死者と生者の再会がテーマの、辻村深月さんの「ツナグ」を読んだ

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今年の直木賞受賞作家こと辻村深月さんの「つなぐ」を読んだ。現在公開中の映画「ツナグ」の原作でもあり、社会的関心が高まっているだけにおいらも書店で買い求めてしまったという1冊ではある。

初めは単なる社会的ブームメントに対する一片の関心であったが、死者と生者、死と生、あるいは、死に向かう生、等がテーマであることを理解しつつ、一片以上の興味で読み進めることとなっていた。

登場人物は、主人公の「使者(「ツナグ」と読む)」こと渋谷歩美の他に、アイドル・水城サヲリ、サヲリとの再会を望むうつ病患者の平瀬愛美、演劇女子高生の嵐美砂と親友の御園奈津、癌で亡くなった母・ツルに会うことを希望する畠田、等々と多種多彩である。最終章では、主人公の歩美が死者への対面を望むというシチュエーションから章のスタートだ。物語は当初の短編集の装いを裏切って、連作長編小説の体を成して、読者の関心を引きずっていくのだった。

死者との再会を可能にすると云えば、青森の潮来が連想されるが、小説の初めから「潮来とはまるで違う」という記述がしつこいほど登場する。日本における土着的神話のイメージを峻拒していきたいという作家の志向を読み取ることが可能であろう。

何冊か読んでいる辻村深月さんの作品世界と同様に、同書もプロットがきっちりとしていて、それなりのレベルに達してエンターティメント性が顕著である。そんなエンターティメントを求める読者であるならば、充分に満足できる作品であろう。

然しながら、おいらは大衆小説のエンターティメントにはほとんど興味が無く、更には、死者との再会と云うシチュエーションは眉唾ものだと云う考えを持っている。或いは死者と生者をつなぐ使者(ツナグ)などは、フィクションの中でも出来の悪い代物だと考えているのだから、この力技が走る作品も、テーマとシチュエーションが空回りしている力技作品の一つであるという以上の評価を抱くことは無かった。

公の場で平気で嘘をつく「田中真紀子」に関する考察

先日からの田中真紀子文部科学省大臣による新規大学不認可未遂騒動が甚大な波紋を生じさせている。

本年度の新設申請していた3大学に対して軒並み「許可しない」という発言をぶち上げて一躍注目を集めていた。だが一週間もしないうちに昨日は一転「許可する」旨のコメントを発していたのであり、その二枚舌的平気で嘘を付くキャラクターが非難の的となっていた。

注目すべきは、彼女が前言を翻して公的に明らかな嘘を付いてからの態度、振る舞いなのだ。大学認可問題で「負けた」はずの田中大臣は、まるで意に介することもなく、自己肯定のコメントを出し続けているのだ。厚顔無恥の極みと云って良い。

ところで世に蔓延する厚顔無恥さについては田中真紀子のキャラクターなのだから、それなりに対応すればよいことであり、敢て論じるべき対象ではないのであり、考察的対象にはあたらない。然しながら現役の政治家でありしかも国務大臣の田中真紀子が発言してテーブルをひっくり返して、その後二枚舌的に取り繕って真逆のコメントを発していたのだから、特殊かつ典型的事例として分析考察すべきであろう対象なのだ。

「人間には敵か、家族か、使用人の3種類しかいない」という人間観、人生観が、彼女の偏執的発言なった。形作っているということだ。

「人間には、敵か、家族か、使用人の3種類しかいない」という認識は、成り上がり的田中家の一員として育った真紀子にとっては当然のごとく培われた思いなのであろう。それを官僚的組織の文部科学省のスタッフにけ当て嵌めてしてしまったことからくる反発を招くこととなった。リアルな家族・使用人的区分けをおおやはけの場にて行なったことの誤謬なのではあった。

