猛暑の夏だからこそ味わえる「夏素麺(そーめん)」なのだ

夏の猛暑のこんな時期こそ素麺が美味い季節である。おいらはこの時期は常に美味い素麺を求めていると云ってよく、昼食時はもとよりであるが、夕食時やその後の〆の素麺にも特別な思いや愛着を抱いているのだ。夕食、晩食、晩餐、の後の素麺は、その条件が整えたならば絶品の風流の食物となってくるのであるからして、侮れないのだ。

先ずはツルツル喉越しの細めの素麺が必須である。そしてトッピングされるのは、ミニトマトやナスの揚げ物などが相応しいであろう。氷が添えてあれば汁に移して夏的汁の完成である。然るに氷もまた必須と云えよう。そしてまた、細切れにされた胡瓜や錦糸卵が添えられていれば申し分が無い。何はともあれ猛暑で麻痺した喉越しを正常のそれに返していくような役割を果たしているのだから、決してこの夏の時期の素麺を侮ってはいけないのである。

「酒にまじわれば」(なぎら健壱著)でも特記されていた高田渡先生の存在感

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東北旅行に旅立っていた途中に買い求めた一冊がこの「酒にまじわれば」(なぎら健壱著)であった。予想していたとおりに丁度軽いノリの彼是に、旅の途中の暇潰し的時間的利用術としてはもってこいではあった。

酒にまじわってしまった人々の滑稽なる仕草やエピソードを、色々な人間観察的視点で描いている。だが実際には酒にまじわった人々をそのままに著すのではなくて、可也の脚色を施していることが、その鮮やかなる落ちの切れ味にて見て取れる。事実的にはこれは、なぎら的お馬鹿な呑兵衛達への仲間意識から記された一冊ではある。

脚色によって面白可笑しく記されていた呑兵衛たちの姿であるが、同著の後半に或る一章にては、なぎら氏にとっての師匠でありおいらにとっての師匠でもある高田渡先生のエピソードが記されていた。同著の中での呑兵衛達は、某氏等の匿名的記述に満ちていて、其れこそが脚色的背景を明らかにしているのだが、こと高田渡さんの節こと「忘却とは……」においては、特記的に実名で記されていた。曰く…、渡さんは時として、朝7時ごろに酔っぱらってフォーク仲間に電話をかけることが良くあったという。機嫌が良い日は喋り続けて、そのうちに眠ってしまったという。電話の相手は「渡さん、渡さん」と呼びかけるのだが、返事はない。やっと声が返ってきてほっとしたところで、渡さんの一言があったと云う。

「え~っと、私は一体誰に電話をしているんでしょうか?」

なぎら氏は同節を「なんという、正しい呑兵衛の姿であろうか。」と〆ている。まさしく高田先生の存在感が際立っている、微笑ましいエピソードではある。

新花巻の宮沢賢治のテーマパーク的エリアを訪問


昨晩は宮沢賢治さんが愛してやまなかった花巻市郊外の「大沢温泉」に宿泊した。名物の露天風呂ではこの時期矢鱈に発生するアブに襲われ、とてものんびり温泉浴とはいかなかったのであり、しかも起床したときからずっとおいらの顔面は、昨日に刺された影響でおいらの左目の上瞼は腫れ上がってしまっていたので、見開くことの出来ない半開きの不自由な視覚にて一日を過ごさねばならなくなっていた。

あまり気乗りせぬまま、新花巻駅から「宮沢賢治童話村」へと向かった。この地域には他に様々な賢治関連施設が立ち並んでいて、宮沢賢治のテーマパーク的エリアと呼べる一帯である。もう十数年前に「宮沢賢治記念館」を訪れて以来の、久しぶりの訪問となっていた。「宮沢賢治童話村」には「賢治の学校」という施設があるが、子供向けにあしらえた賢治テーマパーク的存在であり、なにかと押し付けがましくあり、おいらは好きではない。賢治ファンとしてはこのような施設が賢治ワールドの普及に役立たないどころか、安直な切り口による賢治さんの思想のガレージセールなのではないかと気が気でないのだ。相当昔に訪れたとき「宮沢賢治記念館」にて遭遇し、強烈なインパクトを受けた賢治さんの「日輪と山」という水彩画に再会するのを楽しみにしていたが、なんと展示されていたのは巨大なパネルの複製画であり、とてもがっかりしたのであった。こんな事象こそをガレージセールと呼ぶのではないだろうか?

