都会生活の不思議な断片を描いた大竹昭子さんの短編集「図鑑少年」

大竹昭子さんの「図鑑少年」を読んだ。

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書店でふとして手にした文庫本を開くと、見覚えのあるモノクロの写真ページが目に飛び込んできた。かつて90年代にて栄華を誇った「SWITCH」というグラビア系雑誌に連載されていた写真であることが、解説文を読みつつ、次第に記憶の上に詳らかになっていった。1999年には小学館から単行本が出版されたとあるが、これには見覚えがなかった。おいらの記憶的ビジョンに鮮明に染み付いていたこの本の光景は、90年代のものとして焼き付いてしまっていたのである。10数年を経ての再会とでも云おうか、あるいは10数年間のワープを経てのドラマティックな再邂逅とでも呼ぼうか…。

各章を隔てる栞のように挿入されたモノクロ写真ページは、作家の大竹昭子さんが自ら撮影したものである。都会を散歩すればすぐにでも遭遇するような光景ばかりでありながら、けれども不思議な光景として目に焼きついてくる。都会風景の上面をじっと眺めてみたりすればするほど、裏面から湧き上がって我々の視線を釘つげにしてしまう不可思議な風景が染み付いて放さないのだ。

24編からなる掌編的物語のほとんどは、日常的な都会生活上にふと生じた違和感が語られていく。短い物語と物語とを繋ぐのはまた、時を隔てた時間であったりする。あるいは時と場所とをワープされた空間であったりするのだが、そのギャップに驚かされるとともに、不思議な物語的世界にはとても時めかされてしまったのでありました。

Wさん邸で、一人ホッピーの新年会を愉しむ

少し遅い新年会があった。毎年この時期になると、場所を替えつつホームパーティー式に行なっているのだが、今年は渡辺さん宅へお邪魔したのでした。

TANUさん、アキンさんとの4人で待ち合わせした後に地元スーパーで鍋の材料、酒類等を買い込んで、駅から徒歩1~2分の邸宅へと案内された。初めて訪れる瀟洒なマンションの高階のベランダから眺めた風景は格別であり、都心のビル街や多摩丘陵、湘南方面までを眺め渡せており、しばしその景観に見惚れていたものであった。鍋料理の他に奥さん手作り料理を沢山ご馳走になった。鶏と大根の煮物はとても照りがよく、甘くしっかりと煮込まれており、ホクホクの味わいであった。まさしく家庭料理の代表格であろう。まだまだおいらの手作り料理も年季が足りないことを思い知らされたのでありました。

ご馳走を目の前にして食欲ばかりが増進した為か、写真に撮ることを忘れてしまった。この味は舌と胃袋にしっかりと記憶させておこう。

通風が収まったばかりのおいらは、他のメンバーと違えてビールを控え、一人だけホッピーをちびちびとやっていた。すっきりと美味なホッピーで旧友との会話もいつになく盛り上がっていた。余ったホッピーは土産として頂き持ち帰ってきてまたちびちびやったのでありました。

某企業のパソコンがウイルス感染でてんやわんや

おいらが仕事を請けている会社の某氏使用のパソコンが、コンピュータ・ウイルスに侵されててんやわんやであった。

話を聞くところによれば、某氏が某アダルトサイトにアクセスしていたところ、入金を促す画像がモニターに現れたきり消えないのだとか…。いっぱしの企業の管理職でもある某氏ではあるが、業務上のこととはいえ自らアダルトサイトにアクセスしていた事が明らかになるのが忍ばれずに、こっそりおいらのところに相談しに来たと云う事らしいのだ。

話を聞いて当初予想したのは、ブラウザの「ホームページ」の設定、あるいはデスクトップの背景画像が書き換えられているのではないか? ということであった。実際にそうした事例はよく見かけるのだ。だがそんな簡単なものではなかったことが判明したのだ。某氏のパソコンをチェックしたところ、想像した以上の被害が及んでいたことを目の当たりにしたのでした。

