猛暑の夏だからこそ味わえる「夏素麺(そーめん)」なのだ

夏の猛暑のこんな時期こそ素麺が美味い季節である。おいらはこの時期は常に美味い素麺を求めていると云ってよく、昼食時はもとよりであるが、夕食時やその後の〆の素麺にも特別な思いや愛着を抱いているのだ。夕食、晩食、晩餐、の後の素麺は、その条件が整えたならば絶品の風流の食物となってくるのであるからして、侮れないのだ。

先ずはツルツル喉越しの細めの素麺が必須である。そしてトッピングされるのは、ミニトマトやナスの揚げ物などが相応しいであろう。氷が添えてあれば汁に移して夏的汁の完成である。然るに氷もまた必須と云えよう。そしてまた、細切れにされた胡瓜や錦糸卵が添えられていれば申し分が無い。何はともあれ猛暑で麻痺した喉越しを正常のそれに返していくような役割を果たしているのだから、決してこの夏の時期の素麺を侮ってはいけないのである。

新花巻の宮沢賢治のテーマパーク的エリアを訪問


昨晩は宮沢賢治さんが愛してやまなかった花巻市郊外の「大沢温泉」に宿泊した。名物の露天風呂ではこの時期矢鱈に発生するアブに襲われ、とてものんびり温泉浴とはいかなかったのであり、しかも起床したときからずっとおいらの顔面は、昨日に刺された影響でおいらの左目の上瞼は腫れ上がってしまっていたので、見開くことの出来ない半開きの不自由な視覚にて一日を過ごさねばならなくなっていた。

あまり気乗りせぬまま、新花巻駅から「宮沢賢治童話村」へと向かった。この地域には他に様々な賢治関連施設が立ち並んでいて、宮沢賢治のテーマパーク的エリアと呼べる一帯である。もう十数年前に「宮沢賢治記念館」を訪れて以来の、久しぶりの訪問となっていた。「宮沢賢治童話村」には「賢治の学校」という施設があるが、子供向けにあしらえた賢治テーマパーク的存在であり、なにかと押し付けがましくあり、おいらは好きではない。賢治ファンとしてはこのような施設が賢治ワールドの普及に役立たないどころか、安直な切り口による賢治さんの思想のガレージセールなのではないかと気が気でないのだ。相当昔に訪れたとき「宮沢賢治記念館」にて遭遇し、強烈なインパクトを受けた賢治さんの「日輪と山」という水彩画に再会するのを楽しみにしていたが、なんと展示されていたのは巨大なパネルの複製画であり、とてもがっかりしたのであった。こんな事象こそをガレージセールと呼ぶのではないだろうか?

捏ねて寝かせてちぎるという正しい工程を経た「ひっつみ」

昨日は二戸市内の某和風旅館に宿泊した。そもそもぶらり旅の常としては宿の当たり外れは毎度の賭け事ではあって、お盆シーズンのピークに電話予約が取れたのは幸いであり、しかも当館は素泊まり3500円と格安料金なのである。実は内心「ラッキー」と一人ごちていたのではある。

投宿し、数分も経つか経たぬかのうちに、格安料金の理由は氷解していた。古くて奥ゆかしい佇まいがその理由を物語っていたのである。すなわち、古の日本旅館の風情が強く蔓延っているために、現代的旅人の感性やニーズやらとの乖離が見て取れたのである。事実、こんなお盆のハイシーズンと云うのに、外来の客はおいら一人であったのだった。相当な伝統的時間を誇る作りの旅館が、いシーズンにおいて旅行客をおいら一人しか持たないという不条理は、日本人の均一的価値観としてのグローバリズムの悪しき進入が背景にあることが考えられるのだ。

さてさて宿の値踏みをするのが当ブログのテーマではないのである。当ブログ本来の主要テーマのひとつとしての「食」について記していくことにする。

東北で食した地元食の中で、おいらがもっとも気に掛けていたのが「ひっつみ」である。東京でも或いは盛岡の居酒屋のメニューでも食することはできていたが、サイドメニューとしての域を超えてはいなかった。詰まりはひっつみという料理に満足したことが無かったということだ。