捏ねて寝かせてちぎるという正しい工程を経た「ひっつみ」

昨日は二戸市内の某和風旅館に宿泊した。そもそもぶらり旅の常としては宿の当たり外れは毎度の賭け事ではあって、お盆シーズンのピークに電話予約が取れたのは幸いであり、しかも当館は素泊まり3500円と格安料金なのである。実は内心「ラッキー」と一人ごちていたのではある。

投宿し、数分も経つか経たぬかのうちに、格安料金の理由は氷解していた。古くて奥ゆかしい佇まいがその理由を物語っていたのである。すなわち、古の日本旅館の風情が強く蔓延っているために、現代的旅人の感性やニーズやらとの乖離が見て取れたのである。事実、こんなお盆のハイシーズンと云うのに、外来の客はおいら一人であったのだった。相当な伝統的時間を誇る作りの旅館が、いシーズンにおいて旅行客をおいら一人しか持たないという不条理は、日本人の均一的価値観としてのグローバリズムの悪しき進入が背景にあることが考えられるのだ。

さてさて宿の値踏みをするのが当ブログのテーマではないのである。当ブログ本来の主要テーマのひとつとしての「食」について記していくことにする。

東北で食した地元食の中で、おいらがもっとも気に掛けていたのが「ひっつみ」である。東京でも或いは盛岡の居酒屋のメニューでも食することはできていたが、サイドメニューとしての域を超えてはいなかった。詰まりはひっつみという料理に満足したことが無かったということだ。

それが今回の旅にて「ひっつみ」の肝とでも呼ぶものが溶け出てきたのである。「ひっつみ」の具は関東の「すいとん」のそれとは異なっているということ。その肝は、捏ねて寝かせてちぎるという工程である。小麦粉等の素材を塩水で捏ねてから寝かして、それをちぎって出汁に投入するのが「ひっつみ」の正しいつくりかたである。そんな正しい「ひっつみ」のメニューを味わっていたのであった。

復旧復興のシンボルになるだろうの「JR八戸線」に乗車

八戸からJR八戸線に乗って久慈へと向かった。JR八戸線といえば、東日本大震災で埋没し、全面ストップとなっていた路線である。昨年のこのころに旅したときには八戸から鮫駅までの限定的開通であった。其の時の鮫駅周辺はといえば未だ津波の甚大な被害を色濃く残していた。特に八戸港周辺の住居等の建物は其のほとんどが津波の餌食となり、地域の根幹を無くしてしまっていた。津波の猛威に潰されたのは、例えば、ガソリンスタンド店舗であり、漁業関係者のコミュニケーション広場であり、八戸市民との交流の広場であった。これらの修羅場的スポットを巡りつつ、おいらは言葉を失っていたといえるのだろう。

そして再度の乗車となったわけである。2時間あまりの乗車時間のほとんどは、山間谷間を突き進むばかりではあったが、其の中で瞬間的にも写り行く稀有なる光景の其れあれという光景を、おいらはキャッチしていきたいと希っていた。

そんなことからおいらは、穏やかな東海岸の風景を先ずはキャッチしていた。これまでは通常の電車による通過的事象でしかなかったことが、これだけに重大な意味と重みとを担っているのだから、おいらもしゃきっとしていたことは間違いない。これからは、特に南北リアス線をウォッチして近いいつか乗車したいと思う。

古き床しき軽米町の風景

東北新幹線が青森まで伸びて高速化が進んだ反面で、軽米町を取り巻く交通事情は不便となっている。少し前までは盛岡から高速道を使っての高速直行便こと高速バス「ウインディ号」は廃止されてしまって、軽米インターの降車場から町まで、てくてくと歩かねばならない。かつて久慈行き何度も利用した久慈行きのバス便も今は無い。陸中大野というバス停まで行って乗り換えねばならないのであり、そこで待たされる時間を思えば何だか億劫になることこのうえないのだ。

