中華風「すいとん鍋」を食する。

戦中戦後の鍋といえば「すいとん鍋」ということを、家族親戚の誰彼ともなく伝えられて育ってきたのである。だがおいらが時々食べていたすいとんは、そんな戦中戦後の世相などを感じ取ることもないように、野菜や豚肉やらがてんこ盛りに盛られた豪華仕立ての鍋なのであった。本日食した「すいとん鍋」は、中華スープが効いていた。素朴な味わいがグッドである。

蜷川実花監督「さくらん」、そのレッドとピンクの大きな乖離。

 

散り行く桜を惜しみつつ、映画「さくらん」の話題を少々。ビートたけし映画の基調色を「たけしブルー」と呼ぶなら、蜷川実花映画の基調色は「蜷川レッド」である。鮮やかな天然色の中でもレッドは飛び抜けて存在感を示す基調色となっているのである。それくらいに彼女の撮る映画の色調は独特であり個性的である。写真家としてすでに著名な彼女であるが、ちょうど写真にて写し取られる色彩の世界を、映画という大衆娯楽映画の世界に持ち込んで成功させているのである。

映画「さくらん」は蜷川実花の初監督作品ということだが、まさしくこれだけ自分自身の「カラー」を出せるのであるから、実力も相当なものである。しかしながら不満がない訳では決してない。彼女が描く色使いは基本的に計算づくに仕組まれたものであり、それゆえに、無意識裡の欲望やら無常観やら激情やら憤怒やら…その他諸々の情念からすると距離をかんじさせるもなのである。

一例を挙げるならば、ピンクの不在が挙げられる。レッドが薄まったところにピンクが存在するという認識は誤りである。レッドは豊富に存在していながらピンクの不在がこの映画に顕著なのである。当代きっての新進気鋭女性監督と女性漫画家、女性脚本家、そして今をときめく女優陣たちといった強力な布陣、これが当映画の売りであったと想像する。だがその目論見は成功しているとは云えないだろう。

光の三原色、あるいは絵の具の四色といった色彩原論に根拠を置く映像の制作スタイルは、とても計算づくであり、どこか潤いに欠けている。男性の目からというより人間の視線を真っ当に受け止めていないと感じてしまうのだが、思い過ごしだろうか?

「ヴィヨンの妻」を鑑賞。「人間失格」とは月とすっぽんの出来栄え。

レンタル解禁となった「ヴィヨンの妻」(太宰治原作・根岸吉太郎監督)のDVDを鑑賞中である。先日観た凡作映画「人間失格」に比べて素直な原作解釈なストーリー展開であり、また主役の松たか子がいい味を出していて好感が持てる。何よりも天才作家に対する畏敬の念に溢れているところが好ましい。映画は娯楽であり、しかも役者の持ち味に依っているところが大の大衆芸術である。変てこな風俗描写などしていた「人間失格」に比べて月とすっぽんの出来栄えなのである。やはり映画はこうでなくっちゃいけないのである。出だしを観れば映画の良し悪しなどの区別はつくものである。今日観た「ヴィヨンの妻」は傑作であったと記しておこう。

永遠不朽の坂本龍馬人気を利用する政治家たち。

今日、ソフトバンクの孫正義氏が妙なツイートをしていた。追跡してみると、NHK「竜馬伝」に関するトピックスのことを色々PRしていた模様なり。

http://twitter.com/#search?q=%23ryomaden

まさにリアルタイムで番組の感想が書き込まれていく。まさしくこれは龍馬のファンクラブの集いであろう。twitterというメディアの一面を垣間見た思いである。坂本龍馬に関して常識的な知識しか持ち合わせていないおいらは、とてもファンクラブの集いに参加しかねるが、だがそれ以上に、これだけの熱狂渦巻く人間たちの群れには距離を置いていたい。ファンクラブを超えて信者同士の会話というのはどうも苦手である。

それにしても坂本龍馬人気は一時期の長嶋茂雄並かそれ以上と云えよう。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」がはじめて刊行されたのが1963であり、50年近い年月が経過する。司馬遼太郎作品のみならず、映画界での「竜馬暗殺」、漫画では「巨人の星」の星一徹が熱狂的な龍馬ファンとして登場する。様々な仕掛けとともに龍馬人気は永遠不朽のものとなったのである。

