造反無理政局の行方6 野田佳彦内閣どじょう政治の限界

この「造反無理政局の行方」のサブタイトルでブログを記すのもいよいよ最後となった。

野田佳彦氏が海江田万里を破り民主党代表に就任したことで、最悪のシナリオは回避されたようだ。ただ野田という政治家については知名度も低いどころかこれまでにほとんど政治的活動に関して注目されたことが無く、いかにもぽっと出の感が否めない。代表選挙の演説が高い評価を得ているようだが、日本国内の政治環境の中ではそうかもしれないが決して国際的に通用する様なレベルではない。彼の経歴についてはほとんどを知らないが、年期の入った雄弁役者といった以上のインパクトを与え得るスピーチでなかったことは確かである。

そんなスピーチで彼は自らを「どじょう」になぞらえ、金魚になれはしないのだから、自分はどじょうのように泥臭い政治を行なうのだと宣言してみせている。どじょうは美味いが金魚は食えない。食ってなんぼのどじょうがエライのだという、泥の中に生活の基盤をもち活動を行う人々の心情に仮託させた比喩として捉えることもできよう。新幹事長に任命された輿石東氏の座右の銘に、野田氏が乗ったという報道も一部には流れている。政治的駆け引きの言葉として受け取ることも可能である。

野田氏のこうした発言は相当な自信の現れとして受け止められている。自らを地味な存在、卑下した存在として定義してみせることで、相手との融和を導き出そうという狙いを秘めているのだろうことが推測可能だ。菅直人前代表が相手との対立軸をひたすら強調することで、「脱原発」や「脱金権政治」を少しずつ実現させてきたことと比較すると、一見大人の態度にも見なされないことは無い。「泥臭い大人の政治家」といった評価が定着するのにそう時間はかからないだろう。だがそれこそが最大の欠点であり、そう遠くない今後において思い掛けない陥穽を招来する大きな要因でもあるのだ。

党内融和や大連立等というものは何の意味も持たないことは、数々の歴史が証明していることでもある。「融和」を目指した政治等というものは前世紀の遺物であるということを、野田氏ははっきりと認識する必要があるだろう。つまりは彼が在任中の政治はこれまで以上に停滞した意味の無い(ナンセンスな)時間とともにあるということが、残念ながら内閣の発足前から見て取れるのである。