鉢植えの「ポインセチア」を買って帰った

鉢植えの「ポインセチア」を買って帰った。

この時期、クリスマスの季節になると、街中の至る場所でこのポインセチアを見かける。日照時間が短い冬になると色を付ける。極小な花の周りに一段と鮮明に広げているのはポインセチアの苞(苞葉とも云う)である。

濃赤色と緑色とのコントラストが色鮮やかであり、クリスマスを彩る色彩としてはこれ以上ないくらいにピッタリくる。クリスマスのイベントには縁薄いおいらではあるが、濃赤と濃緑のコントラストが街中を彩る季節に、サンタの外套やトナカイが被る帽子のようなポインセチアを眺めるのは嫌いではない。

村上春樹さんのヒット作品「ノルウェイの森」の装丁色として一世を風靡した「赤と緑」もこのポインセチアの赤と緑に縁深く繋がっている。春樹さん自らがこの2色の色彩には拘って実現したというが、西洋起源の御伽噺の基底色とも云えるのだから、赤と緑の出逢いの妙については何度も何度もこの目で鑑賞し尽くされると云うことは、決して無いのであろう。

クリスマスの鉢植えとして愛好されるポインセチアだが、実は同植物はメキシコ等中央アメリカを起源としており、寒さには弱いのだと云う。これから春にかけての手入れが大変であろうと、今から心配の種が増えてしまった。

冬至の日にゆず湯に浸かったのだ

本日は冬至。昼の時間がもっとも短い冬本番を告げる暦の日だ。寒気に凍えていた夜、地元の大浴場にてゆず湯に浸かり温まった。

イベント湯には大量のゆずを皮と実とに引き裂いてネットに閉じ込まれていた。風情はいまいちなれど、ぬるめの湯に浴しているおいらに、ゆずの柑橘系の刺激が鼻を突いたのだった。天然系柑橘の香りが心身に染みたのは間違いなかったが、ビタミンが全身から染み入ってくれればよいが、本当はどうしたものだろうか? 

こんな日は湯ざめなどしないように、温かくして早めに眠ろうと思うなり。

早朝散歩で、チジミほうれん草と霜柱を発見

寒気の襲来は日ごとに強まり、朝の床離れは悪化する限り。だがこんな季節の朝にはとても感動的な自然の造形美が隠れているのだ。

冠雪した富士山を眺めながら朝の散歩をしていると、公園近くの家庭菜園には霜が降ったチジミほうれん草が大きな葉を広げていた。数年前から冬になるとこのほうれん草を食するが畑で育つこの野菜に接したのは初めてだったので、些か興奮を覚えたものだ。

近づいて畑を凝視すると綺麗な霜柱が立っていた。微小な結晶の完成度に魅了された。

苦味走った「サッポロラガービール」でほろ酔いなのだ

居酒屋でビールを注文すると、よく「キリン、アサヒ、サッポロがありますがどれにしますか?」と訊ねられる。

そんな時のおいらは特別に銘柄を決めているわけではなく、苦味が欲しくなったらキリン、ドライが飲みたくなったらアサヒ、そしてまろやかなホップの風味に気が向いたらサッポロと、まあその時々の気分で注文すること多し。

だが今回注文した「サッポロビール」は黒ラベルの生ではなくして「サッポロラガー」が出てきたので、一寸した驚きなのであった。

ラガービールの伝統を踏襲しているようで、苦味がツンと喉を刺した。心地よい刺激であった。

これぞミスマッチの味覚の極北「イカとじゃが芋の北海焼き」

北海道の旬の素材である「イカ」と「じゃが芋」をフライパンで焼いて提供された料理。イカとじゃが芋という取り合わせは、じゃがバターに乗せる「イカの塩辛」が定番となっており、先日はそのメニューの美味しさについて記したばかりである。

そんな時期に「イカとじゃが芋の北海焼き」という奇妙なメニュー表を見かけたので早速注文してみたのだった。

まあ一言で云うなら、旬な冬の食材としての「イカ」と「じゃが芋」を一緒にしてフライパンに乗せただけのメニューであるという印象を持った。

イカちゃんには悪いが、冬にはイカの季節が到来し、しかも原発の影響も少ないので、他の北海道食材である「じゃが芋」と手を組んで一儲け企んだのではないかとも疑いたくなる。多分事実は全然違うところにあるのだろうが…。

