変わった味だが夏には良い「穴子のうざく」

この暑い時期とはとりも直さず、うなぎで栄養を補給したいという時期なのであるが、今年はうなぎの値段が高騰しているとかいう理由からか、なかなか日常の食事時には遭遇することが無い。

代わりにという位に偶然にメニューを目にして注文したのが、うなぎの仲間の穴子食材の「穴子のうざく」だった。

うなぎに良く似た穴子がメイン食材で、きゅうりと三倍酢とで和えられている。穴子はザク切りにされ、三倍酢との相性も良好だ。

聞いたところによれば、「うなぎのすざく」というのが夏の定番料理として定着していたという。だが近頃は「穴子のうざく」が良く目に付いている。これもまた時代の変化だろうか?

谷川俊太郎「黄金の魚」の詩を松たか子が朗読

昨日あるきっかけで思い出した谷川俊太郎先生の「クレーの絵本」を押入れから探し出して見ているところだ。1995年10月初版発行(おいらの蔵書は99年発行の第12刷)、講談社刊、定価1456円という名著だ。

パウル・クレーの絵画作品に触発されたという俊太郎さんが、自由闊達な詩をつくって、時代を超えて両者がコラボレートを行ったという形態をとって発行されている。安易なコラボ企画本とは一線も二線も画した立派な企画本となっている。云うまでも無いが、おいらの愛読書の中でもトップクラスの一冊である。

表紙画にも採用されているのが「黄金の魚」。簡易な言葉から紡がれた詩の内容には感動の雨霰の心情を禁じ得ない。

―――――以下引用―――――――――――――――
黄金の魚
おおきなさかなはおおきなくちで
ちゅうくらいのさかなをたべ
ちゅうくらいのさかなは
ちいさなさかなをたべ
ちいさなさかなは
もっとちいさな
さかなをたべ
いのちはいのちをいけにえとして
ひかりかがやく
しあわせはふしあわせをやしないとして
はなひらく
どんなよろこびのふかいうみにも
ひとつぶのなみだが
とけていないということはない
―――――引用終了―――――――――――――――

ところで3.11の東北大震災への応援サイトにて、この谷川俊太郎さんの「黄金の魚」の詩が、松たか子さんによる朗読によって公開されているということを知ったのだ。

http://youtu.be/DAv4tFuZl_4

松さんの朗読は凛として清々しく、名詩の存在を重層的に拡散させているかのようだ。丁度、Twitterにおけるリツイートの様だと云えば良いだろうか。とても素直な松たか子さんの声質、仕種が、名詩の魂をビデオメッセージとして拡散させることに強力なエネルギーを得たかのようなのだ。

そしてパウル・クレー、谷川俊太郎、松たか子といった、ジャンルも世代も違うアーティストが本来の意味での「コラボレーション」を実現している。じっくりと松たか子さんの言葉に聞き入っていると、東北震災地の復興にも希望が持てるのではないかと思う。

大魚から逃れるための翼を得た「トビウオ」のタタキは美味だった

海上に羽根を広げて飛び跳ねる様がそのまま「トビウオ」の名の由来とされる。それくらいにトビウオとその滑空する姿とは一体的セットとなって、我々のイメージに刻まれている。本日はそんなトビウオのタタキにありつくことが出来たのだ。

皿に乗って出てきたのは、やはり羽根の付いたトビウオのかしらだ。やはりと思わず書いてしまったのは、以前にも何度かこの盛り付けの光景を視界に焼き付けていたからに他ならない。トビウオといえば、その羽根付きのかしらと一緒に皿に盛られて提供されてきたものである。

とは云いながらも、今回のトビウオの羽根っぷりは凄いものだったので、やはりと云うのかカメラに収めることになった。羽根っぷりもさることながら、共にそのかしらのいでたちも天晴に写っていたので、共にアップしておきます。

高度3メートルほどの高さを300メートルもの距離にて飛び続けていく。まさに翼を持った魚類と呼んでも良いほどである。

味わいもまた淡白でありながら筋肉質の繊維を強く頬張っているようでもあり、美味であると云うしかない。

そもそも羽根が生えて空を飛ぶようになったのは、マグロやカツオなどの巨大魚からの追跡を逃れるためのものなのだ。豊饒の海にはそうした数々の魚達の思いが溶け込んでいる。