新党ブーム、離党ブームであるが、そうした政治家の言葉からはきまって「坂本龍馬」の言葉が出てくるのも、龍馬人気のもの凄さゆえのことだろう。鳩山邦夫の離党の会見で述べた「龍馬さん云々」のコメントは滑稽でさえあった。あるときは「革命の闘士」、ある場所では「憂国の獅子」として、我田引水的に解釈され崇拝されるのは、龍馬がNo.1である。政治的信条はどうあれ、これだけ名前が利用される当の龍馬さんは、草葉の陰でどのように感じているのか知りたいところである。

散る桜 残る桜も 散る桜(良寛和尚より)

多摩の富士森公園で観る桜も、桜吹雪が舞っていて綺麗でした。そして、良寛和尚が詠んだという有名な一句「散る桜 残る桜も 散る桜」を想い起こさずにはいられないほどの、春うららの日和でありました。

この一句、良寛先生の辞世の句という説もあるが、定かではない。これほどに決まった名句を、辞世の句として詠めたとしたら、天才中の天才としてその名を歴史上の至るところに記すことになることでせう。だがそんなことはなかったらしい。とても人間的な良寛和尚の、陽春の頃に詠んだ一句だと想いたい。命の表象としての「桜」の、さらに晩年の命としての「散る桜」。それは生命力を全うして散っていくという姿を表象しているのかもしれない。ところで今年の開花前線は、専門家泣かせであったらしい。寒かった春が一挙にポカポカして陽春を主張し出したのだから難しいのだろう。「女心と春桜」という一句を詠んでみたのだが、全然決まらぬ。

湊かなえさんのベストセラー小説「告白」は、プロットが先行した暴走小説か?

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昨年(2009年)の「本屋大賞」に輝いた作品ということで、前々から気になっていた湊かなえさんの「告白」を、遅ればせながら読んでみた。第1章の「聖職者」は立ち読みで大体のところは把握していたが、第2章以降を読み進むにつれ、想像していたストーリーとはかなり異なった展開に些か戸惑いつつも、一気呵成なる読書体験の世界へと足を踏み込まされることになっていたのである。「人間の闇」などとマスコミで称される人間の心理分析等を素材にしながら、若々しくあっけらかんに調理の腕を振るっている。だからよくある推理小説、ミステリー小説の類いとは、ストーリーの展開方法やモノローグによる構成立て等々とは、かなり趣を異にしている。「小説推理新人賞」の受賞者としての肩書きはまるでピンと来ないのである。それぞれの章によってモノローグ(独白)のスタイルが異なっている。この変化するスタイルのことなど、あまり推理小説界には見慣れない手法であるのだろう。多くの評論家が指摘するように、作者の筆力にはとても敬服するのだが、それが緻密な計算ずくなものではなく、おそらくは一気呵成な登場人物へのなり切り、憑依にも似た思い入れの賜物だったとしたら、手放しで賛嘆の言葉を並べることに躊躇を覚えるのだ。推理小説の伝統やら常道やらの壁を突き破って出てきた作品には違いないのだろうが、未だに気にかかるのである。それは見方を換えれば、プロットが優先して物語性が粗末にされた作品に対する、正邪併せた思い入れなのだろうという気がする。若気の至りなどという言葉さえ浮かんでくる。未だに古い殻を突き破れないのが自分なのかもしれないのであるが、どうにもこうにもならないのである…。松たか子が主演する「告白」の映画が制作されたという。観に行くべきかどうか迷っている。原作以上に映画に感動するケースもあるから、おそらくは観に行くことになるのだろう。ベストセラー的作品の別の面を観て楽しむことができるかもしれないと期待しているところなのである。

まことに腑に落ちない「ヤフー」の「ブログ検索」。

オリジナルブログを始めて約7ヶ月が経過する。その間、いわゆるSEO(サーチエンジン最適化)的な作業もそれなりにこなしてきたのです。αブロガーとまではいかなくとも、ブログ発信者としては幅広く多くの人たちに対して、おいらの「自己テキスト」が届いて欲しいと思うし、何か響きあう感触、手応えなどが欲しいと希うのである。その点で、おいらの「みどり企画のブログ」が採用している「WordPress」というシステムは、すこぶるハンディが大きいことを実感している。「Livedoor」「Goo」「Excite」「Teacup」等々の大手企業が運営しているブログシステムでは、ブロガー同士のコミュニティ機能がはじめから備わっているのだが、「WordPress」にはそれがないのだ。周囲のブロガーが大型客船に搭乗して優雅な航海をしているのを尻目にしつつ、自らは大海に一人乗りの小型舟に乗り込んで、手漕ぎのオールをたよりに航海していくようなものである。近頃は「ブログ村」「ブログセンター」などのブログコミュニティーの存在を知り、せっせと宣伝に励んでいるので、その成果あってかアクセスは伸びているのである。