あり余る時間をとにかく歩き回った。東北も猛暑のまっ只中と見え、汗が滲み出している。まるで蒸し風呂の中にいるようだ。後からチェックしたら「16283歩」という堂々の1位のステップ数を記録したのだ。歩くということが日常生活の中での最も大切な健康法であることを再認識したのである。

軽米には古くて床しき景色が残されており、そんな風景に接すると、なんともいえない満たされた気持ちで一杯になる。宿をチェックアウトして、定期バスに乗車するまでの4時間あまりを散策して過ごすことになった訳であるが、古くて懐かしい土地の有難さに満たされていたのだ。

岩手県軽米町のアマランサス畑に見惚れていた

東北への旅に出掛けている。夕刻前には岩手県の軽米町に到着。この町は亡くなった妻の出身地であり、心の故郷である。懐かしい町なかを散策していると、いつもの事だが季節の花々が四季の顔でもって迎えてくれた。丘を登っていると目にしたのは赤々として重量感あるアマランサスの畑であった。この地は「雑穀」の故郷としても有名であり、もう少ししたら収穫のときを迎える。もうすでに刈り取りも始まっている畑もあるという。

軽米のアマランサスは「アマランサスうどん」として商品化もされており、おいらもときに触れてこの地のアマランサスを食してきた。濃赤色のその鶏のトサカにも似た姿から、「ケイトウ(鶏頭)」という名前がある。南米由来の穀物という説があり、さらには軽米町にて江戸時代から栽培されていたという記録もあり、その優れた栄養価等から「仙人穀(センニンコク)」とも呼ばれている。アマランサスは精白米に比べても、カルシウム約30倍、鉄分約50倍、繊維質約8倍を含んだ、いま注目の高栄養価穀物である。

ずっと気になる乙一氏の「平面いぬ。」を読んだ

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現在、現役作家としてとても気になる作家の筆頭が乙一氏であるといえるのかもしれない。あまり近頃は読んでいなかったのであるが、先日ふと目にした「平面いぬ。」を購入し、本日読了したのである。

ふとした思いから子犬の刺青を入れた少女と、タトー子犬とのやり取りが、コミカルに展開される。絆を得た彼女たちは、周囲の人間を巻き込んで更なる冒険をはじめるのである。

過去のデビュー作品としての「ZOO」や「GOTH」等から受けたインパクトは薄まって、かえって軽い気持ちで彼の作品に没頭している。そんな逆転的現象を受けて、さらに乙一氏への思いは強まっていると云ってよいのだろう。

芥川賞受賞作「冥土めぐり」(鹿島田真希著)

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鹿島田真希氏の芥川賞受賞作「冥土めぐり」を読んだ。400字原稿用紙にして110枚程度の作品で、一気に読み終えていた。前回の受賞作2作品に比べてみれば、わかりやすく正攻法な作品である。そもそも作家の邪気溢れるはったりやら、自己満足にしかないストーリーに付き合わされる読者の身としては、これほどの徒労感はないのであり、そんな文学愛好家の徒労感に些かなりとも芥川賞が関与して欲しくは無いのである。

作者の鹿島田真希氏を連想させる主人公の女性には、「病的」というのが適切であろう物欲の塊のような母親と弟が存在する。その母親の祖父というのが過去に一財産を築いた資産家であり、母親は過去のバブリーな生活の延長として、極めて病的な日常に埋没しているということである。

こんな家庭一族の悲喜劇模様を、バブル崩壊後の日本の縮図だと称する選評者もいるようだ。

――高樹のぶ子氏による選評

経済的な豊かさを剥ぎ取られてもなお虚飾と虚栄の夢を捨てられない浅ましい人たちを描くことで、経済力以外のアイデンティティをもち得ていない日本の縮図としても読める。女性主人公の母親と弟は、金銭の奴隷として描かれ、主人公は家族の荒廃した桎梏から逃げ出すように、頭に病を持つ夫を連れて一泊の旅行に出かける。