八王子駅南口に、肴とおかずの銘店街「八王子ロマン地下」がオープン

八王子駅の南口はと云えば市内最大の高層を誇る「サザンスカイタワー」を始め、ビックカメラの入った「CELEO(セレオ)八王子」等々の新規建造物が建ち並び、再開発の真っ只中である。

そんな南口から徒歩3分という場所にはこのほど「八王子ロマン地下」なる肴とおかずの銘店街がオープンした。昭和の風情を演出した地下街に、大小二十数店舗が軒を並べる。「昼はデパ地下、夜は飲食店街。」をイメージしてプロデュースされている。

何処かから拾ってきたような古い看板やらレトログッズが至るところに散りばめられており、独特の風情を醸し出している。特に夜間は主に酒処となることで、この地域での新しい集客を見込んでいる。しかも「はっちか君」というキャラクターが、同処の宣伝キャラとして誕生している。街興し、地域興しのニューウェイブなのである。

オープニング記念として生ビールが格安で提供されていた。何店かに足を運んでみたところ、ただ単に昭和レトロだけではない、様々な試みを見て取ることが出来た。ロマン地下の一帯はそれほど広くなく、店舗のカウンターに接するように歩を進めることになる。まるで店内を巡っているような感覚を感じ取っている。感じ取らされていると云ったほうが正確かもしれない。其処で目に付いたメニューを、気軽に注文出来るようなつくりとなっている。気軽に立ち寄って一杯傾けるにはもってこいのスペースなのである。

般若心経における「色即是空」とAKB48

「色即是空」とは、漫画クレヨンしんちゃんの床の間の掛け軸にも「色即是空」という文字が書かれているというくらいにポピュラーな一文である。

そもそもは「般若心経」の中の一節として読まれているものであり、おいらも何度も読経した思い出が甦ってくるのだ。「色即是空」「空即是色」…という節は、おいらが未だ幼少の頃からにおいて馴染んでもいた「般若心経」の代表的四字熟語の代表とも云え、途轍もない思い入れが在している。

本日三の酉の市の屋台では、イカも頑張っていたのだ

本日はと云えば、年末の風物詩として由緒ある酉の市の「三の酉」にあたり、帰宅途中の商店街では屋台などが出店して賑わっていた。

「たこ焼き」等の人気屋台に混じって「イカ焼き」の店が居たので覗いてみた。鉄板の上では、身を切り刻んで輪切り模様のイカたちが、身を横たえていたのであるが、鉄板から立ち上る熱によって彼らイカたちは皆、赤々と身を紅葉様とさせていて、これまた秋の風情なのかと云う誤解を招いてしまっていた様である。秋でなくともイカは熱き鉄板の上では身を赤々とさせていくものなり。秋の風情と云うよりは屋台の風情と云ったほうがよさそうだろうか。

赤くピンと張った身に対して、屋台の兄ちゃんは包丁を入れ、真っ白いお腹を引き裂かれ、そして衆目にあからさまにしていたのだった。「嗚呼、痛そう!可哀想!」という声をおいらが発する間もなく、イカのその身はピンと張っていてしかも白く、ある種のイカ的の象徴的光景とも感じ取っていたのであったのだ。

イカの丸焼きは今もなお屋台の人気メニューとして君臨している。いかさま、と、呼ぶのは容易いが、いかさまはまたいかさまなりの人生観があるのであろう。

冬のカニ味噌は何故に美味なのか

寒さが日増しにきつく感じる昨今なり。暖冬になるだろもうという長期予想あるようだが、それにしても冬を乗り越えるには相応の対処をする必要があるだろう。

閑話休題。ところで、寒気が増すにつれてカニが美味しさを増してくる。殊に毛蟹の味噌の美味さとくれば缶詰のキャビアを遥かに凌ぐものだと思われる。世界にカニの種類は多かれども毛蟹こそは美味一番の称号に相応しい食べ物だと云えるだろう。中国人の好物とされる上海蟹も、身や味噌の美味さから云えば断然毛蟹に軍配が上がる。上海蟹に大騒ぎする中国人の食生活は、ちとばかり鎖国的様相さえかぶってみえる。中華料理の「中華的」自大主義に翻弄されてはならない。北海道の毛蟹の、殊にカニ味噌の美味しさをもう1度噛み締めていくべきなのである。