だがそれでも解せないことがある。もっとも腑に落ちないのが、「ヤフー」の「ブログ検索」にはこのおいらのブログが、全く引っかかってこないということである。一応は、否何度も何度も「Ping」を送ったり、登録依頼をしているのだがさっぱりなのである。もう手の施しようがない感触なのである。その点ではライバルの「Google」の反応はすこぶる良いのだ。投稿して数分後には検索に反映されていることも稀ではない。前にも何処かで感想を書いたが、「ブラボー!」と呼びたいくらいの反応の良さなのである。この両者の違いはどこから生じているのか? 今後はそんな疑問を解き明かしていきたいと考えているところである。

春を告げる鰆(サワラ)の焼霜を食す。

春の魚と書いて「鰆(サワラ)」と読ませる。読んで字の如くに「春を告げる魚」であることから名付けられたが、春には産卵のために岸辺、沿岸に近付くことから人目に付きやすく、漁獲量も増えたというだけのことであり、鰆自体の生息量が増えたりするのではない。人間様の勝手な印象にて名付けられたものである。鰆はけっこう巨大な魚であり、全長60cm以上にもなる。ちなみに60cmに満たない子供の頃を「サゴシ(40~50cm)」「ナギ(50~60cm)」などと呼ばれる。ブリと同様の出世魚なのである。

やはり春以外の季節にその姿を見ることは稀であり、刺身などにありつけたらラッキーと思うべし。巨大魚らしく皮が厚くしっかりしていて、皮面を炙って提供されることが多いのだ。メニューには「鰆の焼霜」とあった。近頃の寿司屋でもよくみられる炙りものである。口に含めば確かに焼いた鰆の皮が香ばしい。良い舌触りがなんとも云えないのである。

春の香りはふきのとうの香りで味わうのだ。(ふき味噌、ふきのとうのかき揚げ)

本日食したのは、「ふき味噌」と「ふきのとうのかき揚げ」である。どちらも春の香りをこのおいらの味覚に届けてくれたものであり、美味なり。小泉進次郎なる馬鹿者政治家がマスコミTVを賑わしているのを見る度にうんざりなのだが、そんな馬鹿げた世相を一蹴するかの如くのインパクトを有している。この味覚こそ天晴れである。

文士料理の店、高円寺の「コクテイル」を探訪したのです。

高円寺の飲食メインストリートとも云うべき中通商店街を行く。3~4分と歩いたところにお目当てのお店はありました。看板も無いような地味な店構えなので、普通に歩いていたら見逃していたことでしょう。

店に入り、ホッピーと最初のおつまみを注文する。

「今日は文士料理のめにゅーはあまりないんですよ」

書籍「文士料理入門」の執筆者のおかみさんが云う。メニューを見れば、他ではなかなかお目にかかれないものが並んでいた。だがそれ以上に、お通し(付け出し)として出された「ひたし豆」には度肝を抜かれたのである。青豆を煮て酒と醤油の煮切り汁に付け込む。それ自体は普通だが、煮切り汁には山椒の実が入っていて、そのピリリとした風味がアクセントを添えているのである。付け出しにそこまで拘る居酒屋は珍しい。その他、本日注文したメニューは以下の通りである。

・豆腐の味噌漬け
・煮こごり
・かぶと人参のピクルス

ホッピーセットと中を飲み終えたおいらは、次に「本日の日本酒」に目が行った。聞けば「じょっぱり」という、青森の地酒だという。迷うことなくその酒を注文。

「冷にしますか? それとも常温にしますか?」

またまた難題であるが、これも迷うことなく「常温」に即決したおいらであった。けだし常温で飲めない日本酒など邪道系である。即決即断の効果はあったのである。(最後は鳩山首相のコメントをもじってみました)

