ニッコールの名レンズが、オリンパスペンE-P1で甦るのだ。

先日、オリンパスペンE-P1にニッコールのレンズを装着するアダプターを購入した。本日は新システムの試写を兼ねて、新宿御苑などへと繰り出したのでした。

ニコンのF、F2、F3と云った「Fシリーズ」の隆盛を支えていたのは、ニッコールレンズの優秀性である。キャノンレンズには無い品の良い写り。ライカやコンタックスレンズのボワッとした個性は無いが、シャープさ、切れの良さには飛び抜けたものがあった。昔から「ニコマート」「ニコンF3」といった機種を愛機としていたおいらの家の戸棚の中には、クラシックなニッコールレンズが多数眠っている。アダプターなる代物によってそんな往年の名レンズたちが甦ったのである。

本日、「ニッコールの中のニッコール」とも称される「50mm F1.4」レンズを装着したまま撮影を続行した。画角は35mmフィルムカメラに換算して100mmに相当する。いわゆる中望遠系のレンズとなる。標準レンズだが使いこなすには慣れが必要だ。特に開放絞りに設定して撮るボケの味わいは素晴らしく、最新デジカメ用レンズには見られない独特のものがある。とても真新しく感じられたのである。

クラウス・シュルツェ japan live 2010

本日は日頃体験できないプログレロックを鑑賞できたので、気分は晴々なのであります。う~ん、それにしてもクラウス・シュルツェさんの存在感は凄かった。眠りを誘うアートというジャンルをシュルツェさんは展開しているのかもしれない。(※名前の呼び方を修正しました)

編集後記的に綴る、吾がブログとの半年間なのだ。

当ブログをスタートさせ、本日は半年を迎えたのでありました。

ブログの隆盛について、「自己テキストの時代」と称した五十嵐茂さんの言葉を引用させてもらったことは、おいらが自らブログを始めなければ決して出逢うことのなかった出来事であった。みなみさん、かもめさん、イカちゃん、そしてフルちゃん、などなどのブログの先達たちの後を追いかけつつたどった半年間であった。

当ブログのスタイルとしては、日々の雑記こと日記スタイルが基本である。便宜上「アート」「書物」「銀座」「居酒屋」「ランチ」等々のカテゴリーを設けているが、基本的にカテゴリーを意識してブログを書いている訳ではない。ことビジネス系のブログではこんなことはあってはならないのだろうが、当ブログの基本スタンスなのだから仕様がないのである。ビジネス系のブログとは一線を画して、今後ともせっせと続けていく所存なのであります。

沢尻エリカは井筒和幸監督の呼びかけにきちんと応えよ!


沢尻エリカの復帰初仕事となるたかの友梨ビューティークリニックCMを、本日初めて目にした。レーザー製の衣装と見えていたものは、実はCG処理を施されたものであったことが判明した。とするならば沢尻エリカは全裸でCM撮影に臨んでいたということになる。その心意気は良しである。だがやはり、CMにて仕事復帰というシナリオは、誰が描いたのかは知らぬがいただけない。復帰をするならば映画の主演女優を演じるという王道を歩んで欲しかったのだ。名匠・井筒和幸監督も、エリカのことを心配して呼びかけを何度か行なっていたではないか。エリカよ目を覚ませ! そして原点に立ち戻れ! なのである。

そんなことを叫んでみたところで本人の耳には届かないことだろう。だから今宵はちょいと視点を変えて、エリカたんの「別に…」発言の持つ意味について、考察してみるのである。

事件となったのが、映画「クローズド・ノート」の舞台挨拶である。行定勲監督による同作品は駄作ではないが大したことはない。フツーの娯楽作品としての条件を満たしているものに過ぎない。井筒監督ならばさしずめ「テンポがなってない」などと一蹴するに違いないだろう。もしやもしやの仮定話であるが、エリカたんが「こんな通俗映画なんか、私だいっ嫌い」などという思いを秘めてあの「別に…」発言を行なったのだとしたら、大した大物である。それならばなお更に、これからの彼女がとる道は決まってくるのだ。井筒和幸監督の呼びかけに早く応えて、井筒さんとともに納得できる映画づくりにまい進するしか、エリカたんには道がないのである。沢尻エリカよ、早く目を覚ませ! なのである。