掲載する写真については特別な毛蟹のものではない。何時かどこかで食べた「カニ味噌」というメニューを写し取っただけの代物であり、特段のカニ味噌なのではない。雑誌的には「写真と本文とは関係ありません」という注釈が必要かもしれない。

1日1便のバスに乗り、下部温泉の温泉につかったのだ

本栖湖周辺をぶらぶらと散歩しながら富士の絶景を眺めていた旅ではあった。そしてその帰り道はといえば、1日にたったの1便しかない下部温泉行きのバスに乗り込んでいた。

その道は「本栖みち」と呼ばれており、本栖湖の周辺をぐるりと周遊した後に、山梨の裏山沿いに入っていく道だ。

富士山の世界にはおさらばしつつ、見延町の街並を目指して下っていくバスの車窓から眺めた紅葉の山々は見事であった。

かなりの傾斜を下っていくバスの中で運転手さんが勧めてくれた特別なシートに陣度つて、特別な山々の紅葉を目に焼き付けていたのだった。

富士山を目の前にすると気持ちの奥底がしゃきっとするのは何故だろう?

日本一の山こと富士山。富士五湖旅行では、大月発の「富士登山鉄道」の車内からずっと富士を視界に入れつつあったのであり、富士の姿をまさに目の前にした時間と共に過ごしていたのであった。

河口湖、本栖湖には湖面に映った富士の鏡面像、所謂「逆さ富士」を捉えることの出来るスポットが有り、おいらもその場所へと足を運んでいたのだった。当日は晴天でありながらとても風が強く湖面を吹きつけていたのであり、とても逆さ富士が出現する気配は無かった。現地の人に聞いたところ、逆さ富士が拝めるのは年間に数日しか無くて、冬や春の穏やかな日に限られると云うことなり。ただ富士の麓の湖を訪れたから拝める光景ではないと云うことは明らかだった。

そんな時間の経過と共に改めて感じていたのは、富士山を目の前にした時のしゃきっとした心情だった。何故だかは判然としないのだが、兎に角しゃきっとしている、しゃきっとしてしまうと云っても良いかも知れない。

そんな富士山の存在感の巨きさを感じるのである。3776mという日本一の標高を有していながらしかも気高く、凛々しく、特別なバランスを有している。高くしてしかもバランス良く存在すると云う、いわば世界的に見ても稀有な存在としての霊峰なのだ。

其れかあらぬかおいらの気持ちも特別にしゃっきりとしていた、そういう時間と共に過ごすこととなったのだ。

本栖湖で紅葉と出会った

河口湖から本栖湖へと向かった。あまり感じることのなかった紅葉を見届けたかったからだ。秋を感じとることのないまま季節を終えるということへの抵抗感とでもいおうか。

今日もまた夏日に近い異常気象だといい、期待した秋の季節感とはほど遠かったのではあるが、紅葉に接することは出来た。

本栖湖の濃紺と赤、黄色、濃緑の樹々とのコントラストがハーモニックに視界に飛び込んでいた。四季の営みの神々しさと呼ぶに相応しいものだった。

尾崎豊の実父も彼の「遺書」に疑問を呈している

昨日当ブログにて、尾崎豊の死因が「自殺」だったという月刊文藝春秋の記事に疑問符を呈したばかりだが、其れを裏付けるように、彼の実父による「自殺ではない」というコメントが紹介されていた。

http://www.news-postseven.com/archives/20111118_71059.html

「豊は気分が落ち込んでいるときに、突発的に遺書のようなものを書くことがあった。亡くなる3年前に自殺を考えたことがあるらしいが、そのときに書いた可能性もある」

このようなコメントは、身内でなければ発し得ないものだ。実父の発した疑問であれば、それなりの重みがあるはずである。

「いまとなっては、他殺だとは思ってないけど、あれは自殺じゃない。豊じゃないからわからないけど、なんで死んだんだって…いまでも思ってます」

他殺説を実父は封印した。そしてなおかつ、尾崎豊さんの死に関する疑問符は付きまとってしまう。稀な存在感を持ったアーティストであったが故の宿命であったのかもしれないと考えている。この「宿命」という語彙にはもちろん、豊さんへの多大なリスペクトが含まれているのだが…。