上州に帰省して眺めた「憂鬱なる桜」(萩原朔太郎より)。

久しぶりに帰省して眺めた春の桜はしみったれていた。朔太郎先生がかつて謳ったとおりの姿であった。

憂鬱なる桜(萩原朔太郎「青猫」より)

憂鬱なる花見(憂鬱なる桜が遠くからにほひはじめた)
夢にみる空家の庭の秘密(その空家の庭に生えこむものは松の木の類)
黒い風琴(おるがんをお弾きなさい 女のひとよ)
憂鬱の川辺(川辺で鳴つてゐる)
仏の見たる幻想の世界(花やかな月夜である)
鶏(しののめきたるまへ)

それだからおいらも、古里上州にて桜見物の良い想い出がなかった訳である。いま東京へ帰り着いて、「仏の見たる幻想の世界」を夢想している。

「アホの壁」にみるエロスとタナトスの二元論のユニークさ。

先日紹介した筒井康隆さんの快作「アホの壁」にみられる共通のキーワードは「エロス」と「タナトス」である。様々なアホの事例を示しつつ、根底に流れる2つのキーワードから現象を紐解いていく。本日はその手法にならいつつ、桜の花見宴会に興ずるアホたちの性癖について分析を試みてみる。

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桜の花には人が集まり、そうした衆人環視の中での宴は特別な意味を持つのである。例えばおいらが花見宴会によく参加していた若き頃には、グループの中の誰かが木登りをしてみせつつ、転げ落ちたり、突拍子のない言葉を叫んでみせたりしていたものである。居酒屋の閉ざされた空間でのバカ騒ぎとは異なり、桜の花びらと観衆たちの目に晒されることにより、劇場的なドラマへとワープさせ展開するのである。その原動力となるのがエロス+タナトスという一見相反するエネルギーの協働作用によるということなのであるから、バカもアホも一筋縄ではいかないのだ。バカをアホを侮ってはいけない根拠はエロス+タナトス論の真実性に基づいているのである。

ピンクが映える上野の夜桜は見ごろなり。

関東随一の夜桜のメッカといえば、上野の恩賜公園である。糸井重里さんの言葉を待つまでもなく、桜の木の下にビニールシートを敷いて宴などに興じている人々は馬鹿者の権化である。昨今は馬鹿が許される場所は少なくなったが、ここ上野恩賜公園は馬鹿者が特権的に棲まう場所なのであろう。

朝には暴風を吹かせた天気も落ち着き、夜桜の見ごろとなった。白けた都会の桜を見るのはぱっとしないのだが、こんな夜桜は悪くなく、興趣をそそるのである。ピンクが映える都会の夜桜は昼の桜の数段上等な趣をかもし出している。上野の桜、特に夜桜は、この数日が見ごろだろう。

twitter界隈ではエイプリルフールが大流行の様子である。

 http://twitter.com/search?q=%23usotwitter#search?q=%23usotwitter

年に1度だけ嘘が許される日だということで、嘘の出来栄えを競ったりしているのはなにやら滑稽至極なのだが、全てが滑稽な訳ではない。凄い嘘の名手は居ないかとチェックしてみたのだ。考えるに人間の嘘というものには幾つかのパターンが存在する。

その一つが「自慢的嘘」である。。「俺はこれくらいビッグな人間であるのだっ」という普段はつけない嘘を、この日とばかりについてみるケースである。一時的な恍惚感へと誘うのだろうが、そのような嘘は早晩ばれることが必至である。ばれた時の反動的落胆は想像に余りあるものがある。余程の誇大妄想狂でなければこんな嘘はついてなんら得することがない代物である。

二つ目の嘘が「口説き的嘘」である。思いを寄せる人の気を引きたいという一心でつく嘘だと云ったらよいだろうか? おいらを含めて誰にも有るだろうというよくあるケースである。このケースの場合、特定の対象が居なければ意味を成さないのであり、たとえうまくいったところでこれまたいずればれる運命である。うまく行ったらばれるのであるからして将来的な自身の未来の首を絞めていることになるのである。こんな嘘はついて得することがないと心得るべきだろう。