パッシングされた沢尻エリカの向かうべき今後の、正と邪。

銀座のソニービルでは沢尻エリカの巨大なポスターが道行く観光客らの人々の視線を釘付けにしている。極小ブラと腰まわりを隠した皮製のなにやらを身にまとってポーズしているのだから、思わず知らずに足を止めて見つめてしまうのもせん無きことだと云うべきだろう。ポスターに踊っている「沢尻エリカ、解禁。」のコピーは、様々に不穏当な憶測を呼ぶのだが、まあ何てことはない、芸能界に復帰できてオメデトー、初仕事はこれたかのゆりのCMですよと、まあ単なる人を喰ったセレモニー、イベントのである。

そもそも沢尻エリカと云えば、井筒和幸監督の映画「パッチギ」で女優デビューを果たし、その可憐な存在感で多くのファンを魅了したものであった。それが一昨年の「別に…」騒動で芸能マスコミの餌食となってしまった。ちょっとばかりお行儀が悪かったという程度のネタなのだが、それが芸能マスコミの格好のターゲットとされ、パッシングの対象となったのだから不運であった。

「持ち上げるだけ持ち上げて、落とす」。これが芸能マスコミの基本的スタンスである。沢尻さんはデビュー間もなくさんざん持ち上げられていて、たぶん有頂天になっていて、「私は女優よ、もともと女優よ。女優なんだから生意気よ。生意気なんだから、マスコミは媚び諂いなさい。」云々という、云わば思い上がり的境地に辿り着いたのではあるまいか。ただしそんな境地はまだかりそめのものであって、芸能マスコミがお膳立てしたものでしかなかったのである。だから結局のところ、芸能マスコミの格好のネタにされてしまったことを強く認識すべきなのである。

おいらはかつて芸能マスコミの一員として仕事をしたという恥ずべき過去を有しているが、ただし沢尻エリカさんをパッシングするような邪道なサメ集団では決してない。それどころか、エリカさんの復帰を歓迎するものなり。敬愛する俊才、井筒和幸監督が見込んで主役に抜擢した逸材が、こんなことで萎んでしまってはならないのである。もう一度「パッチギ」に抜擢された女優の原点に立ち返り、女優としての再起を図る心づもりが必要である。CMに起用されたからと云って浮かれていてはいけないのである。

「贅沢は素敵だ」の今日的な意味について。

最近「プチ贅沢」というのが流行りなのだそうな。不況のあおりでなかなか贅沢はできかねるが、かと云って禁欲生活を続けていくばかりでは心も萎む。良いことなど何にもないのである。おいらもたまにはプチ贅沢などしたく想い、通勤帰宅列車に特急指定席券など買い込んでしまうのである。本日もまたそんなプチ贅沢気分で帰宅したのでありました。東京駅発高尾行き中央ライナーの指定席に乗車。追加料金500円なり。

さて話は少々古くなるが、かつて「贅沢は素敵だ」というキャッチコピーで華々しい脚光を浴びていたのが、コピーライターの糸井重里さんである。いわずもがなの解説になるが、戦時中にはお上から強制された「贅沢は敵だ」をもじっている。一言「素」の文字が入っただけで意味合いは逆転する。過去のメジャーコピーは一転して古臭い黴臭いものとなり、新たなるコピーが活き活きしたものとなり蔓延するのだから面白い。歴史を茶化し、文明を茶化すこんな芸当は、糸井さんの専売特許と云っても過言ではない。

それにしても「贅沢は素敵だ」の社会は過去のものになりつつある。不況といった状況ばかりではない。贅沢を望まないライフスタイルは、今や珍しいものではない。おいらもまた贅沢な資本主義的生活は飽き飽きであり、もっとまともなる生活に切り替えていきたいと考えているところなのである。