詩人の谷川俊太郎さんは、「クレーの絵本」(講談社刊)の中の一節「黄金の魚」にて、哀しい魚たちの生態を一編の詩にして表現した。名詩の中の名詩である。今ここで示すのは条件が整わなくて不充分であるので、いずれ改めて取り上げていきたいと考えているところだ。

武蔵小金井「大黒屋」のレバー刺しで一献

武蔵小金井駅にて下車し、「大黒屋」で一杯引っ掛けて帰宅した。

お目当ては「レバー刺し」だった。北陸地方の焼肉店での生ユッケ食中毒事件の煽りを受けて、近いうちに「レバー刺し」が専門店のメニューから消えてしまうのではないかという推測が駆け巡っている。そんなニュースを目にして、近く消えてしまうのではないかという「レバー刺し」が無性に食べたくなってしまったという訳なのである。

レバー刺しは、それ程にポピュラーではないが、時々は行きつけの店にて口にしていた。食中毒の体験も無く(ちなみにおいらは、牡蠣やキムチで当ったことがあり、食中毒の恐さは充分に認識している)、これからそういう局面に面会しようとは考えたことも無かった。

だが、ユッケ悪ければ全て悪しのような風潮の煽りで、今年中にもレバー刺しは法的にも葬られてしまうかのような状況に、違和感を禁じ得ない。法的に食材を葬ってしまうことの副作用を考えるに、馬鹿げた風潮だろうとつくづく思うのである。

造反無理政局の行方3 海江田大臣の辞任後の僅かな希望が見える

菅直人内閣総理大臣追い落としの政局は相変わらず続いているが、本日国会では海江田大臣の辞意が表明され、菅内閣の脱原発シフトは進んでいく条件が漸く生まれつつある。

いずれ辞任するとはいえ菅直人の最後であり最大の使命が浮かび上がりつつある。脱原発というこの道を開き突き進むことが、菅内閣の使命なのであり、ここへきてかまびすしいマスコミ、野党、一般市民、等々の雑音に惑わされないことが大切だ。何時最期のときが訪れるかも分からない菅直人内閣に、今こそのエールを送っておきたいと思う。

誰が云い出したか知らないが、今の政局が「液状化」を来たしているという指摘は当たっているだろう。そもそも液状化を発生させる要素と云うものは、旧海岸地域の埋め立て、陸地化といった不自然極まれる自然に対する余計なアプローチが生み出したものである。

こんな人工的な地域を「ウォーターフロント」等と称していたことなどは、まさに人間の浅知恵が生んだ、浅はかなる驕りの結末であると云うしかない。

「液状化」を生じているのは政界のみならず、マスコミ界も同様である。「市民主義」「リベラリズム」等々の、聞こえの良いマスコミ関係者たちが依って立つそのドクマは、どろどろの液状化した絵空事として水泡に帰そうとしている。

暗愚な夢を見た、あるいは見させてきたマスコミ関係者達の総括が、これから行われなければならないのである。

この時期のアスパラガスは焼いて食べたい逸品食材

夏にかけてのこの季節に断然と口にしたくなるのがアスパラガスだ。この時期になると30センチ以上になったものが市場に出回る。一気に天を目指すように伸びる様は、強靭なる生命力のを示すかのようであり、ことにあの頭のイボイボ仕様の強烈なるイメージはその存在感を浮きたてている。

普通には茹でたものをマヨネーズ等をつけて食することにになるが、焼いたものも瑞々しいその生命力をストレートに享受できて嬉しい。行きつけの炭火焼の店にて、大降りの直径2センチものアスパラガスが数十本並んでいたのを目にして、迷うことなく注文した。

ピンと張った瑞々しい表面の繊維は炭火の効果でやんわりとしており、噛み切るのも容易である。生のアスパラガスを目の前にしてその違いに驚くが、熱にしおれるのではなく熱と調和するかのごとくやんわりとした姿は、見た目も充分にデリシャスである。ピンと張って瑞々しい食材が、熱という天然の外的要因によって新しい食物として成り立っていく様を、一連の工程の観察にて理解することができたのだ。

地中海原産のアスパラガスであり欧米食材としてポピュラーだが、実はこれが農家泣かせの、極めて難しい栽培によるものなのだ。すなわちこのアスパラガス栽培には数年を要し、収穫できる株に仕上げるまでに2~3年はかかる。根付きの良いアスパラガスの株を定植するにはそれなりの時間と労力を必要とするのであり、家庭菜園などを行なうアマチュア農家には、なかなか立ち入れない領域の食材なのである。

大きくて太ければ良いというものではない。30センチ、直径2センチ程度のものが最も味わいが良い。太過ぎれば空洞を生じて味を悪くする。今日食べたくらいのものがベターだと思われる。ラッキーであった。

松本龍(元復興相)とは、ただの莫迦なのか?