もう一つの顕著なパターンが、「良い子的嘘」である。昔々に良い子していて褒められたことが懐かしいのか、ひたすら良い子を演じて悦に入る。いい大人になって良い子を演じるのも骨が折れるが、折角つく嘘に「良い子的」項目を取り入れなければならない大人こそ情けない大人たちである。

twittrでは嘘を自動生成する機能が備わったサイトが人気なのだ。ちなみにおいらも自分の嘘とやらを自動生成してみたが、全然ピンとこないし洒落にもならないのである。投稿の中からいくつかキーワードを抽出して組み立てなおしているという、それだけの代物である。朝のTV番組でやっている「今日の運勢」と同じく無視するに越したことはないのである。実はもっと大きな嘘をつきたいと考えていた。嘘とはつき通してこそ嘘の値打ちが上がるのである。今夜は少々の嘘をついたが、笑って見逃してください。

荒木径惟・舟越桂「至上ノ愛像」展をみて思う母子愛の崇高さ。

「高橋コレクション日比谷」にて「至上ノ愛像」展が開催されている

http://www.takahashi-collection.com/

写真家・荒木径惟と彫刻家・舟越桂とのコラボレーション的二人展である。展示されている作品の目をひく大部分が、熊本市現代美術館で開催された「荒木径惟 熊本ララバイ」に出品された「母子像」シリーズのうちの12点となっている。幼い子供と母親とが全裸でカメラに向かい被写体となる。そうした数十組の母子像の姿をとらえた写真群の一部がこの企画展にて展示されている。すなわち「熊本ララバイ」にて作品に接することのできなかった東京人へのお披露目という要素も、この展示会が担っているというわけなのである。ちなみに「熊本ララバイ」の展示会図録は開催間もなく売り切れ完売となったそうだ。それだけ展示会としては至上の人気を博したものであった。

昨日エントリーした「アホの壁(議論の続きはまた後日)」でも触れたことだが、「アホ」とは人間社会においての潤滑油ともなり得る貴重な存在であり、愛すべき要素を持っている。人がカメラの前にて全裸になる、すなわち「アホ」になるには相応の根拠を必要とする。昔の女優であれば「芸術のため」等々の決まり文句が存在していたが、今の世の中、そんなお目出度い言葉は見当たらないのであり、「アホ」の称号を博することが必至なのである。至上の愛とはそんな俗世間のしがらみを払拭すべくパワーをもたらすものである。「熊本ララバイ」の成功がそのことを証明しているのだ。

それにつけても「至上の愛」とはよくもまあのたまったものである。日本語には「無上の愛」「極上の愛」「究極の愛」などといった同様の意味する言葉があるのだが、何故「至上」なのだろうかと、何故か拘ってしまうのである。「無上」という言葉は仏教的であまり一般的ではないし「極上」にいたっては金ピカ成り上がり的雰囲気をまとっていることなどがマイナス的要因ではある、しかも「究極」ときては人気漫画の剽窃とも疑われかねない、等々の検討過程が想像されるが、しかしながら「至上」が何故選ばれたかの根拠は定かではないのである。おそらくスタッフの誰かの入れ知恵で「無上」はこうこうで駄目、「極上」はあれこれでマイナス…的な、スタッフアドバイスが噴出したのだろうかと推測可能である。

「バカの壁」を凌駕する「アホの壁」の面白さ

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筒井康隆さんが「アホの壁」(新潮社新書)という書をしたためたと聞き、早速読んでみることにした。ベストセラーにもなった同じく新潮新書版の「バカの壁」に比べて、遜色ないどころか断然にこちらが「上手(うわて)」である。遥かにこちら(アホ)の方が面白いし、考えさせるネタを提供してくれている。「バカ」のほうは一段高い地位に己を置いたりすることからくる視野狭窄的観点が難点である。理科系秀才の嫌味がそこかしこに撒き散らされてあり、とても読めた代物ではない。さらに云えば自ら筆をもとらずゴーストライターの手をわずらっていることなど、とても一流の書物とは云いがたいのである。そもそも養老某のあの独りよがりの喋りは不快感のたまものである。不快文化人の筆頭が勝間和代だがそれに続く不快文化人である。こんなものらがベストセラーになるのだから、日本出版界の現状は情けないと云わざるを得ないのである。筒井さんの「アホ」には、アホに対する愛情さえ感じ取られるものとなっており、彼の筆力との相乗効果もあいまって、出色の新書版となっているのである。