ごった煮の街、上野アメ横の引力。

上州出身のおらにとって、上野の街とは格別に縁の深い都会である。上州はじめ東北、北海道など北国日本の出身者にとって、上野といえば巨大都会東京の玄関口となっている。かつて岩手出身の天才詩人こと石川啄木さんは、上野の街を題材に故郷への想いを次のような一片の詩(短歌とも云う)に託して謳っている。

ふるさとの訛なつかし
停車場の 人ごみの中
そを聴きにゆく

ご存知、教科書にも出てくる「一握の砂」の中の一句である。我が国の地方出身者の多くがこの句を励みとしながら都会生活を送っていることは想像に難くない。啄木さんもまた故郷岩手の渋民村を懐かしく想いながらの詩を沢山残していることはよく知られている。それくらい幅広いファンを有している啄木の代表的な作品である。

その反面、多くの地方出身者にとって東京とは、過去においては憧憬でありまた現在においては苦難や失望、あるいは絶望をも象徴する巨大な街として存在する。人生をふさぐ壁となって屹立する存在しているのである。27歳という若さで夭折(イカさんの好きな言葉である。ちなみに「夭折」と「溶接」は似て非なる言葉であるので注意が必要)した啄木さんを慕い想う気持ちが、おいらを度々この街に吸い寄せてしまうのである。

さて昨日は久しぶりに上野のアメ横を訪れたのであった。戦後の闇市が進化発展して現在の景観をつくりあげたとされるアメ横は、未だなお亜細亜、オセアニアなど海外からの異文化を吸収、反芻しながら変化発展を遂げている。他の街では接することのできないごった煮の文化文明が息づく様子がとても刺激的なのである。

多摩の早咲き桜は「小彼岸桜」というそうな。

小ぶりだがピンクの可憐な花びらが艶やかである。

先日雨模様の中で見かけた桜のことが気になって、も一度眺めに行きました。しかしながら桜の花までの距離は想いの外に遠く、3メートルはあろうかと云うほどの、遠距離恋愛ならぬ遠距離鑑賞デーとなった訳である。こういう場面に遭遇したおいらとしては、徹底的に近付こうと試みるかあるいはそのまま立ちすくむか、どちらかを決断しなくてはならない。まるで想いを寄せる女性に対する仕草と似ていなくも無いのである。だが鑑賞を深めつつそんなことはどうでもよくなってきたのである。小ぶりだが可憐な花びらを開花させて愉しませてくれる、地元多摩の小彼岸桜は、まるで忘れていた胸きゅん体験にも似ていたのでありました。

八王子の富士森公園といえば春の桜で有名だが、早咲き桜の種類はやはり、染井吉野ではなかったようである。

聴くところによると「小彼岸桜」という名前だとか。う~む、なんとも風情豊かな名を付けられたものである。もうすぐ、彼岸の頃には満開の花を咲かすのだろう。ちゃらちゃらと着飾った華やかさはなく、却って可憐であり瑞々しさが伝わってくるのであります。

太宰治流「卵味噌のカヤキ」+ふきのとうの香りは絶品なり。

 

卵味噌の素朴な味付けとふきのとうの独特な苦味が絶妙のハーモニーなのだ。

久々においらも創作料理に励んだのでした。先日ここでも紹介した「文士料理入門」にあった、太宰治さんのとっておきお勧め料理「卵味噌のカヤキ」ことホタテの味噌卵焼きにチャレンジしたのです。青森県の津軽地方においては定番の郷土料理であり、この料理について太宰治さんの「津軽」にはこう記されている。

