明日からの、第15回「八王子画廊散歩」に参加します

今年も「八王子画廊散歩」の時期となり、おいらも明日からのこのイベントに参加する予定であります。

■第15回「八王子画廊散歩」
2012年3月8日(木)~3月13日(火)

http://www.atorie248.com/garousanpo/

今年のおいらの作品展示画廊は、八王子駅からはちょいと遠くなって「ギャラリーヤスタケ」であります。駅から徒歩で15分くらいの場所にある。1階が喫茶店で、その2階がギャラーとなっている。建物全体がツタの樹木に覆われた何とも趣向をそそる喫茶店の2階である。

■ギャラリーヤスタケ
東京都八王子市八幡町12-11
042-626-8114

明日の午後2時半からは、おいらがちょうど会場当番となっているのであり、興味のある方は御来廊ください。

ちなみに昨年は、八王子市内の最古の歴史を持つ「芙蓉」という画廊で、ウインドウズ側という目立つ場所にて展示してもらっていたので、初対面の人からも色々と、好意的かつ刺激的な評価をいただいていたことを想い出す。「家に飾りたいです」などと云ってもらいながらも買ってもらうことは出来なかったのではあったのだったが…。ともあれ久々に浮き浮き気分の前夜なのである。

具沢山過ぎる今時の「すいとん」考

戦時中および戦後の一時期に「すいとん」とは、質素なと云うよりお粗末至極な食べ物の代表的存在であったが、今時の居酒屋にて提供される「すいとん」はと云えば、とても具沢山であり、お粗末、質素どころか、味わい深き逸品のメニューとなっていたのだった。

かつてのメリケン粉こと小麦粉を練って団子状にして、熱々の鍋に仕入れて行くという基本は一緒なれども、添えられる具材が、鶏肉、蒲鉾、ほうれん草、蒟蒻、葱、等々と具沢山であり、まるで長崎チャンポンか中華の広東麺か五目ラーメンくらいに豊富なのであって、一目見てこれは戦時中、戦後の「すいとん」ではないなという印象に苛まれてしまっていた。おいらがたまに家でつくるすいとん以上に具沢山であり、そのギャップはと云えば、ある種のカルチャーショック的なものであった。

現代日本の郷土料理の中で、岩手の「ひっつみ」というメニューが、すいとんの発展系とも云えようが、それ以外にも、埼玉本庄界隈の「つみっこ」等々、すいとんをベースにしたメニューは全国に拡がって定着している。

ちなみに今回食した具沢山の「すいとん」は、東京の郷土食がベースとなっているそうだ。地元東京都内の居酒屋店主の試行錯誤の表れとも云うべき、ホットで満足至極のメニューではあった。

バカ貝とも呼ばれる「青柳」の刺身に舌鼓

中身は綺麗なオレンジ色の色味で魅了させてくれる、別名「バカ貝」との異名をとるのが「青柳(あおやぎ)」である。食感もまたつるっとして独特の風味を感じさせてくれる。決して侮れないこと請負である。

二枚貝の外見はと云えば、蛤にも似ており、其の昔は江戸前寿司ネタの主要アイテムであったと云うことだが、最近はそんな姿を隠してひっそりとしており、マニアックな食通の舌を唸らせているかのごとくである。

其の身の視覚的印象は、べろっとだらしないように舌を出したかの如くでもあり、そんな風体から「バカ貝」との嬉しからざる命名をされたと云う説がある。或は「馬鹿に捕れる」と云った、とても捕れて嬉しいのだと云う、本来は賛嘆すべき形容がその謂れであると云った説も根強く流布しているのだ。

どちらの説が正統であるか? といった試みには、残念ながら手立てを失っているのであるが、それにしても、「青柳(別名「バカ貝」)」のしっとりとした食感にはいつに無く舌鼓であったのである。

高級魚の仲間入りした「キス(鱚)」の南蛮漬け



白身魚の「キス(鱚)」と云えば、天ぷらかたまに塩焼きにして食べるくらいしかなかったが、このたび鱚の南蛮漬けというメニューに遭遇。早速食べてみたら、品の良い白身に酢味が程よくしみており、これは鯵や鰯の南蛮漬けよりいけるぞと云う思わぬ発見をしたのだった。滅多にお目にかからないメニューだからと、じっくり味わっていただいたという次第也。