それはそれとして、この「アホの壁」には、ブログ、ネット心中、等々のネット時代ならではの現象に対する考察がとても目に付き、行き届いており、とても考えされるのである。これについては後日にあらためて論ずることにしたい。(この項続く…たぶん)

満開の桜の木の下に立つと、誰でもバカに見える。(i)

タイトルに示したのは村上春樹と糸井重里との共著「夢で会いましょう」の中の、糸井さん担当の章に記された一節である。

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そろそろ東京も桜の見頃かと銀座の桜の咲く公園を散策したが、まだまだであった。幸いなことに満開な桜がなかったため、バカ騒ぎする人々の姿も見当たらなかったのである。春かと思えばみぞれ降る空模様に、桜のつぼみもどうしたらよいのか迷っているに違いない。現在はまだ2分咲きといったところだろうか。周囲を気にし周りに合わせる。周りを気にしてなかなか早咲き桜が後に続かないのは日本の桜だからこその光景である。

廣瀬裕子著「とっておきの気分転換」でリフレッシュ。

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押入れの中に眠っている文庫本「とっておきの気分転換」(廣瀬裕子著)をめくって読んでみる。表題のとおり、気分が落ち込んでいる時、滅入っている時などに効く、気分転換のおすすめ本である。ハウツー本の一種と云っていいかもしれない。内容は一見、とても他愛がない。例えば「クレヨンで絵を描いてみる」「お日さま色の花を生ける」等々。55箇条の項目にわたって、具体的に気分転換のノウハウを伝授しているという訳である。なかなか一人では気分転換が出来ないときなど、この本を取り出して一押ししてもらったという経験は少なくない。

おいらはかつてさる出版関係の会にて廣瀬さんにお会いしていた。当時は出版社で書籍編集を担当されていたと記憶しているが、その穏やかな笑顔が印象的な美人編集者であった。その後独立して何冊もの著書を目にし、活字を追いながら、彼女が編み出す癒しの言葉たち、独特の筆遣いに、幾度と無く「気分転換」させてもらっているのだ。

初かつおの季節が早くも到来。

まだまだ早いかと思っていたのだが、本日はラッキーにも「初かつお」を食することができたのでした。「目に青葉、山ほととぎす、初かつお」と謳われるように、春の季節の到来を告げるもっとも顕著なる風俗こそ「初かつお」なのだからとても目出度いのです。ちなみに名乗るほどではないのだが、おいらの名前は「かつお」と云います。であるからして初かつおには大変に縁もゆかりもあっておるのです。初かつおが広まるのは東西の勝浦なのです。近々近いほうの千葉の勝浦に旅して、取りたての初かつおなどを食することなどばかり考えているところなのです。

尾崎豊を聴きながら振り返る「卒業」という名のセレモニー。

朝、晴着の若い女性を何人も見かけた。何があるのだろうかと思案していたが、「卒業」というセレモニーの日なのだということが判った。近頃の大学、短大の卒業式と云うのは大学構内ではなく巨大なホール等のイベント会場を借り切って行なわれるそうだ。きっと日本武道館やらは大盛況の1日だったことだろう。

ところで「卒業」と云えば、社会への第一歩ととらえる向きが一般的であるが、学校支配からの卒業という一面も忘れることはできない。教育という名の管理、支配に反発を抱いていたおいらにとって卒業とは、早く乗り越えるべき通過点でしかなかった。だから今振り返っても、卒業式で何を得たかはもとより何が起こり何をしたかということさえ覚えていないのである。自分とはあまりにもかけ離れたイベントであるということを、今更ながらに感じている今宵である。

それかあらぬか、今宵は尾崎豊の「卒業」を無性に聴きたくなったのである。ジーンと歌詞をかみ締めつつ聴き入っていたのである。尾崎豊はかねてよりのファンである。カラオケに行って「I Love You」「Oh My Little Girl」「シェリー」などはよく歌うが、こと「卒業」については未だに人前で歌ったことがない。何故かとも思うが「卒業」を人前で歌うには特別な勇気とやらが要るのかもしれないと感じているのだ。それくらいに大きな意味を持つ名曲である。尾崎豊はある意味での「腫れ物」であったのかも知れないと思うことがある。腫れ物にはあまり近付きたいとは思わない。だが、それだけ彼は特別な存在であったということは間違いのない事実であった。