わさびのツーンとした刺激が喉に染みる「鶏わさ」

御徒町駅ガード下の居酒屋に立ち寄って一杯。

どじょう料理が評判の店だったが、このところの野田某いかさま首相の姿なぞがだぶついていて口にする気になどどうにもならず、代わりに最初に注文したのは「鶏わさ」だった。これが絶品の一品。

鶏のささみ肉を一口大にカットしたものに軽く火を通す。わさびを指で満遍なく敷き詰めた容器にささみと醤油を加えて、また指と掌で和えるのだ。この「和える」という調理法こそがこのメニューの鍵となっているのだ。まさに職人芸と云うべきてきぱきとしてスムーズな動きに、いささかハラハラされつつあれども天晴的な感動をそこで体験した。まるで圧巻の寸劇に接しているような体験であった。

野田佳彦のTPP茶番で民主党の信頼度は地に落ちた

野田佳彦は本日、TPP交渉参加を明言してしまった。中1日を入れての茶番劇の後の決定である。

黒人(ハーフ)であるという勢いのみで当選した無能オバマへの、ここに来てのポチ度全開に、本日は悪しき第一歩を記す日として、長き我国の現代史に記されるべき日となってしまった。

これが21世紀日本の凋落の第一歩となることは、歴史家ならずとも誰もが想定できる、云わば常識の範疇に属するものだが、日本人の一般大衆はこんな常識さえ判ってはいない様である事をここに来て認識せざるを得ないという状況である。

日本国に対しての殊更に特別な思い入れは無いおいらではあるが、これまでおいらが生を受けて育ち育んで来ていたこの風土とは相容れない、敢て強調するが、絶対に相容れない米国流の金融資本による我欲の猛威が、これから何年、何十年、何百年掛けて日本を蹂躙することになるだろう。そういう将来が判っていながら野田某は米国へのポチ忠誠を優先したと云うことになってしまった。

こんな政権は出来るだけ早く現代史の俎上から立ち退いて欲しい、立ち退かしていかねばならないということを肝に、反TPP、反野田内閣の意思を発信し続けよう。

庭にチューリップの球根、30個を植えた

季節が冬に突き進んでいくときはまさに、春に咲く花の仕入れのときでもある。昨年には、あるイベント会場にて偶然のように手に入れたチューリップの球根を仕入れて成功をおさめた経験もあり、今年もまたチャレンジすることにしたのだった。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=2354
http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=3672
http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=3687
http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=3709

前回は8個の球根だったが、今回はとりあえず30個の球根を用意して植え込みに励んだのだ。猫の額ほどしかないおいらの家の庭には、あまり大々的な農作業は出来かねるのであり、球根植え込みも限度をわきまえて行なっていく必要がある。また別のスペースが確保されればもっともっと多くの春の花の仕入れなどをしていきたいものなのである。

久しぶりの土いじりに夢中になっていると、隠れた野草の間から、様々な昆虫が顔を出す姿に直面した。先ず最初に出くわしたのは「螳螂(カマキリ)」だった。おいらの記憶によればたしか夏に活発になり棲息する昆虫のはずだったが、秋も終るくらいのこの時期に出くわすとは吃驚だった。日本の温暖化がこんなところにまで波及しているのだろうか? と感じ取っていた。ほぼ同様の時間帯には秋の昆虫である「黄金虫」みたいな緑の色彩鮮やかな虫に出逢ってもいた。地球の温暖化によって、季節の敷居は段々と取り壊されるのではないかのかという危惧を感じ取ってもいたのだった。

昨日から降っていた雨は午前中には止み、適度に柔らかくなっていた庭の土面をまずは掘り起こして土の成型を行ない、30個ほどの球根の植え付けを行なった。球根に3cmほどの土を掛けて、来春のチューリップの満開を念願していた。午後になって我家の庭にも小雨などが降りかかっていたので、丁度好いくらいに水やりが出来たようだ。これから当分の間、球根の生育の推移を見守って生きたいと思っている。