鳴り物入りで創設された「復興相」の初代大臣こと松本龍という男が、その発言で物議を醸していたのは、ほんの2日位前だった。被災地の岩手、宮城に出向いては、それぞれの県知事との奇天烈な遣り取りが、TVニュースを賑わせていたものであった。

詳細に関してはその事情が判然としないのだが、松本龍という男は、なんだか大臣にでもなれば世の中が自分の思い通りになるとでも考えていたのか? あるいは、たとえば自社の社員か平取締役役員か何かの気分で被災地に乗り込んで行って、対知事会談に臨んだということなのだろうか?

いずれにしても中途半端な結末であり、事後のイメージは最悪である。もう少し引っ張って次なる筋立てを楽しませてくれるものだという、昨日まではある種の期待感もあったが、それさえも無かったという事か。妙にがっかり気分なのである。

串カツの美味さは関西ジャンクフードの串揚げよりも相当上だ

おいらは串カツが大好きである。いきなりなんだというお叱りもあろうが、豚肉のカツと揚げられたネギの甘味と香ばしさとの調和した味わいは、串カツならではのものであり、関西的ジャンクフードこと串揚げの比ではない。串揚げには断然勝っていると云ってよいのである。

関西的串揚げには無くて串カツに有るものとは何か? まずはその豚肉とネギとの相性の良さであろう。豚肉の質、ランクはそれ程良いものを求めなくても、豚カツとネギ揚げとの相性の良さで、串カツの美味さは決定付けられると云っても良い。

かねてから思うに、串揚げを食べてもなかなか満足できないものがあったのだが、しかしながら、あえて限定すれば関東風の串カツ口にしたときの感動や満足感は、他を圧倒していたものなのである。関西ジャンクフードの限界とともに、関東圏の食文化の歴史を改めて感じ取ったという訳なのでした。

暑い夏の食欲増進には自家製「冷汁」がいちばんだな

関東は未だ梅雨が過ぎていないようだが、体感季節は既に真夏である。とくに今年は電力不足から来る節電イヤーなのであり、この季節の体感気温は否が応でも高まってしまうのだ。

いつもより早く訪れてきた夏バテの季節、それに伴う食欲不振を乗り切るには、いつもより早い食生活の改善が必須である。おいらはおのずからいつもより早目に、「冷汁」の準備を行っていた。

冷汁の基本食材は、胡瓜と茗荷、そして充分に味わい深い味噌があれば事足りるもの。特別な料理ではないが、基本素材の味噌を吟味することは大切である。これに加えて、葱、各種茸類、豆腐、大場、その他の夏野菜等を切り刻んで、冷やした味噌汁仕立てにすればよい。出汁は味噌汁よりも少なめで充分だ。これから週に2~3回はこの冷汁を食することになるだろうからと、基本食材セットを冷蔵庫の一角に確保しておく準備をしたのだ。

九州宮崎県の郷土料理だと持てはやされていた時期もあったが、なんてことは無い、夏野菜中心の具材を材料にしてつくられた、冷製味噌汁という、とてもシンプルで伝統的な料理なのだ。おいらが群馬の田舎で生活していた頃にもこんな料理は日常茶飯で提供されていた。暑い九州限定の「冷汁」ではなく、全国的に夏の定番メニューとして「冷汁」の意味合いは大きいのである。

氷で冷やして御飯に掛けてお茶漬けのようにしてすするのが、我家では一般的であり、素麺や冷麦の漬け汁としてもとても重宝する。夏の基本的定番料理の代表なのだ。

ヤモリが我家に住み着いた

梅雨に入るころになってから、よく「ヤモリ」を見かけるようになった。朝方、台所や風呂場の窓ガラスを這っている姿をよく目にする。はじめは恐るおそるその生態を観察していたが、よく見ると可愛らしい目つきや体つきをしていて、とても愛嬌のある生き物である。