そもそも鱚という魚、図鑑や水族館ではお目にかかるものの、それ以外の魚屋、スーパー、等々で生身のその姿になかなか出逢うことがない。寿司屋のネタケースにはたまに鱚を見つけるが、仕込まれたネタに鱚の面影を見ることは出来ない。今では釣り人か一部の漁業関係者くらいしか出逢うことのない特別な魚であり、大衆魚とは一線を画しているのだ。天ぷらで食するには鱚の旨みがなかなか伝わってこない。かといって寿司屋で食うにはその味は淡白すぎるようなのだ。南蛮漬けに注目する理由にも、それなりの道理があったと云えるだろう。

634mの「スカイツリー」がついに完成

ついにと云うべきか、634mの「スカイツリー」が完成したというニュースを耳にして、下町界隈に向かっていた。浅草から徒歩で墨田区へと入り、次第しだいにとそのツリーの姿は巨大になっていった。

のっぽのツリーではあるが、太陽光線を斜に浴びていたり、或は反射光を浴びたりしているその姿形は、万華鏡のように多彩ではあった。

もちもち太目の「韓国ラーメン」で夜食タイムなのだ

就寝前の3時間はものを食べてはいけませんと、指導医からきつく指導されているおいらであるが、たまに禁を破って夜食に手が伸びてしまう。若い頃の夜食とは自ずと異なり、肉、ソーセージ類は使用せず、有り合せであるけれども出来るだけ多種類の野菜を煮込むことを心がけている。

そんな夜食で最近重宝しているのが「韓国ラーメン」。所謂「インスタントラーメン」であり、韓国でラーメンと云えばこの種のものを指している。生麺が普及していないというのだが、其処には「反中国」の国家的政治的意図が働いているのではないかと訝ってしまう。韓国は日本に対して以上に中国に対するそうとうの敵愾心を抱いているのかと考えさせてしまうのだ。

仮想敵を作って国内世論を引き締めようというのは中国の得意芸であるが、韓国も負けず劣らずの、国内引き締め策に余念が無いようだ。ラーメンに生麺が使用されないという食生活は、国際国家の条件にかなう訳など無く、EPAを推し進める李明博政権の実態が見て取れるのである。

真の国際化はアメリカのいいなりになり貿易自由化することなどでは決して無く、国の独自性を維持しながら、他国の良い習慣や生活アイテムを取り入れていくことが基本となるのであり、中華生麺が日本の蕎麦や饂飩と匹敵するくらいのグレイトな麺であることを認めていくことを除いては在り得ないと云って良いのである。もちもち太目の韓国ラーメンの讃歌を記そうとしていたのだったが、そんな気分もなくなってしまっていた今宵なのであった。

如何にも危なそうなダイエットサプリ「ジーザスボディ ≪Jesus Body≫」に手を出してしまった

もうかなり昔の話になるが、八王子の長崎屋デパートは潰れてその跡には「ドンキホーテ」がお出ましとなったのだった。おいらもちょくちょくとこの安売り店には足を運んでおり、激安酒やら激安家具やらと云った物を漁っているのではある。何せこのような不況の時世ともあれば少しでも安いもの安いものへと触手が伸びてしまうのも致し方なきことと思われ候。

ところで先日は、「真鍋かをりさんもこれでダイエットできた…」云々の店内アナウンスに惹かれて図らずも、ダイエットサプリ「ジーザスボディ ≪Jesus Body≫」を購入してしまった。商品の装丁デザインを見るからに、如何にも危なそうなサプリであることが匂って来るのだが、真鍋かをりさんがダイエット成功した云々の店内アナウンスの迫力にも圧倒されてしまっていた。結局は購入し、先ほどは3粒ほど口に入れていた。使用説明の「お召し上がり方」には、「1日あたり6粒から12粒を目安に水またはお湯でかまずにお召し上がりください。」とある。3粒ならばまだまだ宵の口ではある。使用説明書と違うのは、おいらが水またはお湯ではなくお酒と一緒に口にしていることであるが、結局日常的行為であるのでことの重要度からは低いと云えよう。