それが今回の旅にて「ひっつみ」の肝とでも呼ぶものが溶け出てきたのである。「ひっつみ」の具は関東の「すいとん」のそれとは異なっているということ。その肝は、捏ねて寝かせてちぎるという工程である。小麦粉等の素材を塩水で捏ねてから寝かして、それをちぎって出汁に投入するのが「ひっつみ」の正しいつくりかたである。そんな正しい「ひっつみ」のメニューを味わっていたのであった。

復旧復興のシンボルになるだろうの「JR八戸線」に乗車

八戸からJR八戸線に乗って久慈へと向かった。JR八戸線といえば、東日本大震災で埋没し、全面ストップとなっていた路線である。昨年のこのころに旅したときには八戸から鮫駅までの限定的開通であった。其の時の鮫駅周辺はといえば未だ津波の甚大な被害を色濃く残していた。特に八戸港周辺の住居等の建物は其のほとんどが津波の餌食となり、地域の根幹を無くしてしまっていた。津波の猛威に潰されたのは、例えば、ガソリンスタンド店舗であり、漁業関係者のコミュニケーション広場であり、八戸市民との交流の広場であった。これらの修羅場的スポットを巡りつつ、おいらは言葉を失っていたといえるのだろう。

そして再度の乗車となったわけである。2時間あまりの乗車時間のほとんどは、山間谷間を突き進むばかりではあったが、其の中で瞬間的にも写り行く稀有なる光景の其れあれという光景を、おいらはキャッチしていきたいと希っていた。

そんなことからおいらは、穏やかな東海岸の風景を先ずはキャッチしていた。これまでは通常の電車による通過的事象でしかなかったことが、これだけに重大な意味と重みとを担っているのだから、おいらもしゃきっとしていたことは間違いない。これからは、特に南北リアス線をウォッチして近いいつか乗車したいと思う。

古き床しき軽米町の風景

東北新幹線が青森まで伸びて高速化が進んだ反面で、軽米町を取り巻く交通事情は不便となっている。少し前までは盛岡から高速道を使っての高速直行便こと高速バス「ウインディ号」は廃止されてしまって、軽米インターの降車場から町まで、てくてくと歩かねばならない。かつて久慈行き何度も利用した久慈行きのバス便も今は無い。陸中大野というバス停まで行って乗り換えねばならないのであり、そこで待たされる時間を思えば何だか億劫になることこのうえないのだ。

あり余る時間をとにかく歩き回った。東北も猛暑のまっ只中と見え、汗が滲み出している。まるで蒸し風呂の中にいるようだ。後からチェックしたら「16283歩」という堂々の1位のステップ数を記録したのだ。歩くということが日常生活の中での最も大切な健康法であることを再認識したのである。

軽米には古くて床しき景色が残されており、そんな風景に接すると、なんともいえない満たされた気持ちで一杯になる。宿をチェックアウトして、定期バスに乗車するまでの4時間あまりを散策して過ごすことになった訳であるが、古くて懐かしい土地の有難さに満たされていたのだ。

岩手県軽米町のアマランサス畑に見惚れていた

東北への旅に出掛けている。夕刻前には岩手県の軽米町に到着。この町は亡くなった妻の出身地であり、心の故郷である。懐かしい町なかを散策していると、いつもの事だが季節の花々が四季の顔でもって迎えてくれた。丘を登っていると目にしたのは赤々として重量感あるアマランサスの畑であった。この地は「雑穀」の故郷としても有名であり、もう少ししたら収穫のときを迎える。もうすでに刈り取りも始まっている畑もあるという。

軽米のアマランサスは「アマランサスうどん」として商品化もされており、おいらもときに触れてこの地のアマランサスを食してきた。濃赤色のその鶏のトサカにも似た姿から、「ケイトウ(鶏頭)」という名前がある。南米由来の穀物という説があり、さらには軽米町にて江戸時代から栽培されていたという記録もあり、その優れた栄養価等から「仙人穀(センニンコク)」とも呼ばれている。アマランサスは精白米に比べても、カルシウム約30倍、鉄分約50倍、繊維質約8倍を含んだ、いま注目の高栄養価穀物である。