「(前略)卵味噌のカヤキを差し上げろ。これは津軽で無ければ食えないものだ。そうだ。卵味噌だ。卵味噌に限る。卵味噌だ。卵味噌だ」

よっぽどこの料理に愛着があったと想像するのだが、その調理法にも独自の作法を必要とするのだ。

まずはできるだけ大振りの殻付き帆立貝を用意する。そして帆立貝の殻に味噌と卵に出し汁と葱を乗せて中火で炙るといういたってシンプルな焼き料理である。帆立に葱と卵と味噌というのが基本の取り合わせではあるが、ひと工夫したのが、春の味わいとして最大の味覚でもある「ふきのとう」を取り入れたこと。季節の食材を取り入れて創作料理に活かすことは基本であるからして、ふと思い付いた。そしてそれが的中したというわけなのである。

ふきのとうは味噌とよく調和する。過去のある場所で「ふき味噌」なるものを味わったことの記憶は深く刻まれている。そんな春のふきのとうの苦くて香り高い食材が、太宰さんの地域料理と完璧にマッチしたことこそ、本日最大の発見であった。

極上の53年もの。水上勉の「梅干」は至宝の文士料理なり。

昨日に続いて文士料理に関する話題である。文士料理に欠かせない要素が「時間」であるが、そんな味覚と時間が織り成すストーリーの最たるものが水上勉さんの「梅干」という随筆にあることに想い当たり、蔵書を調べたのです。

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子供の頃から梅干作りに勤しんでいたという水上さんの梅干に対する想いの深さは半端ではない。子供の頃に禅宗寺にて修行の日々を送っていた水上さん。厳しい修行に耐えかねて逃げ出したと語っているのだが、修行の日々に漬けた梅干に特別な愛着を持っている。

テレビ番組の企画で禅宗寺時代の和尚さんの娘さんとの面会を果たしたことがあり、その時にもらった、53年ものという梅干を口にしたときのことを詳細に記している。残念ながら和尚の奥さんは亡くなっていて逢えなかったのだが、奥さんが嫁入りした年に漬けた梅干を、その娘さんが大切に保存し、その貴重な梅干樽の裾分けの中の一粒を、噛み締めつつ泣いていた。

一粒の梅干が生きた53年という時間は、水上さんという作家の人生とも永くまた実に深々とした交いを有していた。そんな食物の歴史を受け止め涙する作家が記しているのは、人生にとってもの食うことの特別な意義について語っているのだ。おいらもまた自身の人生と食と酒とのあれこれを、このブログで記していこうという思いを新たにしたのでありました。

味覚と時間の尽きない対話。「文士料理入門」より。

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「文士料理入門」という新書を読んでいる。新書版ながら定価1000円(税抜)という、些か高価な買い物をしてしまった。何故おいらは、あるいは人は、文士料理なるものに惹かれてしまうのだろうか?

「文士料理」と一言で括って語るのは難儀である。肉食系、菜食系、等々と云った共通の趣向性がある訳でもなければ、文士の人生哲学が料理に反映されているという訳でもない。しかしながらどこか懐かしい。たとえ初めての料理であってもひじょうに郷愁をそそるのである。

そんな郷愁を感じるのは、幼少期に過ごしたであろう豊かで無尽蔵な時間というものを、そこに感じ取っているからなのだろう。坂口安吾先生のメニュー「わが工夫せるオジヤ」では、3日以上煮込んだ野菜ぐつぐつスープが無くては始まらないという特性オジヤを開陳している。3日煮込んだスープとはどんな味わいなのかと、創造するだに待ち遠しくなってくる。そんな時間を持てたら嬉しい。最近はそれ以上の贅沢は無いと想えるくらいに。

たとえ物は無くてもあり余るくらいに無尽蔵な時間というものが、そこにはあったのだろうと想うのである。ハンバーガーなどと云ったファーストフードではこのような豊かな時間を味わうことは決してできないのである。

あえて共通の基本点を探れば、インスタント調味料などは使わないということである。味の素ファンであるフルちゃんはこうした意見に反論なのだろうけどなぁ(笑)。

「Skype(スカイプ)」とやらを始めたのです。

本日、ビジネス関連の連絡に関する諸事情などあり、「Skype(スカイプ)」というものを始めたのでありました。とはいっても、職場のかしまし娘にそそのかされて、強引にそのアカウントを登録させられたというのが正しいのです。しかも、アカウントを登録したのはいいが、まだ何も使いこなしていないという惨めな状況なのであります。