健康指導の女医さんのアドバイスにより、現在ダイエットに精を出しかかっているところのおいらではある。ダイエットはそこそこ進行はしているのだが、もっと過激にダイエットをしたいという欲望がこのダイエットサプリの購入、使用へと駆り立てて行ったのだった。一定のセーブは利かせつつも、ダイエットサプリの効果についてもこれからレポートして行きたいと思っているところなのだ。

「なごり雪」と呼ぶには強烈過ぎる首都の雪景色

今朝からの寒気で目が覚めた。TVでは雪のニュースで賑わっていた。TV朝日局の番組では丁度、八王子駅前で天気レポーターが立っていて、お天気兄さんによる実況中継などが放映されており、故に朝方から家を出るのが億劫になっていた。

「天候不良による倦怠感による」等々の、さしずめ女子高生風の理由を口実にして、職場を欠勤したくもなっていたくらいであった。がしかし欠勤をしたならば、後日になってどんな噂を立てられるかも知らぬのであり、それ故に、気怠い朝の一歩を踏み出していたのだった。

身が締って中々楽しめる「飛魚(トビウオ)」の刺身

海上を羽ばたいて飛ぶことから飛魚と呼ばれる。この飛魚の疾駆する姿は未だ生で接したことはないが、それにしてもとても神々しい。魚という生命体にプラスされた特別な能力が、何か特別な天からの摂理というべきものを感じ取らせるのだ。

刺身として食したその飛魚の身は淡白だが、とても身が引き締まっており、とても味わい深いものであった。

添え物として乗っていたのは飛魚の羽根だ。広げると立派な空を飛ぶ羽根になる。想像していた以上にでかい、巨大な神々しき羽根なり。

「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」が開催(2)

■インディアンレッドの地の壁画

分け隔てられたブースを辿っ て行くと、広いスペースにただの1点の作品が展示されている場所へと行き着いていた。作品名「インディアンレッドの地の壁画」。題名から読めるとおり、壁 画としての利用を前提として依頼されて制作したという、ポロックの中での数少ないカテゴリー作品に含まれる。

塗料をキャンバス上に滴らせて描くポーリング、ドリッピングと云われる技法や、オールオーヴァー、アクションペインティング等々と称される志向性が頂点を迎えた1950年の作品であり、ポロックと云えば真っ先のこの作品が引用されることが当然となっている。評価額が200億円とも称される、現代美術の最高峰とされている作品である。

ゴッホやピカソを超えたとの評価が与えられているが、これには相当大きな疑問が付きまとっていることも確かである。ヨーロッパに遅れをとっていた米国美術界が金力にものを云わせて総出で手掛けたイベントの一つが、同作品への超高額評価であり、その役割を担う役者としてポロックに白羽の矢が立てられたと云うのが、客観的な見方ではあろう。アメリカンヒーローに祀り上げられたポロックは、センセーショナルな報道のターゲットとなり、映画作品のモデルともなったが、彼にとっての益に適ったかと問えば、決してその様なことは無かったと答えるべきであろう。

■カット・アウト

オールオーヴァーのスタイルを確立したポロックが、そのボード絵画を切り抜いて構成した実験的な作品である。今回の展覧会場でおいらが最も観たかった1点でもある。

人型にも見える切り抜いたその背後には、荒く絵の具を刷り込ませたキャンバス地が姿をのぞかせている。この手法の作品は6点あるとされているが、展示されていたのは我国の「大原美術館」が所蔵しているもので、同シリーズの中心的作品である。

解説文に依れば、このカット・アウト作品の見せ方に苦慮していたポロックは様々な実験と思索を繰り返していたが、突然の事故でついにその完成を示すことは無かったと云う。現在展示されている作品たちは、妻のリー・クラズナーの判断によって完成されたものとなっている。

「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」が開催(1)


米国現代絵画の巨匠と謳われるジャクソン・ポロックは今年、生誕100年を迎えた。それを記念して我国(米国ではなく日本)では「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」が開催されている。名古屋展に続き、東京展が東京国立近代美術館にて2/10~5/6の期間で開催中である。

