豚モツの中でも逸品の「コブクロの刺身」を味わう

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コブクロの刺身を食した。豚の子宮をボイルしたものをニンニク醤油で味わった。食感はと云えばおいらが大好きな種類の、適度にもっちりそしてまた、コリコリとして、噛み応え充分ありである。刺身とはいえども実際は、ボイルされて提供される。数あるモツ刺しの中でもおいらの好きなメニューである。

そもそもコブクロ(子宮)とは、人間を含めて女性の哺乳類における生殖器のひとつであり、これを食すると云うことは女性器の一つを身体に含めると云う行為を指しているのであり、これはおいらも含めて男性人にとっての、所謂一つの女性ホルモン摂取の行為ではないかと考えている。男子たるべき人間が、簡単に味わってはいかんという構えは持っていたはずだが、ついつい欲に任せて注文してしまうのだ。ところではてな、女性人はどうなのだろうか? あまり焼肉、焼トン店にて女性が「コブクロ」を突付いている姿は記憶に無いものである。

SNS発信でプライベート丸出しというTV番組を観て考えた

日本TV(関東圏での4ch)にて本日放映された番組「あのニュースで得する人損する人」では、フェイスブック等のSNS発信でプライベート丸出しが行なわれており、様々な事件の温床となっているということが放映されている。SNS発信でプライベート丸出しとなったというTV番組である。

確かにフェイスブック、ミクシィ、ツイッター、等々のSNS的メディアが関係して、一世代にはなかった事件が頻出していることは確かな事実なのだ。つい先日前には、吉祥寺近くの某閑静な住宅街にてフェイスブックがきっかけで知り合った男女の刃傷沙汰が起こったばかりではあった。被害者の鈴木沙彩さんが、フェイスブックで知り合った男によって殺害され、未だに彼女のプライバシーばかりが拡散されつつあることは、SNS的メディアの負の存在を明らかにしている。おいらも事件の流れをネットで追求する中では、被害者のプライバシーに関する記述に遭遇していた。その多くは第三者にとって晒されるべきものではないはずである。そしてこんな事件がなかったならば被害者の将来はもっと明るく開けていたはずである。

おいらもSNSメディアに関しては、露出する部分を限定しつつ投稿をしている。つまりはそれくらいにプライバシー的な表現については控えているということである。

瑞々しい「生湯葉の刺身」はTV東京の観光番組の湯葉よりも美味しい

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「生湯葉の刺身」を食した。通常「生湯葉」と云えば、日光などの観光地の地域活性化的料理であり、豆乳から箸で丁寧にすくったものを思い起こすが、本日の其れはと云えばそうしたイメージとは目の前に異質に出て来たそのメニューに目をみはっていた。ちょうど本日は奥日光の観光地を巡るTV番組が放映されているので、ことさらに生湯葉への愛着を強くしていたと云えよう。

食した「生湯葉の刺身」は、湯葉の薄い刺身を何重にも重ねた様な様態であり、あまり他では見られないものであった。何しろこれまでに接した湯葉刺しに比べて最も瑞々しくあって、食感もぬるっとして宝玉のごとくではある。

ちなみに同番組では「湯葉そば」等の映像が放映されていたが、おいらが食した「生湯葉」ほど美味くはなさそうである。その瑞々しさにて本日おいらが味わった生湯葉に軍配が上がるのではないかと思われる。

大衆魚と云い難くなった「イワシの刺身」を味わう

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近頃は大衆魚と云い難くなった「イワシの刺身」を味わっていた。日本近海には多く生息するとされている「イワシ」なのだが、最近はそうとばかりは云えず、稀少な魚とも見なされつつある。とくに我が国の愛好家には親しみ深いマイワシは1988年をピークに漁獲が減少し、値段が高騰しているというのだ。気象温暖化により特徴的な長期的な気候変動とそれに伴うプランクトンの増減によるということが其の最も大きな原因とされている。

そもそもイワシは、青魚としての健康成分こと「EPA」「DHA」が豊富なことから、注目が高まっている。世の中に出回っている「EPA」「DHA」といったサプリメントの多くがイワシの刺身を原料としている。