上杉隆氏による「新聞・テレビはなぜ平気で『ウソ』をつくのか」(2)

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同書においてかなりのスペースを割いているくだりが、鉢呂吉雄元経済産業大臣が、福島の原発事故現場を視察して後に、マスゴミによっての不条理な中傷を受けて辞任に追い込まれたという件についてである。

彼は述べている。

―――以下引用
私はこれまで、既存メアンフェアであると指摘し続けてきたが、この一件はアンフェアどころか、犯罪行為ですらあると言っても差し支えないと思う。完全なデマを流し、選挙で選ばれた政治家の地位と社会的身分を剥奪したのだから。
―――引用終了

西荻窪「焼とりよね田」の巨大な「つくね目玉焼き乗せ」

久しぶりに西荻窪の「焼とりよね田」に立ち寄った。同店の名物「つくね目玉焼き乗せ」は、その巨大さもさることながら、時々食べたくなる逸品である。

鶏肉の身と軟骨とを砕いて巨大な肉団子をつくって其れを炭火で焼いていく。団子は一つであり、食べ応えは極まりなく、そのジューシーな肉汁には頬が落ちちてしまうくらいである。

■焼とりよね田
東京都杉並区西荻南3-11-10

牛モツ、牛スジ、ハチノスの3点取り盛り揃えの「牛モツ煮込み」

通常「モツ煮込み」と云ったら、牛の小腸の部類のモツを煮込んで出されている。蒟蒻、牛蒡、大根、人参、等々の野菜は貴重な脇役としてその役割を果たしている。だがモツの煮込み系料理と云えば、「牛筋煮込み」「ハチノス煮込み」「豚モツ煮込み」等々の種類があるのであり、一概に「煮込みは牛の小腸を煮込んだ料理」と断定するのは間違いがある。

牛筋煮込みも、ハチノス煮込みも、或いは豚モツの煮込みも、それぞれに味わい深さが存するのであり、どれが一番秀逸かと云うことは決めかねるものではあるのだ。おいらの個人的な酒肴で、おっとっとと趣向で述べれば「牛筋煮込み」に一票を投じたいくらいに好みなのだが、然れども「牛モツ煮込み」「豚モツ煮込み」「ハチノス煮込み」が無くて済ませられるかと問われれば、否と答えるしかないのではある。

そんなこんなことを考えていたところへ、目に飛び込んできたメニューが、牛モツ、牛スジ、ハチノスの3点盛り揃えの3点盛りの「牛モツ煮込み」であった。

メニュー表を読めば、たしか牛の3種類の部署のモツが丁寧に煮込まれているとのことである。反射的に注文していたものではあった。3種類の盛り揃えとは最初は邪道かなという印象を強くしていたのだが、口にひと口含ませてみれば、これが想像以上に満足のいく味わいだったのではあった。刷り込まれた思いこそが邪道なのだと合点していた次第哉候。

今回もまた明らかとなった東京電力の隠蔽体質には呆れるしかない

東電擁護を発する馬鹿げた一部の馬鹿市民の声を背景にしてなのか、東京電力はここにきて、福島第1原発事故当時の映像を公開した。

然しながら肝心の音声が抜けていて、真実の究明には程遠い内容のお粗末極まりないものであることが明らかとなっている。

この東電からの映像の公開を受けて、菅直人前総理は、「音声どこかにあるはず」というコメントを発表している。

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20120806-00000984-fnn-pol

まさに「マスゴミ」のレッテルが相応しいのがフジ産経メディアである。こんなフジ産経メディアからの不条理極まりない相当なパッシングにあった菅直人さんによる、素直なメッセージなのであり、この音声を公開せずに、菅直人悪者説を報じ続けるマスゴミの邪悪な意図とも繋がっていると見るしかないのである。

現実として見る限り此処までも報道機関は汚猥糞尿の類いにまみれてしまっており、糞尿の垂れ流しを続けているというのが実態なのである。

不条理を垂れ流すのは「マスゴミ」ばかりではない。一部のお馬鹿極まる日本国民市民によっても増長されるのであるからして彼らの犯罪性に対しても論じていくべきである時代なのであろう。