■生誕100年ジャクソン・ポロック展
期間:2/10~5/6
場所:東京国立近代美術館
〒102-8322千代田区北の丸公園3-1

現代作家としてのポロックは尊敬すべきアーティストには違いないが、おいらにとっては同時代の米国で活躍したアーシル・ゴーキーや、アンフォルメル絵画の巨匠ことジャン・デュビッフェ達の方が圧等的なアイドルであって、ポロックに心酔したり特別に傾倒することは無かった。或は作品制作においての影響も小さかったと云うべきである。然しながら今回の「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」は企画回顧展として相当規模の展覧会であり、これを見逃したら一生出逢うことの出来ない作品群を思えば、出かけない訳にはいかなかったのである。

まず会場に足を踏み入れて最初のブースで感じたのは、20代のときのポロック作品の充実さである。厚塗りでぐいぐいと表現して行くそのスタイルは、ピカソの初期作品やミロの作品を彷彿とさせ、ある作品は岡本太郎の作品世界を想起させてもいた。ポロックが岡本太郎に与えた影響について、一つの示唆を齎してくれていたのであった。

(この稿は続きます)

司修さんの「本の魔法」から、本と作家と装幀家との濃密な関わりが匂ってくる

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装幀家として名高い司修さんの近著。古井由吉「杳子・妻隠」、島尾敏雄「死の棘」、中上健次「岬」、等々の戦後日本の近代文学を代表する書物の装幀を手掛けた司修さんが、装幀の現場におけるエピソードを綴っている。取り上げられている15の書物のどれも彼もが、作家との厚い交流が基として成り立っており、おざなりの仕事から産まれた本は一冊も無い。

おいらが司修さんの装幀の仕事に対して最初に目を瞠ったのは、大江健三郎氏の書籍たちだった。エッチング等の版画の技法を駆使して描かれた司作品は、大江健三郎作品の挿絵としてではなく、イメージが何倍にも膨らみ弾けて描かれており、司氏の装幀作品の重層性を余すところ無く示してもいたのだった。

だが何故だかこの「本の魔法」という一冊から、大江健三郎作品が省かれているのが、余談になるが、とても不可思議なポイントでもある。

久々にありついたアメ横「豚坊」のロールキャベツ

上野アメ横のガード下にあり、おいらもちょくちょくと顔を出す「豚坊」で、「ロールキャベツ」に久々にありついたのだった。

毎回のようにこの「ロールキャベツ」を注文するのだが、何時もいつものごとく「売り切れです」の店員の一言が返ってくる。おいらはてっきりこのメニューは客を釣る、云わば騙しのメニューであると決め込んでいたのだったが、そんな決め込みを払拭すべく、肝心要の「ロールキャベツ」にありつくことが出来たという訳なのだった。

上野のアメヤ横丁界隈はとても馴染み深い界隈であり、しばしば散策するのであり、最近ちょくちょくと腰を降ろして一献やっているのが「豚坊」なのである。その昔は「錦」という看板を降ろしていた同店舗の軒下の想い出は数限りなく存在している。

とてもグロテスクだが味は悪くない「手羽餃子」

鶏の手羽先を用いた餃子、或は餃子に見立てた手羽先料理と云うのが「手羽餃子」と云うメニューである。

もう何年も前だったが最初にこのメニューを視て接した時の驚きは筆舌に尽くせないものがあったことを思い出す。手羽先を餃子にすると云うのは快挙ではあるが途轍もなく無謀な試みと思われ、こんなグロテスクなメニューを開発した人間の気が知れなかったというのが本音であった。

だが、本日食したその「手羽餃子」は、グロテスクさを控えめに見せて出されていたので、箸を付ける前にも「美味そう」という印象を強くしていた。しかも箸を付けて喉にくぐらせれば、逸品料理の味わいにも感じさせるものであった。