カツオやマグロやその他多くの大型魚の食料となっている魚類種なのであり、今後にイワシの生息量が減少することは即ち、魚類全体の生態系に影響を与えていくことが必至なのである。

 

大きい「つくね」には、焼き鳥屋の裏メニュー的趣がある

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つくねは大きければ良いというものではないが、近頃食べるつくねは大きいものが主流とみえる。鶏肉に軟骨や他のモツ部類を加えてミンチにしてから団子状にして焼き上げる。タレと絡まった鶏肉類の香りがとても食欲を刺激していた。

団子は一つの塊であり、食べ応えは極まりなくジューシーであり、其の肉汁には頬が落ちてしまうくらいだったのである。

大きい「つくね」には、あたかもまるで料理屋におけるまかない料理の様な、焼き鳥屋の裏メニュー的趣があるということを感じ取っていた。

料亭のように新装となった吉祥寺の「いせや」公園店を訪問

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吉祥寺の焼きトンの名店「いせや」の井の頭公園店を訪問した。昨年には古き良き風情をかもしていた旧店舗の取り壊しが行なわれ、新装となってからは初めての訪問となっていた。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=6234

久しぶりに訪れた同店は新装となっていて、公園から眺めた外見はまるで高級料亭かと見紛うほどの奇麗なつくりである。懐かしい店舗の姿をイメージしつつ訪れたのだが、些か想像以上の変わりようであった。

休日だということもあり、店内に入るには行列に並ばなくてはならなかった。待つこと10分程度で、店内に踏み入れることが出来た。こ奇麗な店内は以前の雰囲気を残しつつ、カップルや家族連れが大部を占めていた。

そしておいらはかつてのメニューを懐かしむかのように、串焼きとシュウマイを注文して頬張っていたのである。

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味は以前と変わらずのまま。1本80円という価格もそのままである。串焼きのタレはサラサラしていて素材のワイルドさをそのまま活かせている。店員の心意気はかつてのままであったということを目にしていたのであった。

久しぶりの「アワビの刺身(肝付き)」に舌包み

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寿司屋で一献やっていたところ、「アワビの刺身(肝付き)」があるというので注文してみたら、10cmはあろうかという大きなアワビの貝殻に乗って出てきた刺身と肝にはびっくり。久しぶりに味わう味もまた満点だったのである。

普段よく食べているアワビの身は下湯でしたものがほとんどであり、硬くてコリコリとした印象だったが、このアワビの刺身はとても柔らかくてコリコリというよりもサクサクとした食感が印象的だった。

そして珍しく食したその肝はと云えば、軽くボイルされていたようだったが、鮮度の良い内臓の苦味がまた味覚を刺激していた。イカ墨や秋刀魚の肝らの旨さを簡単に凌駕するくらいのパンチのある旨みに魅了されていたのであった。

アワビの餌は昆布やワカメなどの海草類が主体であり、海の幸の恵みが凝縮されていることがよく理解されたのである。

現在上映中映画の原作だという「凶悪 ~ある死刑囚の告発~」を読んだ

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書店に立ち寄った際に「凶悪 ~ある死刑囚の告発~」という文庫本が目に付いて購入。何気なくページを捲っているうちにいつの間にか読了していた。現在上映中の映画の原作本だということである。多少だが映画づいているおいらの関心が、この文庫本をとらえるきっかけとなっていたのかもしれない。

さてその文庫版書籍の内容であるが、最終ページの佐藤優氏の「解説」が特段に面白かった。

「資本主義社会においては、すべてをカネに転換することが可能である。保険金殺人犯で人間の命をカネに換える「死の錬金術」が現実に存在するのだ。しかも、その主犯が法の裁きを受けずに市民社会の中で平穏に暮らしていく。このピカレスク小説のような話が現実に存在したのだ。」

以上のような佐藤優氏の解説から、この事件が特別な意味合いを持っているということを認識したのだった。ちなみに佐藤優氏といえば鈴木宗男氏との関係で拘留された経験を持つ人物である。それ故に一段とリアルな拘置所におけるやり取りがビビットに受け取られていくこととなっていた。と