――

頭に病を持つ夫の描き方には、ある種の違和感を持っていた。無垢なるものとしての脳の疾患患者に対して殊更に天使の役割を担わせるには無理があると感じていた。

近頃IT界を席巻しつつある「タブレット」についての考察

先日は、さる中国料理のグループ店舗からの依頼により、中華料理メニューのタブレット化に取り組んでいたのだった。通常は紙ベースがベースとなるメニュー表、メニュー・アイテムなのではあるが、其れの代替としての、タブレット版のメニューにて案内しようという訳である。此のアイディアをおいらに示していたのは、某中国料理店グループ会長であり、会長はタイ国高級ホテル等のレストランにてこんなタブレットメニューに接し、是非此れを取り入れようという考えに至ったということである。

そんな事情もあり、近頃は「タブレット」を持ち歩く日々が続いている。ちなみに持ち歩いているタブレットは、ソニー製の「SGPT111JP/S」という機種である。結構頻繁に見かける機種であり、「iPad」に次ぐくらいの人気機種のようであると思われる。

ところでおいらはかつて、等ブログにて「iPad」について「暇つぶしの贅なる機器」等と書いたことがあった。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=1458
http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=1560

基本的な思いは変わることは無いが、日常的メディアの一つとして認識するにつれて、幾つかの特徴としての、メリット且つデメリットが目につくようになってきた。以下に幾つかを記してみる。

[メリット]
●「パソコン」に比較して電池の持ちが長いので、持ち運んで外出先にてネットにアクセスするには便利である。
●ポータブルを売りとするパソコンよりも軽量であり、鞄の中に忍ばせて、その重みを感じさせられることもない。

[デメリット]
●受動的に受け取るには良いが、能動的にネットへアクセスするには物足りない。
●ソフト、アプリ制作者として、「フリック」等、タブレット固有の機能を取り入れることが難しい。

ネバネバ食材の新顔「モロヘイヤ」で夏バテ予防

夏バテ予防に効果的な食材と云えば、オクラや納豆等のネバネバ食材が挙げられる。ここへきてネバネバ食材としての存在感を増しているのが「モロヘイヤ」であり、いつの間にやら日本の食環境の一環を占めるに至っている。

其の鮮やかな緑色が、豊富なベータカロチン含有を示しており、その他、活性酵素の働きを抑える抗酸化成分のクロロゲン酸やケルセチンなどのポリフェノールが豊富に含まれている。

原産地はインドやエジプトと云った諸説があり、兎も角も熱帯地方から伝来した品種である。それが亜熱帯化した我が国において定着しているのは、所謂一つの必然と云えるのかもしれない。

ミキサーで撹拌してスープにしたり、味噌汁にしたりと、その調理法もさまざまであるが、やはり一番シンプルでネバネバ感を味わえるのがお浸しなのであり、この料理に接することが多いのは所謂一つの道理なのだろう。

上杉隆氏による「新聞・テレビはなぜ平気で『ウソ』をつくのか」(2)

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同書においてかなりのスペースを割いているくだりが、鉢呂吉雄元経済産業大臣が、福島の原発事故現場を視察して後に、マスゴミによっての不条理な中傷を受けて辞任に追い込まれたという件についてである。

彼は述べている。

―――以下引用
私はこれまで、既存メアンフェアであると指摘し続けてきたが、この一件はアンフェアどころか、犯罪行為ですらあると言っても差し支えないと思う。完全なデマを流し、選挙で選ばれた政治家の地位と社会的身分を剥奪したのだから。
―――引用終了

上杉隆氏による「新聞・テレビはなぜ平気で『ウソ』をつくのか」(1)