4本の足の指には吸盤が備わっているので、壁や木の高いところまでするすると素早い行動が特徴的である。ハエや蜘蛛などの小動物を餌にして活発に動き回るのがこの季節のようだ。

もともと人間の生息範囲とヤモリのそれとは、特別な区分があった訳ではなく、人間や小動物のすむ所が生息範囲なのだ。

古より日本には、「ヤモリが家にいる間は、その家には悪いことがおきない」という言い伝えがある。この言葉を信じてヤモリとは良き隣人として生活していきたいと思うのである。

貧血対策で「チレ(脾臓)」の串焼きをいただいたのだ

先日の健康診断にておいらの血液は赤血球異常という様相なのだそうだ。貧血とはこれまでに馴染みがなかったとはいえ、心当たりは無くも無かったが、やはり検査結果を突きつけられると動揺が走ってしまうものなのか。

今宵は武蔵小金井の行きつけの「百薬の長」にて一献傾けつつ、「チレ(脾臓)」の串焼きなどを頬張って、貧血対策を行っていたという訳なのである。
串焼きにする「ヒレ」とはとても希少な部位であり、即ち「脾臓」のことを指している。店内に貼られた効用書き的案内文によれば「血液増進 栄養保存効果的」とある。まさしく今のおいらの症状改善にぴたりの効能を示しているのだ。

炭火で焼かれているのに関わらず、出されたチレの串焼きには赤い血飛沫ともいうべき生々しい鮮血が目に入ってきた。これは身体に良いだろうと、おいらは迷うことなく口に運んでいたのだった。生々しい血の味は苦かったがそれほどに嫌味も無く口にすることができたのだった。

レバーでは物足りないと感じた時には、これからは「チレ」にありついてみたいと思うのであった。

「棟方志功記念館」を訪問〔3〕「板画」に込めた天才の技

棟方志功さんが自分の作品ジャンルについて「版画」と呼ばれるのを嫌い、自ら「板画」であると主張していたエピソードは有名な話だ。

木材としての年輪や引っかき傷、撓み、汚れ、等々の具材としての「板」の存在感を強烈にアピールしながら、棟方芸術は作り上げられてきた。

コピー作品としての「版画」という、ネガティブなイメージはそこになく、ひたすら木材を相手に自らの世界を描き続けてきた棟方芸術の痕跡を、我々は辿るばかりなのだ。

予め墨で着色した木材に顔を数センチの距離にまで近づけて、彫刻刀の一撃一撃が投下されていく。その制作の姿はまるで、石工が固い石材に対して力いっぱいに斧をぶつけていく仕種にも似ており、素材と作家との格闘というプリミティブな芸術行為そのものを、鮮やかに浮かび上がらせていくのである。

版画がコピー芸術だと揶揄されたことを跳ね飛ばすに充分な、棟方芸術の格闘の姿がそこには存在していたのである。

「棟方志功記念館」を訪問〔2〕凡庸な保守主義とは一線を画して築かれた棟方志功の世界観

棟方志功は生涯において膨大な量の作品を残している。そう広くはない「棟方志功記念館」の「躍動する生命」企画展にて展示されていたのは、同記念館が所有する膨大なコレクションの中のほんの一部だが、代表作は少なからず含まれていた。

「釈迦十大弟子」は釈迦の弟子達の姿を彼独特のデフォルメ的手法で骨太に描いたものだ。夫々の弟子達の表情から見えるのは、卑近な日常で接する人間達の顔々との特別な相違を見出すことは難しい。何故ならば弟子達の個性は人間存在の様々なる個性と類似しているからであり、これこそが棟方志功流なのだ。

「湧然する女者達々」は、ふくよかな女神達であるが、日常一般で接する女性達の息吹も漂わせている。すなわち神話の女神達のようでありつつ、日常性からたどった女の理想像なのかもしれない。触りたい、抱きしめたい、そして包み込まれたいといった、云わば男の下心にも通じる世界を棟方志功さんは描き切っているのである。

彼の作品にて描かれる「天妃」或いは古事記の神話からとった女神像は神話を題材にしながらも、それに埋没することなく棟方流を貫いている。「女者」という題材が棟方世界を貫く特別なテーマであったのだが、そのテーマの追求の手段として、神話なり仏教故事なりを借用している。