この体験はまさに「手羽餃子」を見直すきっかけとなったのである。

日本人に「水餃子」が受けない訳

中国料理系居酒屋で飲んでいた際に「水餃子」を注文していた。何時もだったら「焼餃子」なのだが、今日は気紛れの風が吹いたようにて、普段とは違うメニューを食する羽目になったのだった。

出てきたその「水餃子」は、スープにも入っていないただの茹でた餃子であって、それに葱の切身がぞんざいにかけられていたのであり、おいらは一見して残念な思いにかられてしまったのだった。やはり焼餃子にすべきだったと考えたのも後の祭りであった。

凝視してしまったところ、その「水餃子」とやらは、薄っぺらい皮に包まれたワンタンを大きくしたような代物だったのだった。ワンタンも時々は食するが、取り立てて美味いものではない。ワンタンをわざわざ注文して酒を飲むのも、ある種の不条理と云わねばなるまい。

日本の餃子は焼くのが当たり前であり、こんがりと焼き目を付けて、其れを見た目でも味わいつつ食するのだ。それに引き換え「水餃子」ときたら、薄っぺらな生地から透けて見える肉のあんのみすぼらしき様相である。この違いは決定的であると云うべきと考えていたのであった。

しかるにして全く納得できないままにして、「水餃子」メニューを後にして、中国系居酒屋を立ち去ったのであった。

時々この味が恋しくなる、牛の「ネクタイ(食道)」

地元の焼肉店に立ち寄った。牛のモツが豊富なこの店は、様々な部所を味わえるので、時々訪っているお馴染みの店ではある。

例えば牛の、第1から4までの胃袋、すなわち「ミノ(第1胃)」「ハチノス(第2胃)」「千枚(第3胃)」「ギアラ(第4胃)」という4種類の胃袋などを味わうことが出来るということで、ある日にはまった。

本日食した希少部位とは、牛の食道部位である。「ネクタイ」というメニューで提供されていた。

「塩味がお勧めですよ」という店員の声にしたがって「ネクタイの塩味」を注文。脂の量は少ないと見え、炭火に乗せても炎が着火する兆しも無い。ゆっくりじっくりと焼肉の工程が味わえるのであり、じわじわと点火していく食欲ともあいまって、美味しい時間を過ごすことができたのだった。

塩味は些か強過ぎると感じたのだが、コリコリとして適度な食感が、またまた食欲をそそっていた。

稀にとは云えこんな食欲増強の時間を持つことは決してダイエットに良いわけが無いのであり、またまた反省しきりの今宵なのである。

土鍋で美味しい「鯛めし」を炊いたのだ

行き付けのスーパーで鯛の切身を目にし、早速「鯛めし」にしたのだった。鯛を見ると「鯛めし」がつくりたくなる、食べたくなる。

鯛の味を生かすには、昆布が必要であり、逆に云うならそれ以外は必要が無い。昆布と少量の醤油のみの味付けで充分だ。

研いだお米をいつもの御飯炊き用の土鍋に入れて昆布を敷く。鯛の切身は予め火にあぶっておき、焦げ目を付ける。生とは違い鯛の味を深めるひと手間となるのだから手抜きはできない。

ふっくらとした鯛の香りとともに炊き上がった土鍋から、昆布と骨付きの鯛とを取り出し、鯛の身をほぐしてから土鍋にもどした。鯛の身のみから滲み出た脂の香りが食欲をそそった。

円城塔氏の「道化師の蝶」は果たして、言語を無に帰する試みなのか?

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芥川賞受賞作こと円城塔氏の「道化師の蝶」を「文藝春秋」誌の最新刊にて読了した。だが然しながらであるが、実は今回は、言葉を失っている。感想はおろか、作品分析の取っ掛かりさえ掴めないような、ある種の言葉を失っているような状態なのである。

タイトルとなった「道化師の蝶」には、「道化師」「蝶」といった云わば想像力を存分に刺激するべき語彙的要素を有したタイトルではあるが、然しながらそんな想像力やら期待やらを抱いて書物にのぞむと完全に裏切られてしまうことが請け合いである。

それはまるで、言語を無に帰する壮大な試みなのかとも感じ取らせてしまうくらいである。果たしてそうなのであれば、円城塔氏は途轍もない天才作家と云うことにもなろうが、そんな作家が居るのかどうか、存在可能なのかどうかさえ、覚束ない。