ちょっとばかり調べてみると、インターネットを介して、昔式のチャットはおろか無料電話やビデオ通話などができるというのである。ビデオ通話というのはテレビ電話というようなものか。それが器材一式を揃えれば、極めて格安に実現してしまうというのだから時代の趨勢は馬鹿にならないのである。

「どこにいても、一緒にいられる。」などというキャッチコピーが踊っている「Skype(スカイプ)」ホームページにアクセスしてみれば、なんだか訳もわからずに利用したくなるのもやむを得ぬ的なる状況になってしまうのである。

http://www.skype.com/intl/ja/

さてさて、「Skype(スカイプ)」の登録したパソコンの電源を切るのを忘れていたというまずいことに気付いた。明日は真っ先にそのパソコンの電源を切って通信を解除する必要がありそうだ。まことにもって文明の進化とやらは煩わしいことこのうえないのである。ジャンジャンっと。

瀬戸内寂聴が金原ひとみに宛てた恋文

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金原ひとみの「ハイドラ」を読了した。読後感はとても爽やかである。そしてまず初めに、もっとも興趣をそそったのが、瀬戸内寂聴さんの巻末の解説文であったことを記しておきたい。

まるで、瀬戸内さんが意中の人、金原さんに宛てて送った恋文のような趣きなのである。金原ひとみは凄い、才能がある、素晴らしい、云々と、まあ臆面も無くといってはなんだが、それくらいに絶賛の雨あられ状態なのである。解説文の役目を遥かに逸脱する個人的な想いを綴った賛辞の数々。人生80年以上を過ぎればこれくらい無邪気に恋文を綴れるようになるのだろうかという文章であり、それこそが男女の性別を超えて「恋文」の名に値するのだ。いぶかるくらいに、天真爛漫な愛情に満ち溢れている。まさしく稀代の名文なのである。けっしておちょくっている訳ではない。「文庫の解説文」というある種の公の媒体にこれくらい堂々として私的な想いを開陳できる瀬戸内寂聴先生は、やはり只者ではなかったのである。

一応は書評というかたちで書いているので、「ハイドラ」についても記しておこう。有名カメラマン新崎と同棲しているモデルの早紀が主人公。カメラマンの専属モデルでありながら、彼に気に入られる為の無理なダイエットなど強いられている。そこへ現れたのが、天真爛漫なボーカリストの松木であった。早紀を取り巻く二人の男とそれ以外の男女たちが、テンポ良く、跳梁していくというストーリーである。

一時期のおいらであったら、こういう小説を風俗小説の一パターンと判断したかも知れない。だがこの作品は瑞々しさ、目を瞠るほどの筆致の小気味良さ、等々によって、判断を一新することになった。確かに風俗描写を超越した世界観が表現されているのである。

早咲きの多摩の桜に見とれていたのです。

些かローカルな話題になるがご容赦あれです。八王子の富士森公園といえば、多摩地区では春の桜で有名であります。

先日は小雨の降る中富士森公園を散策していたのでしたが、散策の歩を休めてふと見れば、しとしとしとどに侘しい公園の桜の木には、あれやこれやの花が咲いていたのでした。そりゃ吃驚でしたのです。やはりメジャーな染井吉野風情とは顔も形も一味違うぜおいらたちは!的な、至極天晴れな姿を目にしたのでした。

天邪鬼なおいらにとってはまさに感動の賜物なり。どこが違うかって云っても、伊豆の河津桜みたいに別種のものではないし、親戚付合いは拒まないし、これからもどうぞよろしくと、挨拶したくなるくらいの違いでしかないのですが、それにしても早咲きの天晴れは見事でした。ひとよりも先んじて咲く桜はまさに桜の中の桜である。うっかりして写真に撮れなかったので、近々のリベンジを誓う今宵なのです。

http://hanami.walkerplus.com/kanto/tokyo/S1309.html

「睡眠障害」という現代の病

「週刊新潮」最新版のコラム「あとの祭り」にて、作家の渡辺淳一さんが眠りの障害について書いている。作家に加えて医師という肩書きも持つ彼には、不眠症を訴える人が増えているという。そんな相談には「眠れないのなら、眠らなくてもいいんだよ」とアドバイスし、それが効いたと述べているのだが、あやしい限りである。

