことなのでありました。

http://www.yakitori-kotaro.com/

「湯豆腐」の欠かせない大切な脇役が「タラ」なのだ

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寒い冬のさむい夜には鍋を注文することしばしばなれども、湯豆腐を食するにはいささか特別なる拘りが存在する。つまり湯豆腐の大切な脇役であるタラが在ることである。タラは銀ダラだったり真ダラだったりするが、豆腐のみの湯豆腐は味気ないのであり、重要脇役的存在である「タラ」が居てこそ、美味しい「湯豆腐」が成り立つのだから、この拘りは決して引けないのである。

ところによってはタラの入った湯豆腐のことを「タラチリ鍋」などと呼んでいる。タラがどっさりと大量に用いられているのが「湯豆腐」との差異であるとも云えるが、それでも湯豆腐鍋にタラが必須であるというかっこたる基本は動じることがない。

関西に居住する友人がかつて主張していたのだが、「湯豆腐は豆腐が主役であり、豆腐だけの鍋で何が悪い…」と。だが然し、こうした理屈は、あえて書けばこうした屁理屈こそは、関西人の固陋な習慣を増長させるしろものである。関西人のみかくや関西的料理が日本料理の基本ではない。このことは関東人としてはっきりと主張しておきたいことなのである。

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国産「あか海老」の刺身に舌鼓

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「あか海老」の刺身を食した。体長10センチ以上もある大降りの、名前のとおり赤い色をした海老であり、一見して甘海老を大きくしたようだが、その身のコクや頭部の味噌(海老味噌)のガツンと濃厚な味わいは、甘海老の比ではないのだ。ボイルすることなく生で味わえる海老の中では、味わいや食べ応えともに抜きん出ている逸品食材である。

ところで一口に「あか海老」と呼ばれる海老の種類にも多々あり、「 アルゼンチン赤海老」「北国赤海老」等々、国際色もゆたかてある。食したものは水上げの産地は判らなかったが国産ものであることが見て取れた。頭部は大きく殻が隆起している様が見た目の好奇心をいたく刺激する。指で頭部を持ち上げると殻は簡単に身からぶんりされていた。身のぷりぷりした甘さは先述したとおりに甘海老以上なのであり、味噌をふくんだ頭部に噛り付けば、鮮度抜群の海老味噌にありつくことができたのであった。

身体にしみる「春の七草粥」はこの時季に欠かせない

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正月気分が一段落つく今日1月7日は七草の日。「七草粥」をつくって食するのか日本全国一般のならわしである。おいらもこの日の「七草」を用いた料理の習慣はここ数年欠かすことなく続けている。正月になまった身体のメンテナンスに、「七草粥」ほど適切なメニューはないということを体験的に知悉しており、毎年かかすことができない。最近は有難いことに「春の七草」として七草粥の材料パックが売られている。パックの内容は以下の七種である。

せり
なずな
ごぎょう
はこべら
ほとけのざ
すずな
すずしろ

以上の七種の野草の中で「すずしろ」とは大根、「すずな」はかぶのことをさしている。お粥の具として用いるにはポピュラーであり、これならば胃腸や身体のメンテナンスのための材料として利用しない手は無いということを思い知っていたのである。

濃厚な果肉が刺激的な「アボカドとマグロのサラダ」

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寿司ネタもそのバリエーションを増しており、むかしは手をつける気も起らなかったものが、今では何の違和感も感じずに口にしている。その最たるものが「アボカド」だろう。何しろ魚介類でもない寿司ネタなど、かつてはあってはならぬものではあった。それが何時の間にか寿司ネタのショーケース中に、ちゃっかり居場所を確保している。日本の寿司文化もしなやかに変異しつつあるということか。

さてそんなアボカドが食べたくなり、近くの大衆寿司店で「アボカドとマグロのサラダ」を注文してみたのだ。大皿に食べきれないくらいのアボカドとマグロのぶつ切りが乗って、マヨネーズ仕立ての辛味ドレッシングで味付けされている。口をつけると、アボカドのまったりと濃厚な味わいに辛味のアクセントが効いて、食欲をそそる刺激的メニューとなっている。ドレッシングをもう少し控え目にしたら、アボカド本来の味を堪能できるが、ドレッシング入りも悪くない。もう一つの主役であるマグロは、アボカドの前では味覚に乏しいくらいだが、却ってアボカドの強烈な個性を緩和させ、彩りを与えるような効果をもたらしている。