昔ながらの「あんかけかた焼きそば」は懐かしさ以上の味わい

ふと立ち寄った郊外の中華料理店で「あんかけかた焼きそば」を食した。フライパンで焦げができるまでじっくり焼いてパリパリになった麺の上に、白菜、人参、竹の子等の多種類の野菜にハム、海老、木耳、マッシュルーム茸、等々のたっぷり具材のあんかけがとても旨く、とても懐かしく感じさせる。

たまに食べればとても旨く感じるメニューだが、我が国ではメジャーな料理ではない。中華店でもメニューの端に乗っているのがほとんどである。油脂たっぷりでカロリーが高そうなことや、ヘルシー志向に似合わないこと等の要因が考えられる。

それでも昔ながらの「あんかけかた焼きそば」にはカロリー過多でも食べたくなる要因が詰まっている。短時間に強烈な炎で調理する中華料理の技法がこの一品には凝縮しているのだから、国際的な伝統料理なのだ。あんかけのとろみで艶やかな大海老を口にすれば、とてもそんなことを実感する。

未だ「iPhone」を売らないのは「iTunes」を使い続けるため

スマートフォンを「iPhone」から「Android」に変えて4ヶ月余りが経った。一度は引退させた「iPhone」が、おいらの生活の中で復活している。「iPhone」が持つ機能の中で捨てられないのが音楽機能であり、鞄に入れて電車内で音楽を聴くこともある。

そもそも「iPhone」の音楽機能はマックの「iTunes」ソフトが基本となっており、これまでCD等からインストールした少なからずの音楽データは、おいらにとっては今尚貴重な財産の一つだ。

先日は地元の量販店にて、「iPhone」「iPod」用の専用スピーカーを購入して聞いている。スピーカーに「iPhone」をドッキングすれば自動充電も行うという優れものである。「Iphone5」のドッグの仕様がこれまでと変更になったため、ここにきて結構な値崩れを起こしており、それならばと少し古い型落ちの一台を買い込んだという訳だ。

中古市場でも「iPhone」の人気は高く、軒並み1万円以上で売れるようだが、それでもこれまで持ち続けているのは「iTunes」を使い続けるためなのだ。「iTunes」がドコモのAndroid機種で使えるようになれば考えるが、今のところは「iPhone」が手放せない。

胃痛なう

朝から胃部に痛みを感じている。はじめは何かの食あたりを疑ったが、下痢等の症状が出ないので、たぶん急性胃腸炎か何かなのだろう。薬局で胃腸薬を購入して飲んだが効き目もほとんどなく、こんな日は安静にして早く就寝するしか手がなさそうである。