対して川上未映子さんもまた同週刊誌の連載コラム「オモロマンティック☆ボム!」にて、自身の「睡眠発作」について記していた。読めば、「鈍器で殴られたような眠気」に襲われるのだというのだ。「ナルコレプシー(睡眠発作)」という病名まで記してその深刻さを訴えているのだ。

前々から感じていたことなのだが、未映子さんの美貌の側面には、眠気を誘うような独特の気だるさ、アンニュイ感があって、そんな彼女の眠りの世界にご一緒したいという無意識裡の願望が、彼女の表情に特別な気品の憂いを添えているのだろうと感じるのである。しかしながら当のご本人は、彼女の眠りの中の世界では、怖さや悪夢ばかりに悩まされているというのだから尋常ではなく甘くもないのである。結局のところ未映子さんは、飲めないコーヒーを飲んでみるしかないのかと〆ているのが妙に痛々しい。

かつておいらが某出版社に籍を置き、一般書籍の企画編集を手掛けていた時分には、「睡眠障害」をテーマにする書籍の企画の出版実現に動いていたことを想い出した。自らを顧みつつ、そんなテーマの出版物の必要性を感じ取っていたのだったが、残念ながらその企画は実現しないままぽしゃってしまった。機会があればまたその実現を企図していきたいなどと想っている今宵なり。

本日もまた寒波が吹き荒れていて、春日まだ遠しなのであり、睡眠薬代わりのアルコールが必要となってくるであろうなどと、いささか構えつつ、人生の三分の一の時間を費やす睡眠との良い関係を持ちたいと切に希うのでありました。

新じゃがいもの欧風肉じゃがを食したのです。

欧風の味付けが利いていた肉じゃがなのです。

「新じゃがいも」なるものが目に付き始めている昨今の季節なり。3月頃に収穫される「新じゃが」のほとんどは、九州地方で出荷されたものである。じゃがいものメッカである北海道では、今のこの季節に「新じゃが」が収穫されることはまずないのだ。関東にても同様である。九州地方でこの季節に収穫された新じゃがは、まず小ぶりである。そして水分をたっぷり含んでいて瑞々しい食感が特徴である。秋に収穫されてふっくりと太ったじゃがいものようには、保存が利かないことが、難点なのである。

さてさて本日は、そんな新じゃがを使った肉じゃが料理を食することができたので紹介しておきませう。よくある甘辛の肉じゃが料理とは一味違い、欧風の味付けをほどこしていることがポイントである。豚肉スープでありながらもコンソメスープの如く澄んだスープで煮込んであるのだが、じゃがいもを味わうにこの欧風スープは格別であった。繊細な新じゃがいもの風味を損なうことなくほくほくと味わうことができたのだから満足でありました。

銀座は今や即席インタビュアーたちのメッカなのだ

映像の時代、ネットの時代と、人々がもてはやしている間に、そんな時代のスキマをねっては、キャッチインタビューが横行している。キャッチセールスならぬキャッチインタビューである。東京の真ん中にある銀座は、まさしく即席インタビュアーのメッカだと云ってよい。欲得に目がくらんだミーハーたちを鴨にして食する光景がみられるのである。