正しい「湯豆腐鍋」には鱈の切身が欠かせない

鍋料理の中でもポピュラーな部類のものが「湯豆腐鍋」なり。豆腐と葱、白菜、茸類、等々の野菜と、そして鱈の切身が入って、昆布出汁にてシンプルに火に掛けてつくる料理だ。だが近頃はと云えば、東京で食する「湯豆腐鍋」に、鱈の切身が無いものが蔓延していて些かがっかりなのだ。

大体からして湯豆腐の味の決め手は、豆腐と鱈との絶妙の相性にある。それが近畿地方だかでは「湯豆腐」は豆腐と昆布出汁のみ等といった、一地域善がりの風習がまかり通っており、そんな一地域善がりが関東の食文化にまで蔓延しているのは由々しき事態だ。

おいらの地元で提供されている「湯豆腐鍋」は鱈身がでんと乗っていて、正しいレシピを踏襲しており、美味である。これから冬の時期に向かってはこの湯豆腐鍋は定番的に注文するメニューとなっていくだろう。

体調悪い日には「タコ」で体調管理なのだ

朝から頭痛がしていて体調は最悪である。とはいいつつも、こんなときでも日々のノルマをこなす必要が有るのはちと辛い。

それはそうと、体調が勝れない日々の食生活にて心がけているのは、胃腸を楽にして過ごすこと。こってりした脂モノや肉食類は却ってマイナスであることを、おいらのこれまでの実体験が物語っている。肉類や脂っこいものを食せば、翌日の大便の色がとても悪しき泥臭さで染まれていくのだ。であるからしておいらは翌日の便の色の健康色を保とうとして、野菜類と魚介類の摂取を基本にしている。

と云う訳で食したのは「タコブツ」だ。刺身の様な包丁捌きは見られない。ただ、ブツッと切って器に載せて出されると云う代物。だがそんなことはお構いなしに生気の源のタウリン等が身体を軽くしてくれる。この効果は恐らくイカを遥かに凌いでいるのだろうと思われる。

ひょんなきっかけから由緒正しき「ネギぬた」にありついた

ネギ料理の傑作の一つと云えるのが「ネギぬた」だ。葱を焼いて、茹でて、ふやふやにして、酢みそで和えるというシンプルな料理だ。

シンプルながらネギに特別な思い入れが乗じたメニューであるが故に、ネギぬたに他の食材は禁物でもある。だがそんなことはおかまいなくして邪道メニューが蔓延る今日に喝!なのである。

そもそもネギぬたとは、ネギの味わいを損ねることなく特別な料理に一変されるような見事な料理なのである。それがいつの間にやら主役の「ネギ」が脇役へと追いやられてしまっていて、近頃では「マグロぬた」「イカぬた」「タコぬた」等々の邪道メニューが外食産業界、ことには居酒屋業界をも席巻しているという、何とも由々しき事態なのである。

ネギぬたを食べようとして店に行った日には「イカぬた」ばかりを食わされるという身になってみてからでは遅いのである。今こそ「ネギぬた」の復権を叫ばねばならないと切に思うのである。

TPP参加を既定路線として押し進める、民主党野田内閣の愚

東北大震災の復興の目処もつかないこの時期において、民主党野田内閣はTPP参加を強引に押し進めようとしている。かねてからの米国からの圧力が背景にあるのwであるが、我国の農業政策や医療制度における悪しき影響には目をつむったまま、ひたすら米国の言いなりに政策の舵を切ったということであり、あまりにも愚昧な政治選択だというべきだ。

農業団体を始め日本の暮らしの骨格を担ってきた人々が「TPP反対」の声をあげている。このまま政府がTPP参加をごり押しするようなことになれば、我が国はとんでもない泥沼に足を掬われることになる。絶対にTPP参加のごり押しを許すべきではないのである。

もとより米国流の「グローバリズム」とは純米国資本の世界支配の足がかりを得るための思潮でしかないものだ。国家間の垣根を乗り越えて一つになるという意味では決して無い。それどころか、1パーセントの強欲人種が米国のみならずアジア各国を蹂躙することへのお墨付きを与えてしまうことになる。

数年前には小泉純一郎が、郵政民営化という愚策を弄して米国のポチ国家化を企図しており、未だその流れは途絶えることなく、いつ何時もゾンビのように騒ぎ出すかわからない。日本が米国の属国となって喜ぶ馬鹿どもが残念ながら沢山存在することを忘れずに、絶対反対の声を出し続けていくことが必要なのである。