芥川賞の今回の選考委員会は、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」受賞時のそれほどではなかったにしろ、そこそこに紛糾し揉めたかのようである。「選評」を読む限り、積極的に推した選考委員は居なくて、初回投票にては過半数にも達しなかった。通常はこれで選外となる運命なのだろうが、今回は特別に、主宰者である文藝春秋社側の特別な要請で、再度の受賞討議が行なわれて、結局のところはそこそこ揉めた末に受賞作品となったとのこと。

「支持するのは困難だが、全否定するのは更に難しい、といった状況に立たされる。」(黒井千次氏評)

「〈着想を捕える網〉をもっと読者に安売りしてほしい。」(山田詠美氏評)

「この作品だって、コストパフォーマンスの高いエンタメに仕上がっている。二回読んで、二回とも眠くなるなら、睡眠薬の代わりにもなる。」(島田雅彦氏評)

「これは小説になっていないという意見もあれば、読んだ人たちの多くが二度と芥川賞作品を手に取らなくなるだろうと言う委員もいた。賛否がこれほど大きく割れた候補作は珍しい。」(宮本輝氏評)

「『道化師の蝶』なる作品は、最後は半ば強引に当選作とされた観が否めないが、こうした言葉の綾とりみたいなできの悪いゲームに付き合わされる読者は気の毒というよりない。」(石原慎太郎氏評)

「今回の『道化師の蝶』で初めて私は『死んでいてかつ生きている猫』が、閉じられた青酸発生装置入りの箱の中で、なゃあ、と鳴いている、その声を聞いたように思ったのです。」(川上弘美氏評)

川上弘美氏は好感度を込めて選評を記しているが、戸惑いの評をもまた綴っている。川上さんは授賞式にて「二人のカメレオン」と受賞作家を称揚したという。川上さんのそんなコメントを確認してから、もう一度この受賞作品と向き合って行きたいと思うのである。

今時の注目野菜トマトをたっぷり用いた「ロールキャベツのトマト煮」

メタボに効くとして大人気の野菜ことトマトを用いて、「ロールキャベツのトマト煮」をつくった。トマトの脂肪燃焼効果は、京都大などの研究グループが10日付の米オンライン科学誌に掲載されたことから、スーパーの野菜売り場から姿を消したほどの人気だと云う。価格も高騰現象を呈している。

もともとトマト好きのおいらにとっては、トマトにメタボ効果があると云うことなど云わば常識の範疇だったのだが、今時のニュース種はこんなことをトピックスとして報じているのが何とも意外な印象を抱くのだが…。

ともあれ、トマトをたっぷり使った「ロールキャベツのトマト煮」は、弱った胃袋への優しい癒し効果も感じ取られており、リコピン効果充満した夕食に舌鼓だったのではありました。

ダイエットに向くかと「チャプチェ」を注文してみた

韓国料理に「チャプチェ」という料理がある。韓国風の春雨を基本に、玉葱、人参、竹の子、ほうれん草、等々の野菜と炒めて、ゴマを振り掛けるというシンプルな料理だ。味付けの多少の相違はあるが、日本や中国の料理メニューにも、同様のものが無い訳ではないが、やはりこの手のメニューの代表格は「チャプチェ」ということになる。

巷間流布され聞くところによれば、お隣の韓国という国においては、美容整形及びそれに付随するダイエットの風潮が満開の様子ではある。おいらがチャプチェを注文した某店にても「野菜たっぷり」などと、美容に良いという点が強調されていたのであり、おいらもそんな文言に惹かれてしまったことは否定できない。

今回食したチャプチェは、辛味もほどほどに抑制されていて、味付けは程よい韓国風といった塩梅だった。日本風、或いは中国風の春雨炒めとの、云わば決定的な違いというものを捉えることは、残念ながらできなかったと告白しておかねばならない。

春雨炒めというメニューであれば、或いは日本風か中国風のものの方が優れているのかもしれない。ということを本日のクエスチョンとして指摘しつつ、キーボードを置くことにする。