すなわち棟方さんは、よくある凡庸な保守主義者のように神話や故事に埋没して嬉々とする俗物たちとは一線を画して、彼自身の作品世界の構築に努めたのであった。これこそが彼自身の世界観をこ決定付けている。こんな姿勢こそが、天晴の賞賛に値するものなのであり、我々現代人が見習っていくべきものなのである。

黒石発祥の名物「つゆ焼きそば」は見習うべきソウルフードなのだ

青森県の青荷温泉からの帰り路、黒石市内の食堂にて「つゆ焼きそば」を食した。

黒石名物の「つゆ焼きそば」は、多くのB級グルメ情報にてその存在は知っていた。だが、こんな味だったとは! その味においてはひたすら吃驚なのだった。

注文すると間も無く調理場からは、麺を「ジュー、ジュー、ジュー」と焼く音が聞こえてきた。古惚けて小さな店内にはひたすら大きく響き渡る。数分の後「ジュージュー」の音は収まり次の工程に入ったことがうかがわれる。だがその行程が、予想以上に長かったのだった。ただ焼いた麺にスープをかけたものではないらしい。

そしてやっと運ばれてきた注文の品には、黒ずんだスープの中に、キャベツ、豚肉、天かす、ネギ、等々の食材が浮いている。箸でスープの中を掬うと、幅広い太目の麺が顔を出した。

まずはスープを一口。この瞬間が予想外の出逢いであった。ラーメンのスープの味でも無ければ、そば、うどん類のつゆの味でも無く、全く新しい。ツーンとしたソースの香りさえもがまろやかに調和している。不思議な味わいなのだ。

多分は中華そば用のスープがベースに、焼きそばのソース、天かす、ネギ、等々の味わいが混ざり合ったスープが、こんなにも調和の取れたものだったのかという発見、思いもつかない発見なのであった。

日本そばにはかつお+昆布出汁、そして中華麺には鶏ガラスープと、云わば固定観念に囚われていた日常の食文化的常識を打ち破るくらいのインパクトが在ったと云うべきだろう。岡本太郎さんではないが「何だ、これは!」と、思わず叫びたくなる。

ジャンクフードだとばかりに思っていたものが、実は素晴らしいソウルフードであったという訳なのだ。地域で食されるソウルフードはこうでなくてはならないという、まさに見本のような素晴らしい料理なのである。

ランプの宿こと青荷温泉に宿泊

昨晩は、ランプの宿こと青荷温泉に泊まった。ネットも携帯も使えない、電気が通っていないからテレビ、ラジオも使えない。その代わり、豊富な時間や自然が満ちていた。

ランプの光は予想以上に微力であり、頼りなくも感じさせるものだった。夜になったら読書をしようと用意した本はランプが暗くて読めなかった。そのぶん余計に豊富な時間を持てた気がする。

電気に頼り過ぎた生活の中では、日の有難さなどは忘れさられてしまう。光と闇の繋がりの中に我々が置かれていることさえもが忘却の彼方へと飛んで行ってしまったということを、痛感していた。

日がくれる時間の只中に居ると、まさに闇が襲ってくるときのドラマを感じ取ることになる。昼の時間から闇の襲来の時間をおいらは露天風呂に浸かりながら過ごしていた。

刻一刻と闇は近づき、まるで舞台が少しずつ変化していくのを肌で感じとることが出来るのだ。さっきよりもまた少し、また少しと、音は立てないが確かに闇は襲いかかってくる。一瞬一瞬がまるでドラマ化された舞台の中でのストーリーと化している。なまった感覚を取り戻す方法としてこれ以上のものはないと云っていいくらいだ。

青葉が芽生えている大自然の息吹と、天然の温泉、素朴だが滋味豊かな大地や川からとられた食材を調理して出された美味しい食事、そして永遠をかんじさせるくらいの豊饒な時間があれば、人生は豊饒を感じ取ることができるのだ。

余談になるが形而下的話題を一つ。夜になってフロントに抗議するおやじ出現。「ランプの宿かどうかしらないが、いったいどうなっているんだ」と、たいへんな剣幕だったのだ。おいらの推察では愛人に愛想を尽かされかかったのを何とか宿のせいにして乗り切ろうかと図ったようなり。温泉に不倫あり、を絵にしたような騒動であった。