北海の海で育つという高級魚の「黒そいの煮付け」

北海の海で育つという高級魚の「黒そい」を煮付けにて食した。

頭部はごつごつとした骨だらけである。ぎょろっとした目の玉がこちらを見ているようであり、流石にギョッとしてくる。

カサゴ目のメバル属なんだそうであり、深海魚の仲間である。白身魚に比較すると、ギュッと締まった身が特徴であり、味もまた濃厚なのである。

北海道の室蘭市ではこの魚を「市魚」として珍重して、地元の追直漁港では養殖もされている。北海道道民の道民魚とも云えるだろう。

淡白ではあるけれどもたっぷりと脂が乗っている。これを煮付けにするのはもったいないとも思いつつ、充分に味わっていたのである。

サザエ貝は先ず、その星印と巻き印の形態の妙にて感動しつつ味わう

「サザエのつぼ焼き」を食した。いつもサザエを目にして思うのだが、サザエ貝や親類の巻貝と云うものの持つその形態の稀有な要素についてである。

先ずは巻貝の形態が持つ渦巻き的に盛り上がっていく形に感動する。渦巻きと生物が鼓動し伸長する様との容態は著しく関連があるのだろうと感じさせる。

そしてもう一つのサザエ的形態が有する要素が「星印」なのだ。手足を伸ばすようにその星の突端が伸びている。丸くてごつくてとても愛らしい。

サザエ貝と云えばその肝の苦さと磯の香りが逸品的な食材であるが、それに足して、星印と巻き印の形態の妙に感動することを、繰り返しているのだ。

たっぷりの牡蠣をバタースープで煮込んだ「牡蠣バター」

牡蠣が美味しい季節になった。「牡蠣フライ」「牡蠣鍋」はこの時季のポピュラーなメニューだ。

だが先日は、ちょいと違った逸品の牡蠣料理にありついたのであり、ここに報告しておきます。

先ず其のメニュー名が「牡蠣バター」と来た。牡蠣をバターで焼くのだろうと予想して注文してみた。そしたら予想に反して、小鍋に盛られた牡蠣スープ風情なる料理を目の前にしていたのだった。

スープの味付けは和風と中華を中和させたようであり、そこにガツンとしたバターの風味が効いている。料理名が示すとおりのバター味ではある。

牡蠣料理と云えば、フライや生牡蠣以外にも、グラタン等々のフランス料理の系統が主流である。日仏の牡蠣料理対決があったとしたなら、僅差で仏の料理のバリエーションが勝利するのかもしれない。それくらいに日仏の食文化を意識させる食材なのだ。

グラタンには大量のチーズが用いられるのであり、バターが大量に使用される「牡蠣バター」もまた、理にかなった逸品の料理には違いなかった。バターの風味が溶け込んだスープをすすっていると、これこそが我が国の郷土料理であるべきだとも感じていたくらいなのであった。

なかなか都内では食せない「生シラス」の逸品を食した

なかなか都内では食せない「生シラス」の逸品を食したのだった。

生シラスと云えば、神奈川県の江の島海岸やその他の限定された地域以外ではなかなか食することが出来ないものではある。だが近年の交通事情、冷凍技術の進展などから、都内でも時々食する機会に巡り合っているのだ。

今回、某居酒屋にて食した「生シラス」は、見るからに鮮度も抜群。決して冷凍ものではなかった。そして、見るからの透明度には魅了されていた。白く透明な、海の宝石のようでもある。

生のシラスは軟骨成分が豊富なのであり、おいらの母は、骨粗鬆症対策にて毎日のように口にしている食材である。主に乾燥ものが主ではあるが、そのカルシウムがかもし出す味わいは逸品の評価に値するのだ。

殊によったらば江の島や鎌倉への旅行は、今回の生シラスを味わってしまったことにより、先伸びされていくことになるのかもしれない。

映画、DVDの「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」は、身につまされることが大なるリアル的感動作品だった

映画、DVDの「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」は、身につまされることが大なるリアル的感動作品だった。

2010年10月に映画公開された作品をDVDにて視聴した。

{酔いがさめたら、うちに帰ろう。}公式サイト
http://www.yoisame.jp/ {酔いがさめたら、うちに帰ろう。}公式サイト

原作は戦場カメラマンの鴨志田穣氏。あまりキャラがみ合わないとも思ったが浅野忠信氏が良い味を出して演じている。もう一人のドラマ上で重要な立場を占めているのがお相手こと元妻の西原理恵子さんであり、こちらは永作博美さんが演じている。キュートさが多分元妻の上をいくが、これまた良い味付けが満載である。

鴨志田穣氏による原作本は相当以前に購入しており、所々は立ち読み風に読んでいたのではある。だが映画作品となった{酔いがさめたら、うちに帰ろう。}は、もっとずっとシリアスに主人公のアルチューを追い詰めていく。

これ以上話のストーリーに触れるとネタバレ的なことにもなるかと思うので控えるが、原作本以上にシリアスなアルチュー患者の現実が浮き彫りにされていくのである。

「豚足煮込み」はコラーゲンだけでなく、天然軟骨成分のコンドロイチンが豊富

近頃では居酒屋メニューとしてもポピュラーになりつつある「豚足」を、柔らかく煮込んで調理したのが「豚足煮込み」である。おいらも大好きなメニューの一つだ。

女子系メニューとして人気が高いのは、コラーゲンが豊富だということであり、これを食べた翌日には肌がピチピチとして潤ってくるという、ある種の都市伝説的流行のアイテムとなりつつある。