まず驚いたのが、そのウイルスの一種であろうそのファイルが、「ウイルスバスター」にて検出も駆除も出来なかったと云うこと。それだけ最近のアダルトサイトの仕掛けは巧妙化しているということになる。様々なネット情報等を総合すると、極めてトリッキーな「スパイウエア」と呼ばれるアプリケーションが、アダルトサイトから侵入されてしまったようなのである。

色々な手を尽くして、ウイルス感染が疑われるファイルを削除してみた。すると一時的に、5分程度は画像が消え去っていた。仕事を終えたつもりで某氏にその件を伝えた。そしてまた、消えたはずの画像がゾンビのように、またもやモニター上に立ち現れてしまったのであった。

こうなったらいらもお手上げである。ネット情報をまた検索してみると、昨年辺りからこのような被害が続出していると云うことのようなのだ。今度その職場に行ったときには、残念ながらウィンドウズの再インストールをするしか方法はないのだと告げて実行しようと考えているところなのでありました。

本来は「生揚げ」と呼びたい、某店自家製の「厚揚げ」なのだ

多摩地区にある某居酒屋では、「自家製厚揚げ」というメニューが人気だ。外はカリカリでいて中身はジューシーな絹漉し豆腐の温かく旨い食感が舌を刺激する。

厚揚げとはどこのスーパーにも置いてある日常的大衆メニューであり、取り立てて騒ぐこともないのは重々承知なのではある。だがしかし、この自家製厚揚げは特別なものなのだ。

おいらの出身地、群馬の田舎では、厚揚げのことを「生揚げ」と呼んでいる。生のままの絹漉し豆腐をそのまま油に潜らせる。10数分を経て揚がり上がったほくほくのものを、葱、生姜、鰹節をのせ醤油を掛けていただく。まさしくほっかほっかの豆腐の旨みに加えてカリカリとした殻の食感がたまらない旨さのハーモニーを醸し出すのである。

いつかおいらの家でもこのメニューを調理したいと願っているが、今の処はこれに敵うメニューを作り上げる自信などなくて、勉強学習に励んでいるところなのでありました。

プリンタの不具合に見る、ソフトウェア至上主義的ものづくりの陥穽

使っていたプリンタがついに云うことを聞かなくなり、新しいものを購入。本日その機械が届いたので、設定やらソフトのインストールの格闘を行なったのです。キヤノンかエプソン製を購入するつもりで量販店へ向かったが、在庫がなかったりという事情から、ヒューレットパッカード社製を購入する羽目になった。店員からいろいろ云い含められたことも選択の一因となっている。まあちゃんと動いてある程度綺麗にトラブルがなければ、メーカーはどこでも良かった。

ところが実際にテスト印刷してみると、墨版しかプリンとされない。グレー画像が印刷されるばかりだ。コピーテストもまたしかりである。何度試みても同様なので、カスタマー・ケア・センターに電話した。土曜日だが担当者は居てそれなりに丁寧に対応してくれた。

マシンの再起動から始まりインクの再チェック、設置方法の確認、機械部分のクリーニング、等々と電話先のケア担当者の云う通りにチェックを続けていったが、結局のところ問題解決には至らず、同梱されたカラーインクに問題がありそうだと云うことになった。「正しいインクを再送するのでそれで試して欲しい…」との説明を聞かされた。つまり今回同梱されていたインクは「誤って」送られてしまったものだと云うらしいのだ。この間50分近い時間を要してしまったのだ。

もう少し解説すると、設置して最初のインクは「Setupインク」という特別な種類であり、そこには特別なソフトがインプットされているらしい。それが誤って「Setupインク」以外の普通のものが紛れてしまったとの説明だ。純正品であれ模造品であれ、そんな特別なインク以外は受け付けないのだと云う。

だがしかし、何故にそんな特別なことをする必要があるのか? あえて質問もしなかったが合点がいかないのだ。全く不可解でならないのだ。一つ考えられるのは同業他社製品に対するガードだろうか? ちょっとした付加価値をソフトウェア上に加えたことで、簡単に他社に盗まれることを防いでいる? あるいは公表はされないがユーザーに対するガードが仕組まれているのかもしれない。