赤羽「まるます家」の鯉のあらいと鯉こく

母が入院している見舞いで上州に帰省していた帰りに、赤羽で途中下車して「まるます家」に立ち寄った。鰻と鯉が名物の大衆居酒屋であり、入場するのに待たされるのがしばしばで、本日も5分程度は待った後の一杯ではあった。鰻は今年も何度か食べていたので、まずは「鯉のあらい」を注文。やはりそのピンクの張りのある艶やかな見目が食欲をそそったのだった。2品目は「鯉こく」こと鯉の味噌汁を注文。これもまた田舎味噌の風味が効いていて美味であった。お腹も一杯でそしてお酒も多少は注ぎ足していたのではあり、帰りの中央線ではうとうとと最寄駅を乗り越して高尾駅まで行っていてしまったのだった。う~む、若いときとは違うのであり気をつけねばならない。美味い酒と肴とは身を滅ぼしかねないのだということを思った次第なのではある。

Android版、ドコモ的スマホの使い心地(2)歩数計で健康管理

Android版、ドコモ的スマホの使い心地レポートの第2弾である。

初期設定にてインストールされていた使う気もないアプリの数々を、数日かけて削除したのではあるが、なお削除できないアプリがかなりある。そのうちの一つが「歩数計」である。メインアプリの一つと見えてなかなか削除が出来ないのであるが、そんなことから使い始めていると、次第にこのアプリの意味合いが判然としてきており、日々の健康管理に役立てている。

ちなみに本日のステップ数はここまで8533歩であるという。東京都下多摩地区の郊外から都心に出て行くだけでステップ数は多くを刻んでいると見え、おいらの予想をはるかに超えて、おいらは都内をステップしているらしいことが判明したのだ。

新しいスマホを購入して以来、何日かは1万歩を超えている。想像以上の運動量であると感じている。

Android版、ドコモ的スマホの使い心地(1)

ドコモのスマートフォンに乗り換えてから、一ヶ月弱が過ぎた。使い始めた当初は、想定外のバッテリーの消耗をはじめとして、お節介極まりないひつじのメール、頼んでもいないのに働き続けるアプリの数々にはとことん辟易していた。ひつじからのメッセージやアプリの働き具合は玉石混交にあると思うが、とにかくお節介なアプローチが去来し鬱陶しくてならなかったのである。

mimiさんによる適切な指南もあり、おいらは新しく購入したAndroid版、ドコモ的スマホの設定をとことんいじくり出していた。その概要は下記のとおり。

その1 使わないアプリはすべて削除(アンインストール)しようとしていた。だが削除できない基本的アプリは未だ大量に残ってあるのが現実だ。

その2 GPSやBrootoothなどのオプション的な基本的設定はすべて解除した。

上記の設定変更により、当初はバッテリーが1日ももたなかった状況は、1日+αくらいは長めに延長されている。余計なメールやバイブレーションによる告知も影を潜めているようだ。

今年も「ヤモリ」が我が家に住み着いた

今年も夏になるころから「ヤモリ」を見かけるようになった。主には窓ガラスの外からそのシルエットをのぞかせている。その独特な吸盤やらコケティッシュな仕草やらにて、とても愛嬌を振り撒いている。おいらも愛玩動物にしたいくらいに好きな生物のひとつなのだ。

4本の足の指には吸盤が備わっているので、壁や木の高いところまでするすると素早い行動が特徴的である。ハエや蜘蛛などの小動物を餌にして活発に動き回るのがこの季節のようだ。

もともと人間の生息範囲とヤモリのそれとは、特別な区分があった訳ではなく、人間や小動物のすむ所が生息範囲なのだ。

古より日本には、「ヤモリが家にいる間は、その家には悪いことがおきない」という言い伝えがある。この言葉を信じてヤモリとは良き隣人として生活していきたいと思うのである。

吉本隆明さんに教わった「無言」という存在の重要性

吉本隆明さんに教わってきたことは多々あれども、その最も大きなことは、「無言」という現象への理解であったように思う。
「無言」とは「無意思」や「無思想」ではないことは明らかである。言葉にならない意思を込めて「無言」が存在するのである。ためにする議論等が蔓延っている現在社会において、敢て「無言」を貫く意味やその重要性を教えてくれているのである。