だがおいらはこの「豚足」に関する栄養価に対して、コラーゲンではなく軟骨成分の「コンドロイチン」に注目しているのだ。豚足のプルプルっとした食感は、骨と骨の間に存在する軟骨成分によってもたらされているところが大なのである。

年齢の進行とともに、ひざ軟骨がすり減っていき、それが進行するとひざ痛を惹き起こしていく。おいらも実はダイエットする前の一時期の肥満期には、階段を登る時などには、ひざ痛を体験したことがあった。当時はその対策としてサプリメントの「グルコサミン」や「コンドロイチン」を摂取していたものである。ちなみに「グルコサミン」と「コンドロイチン」は共にひざの軟骨成分を補強する栄養素であり、両者を共に摂取することにより効果を増すとされている。

本年春頃からのダイエットに成功してからは、ひざ痛を感じることは稀になったが、軟骨成分を含む「豚足」は、時々食して、予防的にも味わっているのである。

秋鮭の味覚にほっこり満足の「石狩鍋」なのだ

歳月の流れと共に寒さを感じるこの頃、やはりほっこり温まるのが鍋料理である。本日は秋鮭を主食材にした「石狩鍋」を食したのだった。

火に掛けた直後に鍋のふたを開け、刺身でも食べたいくらいに活きの良いピンク色した鮭を目にして、食欲はいや増していく。生の鮭を使うのが本来的に北海道の石狩地方で食されてきたレシピではある。しかしながら、昔からおいらの家では塩鮭の切り身を用いていたものだ。生鮭は流通量が少なくたとえ出くわしたと雖も、高価で手が出し難かったのである。久々に口にした本場石狩地方仕込みの鍋で、ほっこりと温まることが出来た。

白味噌仕立てのスープに、生鮭の切り身、ネギ、白菜、豆腐、ほうれん草、そしてじゃが芋がぐつぐつと煮込まれる。鮭の身はぐつぐつと煮込まれたことにより甘さと香りを増しているようだ。

ところで、具にじゃが芋というのはあまり見られない食材ではあった。ぐつぐつと煮込まれた他の食材を食い終わった後で、ほっくりのじゃが芋を口にしてみるとまたこれが美味だったのだ。

とにかくも北海道の鮭の味覚にほっこり満足の逸品なのだった。

日本にはどうして「みどりの党」等の健全な第三極が育たないのだろうか

本日朝のTBSTV番組「サンデーモーニング」では、石原慎太郎の都政投げ出し会見に対して、河野洋平氏がとても良いことを語っていた。

―――(http://dametv.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-7084.htmlより引用)

河野洋平氏「 (笑)僕はね、あの辞職の記者会見を聞きましたけどね、もう非ーー常に不愉快でしたね。「諸般の事情に鑑みて辞める」って、諸般の事情って一体何なのか?あれ聞く限りね、自分の都合ですよね。もう自分がここが最後のチャンスだと思うから、都知事のほうは辞めて、国政やると。言っているように僕には聞こえました。

そしてねぇ、あのー、色々仰っるけれども、もう一方的に『アレはダメだ。コレはダメだ』と。自分の意に沿わないのは『アイツはバカだ』と。もうどうしてあんな立派な小説を書く方がね、ああいう、、その、話をする時には、あんなに口汚くね、罵るか。

もう少し、都知事の会見てのはちゃんとした言葉で、ちゃんと相手の立場も考え、自分の主張も冷静に述べるという事が何故できないのか。

だから私は、やっぱり人間的に相当欠陥があるんじゃないかという風に、私は思いましたね。ええ。」

河野氏「あれはつまり、永年勤続25年の表彰を院議を以てするってんで、みんな本会議場に集まっている時に『俺は辞める』とこういうわけですよね。(あれは何ですか?:関口) なんかあのー、あの時の演説を見ると、何やってもみんな上手く行かないから、あの『ダメだ』と、、『みんーなだらしがない』と。なんかあのー、あのー」