問題なのはそうしたソフトウェア的トリックを施すことにより、実際に使用するユーザーとマシンとの決定的な距離感が生じていることだ。利用者にしてみれば余計な「ブラックボックス」の存在により、マシンに対する愛着を持つことが出来ない。それどころか、どこか割り切れない、そして計り知れない気持ちの悪さに囚われてしまうのである。

ユーザーがうかがい知れないところで実はマシンのソフトウェアに支配されている。そうした現実は我々が知らないところに根を伸ばしつつある。ソフトが人間を支配するという関係性は、このような極めて身近な機器利用の現場で、既に現実となっていることを思い知ったのである。けだし悪しき未来を思わざるを得ない体験なのであった。

圧力鍋があればポトフ作りも簡単に

数年前に新しく圧力鍋を購入して以来、調理も大変楽をしている。特にじっくり時間をかけるべき煮物等がいとも簡単に出来てしまうのだから有り難い。昔からあった圧力鍋は10リットル以上の大きなものだが、常に手元に置いて使いこなすのは難しかった。やはり手軽な3合炊き程度のものが使いやすい。

ただただじっくり煮込むという欧州田舎料理の「ポトフ」。昔は5時間以上は時間をかけなくてはならないとされてきた。ところが最近は、圧力鍋があればものの30~40分で出来てしまう。

大根、ジャガイモ、人参、玉葱、椎茸を大ぶりにカット。それに荒挽きウインナーを加える。充分な水分を張り、味付けは少々の塩のみだ。近頃は調味料を使わない料理のほうがピンと来る。味覚が以前とは変わっているようだ。スープには豚肉の出汁と野菜から出た旨み成分が溶け出して、とても品の良い出来栄えである。

弱いが旨い魚の見本、鰯の刺身を味わったのです

通風の発作が漸く収まったので、久々とばかりに居酒屋に来訪した。そして何時ものプリン体ゼロのホッピーを注文したのです。そして、つまみの第1番は、鰯の刺身なり。

魚編に弱いと書く魚などそうはいないはずだ。ニシン科のマイワシとウルメイワシが殆どをしめている。陸に揚げるとすぐに弱ってしまう魚であることから「いわし」と呼ばれることになったとされる。他の魚類の餌になることも多くあり、そういうことからも「弱い魚」という評価が覆ってしまったということなのだろう。

久しぶりに箸をつけた鰯の刺身は至極の美味であった。EPA、DHAといった血液さらさら成分が豊富にふくまれている青魚の代表でもあるのだから当然である。そして、そんな青魚の刺身をこれからもずっと食していきたいと願うのでありました。

ユリイカ「村上春樹総特集号」インタビューで春樹さんが示したメッセージ

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先月12月25日発行の「ユリイカ」最新号では、村上春樹総特集が組まれている。文芸誌というよりも詩の専門誌として評価され歴史ある「ユリイカ」だが、特別に詩とは深い関わりを持っているとも云えない村上春樹さんを俎上に載せて、文壇人によるあれやこれやの村上春樹論が展開されている。今や全ての文芸誌に於いて村上春樹さん無しには商売も何も成り立たないと、業界の裏側で囁かれているようだが、その一端を垣間見たような気分に陥ってしまう。

目玉となっているのが巻頭インタビューだ。「『1Q84』へ至るまで、そしてこれから…」という副題が付いている。「魂のソフト・ランディングのために」といった意味深のタイトルも設けられている。
小澤英実という聞き手がメールにて質問を投げ掛け、春樹さんがそれに答えるといったスタイルがとられている。春樹さんにとってみればそれだけじっくりと時間をとって、質問者に答え得るのであり、軽い乗りのインタビューでないことは明らかだ。

春樹さんがこのインタビューで最終的に云いたかったのは、「物語」の可能性についてであったと思われる。言語への失望、あるいは物語への疑問提起を経て、やはり彼は、小説家としてのある種の社会的使命を自覚したということに至ったと思われる。その言葉はあっさりとしているが、とても重く響いている。以下にその一部を引用しよう。