果実なのに脂肪分が多く、別名「森のバター」と呼ばれることも納得。脂肪成分のほとんどがDHAなどと同種の不飽和脂肪酸であり、普通に食するにはあまり気にする必要はないだろう。

沢尻エリカ主演の「へルタースケルター」はやっぱり駄作だな

年末年始の読書週間を経て本にも些か飽きたのであり、新作DVDとしてPRされている、沢尻エリカ主演の「へルタースケルター」をレンタルして鑑賞していたのだった。そもそも我が国のマスコミにて、沢尻のヌードシーンが撮られたとかトピックスとして取り上げられていたのだが、それ以上に私的な関心でレンタルしてみたのだ。

この作品(元は映画であることは云うまでもない)で、お騒がせタレントの沢尻エリカ嬢が、岡崎京子による日本の漫画の原作に忠実に演じることなど無いと決め付けてDVDをレンタルしたという訳ではある。原作漫画は所々をはしょり読みしていた。凄く好感を感じさせる世界観に魅了されていたと云ってもいい。それが映画になってこの有様なのだから、残念至極なのであり、監督や主演の沢尻エリカ嬢の軽率な世界観について、少々書いてみたくなったのではあった。

沢尻エリカ嬢のヌードはヌードと云うほどのものでもなくあっさりとしていて、とてもエロスの対象として捉えることなどできなかった。エロスやロマンや希望や理想、等々のプラス的評価を与えることなど全く出来ない作品である。今現在においてTV局にて放映されている和久井映見さんが出演しているドラマのほうがよっぽど高級的ではある。低級映画の典型を見せ付けられた思いではある。

沢尻エリカ主演の「へルタースケルター」はやっぱり駄作だな、というのが最初の当作品についての評価である。

村上龍氏を「社会派」と呼ぶには虚しさがつきまとう

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村上龍氏の「55歳からのハローライフ」は、社会派小説と呼ぶべきスタイルの作品である。昨日は同書の読後感について、「その昔の村上龍さんの熱い作品のあれこれに接していたおいらには、ある意味とても残念でもある。」と書いた。もはや前衛作家としての村上龍氏はこの世には居なく、端正な社会派ノベルをつむぐ老成した村上龍が居るのだ。何故に村上龍がこの作品を書いたのか? 社会派スタイルの作品をつむぐ必然性があるのか? といった疑問を払拭することができないのである。

登場人物は50代以降の中年たちだが、会社をリストラされてホームレスになることに怯えていたり、定年退職した後の夫の奇矯な言動に嫌気が指して熟年離婚した元妻が婚活したりするのだが、それらの姿は寂しさを通り越して虚しさに満ちている。中高年の希望などというものを感じ取ることは、最後まで無かったのだ。

「55歳からのハローライフ(村上龍著)」の書評(序編の1)

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自宅と実家との行き帰りを経ていたおいらの年末から新年にかけては、さながら「読書週間」となってしまったようではあった。

大晦日の日に読了した「絶望のにおいらよりは国の幸福な若者たち」に続き、古事記関連の文庫本、温泉関連のMOOKに加えて、本日は村上龍さんの「5歳からのハローライフ」という新著を読了していた。

いつもいつもこのブログでは、無謀にもよみ終わってすぐに関連のあれこれをアップしているので、全然煮詰まっていない生煮えの不味いことこのうえない評価、評論を記述してしまうのであり、今年こそはそんな悪癖を改めようとは考えているところである。だからこれからは、熟する時間を一定時間込めてからの、読書日記、読書コメントにしていきたいところなのである。読書関連のエントリーが、数回にわたって記述されていくだろうことを赦していただきたい。今回のエントリーもその一般的なものではある。