―――引用終了

おいらが抱いている思いのだいぶの部分を河野氏のコメントが代弁していたという思いではあった。

そしてたしかその後で、河野洋平氏は、石原や橋下が目論む極は本来の「第3極」では無いのだと喝破したのだ。この見識はとても素晴らしく端倪すべからざるものではあった。

そもそもと云えば石原や橋下が目論む「第3極」とはいんちき的出鱈目極まる政治集団に過ぎないのである。こんなものが本来の「第3極」である訳がないのである。こんな代物がマスゴミの餌になっているのであるからしてマスゴミの現状は異常的状況である。

本来の「第三極」とは、「反原発」の運動を展開する集団の代表者たちであり、例えばヨーロッパに於ける「みどりの党」的なものであるべきだと、河野氏は語っていたが、まさしくそのとおりなのである。

これまでおいらは、河野洋平氏に対して、自民党の総裁まで担った自民党的政治家の一人として評価の埒外に考えてはいたのだが、「みどりの党」的な政党の誕生を願うことと共に、ここにきて河野洋平氏をとても評価しておきたいと考えるようになっている。

もちろんのことおいらの所属が「みどり企画」であることとは全然関係はないのだ。

とても噛み応えある「クジラベーコン」の食感に酔う

先日「クジラベーコン」を食した。かつての日本ではよく食された保存食だが、おいらにとってはとても新鮮な味覚に魅了されていた。一言で云えばクジラの肉を塩や砂糖で漬け込んだ保存食であり、戦後の一時期はクジラ料理としてポピュラーであったと聞く。浅草の某料理屋のメニューでこれを味わうことが出来たのだった。

クジラの肉は、「畝部」と呼ばれる分厚い脂肪部と「畝部」という赤身の筋肉部に大別される。この赤身と白身の2種類の食べ比べも嬉しい。脂肪部はやはりいかにも脂肪の塊に見え、身体に良くないであろうが、牛や豚の脂肪部位に比べれば単に脂肪の塊と呼ぶには相応しからぬ、とても味わい深いものがある。

短冊切りされて盛られたその身は、口にすれば、とても噛み応えのある独特な食感が食指をそそるのだ。いつも以上にホッビーも進み、新たな味覚体験に酔っていたのではあった。

東京都政を投げ出した、或いは利用した石原慎太郎の見識を疑う

昨日夕刻の所謂「東京都政投げ出し」会見を行った石原慎太郎に関するニュースで、本日のマスコミはジャックされている。悪い冗談がマスコミニュース媒体を通し糞尿的に垂れ流されているという感を強く持つ。改めて彼への都政投げ出し会見に対しては、強い憤りを禁じ得ない。

あれほど大々的に公言をし、招致への甚大な予算を使った「東京オリンピック」はどうするつもりなのか? 或いは、築地の市場移転問題は解決できるのか? 等々、その無責任さは度を越していると云えよう。石原慎太郎に対しては一度も政治的に支持したことの無いおいらがこの思いなのである。何遍も支持してきた東京都民に対して、国政がどうのこうのという言い訳は決して成り立つ訳など無い。

更に悪質的冗談のたぐいが、国政進出云々のくだりである。自民党議員として活動していたときに「総理」の目がないことを知って、自ら国会議員を辞職した慎太郎は、以下のように述べている。

―――以下公式サイトから引用

日本のことを「国家としての明確な意思表示さえできない、さながら去勢された宦官のようである」と断じた。そして「現在の政治に対する国民の軽蔑と不信はまさに自分自身の罪科である」と自らの非力さを詫びたのだった。