(以下引用)-----------
「言語には二つの機能があります。ひとつは個々の言語としての力、もうひとつは集合体としての言語の力です。それらが補完しあって流動的な、立体的なパースペクティブを立ち上げていくこと、それが物語の意味です。スタティックになってしまったら、そこで物語は息を引き取ってしまいます。それは常によどみなく最後まで流れ続けなくてはならない。それでいて同時に、個々の言語としての力をその場その場でしっかり発揮しなくてはならない。状況と切り結びながら、正しい(と思える)方向に着実に歩を進めていかなくてはならない。これはもちろん簡単なことではありません。(後略)」
(引用終了)-----------
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ミルク味はこれならいける「シチューロールキャベツ」なのだ

冬の食材キャベツを旨く食したいと、ロールキャベツを調理したのでした。

いつもは大体がトマト味で調理しているが、冬にはシチュー味が相当か等と考えて、シチュー味にて煮込むことにした。ジャガイモ、ニンジン、玉ネギの基本野菜に大蒜、生姜、エノキ茸を加えてグツグツと煮込むこと40分余り。ミルク、シチューのルウを加えてさらに10分以上煮込んで出来上がり。

野菜類は程よく角が取れて丸くなり、ロールキャベツはスプーンでカットできるくらいに柔らかく、ほっかほっかに仕上がったのです。

個人的な嗜好になるが、おいらはどうも牛乳、ミルク味といったものが苦手である。脱脂粉乳の給食で育った最後の世代にもあたるのだが、当時の食生活におけるミルク感は、最低ランクの評価を与えたいくらいなのであり、ミルクとは吐気をもよおす食物の代表格として記憶にインプットされてきた。ある種のトラウマ的体験として根付いていると云ってよい。

だがミルク味のシチューは別格なのだった。ジャガイモ、玉ネギ料理があまく仕上がり、鶏肉、豚肉、等の肉類にもより味わいが深まっていく。おいらの実家でもカレーと共に定番のメニューとなっていたようである。

さて肝心のシチュー味的ロールキャベツだが、野菜の旨みがシチュースープに溶け出して、それをロールキャベツが吸い込んでおり、想像以上に深いこくとホットな旨みを味わったのでありました。ただのシチューだとこうはいかないのだ。ロールキャベツという、いわば主役の存在が在ってこそ、脇役シチューの味わいが際立っていたということなのだ。

カール・ゴッチ直伝のストロングスタイルを貫き、プロレスの黄金期を支えたタイガーマスクの想い出

伊達直人という名前で児童養護施設へプレゼントするといったニュースが、メディアを賑わせている。「伊達直人」という名は、かつてのアニメ界のヒーロー「タイガーマスク」の別の名(本名)であり、自ら児童養護施設出身者でもある。自分が育った施設にプロレスラーとして稼いだ収入を寄付し続けていたというアニメのストーリーもあり、タイガーマスクに自己の心情を投影した篤志家による寄付行為であったと見做されている。

ところでおいらはかつて、タイガーマスクの取材を行なっていたことがある。あれはおいらが出版の仕事を始めて間もない頃。松田聖子などのジャリタレの尻を追い掛けるのに辟易していた時のことだった。「タイガーマスク大全集」という少年百科文庫の仕事が舞い込んできたのである。出版の世界でおいらがその時初めて、まともな仕事にありついたということを記憶している。事務所の先輩たちとの取材・編集・執筆・制作の仕事に明け暮れていたことを強く想い出すのだ。

上に挙げたのは、おいらがタイガーマスクの必殺技「タイガースープレックス・ホールド」を描いたページである。タイガーの闘いを目にするにつけ、彼が汲み出す技の数々に非常な感嘆の思いを抱いていたのである。プロレスの技は芸術品でもあるという思いを強くして描いたという記憶が強くのしかかってくるのである。アニメではなくて実在初代のタイガーマスクは、残念ながら伊達直人ではなく佐山聡という名前であった。そして佐山聡さんは凄い人で人格者でもあったのだ。