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昨年末に、自らの意思にてジャーナリストの休業を宣言した上杉隆氏による、意欲的な1冊である。世の「ジャーナリズム」と云われる世界のひどさを身をもって体現し、其れへのアンチとしての抗議の休業宣言ではあるが、其の書を読む限りに論調にしみったれたところは微塵も無く、却ってからっとして爽やかさが満ち満ちている。ある意味で潔く、前向きである。これから先も何かやってくれそうな期待感がもたらされており、ジャーナリストの卒業宣言として受け取ることも可能である。

「3.11」を経てジャーナリズムへの嫌厭の念は頂点に達したようであり、前書きでこう記している。

―――以下引用
「3.11」後の混乱状況に際して、マスメディアは情報を隠蔽し、国民を欺き、国家の信頼を著しく毀損した。しかも当事者たちは、みずからの行為の意味も、それが後世に与えた影響の甚大さも、まったく自覚していない。
―――引用終了

西荻窪「焼とりよね田」の巨大な「つくね目玉焼き乗せ」

久しぶりに西荻窪の「焼とりよね田」に立ち寄った。同店の名物「つくね目玉焼き乗せ」は、その巨大さもさることながら、時々食べたくなる逸品である。

鶏肉の身と軟骨とを砕いて巨大な肉団子をつくって其れを炭火で焼いていく。団子は一つであり、食べ応えは極まりなく、そのジューシーな肉汁には頬が落ちちてしまうくらいである。

■焼とりよね田
東京都杉並区西荻南3-11-10

牛モツ、牛スジ、ハチノスの3点取り盛り揃えの「牛モツ煮込み」

通常「モツ煮込み」と云ったら、牛の小腸の部類のモツを煮込んで出されている。蒟蒻、牛蒡、大根、人参、等々の野菜は貴重な脇役としてその役割を果たしている。だがモツの煮込み系料理と云えば、「牛筋煮込み」「ハチノス煮込み」「豚モツ煮込み」等々の種類があるのであり、一概に「煮込みは牛の小腸を煮込んだ料理」と断定するのは間違いがある。

牛筋煮込みも、ハチノス煮込みも、或いは豚モツの煮込みも、それぞれに味わい深さが存するのであり、どれが一番秀逸かと云うことは決めかねるものではあるのだ。おいらの個人的な酒肴で、おっとっとと趣向で述べれば「牛筋煮込み」に一票を投じたいくらいに好みなのだが、然れども「牛モツ煮込み」「豚モツ煮込み」「ハチノス煮込み」が無くて済ませられるかと問われれば、否と答えるしかないのではある。

そんなこんなことを考えていたところへ、目に飛び込んできたメニューが、牛モツ、牛スジ、ハチノスの3点盛り揃えの3点盛りの「牛モツ煮込み」であった。

メニュー表を読めば、たしか牛の3種類の部署のモツが丁寧に煮込まれているとのことである。反射的に注文していたものではあった。3種類の盛り揃えとは最初は邪道かなという印象を強くしていたのだが、口にひと口含ませてみれば、これが想像以上に満足のいく味わいだったのではあった。刷り込まれた思いこそが邪道なのだと合点していた次第哉候。

今回もまた明らかとなった東京電力の隠蔽体質には呆れるしかない

東電擁護を発する馬鹿げた一部の馬鹿市民の声を背景にしてなのか、東京電力はここにきて、福島第1原発事故当時の映像を公開した。

然しながら肝心の音声が抜けていて、真実の究明には程遠い内容のお粗末極まりないものであることが明らかとなっている。

この東電からの映像の公開を受けて、菅直人前総理は、「音声どこかにあるはず」というコメントを発表している。

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20120806-00000984-fnn-pol

まさに「マスゴミ」のレッテルが相応しいのがフジ産経メディアである。こんなフジ産経メディアからの不条理極まりない相当なパッシングにあった菅直人さんによる、素直なメッセージなのであり、この音声を公開せずに、菅直人悪者説を報じ続けるマスゴミの邪悪な意図とも繋がっていると見るしかないのである。

現実として見る限り此処までも報道機関は汚猥糞尿の類いにまみれてしまっており、糞尿の垂れ流しを続けているというのが実態なのである。

不条理を垂れ流すのは「マスゴミ」ばかりではない。一部のお馬鹿極まる日本国民市民によっても増長されるのであるからして彼らの犯罪性に対しても論じていくべきである時代なのであろう。