もつ焼き屋のガツ刺しはときどき凄く旨いと感じるのです。

もつ焼き屋に行って食べるのはもつ焼きのみにしかず。旨いもつ焼きを出す店は、もつの「刺身」というものを提供するので、それが目当てに足を運ぶことも珍しくない。豚の内臓で旨いのは、ガツ刺しである。つまりは豚の胃袋のこと。豚のレバーなど出す店があったら敬遠したほうがよさそうだが、ガツの刺身というものは生では出されず、湯がいて提供される。コリコリと歯ごたえ良く、しかも脂っこくなくて珍重な趣きを感じさせる。フレンチ料理に一品あっても可笑しくない風情を有しているのである。しかもこのガツは、胃袋に良いとくる。おそらくは眉唾の流言なのだろう。しかしながら今日の大変に胃袋なりを酷使したときには、流言をも藁ともすがりたくなるのだ。嗚呼、心ぼそきときにこそ真実は宿るのである。今宵、真実の一端を垣間見たような、そんな気分であったのでした。ジャンジャンっと。

ところで某TV番組「ケンミンショー」では、群馬県民の代表的メニューなどとして、天下無双のタルタルカツ丼なるものを放映していた。おいらは群馬県出身ではあるがそのような代物はこれまで口にしたことなど一度も無い。まつたくもって群馬県民を愚弄する放映であった。

時代の寵児「自己テキストの時代」を先取りした川上未映子さんの今昔。

昨日引用した川上未映子さんの処女随筆集の言葉は、書籍として発表された彼女の初の作品ではあるが、それ以前に初出として、川上さん自身のブログ「純粋悲性批判」にて発表されていたものである。そのじつは「発表」などという性質のものでさえなく、「公開」あるいは「エントリー」と云ったほうがしっくりくる。川上未映子さんこそ進取の精神で、自身のブログを自己メディアとして活用した、この道のスペシャリストだと云っても過言ではない。
http://www.mieko.jp/

本日あらためて、川上未映子さんのブログにアクセスしてみたのである。以前にアクセスしたときと比べて更新頻度が減っている。以前にこのブログでも書いたが、時代は「自己テキストの時代」である。時代を先取りしたはずの川上さんだが、その進取の姿が見て取れないのが、いささか寂しい思いなのである。更新頻度ばかりではなく、記述されている日記内容も、何時何処で誰が誰と何々をした云々かんぬん、といったことを記しているので、何時からこんなにフツーになってしまったのだろうかと、甚だ残念にも思うのである。もっともっと初心に戻って記す未映子さんの日記が好きだ、未映子さんの時代を貫くブログをまだまだ読みたいと切に希うのである。

川上未映子さんの言葉に太宰治の天才性を解く鍵があるのです。

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公開中の凡作映画「人間失格」は何故駄目か、ということをしきりに考えている。太宰治さんの原作は天才的に凄いのになんだこの凡作は! しっかりせいっ! ていう意味である。ギャップが大きいほどに叱咤激励したくなるのは世のならい也。

だがなかなかしっくりした言葉が見つからないのだ。足りないものは、センス? 情熱? 思想性? はたまた貴族性? 天才性? 選ばれたることの恍惚と不安の凄さか? う~ん、そんなんじゃないじゃない、駄目だだめじゃ! そんなこんなの今宵、かの美人芥川賞作家こと川上未映子先生の処女作「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」に、大変ヒントとなる言葉が見つかったので紹介しておきます。

「ってまあ、最後は僕すごく幸せ、幸せですっていうことで、思わずこっちが照れますよ。物を作る人間に限らず、力を形にし切ったあと、恋愛でもなんでも、そう思える束の間の幸福、これのみを体験するために生まれたんだよ俺は私は僕は、つって叫び出したい、意味はないがもうとにかく叫び出したい境地が確かに、あるのですよね完成は。」

川上さんが太宰さんについて記した文章の抜粋である。芸術家だろうがなかろうが、物を作る人間っていうのは豪いんですよ、えらいんだっ! その喜びを感じ取ることさえ曖昧な、風俗的世間の姿かたちばかりを描写して、何ぼのもんじゃねん! 監督の荒戸源次郎よ、顔を洗って頭冷やしてやり直しじゃねん! 次第に興奮してきたのではありますが、まことにかの映画には、頭にくること多かりしなのでありました。