商業プロレスの世界に身を置きながら、初代タイガーマスクはカール・ゴッチ直伝のストロングスタイルを貫いて闘っていた。宿敵ダイナマイト・キッドに対しては、デビュー試合の闘いで「タイガースープレックス・ホールド」で完膚なきまでに勝利を勝ち取った。実力、人気共に群を抜いていたが、決して楽な闘いではなかった。ダイナマイトキッドとも因縁の闘いが続いていた。一時は「パイルドライバー」という荒業にて首の骨にも損傷が見られることもあった。当時の試合においらもリング脇で取材していたのだが、「No! No Pile driver!」と、必死に叫んでいたタイガーの姿は目蓋の底に潜んでいるのだ。

ここが噂の穴場スポット「2k540 AKI-OKA ARTIZAN」

新しいネットブックなど欲しくなり、秋葉原を訪れたのです。駅を降りると相変わらずの人混みなのだが、日曜だというのに大通りが歩行者天国ではない。やはりあの2008年6月8日の秋葉原通り魔事件が尾を引いているのだろう。秋葉原と云えば時々は訪れている街なのだが、中古コンピュータ、コンピュータ雑貨類等を扱う裏通りは、訪れる度に少しずつ街の様子が変化している。中小のパソコンショップは産まれては消えていく。そんなこんなパターンの繰り返しである。

結局、探し求めていたたネットブックは予算的にも合わなかった為に購入することはなかったのだが、御徒町へと向かうJRの高架下に、もう一つお目当てのスポットがあった。

先日mimiさんに教えてもらった噂のスポット「2k540 AKI-OKA ARTIZAN」である。

「2k540」というネーミングは、東京駅から2k540m付近にあるために名付けられ、「AKI-OKA」とは秋葉原から御徒町に挟まれたエリアだということを指している。「ARTIZAN」とは「職人」を意味するフランス語なり。もとよりこの周辺にはジュエリーや皮製品を扱うお店が数多くあり、職人の街として発展をしてきたエリアだ。しかしながら一般の人々にとってはそれほど馴染みのある街だとは云い難かった。このスポットにはギャラリー、工房、カフェ、ショップ、等々が集い、新しい「アルチザン」の風景を形作ろうとしているのだ。

高架下に産まれた同スポットには、帆布バッグの専門店、伝統工芸の店、意欲的なアーティストの店、個性的なアクセサリー店、そして古くからのジュエリーショップ、等々が軒を並べている。電車道の高架下の新しい活用法を試みる実験的なスポットとなっている。

ウィンドウショッピングに訪れるのも良し、秋葉原を訪れたついでに散策するにも良しの、穴場スポットなのでした。

冬の恵みを味わう「イカ墨大根」なのだ

春の七草の一つにも数えられている食材が「大根」だ。「すずしろ」と雅な趣を奏でて呼んでいた野草が実はアブラナ科の大根であった。

七草粥に味を占めて調理してみたのは、大根を大降りにカットして作った大根煮。ときどき気が向くと圧力鍋を持ち出してやる定番料理なのだが、今回の食材のパートナーに選んだのがイカである。丸ごとイカには「イカ墨」と呼ばれる内蔵が存在し、この部分が得も云われぬ出汁となるのだ。

圧力鍋でじっくり煮込んだ大根にたっぷりイカ墨の出汁を吸わせれば、それはもう至福のイカ墨大根の出来上がりなのです。

大根煮といえばおでんにはなくてはならない具であり、おいらも「おでんの中で何が好きか?」と問われれば、「大根だ」と答えることにしている。実は以前は、多少日和っていた時期もあり、「牛蒡天」だ「ちくわぶ」だと云ってはいたのだ。

けれどもやはり「大根」の存在に敵う訳もないことを充分に認識し、今更ながらに大根の恵みの素晴らしさに感動したりもするのだ。

春の七草粥を食しつつ、正しい食生活について考える

早く通風を脱したいという思いで菜食を続けている処なのだが、丁度よい頃合に、本日1月7日は人日の節句、別名「七草の節句」なり。即ち七草粥を嗜む日となっている。

という訳で兎にも角にも大急ぎで七草粥を作ったのでした。先日からの通風は、ピークの5~6割程度の猛威を振るっており、街中を歩くにもままならないくらいである。これまでの食生活が祟ったのかと、本日は改めて反省をした次第なり候。そして食生活改善の良き一歩となるのが「七草粥」であろうと踏んだのだ。最近は有難いことに「春の七草」として七草粥の材料パックが売られている。パックの内容は以下の七種である。