十三湖の蜆がたっぷり入った「しじみラーメン」

今回の旅ではとくに名産品を求めることは無かったが、青森市内の食堂で食した「しじみラーメン」にはいたく感動した。

調理の工程を目の前で眺めることになっていたのだが、とてもスローに、しかし丁寧に充分な慈しみが込められてその一杯はつくられていた。

生のしじみを煮て、とっておきの自家製しじみエキスを加えてスープにし、薄めの醤油だれと合わせていく。「十三湖」で捕れた大降りのしじみがたっぷりと、滋養豊かな香りを振り撒いていたのだ。

毎日はと云わないが、ときどきはこんな地味豊かな味に接することになったらさぞ嬉しく思うだろう。スローフードの原点とも呼ぶべきラーメンに大満足なのだった。

東北青森の「棟方志功記念館」を訪問

福島、宮城、岩手を通り越して、東北の青森に来ている。

東北地方はまさに心の故郷であり、何度も足を運んでいるが、今年は大震災後という特別な状況もありなかなか例年通りの観光旅行、慰安旅行の気分にはならなかったが、かといって東北が遠く感じてしまいつつあるのをそのままやり過ごすこともままならずに、とにかく行ってみようと新幹線に飛び乗っていたのである。

初めて降車した「新青森」の駅舎はモダンでありつつ、青森の風景に馴染んでいた。少し前までこの場所の駅舎が無人駅だったということを聞きつつ、新しい玄関口が開かれたことを嬉しく感じた。「青森駅」とはまた違った展開をこれから見せてくれていくことになるのだろう。

さて最初に訪れたのは「棟方志功記念館」だった。棟方志功さんの作品には、都内や青森県内の様々な場所で接することはあったが、一堂に会して鑑賞するという体験はなかったように思う。大変尊敬しているアーティストに対しては、些か礼儀を欠いていたと、改めて思った。

現在の企画展は「躍動する生命 棟方志功の眼」と題して開催されている。今のネット環境の悪いここでその詳細を記すのは困難なので、内容その他については帰京してから改めてまとめたいと思っているところだ。

庭にはドクダミが咲き誇っている

毎年この時期になると庭の野草が突然に繁茂してくる。

白い花びら珍重のようなものを付けているのだが、じつはこれ、ドクダミという野草なのだ。いつからかは定かでないが、我家ではいつの間にやらこの時期の主役となっている。

薬草としても珍重されるものだから、刈りとって、お茶にしてみようなどと企んでいるところなのだ。

カツオの刺身は、今が最もの旬なのだ

カツオの刺身が話題に上るのは、初春の「初ガツオ」か或いは秋の頃の「戻りガツオ」の時期であるが、実は今のこの時期こそがカツオの旬なのであり、刺身の味わいも絶品なのである。

この時期のカツオの刺身を食べなければ、かつおの旨さを本当に味わったとは云い難い。旬のカツオを食してこその、かつおマニアなのだ。

マグロよりも小ぶりではあるが上品な味わいであり、人間の健康生活に必須の成分であるところのEPA(エイコサペンタエン酸)やDHA(ドコサヘキサエン酸)の含有量が多いと云うことが挙げられる。

しかも季節の旬を味覚で味わいつつ季節を愉しめるのだからこのうえも無い食材だと云って良いだろう。

余談ではあるが、「カツオのたたき」と云うメニューをおいらは好きではない。カツオは刺身で食するのが基本であり、最もその味わいを享受できる調理法なのである。

小ぶりだが高級魚の「のどぐろ(あかむつ)」にありついた

のどの中が黒いから「のどぐろ」等という有難からざる名前で呼ばれているが、正式名称は「あかむつ」と云い、味は絶品のお墨付きの高級魚なのだ。

炉辺焼きの居酒屋店にて炭火で焼いたのどぐろを見かけて思わず注文してしまった。

その身は引き締った白身魚で、淡白だが独特の脂身を含んでいる。小ぶりのものであったがその身の独特な味わいは満喫することができたのだった。

食べ終わった魚ののどの中の方を覗いてみたが、特に黒い部分というものを発見することはできなかった。成長すると40cmにもなるという巨大魚だから、その成長魚ののどの何処かには黒い部分や斑点などが見られるのだろう。

そんなのどぐろは、日本海の猟師町に行かなければ遭遇できない、それこそが本物の高級のどぐろなのかも知れないと思った。