赤羽「まるます家」の鯉のあらいと鯉こく

母が入院している見舞いで上州に帰省していた帰りに、赤羽で途中下車して「まるます家」に立ち寄った。鰻と鯉が名物の大衆居酒屋であり、入場するのに待たされるのがしばしばで、本日も5分程度は待った後の一杯ではあった。鰻は今年も何度か食べていたので、まずは「鯉のあらい」を注文。やはりそのピンクの張りのある艶やかな見目が食欲をそそったのだった。2品目は「鯉こく」こと鯉の味噌汁を注文。これもまた田舎味噌の風味が効いていて美味であった。お腹も一杯でそしてお酒も多少は注ぎ足していたのではあり、帰りの中央線ではうとうとと最寄駅を乗り越して高尾駅まで行っていてしまったのだった。う~む、若いときとは違うのであり気をつけねばならない。美味い酒と肴とは身を滅ぼしかねないのだということを思った次第なのではある。

Android版、ドコモ的スマホの使い心地(2)歩数計で健康管理

Android版、ドコモ的スマホの使い心地レポートの第2弾である。

初期設定にてインストールされていた使う気もないアプリの数々を、数日かけて削除したのではあるが、なお削除できないアプリがかなりある。そのうちの一つが「歩数計」である。メインアプリの一つと見えてなかなか削除が出来ないのであるが、そんなことから使い始めていると、次第にこのアプリの意味合いが判然としてきており、日々の健康管理に役立てている。

ちなみに本日のステップ数はここまで8533歩であるという。東京都下多摩地区の郊外から都心に出て行くだけでステップ数は多くを刻んでいると見え、おいらの予想をはるかに超えて、おいらは都内をステップしているらしいことが判明したのだ。

新しいスマホを購入して以来、何日かは1万歩を超えている。想像以上の運動量であると感じている。

夏バテ解消にも効く「谷中生姜」の味わい

「谷中生姜」を食した。初夏にはこの「谷中生姜」が居酒屋の人気メニューとして注目を浴びている。

台東区の谷中界隈では、幼い生姜の畑が一面に広がっていたという言い伝えがある。芽の根本が薄赤く、見た目も清々しさをアピールしている。

あらためて感じ取ったのは、この生姜の生食は夏バテ解消にも効くのだということ。
がぶっと噛み込んで、ピリリとした刺激を味わえば、夏の季節の清涼感を充分に堪能することが出来るのである。

生姜と云えば通常は、カツオなど刺身の薬味として、或いは魚やモツの煮込み料理のアク消しとして利用される食材だが、幼い生姜の瑞々しさを生噛りすると云う、このインパクトは筆舌に尽くしがたきものである。

薬味仲間の「大蒜」「山葵」等に比較して親しみやすいのは、ひとつに生食できることが挙げられよう。

Android版、ドコモ的スマホの使い心地(1)

ドコモのスマートフォンに乗り換えてから、一ヶ月弱が過ぎた。使い始めた当初は、想定外のバッテリーの消耗をはじめとして、お節介極まりないひつじのメール、頼んでもいないのに働き続けるアプリの数々にはとことん辟易していた。ひつじからのメッセージやアプリの働き具合は玉石混交にあると思うが、とにかくお節介なアプローチが去来し鬱陶しくてならなかったのである。

mimiさんによる適切な指南もあり、おいらは新しく購入したAndroid版、ドコモ的スマホの設定をとことんいじくり出していた。その概要は下記のとおり。

その1 使わないアプリはすべて削除(アンインストール)しようとしていた。だが削除できない基本的アプリは未だ大量に残ってあるのが現実だ。

その2 GPSやBrootoothなどのオプション的な基本的設定はすべて解除した。

上記の設定変更により、当初はバッテリーが1日ももたなかった状況は、1日+αくらいは長めに延長されている。余計なメールやバイブレーションによる告知も影を潜めているようだ。