―――引用終了

慎太郎の自尊的ふるまいは昔からのことであり驚かないが、侮蔑の言辞をはなったまさに国政への偏執的執着を抱き続けてきたこと、そしてこの期におよんでの中央政界復帰宣言であり、こんな出鱈目な慎太郎の見識は異常である。そしてこのタイミングはまさしく橋下「維新」利用による総理の座への偏執的腐りきった野心なのであり、こんな人間が総理になった日の我が国の将来がまさに暗澹としたイメージとして現実化しつつある。

野田佳彦のおかげで未だに品薄の「ドジョウ鍋」を食らったのだ

ドジョウ総理こと野田佳彦のおかげで、都内の飲食店にはドジョウ料理を提供する店が相変らず少ないのだ。高級店やらドジョウの専門店が独占している状況が続いている。詳細については判らないが、ドジョウの仕入れ値も高騰しているらしい。

そんな状況の中で先日は、ほとんど偶然的に「ドジョウ鍋」にありつくことが出来たのだった。結構大きめの土鍋に、ドジョウ、ゴボウ、豆腐、小ネギ、等々が極和風的に調理されていて、久々にその泥くさく骨くさくもあるドジョウの美味さを味わっていた。

骨くさくもありつるっとしている特異な食感は、まさしくドジョウならではである。その存在感はと云えば、薄っぺらい政治的言語を撒き散らす野田佳彦如きの比ではない。野田佳彦の言葉は聞くたびに飽き飽きするのに対して、ドジョウの料理は、口にするたびに新鮮な感動に囚われる。こんな差異が有するのに自分をドジョウになぞらえた野田佳彦などは、ドジョウ以下の生物である。

角田美代子こと女鬼畜に篭絡された男達の哀れ

兵庫県尼崎市における角田美代子による猟奇事件に関して、長男の卒業と引き換えに辞表を提出したという中学校長のコメント、関連記事がニュースの的となっている。

身内やかなり遠い身内的家族に対してほとんど不条理的な因縁をつけて、当該家族を崩壊に導いたという、角田美代子こと女鬼畜に対しては、当初は?と云う思いが蔓延してはいたが、やはりこのようなことは起こり得るのだということを認識している。

女鬼畜のターゲットとされた人間達は、此れ以上ないくらいの不条理的な哀れを感じ取っている。

「君子危うきに近寄らず」といった故事諺が、未だ生きていることを思い知っていた。

「週刊朝日」の敗北は、もしかしたら週刊誌業界の敗北の予兆なのかも知れない

本日発行の「週刊朝日」誌上冒頭にて、「おわびします」と題された大仰どころかな一文が掲載されている。同誌の「ハシシタ 奴の本性」の記事に関する、橋下徹大阪市長および関係者に対して全面的なおわびを表明している一文である。

橋下徹が当該週刊誌発行の「朝日新聞出版」を差し置いてその親会社である「朝日新聞社」に攻撃の矛先を定めたことには彼流の理由があるのだ。色々と彼流の説明が報道媒体を駆け巡っているが、つまるところは、メジャーの朝日を篭絡すること、これか゛目的だと思われる。

ひとつの仮定の話としてもし橋下が「週刊朝日」に抗議のターゲットを向かわせていたらば、おわびはおろか、遺憾の表明もされることなく法廷へと持ち越されていたのであろう。「週刊文春」「週刊新潮」等々の出版社系週刊誌が辿る常識的なルートである。

だが橋下はこれを嫌って、週刊誌発行元の親会社をターゲットにしてしまった。その理由は橋下が会見で語っているように、100%子会社の親会社が朝日新聞であるということのようである。

親会社が子会社のあれこれに責任を持つべきという常識論を超えて、橋下は攻撃を強めている。

もはや「週刊朝日」はもとより親会社である「朝日新聞」紙上にては、橋下徹への公正的批判記事は求めることができぬのである。そして他の読売、毎日、等々の新聞媒体に対しても同様の思いを強く抱いてしまう。