せり
なずな
ごぎょう
はこべら
ほとけのざ
すずな
すずしろ

淡白な七草の味を出来るだけ味わおうと、味付けは、一振りの塩のみにて調理した。すずな、すずしろはほのかな甘味があり、せり、なずなは程よい苦味成分がじんわりと傷んだ内臓を癒してくれそうだ。

塩以外に一切の調味料を廃して調理した七草粥は、七草それぞれが個性的な味わいを有していることを示していた。多少大袈裟な表現を用いるならば、甘い、辛いといったそんな言葉に出来ない、食物そのものの味わいを愉しむことが出来たのである。

食物は生命を授かる全てのものにとって大切な代物だが、そもそも人間とくに現代人は食生活を蔑ろにし過ぎるのだ。欲望に任せて好みの食物をあさる姿はまさに、餌をあさる狂犬と大した違いなどなく、いつとち狂って豚や牛を襲うかも知れぬ。そうならないように人間が食べるものは確かなものを吟味する必要がある。

七草のように、大地に静かに根を生やし生きている野草類には、食欲ではなくして心に直に通じて染み入るものがある。栄養素や科学的分析では決して捉えきれない、昔からの人間と食物との関係性が存在している。食欲と食物との関係はいずれ破綻を来たすことになるが、古くからの叡智として受け継げられた食文化は、貪欲な人間たちに正しい道を示してくれるのだろう。

こんな野草粥は、本日に限らずこれからときどき調理して食したいメニューなのだとつくづく思う。七草はなかなか揃わないだろうか、三草、四草ならばいろいろ揃うことだろう。これからもときどきは、野草粥を有り難くいただきたいと考えている今宵なのである。

映画版「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」

http://black-genkai.asmik-ace.co.jp/

先日取り上げた書籍のほうは、2ちゃんねるのそのままコピーで、ぐちゃぐちゃだったのに比べると、一編のドラマとして整理されている。登場人物のキャラクターも相当作り込まれた格闘の跡が見え隠れしており、製作者たちの気合がそこかしこに漂っている。

ただし、登場人物の何名かは極度なワンパターン演技が煩く興醒めだ。リーダー役の品川祐はその際たるもので、馬鹿の丸出しでしかない。やはり芸人演技の限界を思い知るのだ。

その逆に書籍では際立っていなかった田辺誠一演じる「藤田さん」のキャラが、やけに際立っている。映画版「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」の主人公は「藤田さん」であると云えるくらいだ。それに比べて小池鉄平の「マ男くん」はいまいち存在感が薄い。

そして映画の後味だが、やはり清々しくも感動的でもないものだった。「皆がいるから頑張れる」等といった台詞は気休めにもならないものであり、世の中の不条理を増長させるに過ぎないだろう。こんなブラック企業がはびこる現代社会こそ何とかしなくてはならないのだ。

「第58回ニッコールフォトコンテスト」受賞作はデジタルだらけ

86歳になった父親が「第58回ニッコールフォトコンテスト」で受賞したという話を聞き、新宿のニコンサロンを訪れたのです。

http://www.nikon-image.com/activity/salon/exhibition/2011/01_shinjyuku.htm#02

「ニッコールフォトコンテスト」とは、全国のニッコールクラブ会員を主対象にして開催されている。父親も相当の昔から同会員になり、地元の支部長なども務めていたようだ。写真を始めたのは15歳当時からだというので、もう70年を越すキャリアということになる。おそらく受賞者の中では最年長だろう。

今回のフォトコン会場を回って感じたのは、デジタル全盛。はっきりとデジタル・フォトが市民権を得たばかりか、大手を振るっているという光景だった。9割かそれ以上はデジタル作品で占められていた。ニコンの「D700」「D300」「D90」「D80」といった機種は全国的に写真家たちの標準的機種として広まっている。ちなみにおいらの父はデジタル一眼のカメラは受賞賞品として入手し所有しているものの、未だ使いこなしてはいない。受賞作は「ニコンS」「ニコンF3」「ニコンF100」等でフィルム撮影したものだ。