吉本隆明さんに教わってきたことは多々あれども、その最も大きなことは、「無言」という現象への理解であったように思う。

「無言」とは「無意思」や「無思想」ではないことは明らかである。言葉にならない意思を込めて「無言」が存在するのである。ためにする議論等が蔓延っている現在社会において、敢て「無言」を貫く意味やその重要性を教えてくれているのである。

夏野菜大盛りでオムレツをつくった

夏が本番ともなれば、夏野菜を主役にして料理に励まないといけない。そういうことは定理に近いことなのであり、今年もまた来たかなの風情なのである。

先ずは夏野菜の獅子唐辛子、パプリカ、茄子等の夏野菜を準備し、それを細かく刻んで、具の材料とした。卵を割って、そこに用意した夏の具材をいれて、用意する。

大盛りの夏野菜に対しては少々少ないくらいの卵を割って、夏野菜に絡めて、玉子焼きにした。途中で皿に取り出して反転させたのであり、その上下の焦げの様子は適度な仕様に仕上がっていた。

土用の丑の日の「うなぎ」は、立ち飲み屋にて食することとなった

本日は土用の丑の日なのであり、朝からつまりは起きて間もない時から、「うなぎ」を食べる算段を企んでいたのであった。

かつてこの日には、静岡県三島市内の専門店にて、鰻重のふくいくとして濃厚な味わいの鰻に食することができていた。過去の記憶でありそれ以上の意味合いは皆無なのではあるが、当日の鮮明な記憶に抗うことなど出来ずに記述しているのである。

されとて本日の鰻ではある。下町の鰻専門店やら、それ以外での鰻の常設、常提供的店舗を眺めてきつついたのではある。そして結局は、立ち飲み店のに辿り着いていたという訳なのである。

旬の時期の「枝豆」の恵みは甚大なり

某酒場にて「枝豆」を食した。何時でも食べられるメニューかと誤解されている向きもあるが、事実は旬のもの以外は冷凍保存されて出てきた代物であり、その豆のつややら張りやら、毛深さやら、更には栄養度やらにおいて、かなりの低下傾向を認めてしまう。つまりは旬の時期の「枝豆」以外は「枝豆」を名乗る資格は無いと云ってしまおう。

改めて「枝豆」の基本を述べると、世界の穀物市場にて超メジャー級の「大豆」の青春期の青刈りした青豆だということになる。成長して熟する大豆の前の云わば将来性を区切って、青刈りするのであるからして、カロリーやら栄養素やらとは別個の存在感が示されているのである。

この時期に青い豆をひたすら求める呑兵衛たちの行状には、暑い時期のホットな願望が憑依しているように見えてならない。つまりは、世の中の呑兵衛たちの願望を示すかのようにして、青々とした枝豆が呑兵衛たちの喉を潤している。目で見て青々とした枝豆の姿形は、夏の風物詩としての姿に相応しいのだと云えよう。

かけ蕎麦の定番「かき揚げ」を酒のつまみで食した

「かき揚げ」というメニューはおいらの好きな定番メニューであり、殊に温かい蕎麦こと「かけ蕎麦」に無くてはならない。世間一般的には「かき揚げ蕎麦」と呼ぶのだが、特に朝食にはこのメニューが欠かせないのである。

という訳なのであるが、ふとした気紛れにて、夜のいきつけの酒場にて「かき揚げ」を注文してみた。何時もの蕎麦のトッピングの代物よりは色とりどりであり、カラー的仕様といった印象哉。玉葱を基本にして、人参、ピーマン、等々の豊富な野菜の具があつられていたのであり、あまり夏の旬の食材が無かったことが不満ではあったが、それでも噛みこむにつれて食感とともに、野菜のうま味が口腔内を充満していた。


ついでにと云ってはなんだが、先日は別の酒場にて食したかき揚げメニューの「赤海老のかき揚げ」をアップしておきます。こちらも美味いことは確かだが、今回のかき揚げの味わいやインパクトには欠けていたのである。