「55歳からのハローライフ(村上龍著)」に関しての基本的要素を記するならば、人生のの折り返し地点を越えた、50代後半からの登場人物の、第何回かは知れぬが再チャレンジをテーマにして描かれている、とても社会性溢れる「連作中篇」の物語である。ちなみにおいらよりは年上だが、所謂「団塊の世代」よりも遅れて生を受け取った世代が主人公となっている。

5つの中篇の物語である。特に云えば、定年退職における社会システムから外れた中高年の疎外感や孤独感がテーマとして設定されている。その昔の村上龍さんの熱い作品のあれこれに接していたおいらには、ある意味とても残念でもある。

伝統的なものより一回り小さくなった上州の「コロ焼きまんじゅう」

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上州前橋に帰省し「KEYAKI WALK」というショッピングモールを訪ねていたところ、ふと芳ばしい焼きまんじゅうの香りにうっとりと鼻腔をつかまれていた。香りの方角に目をやったところ、オレンジ色に塗装された焼きまんじゅうの露天移動販売車を見つけたのであり、近づいてみると、移動販売車両の中ではスタッフが焼きまんじゅうを焼いていて、芳ばしい香りの元であることがわかったのだった。この焼きまんじゅうとは上州特産の地元グルメのひとつである。

http://aentryfoods.wakatono.jp/index.html

 

幼少のころから高校を卒業して地元を離れるまで、焼きまんじゅうを焼く芳ばしい香りは、それだけで食欲を刺激する甘味なるおやつの香りそのものではあり、もちもちしたまんじゅうの生地と甘辛い素朴な味噌味のハーモニーに加えて、じっくり火を通して焦げ目をつけて焼かれるこうばしさが、上州の風土には当たり前のようにしっくりと溶け込んでいたのである。望郷の念を累乗させるにもってこいの要素であると云っても良い。

オレンジ色の移動販売車周辺を観察すると「コロ焼きまんじゅう」というのぼり旗が目に付いていた。「コロ」というのは小さいという意味のようで、一口大の大きさである。伝統的焼きまんじゅうの大きさは、その倍くらいあるのだが、全国的な嗜好の平均値をとって小ぶりにしたものと思われた。味付けはこれまた伝統的な「味噌」味に加えて「ごまだれ」味、「ネギマヨ」味等が用意されている。全国展開を図るためには郷土人の味覚よりも全国一般的嗜好性に合わせたアプローチが必要ということなのかも知れない。

「味噌」味、「ごまだれ」味をそれぞれ1本ずつ食べてみたところ、やはりゴマダレよりも味噌味のほうが食べ慣れているぶん、納得できる味付けであり、やや焦げ目のついたもちもちしたまんじゅうの素朴な食感とともに満足した。昔は飽きるくらいに大きかったが、この「コロ焼きまんじゅう」は食べた後の物足りなさが生じるのであり、これが全国一般的日本人の嗜好性にマッチしているのかも知れないと考えていたのである。

莫迦げたお笑いTVより吉永小百合の「伊豆の踊り子」

午前中は東京の自宅で年賀状を書いて過ごしていた。年末は入院中の母の見舞いなどで帰省し、昨晩戻って、年末の公私にわたる片付けなどに精を出していた。いつもは年末に書いて出していた年賀状の投函も遅れてしまった。友人、知人の人たちには失礼を詫びたいしだいである。

毎年のことだが年末年始のTV番組はろくなものが無く、ちょうど先日購入していた、吉永小百合さんのDVDブックの「伊豆の踊り子」を観て過ごしていた。川端康成原作の名作が吉永小百合さん主演で映画化された、これまで部分的にしか鑑賞できなかった歴史的名作のひとつである。古典的清純派の面目躍如な映画には、映画本来のエンターティメントの神髄がそんざいする。解説には同作品が4度目の映画化とあったが、吉永さんと山口百恵主演の以外に知らないおいらには細かな検証出来かねるが、吉永さんの主演映画以上の「伊豆の踊り子」は存在し得ないことを思い知ったと云うべきだ。正月の過ごし方としては悪くは無かっただろう。