この数年の間でデジタルカメラは相当の進化を見せている。画素数が1000万画素を越え、それ以上に画に締まりが出てきた。以前のデジカメといえば、フラットな描写で画に締まりもなかったのだから、相当な進化である。

アナログに比較してデジタルが及ばないとされてきた要素について、デジタル技術がここに来て追い着いたということなのだろう。あえてフィルムを使ってアナログ撮影をする必然性が減少したと云うことなのだ。即ちこれからが、デジタル写真の可能性を試すチャンスでもある。

「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」を読む

取り立てて秀でている訳でもなく、感動的でもない内容の書籍なのだが、ずっと気にかかっていて、先日古書店にて購入し読了した。
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もともとニート(NEET)で新卒の主人公は、他に当てもなく中小のITプログラミング系の企業に就職してしまうのだが、初日からおおわらわの体験を味わって、現代社会における企業の「ブラック」を認識し、そしてそれに耐えられずに悶々とした日々を過ごすことになる。そして、それら悶々とした日々のあれこれを、某大手の掲示板に吐き出して纏められたというのが、同書の基本的な構成となっている。

サービス残業は当り前。這いつくばって仕事をしていても未来は来ないのは当然なのだが、そんな世界でも一生懸命に働いてみようという若者が存在することこそ不可思議でもあり、世の不条理を冗長させている要因でもある。そんな不条理の世界をこれでもかと見せ付けられる読書体験となってもいるのだ。

「マ男」というハンドルネームが付いて、主人公は粉骨砕身し頑張っていくのだが、次第に矢折れ刀つき、予定調和もままならぬ結末に突き進んでいくことになる。それにしても今時の経営者のモラルハザードは酷い。こういう奴らが少し前には大口叩いて、経営がどうの日本がどうの文化がどうのと云っていたのだからあきれ返る。結末はそれぞれに受け止めて感じ止めて頂きたいと思うのだ。

おせちの食べ過ぎで痛風が疼き出したのです

昨日あたりから足指の付け根に痛みを感じている。当初、どこかでひねったかぶつけたりしたことからの痛みだと思っていたが、そうではないようだ。ここずっと鳴りを潜めていた「通風」の虫が、この期に及んで疼き始めてしまったようなのである。

原因は確かに存在していた。先ず、おせち料理重の中に大量にあった数の子をどか食いしてしまったこと。鰯の甘露煮もまた危険因子だ。それらの食物中に存する「プリン体」という成分をたっぷり摂ってしまったこと。そして実家に帰省中にはビールをよく飲んでいたこと、等々…。プリン体対策を怠っていたことが、今回の通風の虫を蔓延させる要因となったことは想像に難くない。反省しきりなのである。

以前の健康診断でおいらの血液を採取して調べたところの分析データによれば、一般に比べて「尿酸値」が異常に高いのだという。ドクターは「高尿酸血症」という症例を挙げて将来的に患うであろう「通風」の危険性を説明していた。10年ほどは何事もなかったが、いよいよ発症したのが5~6年前であった。

この尿酸値を高める原因となるのが、食物に含まれる「プリン体」という成分。ちなみにデザートのプリンとは関係がない。プリン体を多く含むのは、先に挙げた「数の子」など魚の卵類をはじめとして「ビール」「肉類の内臓」「大豆加工品」「蟹・海老など甲殻類」等々、おいらの好きなものばかりなのだ。妙な因縁である。どうもおいらの嗜好性が、プリン体とは切っても切れない関係にありそうなのだ。

とにかく通風が猛威を振るったらが最後、1週間はまともな社会生活が出来なくなるので、兎に角も食生活の見直しを実行だ。しばらくはビールも酒も、そしてプリン体食品も摂取を控えよう。