この現象は、ただ単に「週刊朝日」がひよって謝罪してしまったということ以上の、未来への禍根を記してしまったということなのだ。朝日以外の週刊誌のこれからを注意深くウォッチしていこうとかんがえているところだ。

ほろ苦を超えて苦み走った、人参の葉のお浸しに舌鼓なのだ

吉祥寺の八百屋にて、葉付きの人参を購入したのだ。根っこのところの人参の背丈を超えて伸びていた人参の姿形に魅了されたからではある。

元々人参には葉が付いているのだが、スーパーやほとんどの八百屋にて出ているものは葉をそぎ落とされた代物ばかり。根っこのところの人参が、ほぼ我が国にては常識的な「人参」の姿形なのではあろう。そんな常識を打ち破る姿形を、この葉付きの人参に見出していた。

先ずは人参の葉を茹でて、お浸しにしてみた。葉の部分にも硬い茎があり、その茎の部分はとても硬くてとても食用には適さないと見えていたので、油で炒めてラーメンの具にしたのだ。

残った人参の葉のお浸しを口にすると、ほろ苦以上にインパクトのある苦みが口腔を襲っていた。今では全国的ポピュラーな食材ことゴーヤを凌駕して、更に心地よい刺激でもあった。苦み走った野菜の筆頭的な存在ではある。

ほろ苦を超えて苦み走った、人参の葉のお浸しに舌鼓なのだった。

今年の「B-1グランプリ」で、青森県八戸の「せんべい汁」優勝を祝う

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121021-00000022-mai-soci

例年開催されるB級グルメの祭典「B-1グランプリ」で、今年は青森県八戸市の郷土食「せんべい汁」が見事優勝、グランプリ受賞の栄誉に輝いたという。

八戸にはこれまで何度も足を運び、「せんべい汁」もその度に味わってきたおいらにとっては、とても嬉しい受賞のニュースではあった。

汁ものでありながらそのほとんどが地元産鉄鍋にて調理される鍋料理の一種であり、主に地元八戸産の野菜類、根菜類を数種類合わせて醤油ベースのスープで煮込み、それに地元名物の「南部煎餅」を具に加えて煮込むという代物。

当地ではポピュラーな「南部煎餅」を鍋料理の具にするという、ある種の奇抜なアイデア料理のようだが、結構その料理の伝統は長いものがある。

Wikipediaで「せんべい汁」と検索すると次のような説明文に突き当たる。

―――以下引用
せんべい汁は、江戸時代(幕末)の天保の大飢饉の頃に八戸藩内で生まれたとされる。その後200年余りに渡って現在の南部地方一帯で食べられてきた。

2002年(平成14年)12月1日の東北新幹線八戸駅延伸開業および2003年(平成15年)4月1日から6月30日まで開催される北東北デスティネーションキャンペーンに向けて、八戸商工会議所の観光振興対策検討委員会が2000年(平成12年)3月に「八戸観光開発プラン」をまとめ、同年9月に「八戸観光開発プラン推進特別委員会」を設置。これを母体として翌2001年(平成13年)7月には官民挙げた『新幹線八戸駅開業事業実行委員会』が誕生した。同実行委員会は「食文化創造部会」を設置し、創作郷土料理や八戸らーめんの企画を行う一方、八戸屋台村 みろく横丁を設置するなど、「食文化創造都市・八戸」を目指して多彩な事業を行った。
―――引用終了

郷土食は数多かれども200年と云う長い歴史において育まれてきたものは、そう多くはなく稀有な郷土食の本丸である。

余談であるが、岩手及び青森の南部地方においては、煎餅ではなく小麦粉を伸ばして具にした「ひっつみ」という料理がある。こちらのほうがより素朴に地域の食材を味わえるのであり、こちらのほうがおいら的には好物なのである。本物の郷土食と云うものは「B-1グランプリ」等のおちゃらけた場所では受けないだろうが、静かに根強く息づいているものなのである。