それに伴いおいらもこの原作や上映中の映画に関しては多大な興味関心を惹起されたというべきなのであろう。近いうちにこの映画を視聴してみたいという思いを強くさせていたのであった。

近いうちに映画「凶悪 ~ある死刑囚の告発~」を鑑賞しようと思っているしだいである。

「マグロの山かけ」は夜の居酒屋メニューとしても逸品の味わい

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地元の居酒屋にて「マグロの山かけ」を食した。海の幸と山の幸とがドッキングしたメニューとしては、これ以上のものがないくらいに逸品的なるメニューである。これまでランチメニューとして摂取することが多かったが、酒の肴としても相性良しであり、栄養価も高いとあっては度々は注文したくなる。

今宵もそんな通常の酒の肴ではあったが、この相性の良さは筆舌に尽くし難きものがある。

ぶつ切りにされた赤身のマグロに大和芋を刷ったものをかけて提供される。味付けは醤油味だが、上にわさびが乗って提供されるのが一般的である。

「マグロの山かけ」は、昼のランチのおかずのみならずに夜の居酒屋メニューとしても逸品の味わいである。

禅宗僧侶であり芥川賞作家、玄侑宗久さんの「中陰の花」を読んだ

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先日は禅宗僧侶であり作家の玄侑宗久さんによる第125回芥川賞受賞作品「中陰の花」を読んでいた。「死とは何か」「魂とは何か」を見つめ追求した作品であり、いわゆる「死後の世界」を主なテーマにおいている。

それより少し前には、瀬戸内寂聴さんとの対談をまとめた「あの世 この世」という文庫を読んでいたのであり、読了後はずっと、「中陰の花」のことが気になって仕方がなかった。「あの世 この世」の中ではときに寂聴さんが聞き役となって、あの世とこの世の超常現象的な事象に関する解釈を玄侑さんに質問するシーンも散見されている。まるであの世の伝道者か死後世界を示し導く教授かのような振舞いをする玄侑さんが、はたして「死後の世界」をどう解釈して作品上で描いているかが甚大な関心を抱いていたのである。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=8378

中陰(ちゅういん)とは、仏教で人が死んでからの49日間を指すとされる。死者が生と死・陰と陽の狭間に居るため中陰という。小説の「中陰の花」では、禅宗臨済宗の僧侶である玄侑宗久さんが実世界で出会った、死後の魂との交歓が、様々なシチュエーションにて描かれている。そんなエピソードの夫々は、市井の人間の一人としてのおいらにとってはピンと来るものも在るが、現実感のないシチュエーションも多々描かれている。

おがみやのウメさんが自分の死期を言い当てた、つまりは予言が的中したというエピソードには引き込まれていったのだが、それ以降のエピソードに関しては、残念ながら知的な興味関心以上の引付けを感じることができなかった。

美しく装飾されたそれらの光景をそのまま実感として受け付けることは最後まで出来かねていた。そのような意味においては些かがっかりな気分も捨てきれなかったのである。

「iPhone5c」の使用感は予想以上に好感触だった

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先日「iPhone5c」を機種変更にて購入してから1週間が経過している。じつを云えば購入の日には「iPhone5s」を購入するつもりだったのであり、それが叶わなかったことで、失望にちかい思いを抱いていたのだ。だが1週間が経過した今になって思えば、ダサいデザインを我慢すれば「iPhone5c」のほうが正解だったとさえ思えるのだ。

実際そのデザインはダサいというよりは凡庸と云うべきものだが、凡庸さが今のこの時期にてはかえってオリジナリティーを主張するような状況だとも思われる。「iPhone5s」のような煩い主張は消えていて、かえって使用感もアップするかのようなのだ。

それにしてもこの1年数カ月間の「Android」を使っていた期間の違和感は何だったのだろうか? ネットサーフィンすれば反応が鈍い。内蔵電池の消耗が激しすぎていつ使用不能になるかと思わせる。しかも電話をかければ反響音が煩わしくて会話に集中できない。…等々と、元「iPhone」ユーザーとしては可成り苛立ってたと云えよう。やっと本来的のスマホに再会したというくらいの思いであり、それが購入前の予想以上に好感触だったのである。