国家警察権力の内ゲバ的抗争が際立った映画「相棒Ⅱ」

正月くらいは完全な休暇をと願いつつ、ふと出かけたのは近くの映画館。「相棒Ⅱ」を鑑賞したのです。県下一とも目されるショッピングモール内にあるそのスペース界隈は、旧市街地の落魄れた様相とは異にしており、至極活況を呈していたのだ。

http://www.aibou-movie.jp/

映画自体の感想を述べるならば、まずは「Ⅰ」に比較してスケールダウンが明らかだったということだ。映画の筋書きのおおよそは、ほとんどが「警察庁」と「警視庁」との内部抗争を基本にして創作(即ちフィクションとしての非現実性として)されている。反面では内部抗争をリアルに描いたことで、とても評価する向きが多いとも聞いている。

両者取り入れてここで評価するならば、結局のところ、「リアルではあるがスケール的にはみみっちい」ということになるのだろう。実際にそのような印象を、シーンの至るところに感じていたものなのである。「警察庁」と「警視庁」という構図は、ある種の緊張感漂う関係性でありながら、でも実際には大きな根っこを両有している親身な関係性であることは否定できない。

そんな曖昧模糊とした「警察庁」と「警視庁」との関係性を素材として、デモーニッシュに描き切った映画だということが云えよう。この立場でのスケール云々については緒論あるということなのだ。

卯年の元旦に見た初夢の話

卯年の元旦、本日見た初夢は果たしてどのようなものだったのか? 改めて思い起こしてみる。

ぴょんぴょん跳ねているうさぎを追いかけて、何処か知らない街の古ぼけた建物に迷い込んでいたような気がする。果たして追いかけていた相手がうさぎであったか否かは定かではなく、別の動物か或いは人間のような生き物であったのかも知れない。追いかけっこを楽しんでいた余韻を、起き際に感じていたような気もする。

夢というものはまことに捉え難き代物であり、ひょいと両腕で掬ってみたと思えば、いつの間にかするりと逃れて逃げていってしまう。ぴょんぴょんと飛び跳ねていってしまった夢をまた追いかけようとすれば、ちゃっかり近くに寄り添って挑発したりする。追っては逃げ、逃げては追うの繰り返しである。

追いかけるという体験は決して悪くない。少なくもおいかけられるというイメージよりはずっとましであり、エネルギーの噴出から得られる充実感は貴重である。

リアルであれバーチャルであれ、追う対象を持ち得たとき、人間は若さを実感するものだ。リアルとバーチャルは往々にして敵対し、互いを潰しあう関係ではあるが、本日の初夢のバーチャル感をリアルな起床が潰さなかったのは幸いであった。

という訳で、本年卯年の初夢は、結構目出度い部類に入るのではないかと分析してみたところなのでした。

赤城おろしという名のからっ風に吹かれた大晦日

上州赤城山の麓にある峰公園に隣接した墓地に、亡き妻が眠っている。毎年お盆やこの時期などなどに墓参りをしているのだが、今年はいつになく冷たい厳しいからっ風に襲われてしまった。そしてこの冷たい風が、記憶の底に埋もれかかっていた「赤城おろし」という名のからっ風であることを思い出したのだ。

本日のニュースによれば、北から南まで全国中に寒波が襲い、全国的に大雪を降らせているという。だが、こと上州近辺の関東平野一帯だけに晴れ間が訪れているようだ。一見して妙な真空スポットが現出したようだが、そうとは云えないのだ。北国が寒波に襲われた日に赤城山が立ち塞がって関東平野を守りつつも、からっ風という乾いた冷たい風を吹かせることになる。

駐輪場に止めた自転車が倒れたり、乾いた風に喉をやられたりというのは日常茶飯事である。それでも北国の吹雪、寒気を遮って立ち塞がる赤城山に敬意を払いつつ赤城おろしを受け止めている。こんな乾いた風景が、結構好きでもあるのだ。

天気予報によると明日もまた全国的に大雪が降る中で、上州および関東圏は好天気の予報だ。「ニューイヤー駅伝」の舞台がここ上州でもあり、このイベントに対して赤城おろしが大きな影響を与えていることを実感するのである。