村上春樹の短編集にみる都合の良い女性観

近頃発売された村上春樹の短編集「めくらやなぎと眠る女」には、新作に混じって1980年代に発表された作品が多く収録されている。「カンガルー日和」という作品もまた1981年に発表された作品であり、懐かしさとともに読んだ。

主人公の彼と彼女が動物園にカンガルーを見に行く、ただそれだけのお話なのである。そのむかしこの作品を読んだ状況は失念したが、何作品かを読み進めて、やはりというのか、春樹さんの世界観の一端を垣間見たような気がしたのである。何しろ春樹さん作品にはおおよそ良い関係の女性が登場してくる。きっと彼は女に不自由したことなどなかったのだろう。それはそれで天晴れなのだが、おおよそ登場する女性仝が、春樹さんの世界観をほとんど体現した存在として描かれる。つまり春樹さんの世界観が登場人物としての女性に乗り移ってしまうかのようだ。これは恋愛が成就するか否かの物語のストーリーとは関連無く表れる。他の作家になかなか見られる現象ではないのだ。軟派小説と呼びたくなる所以でもある。

写真で見る限り村上春樹さんはそれほどイケメンではなさそうだし、セックスアピールも人並み外れて強大だとも思えない。ならば彼の都合の良い女性像、女性観は、どこから発生するのだろうか? おそらくそれは、物語作家としての資質にあるのだろう。つまらない物語でも、ありきたりなストーリーでも春樹さんが書くと一段と輝いてくる。こんな作家はやはり稀有と云わざるを得ないのである。

村上春樹さんの「1Q84 BOOK3」発売。「BOOK4」も既定の路線か?

村上春樹の短編集にみる都合の良い女性観

村上春樹「1Q84」が今年度の一番だそうな

村上春樹の「めくらやなぎと眠る女」

村上春樹のノーベル賞受賞はありや否や?

青豆と天吾が眺めた二つの月

リトル・ピープルとは何か? 新しい物語

青豆と天吾が再会叶わなかった高円寺の児童公園

「1Q84」BOOK4に期待する

リトル・ピープルとは?

村上春樹「1Q84」にみる「リトルピープル」

美味い「あんきも」の季節です

あんきもをつくるには数日を要するらしい。

あんきもをつくるには数日を要するらしい。

地元のいつもの居酒屋で、美味しい「あんきも」に遭遇したので、購入したばかりの「オリンパスペン」にて撮っておきました。

冬の魚、鮟鱇をさばいたことのある人なら強烈にその、大きな肝が目に付くのですが、その肝こそ美味なる味の宝庫なのです。「あんこう鍋」にもこのあんきもが必須の素材となります。

そして今日食した「あんきも」はといえば、そのあんきもの良さを丁寧にていねいにと心を尽くして手づくりした逸品なのでした。多少脂っこいのがあんきもであるが、こんなに丁寧に調理されてあると、とてもすんなりと咽越しよく味わえるのです。これをつくるのには、蒸して干してを繰り返して数日かかるのだとか。

「オリンパスペンE-P1」購入

pen01

ボーナスが出たという訳でもないのに、そんな当てなど全然あるはずも無いのに、少々高い買い物をしてしまった。「オリンパスペンE-P1」という名のデジカメ。税込み九万九千八百円なり。

おいらが小学生の頃使っていたハーフサイズカメラ「オリンパスペン」の復刻復活版、等々といった触れ込みで、今年の夏頃から売り出されていたモデルである。先日、上級機種の「E-P2」が発売されたと聞き、旧型のモデルが安くなっただろうなどという見込みでカメラ店を覗いたのであるが、いっこうに値下げの気配など無かった。やっぱりリストラクション吹き荒れる昨今の状況では、新型カメラなど高嶺の華かと放念しつつあったのであるが、こんなことでは一生手に入らぬ買い物になってしまうぜ、買うなら今! 云々かんぬんコールがおいらの脳味噌を去来したので、めでたく購入と相成りました。

懐古的古きモデルと同様に、撮像素子(アナログ的フィルムに相当するもの)が35mmの半分の17.3mmであるのも、古き「オリンパスペン」の伝統を引き継いでいるのである。小学生時代はこの名機片手に写真を撮りまくっていたものであり、数々の懐かしい想い出が去来してくる。新型となったモデルを手にして、幾分浮き浮き気分なのである。明日からはこの新型カメラを持って散歩に出かけよう。

冬鍋の一番はやっぱり「あんこう鍋」だね

昨晩、ハウスの「カレー鍋」のことを書いたからなのか、某未来のIT長者から「小林さん、今年はトマト鍋ですよ」と云われたのです。なるほど時代は常に進化しつつ新しい鍋料理を求めているようである。「トマト鍋」と云えば、それを売りにしている居酒屋があるからにして、今度はそこで「トマト鍋」を食らうぞと思ったしだいなり。

それはそれとして、「西のてっちり、東のあんこう」と称されるくらいに美味なる「あんこう鍋」に、このところありつくことがなかったなあと、しみじみと思うのである。かつてはもしおいらの記憶がたしかならば、冬季のホームパーティーで食していたのが、おいら特製のあんこう鍋なのだった。はるか茨城県の平潟からあんこうの七つ道具といわれる肝7種類を取り寄せたり、上野のアメ横にて一匹あんこうを買い求めてさばいたこともあったのだった。今は遠方彼方(はるかかなた)を眺めるがごとき遠いまなざしなり。

茨城県平潟のあんこう鍋は「どぶ鍋」とも呼び、あんきもいっぱいに出汁をとり、味噌鍋仕立てにします。このレシピが基本なり。やっぱり冬鍋は「あんこう鍋」だぞと考えつつ、あんこう鍋のレシピを思案する今宵なのであります。

http://www4.zero.ad.jp/ucchy/ankou/process/index.html

冬の鍋考現学 [1]

二枚貝が蓋を開けたら食べごろなり。

二枚貝が蓋を開けたら食べごろなり。

鍋が美味しい季節になったが、最近おいらがありつく鍋はといえば、一人鍋ばかりなり。一人鍋というものはさびしいものである。二人鍋はこれまた楽しい。だからといって、三人鍋、四人鍋、五人鍋、グループ鍋が楽しいかと云われたら、決してそうとばかりはいかないのである。

先日はおいらも、某一足お先の忘年会にありつくこととなったのだが、出てきた料理はといえば、鍋無しコースだったのである。かつて無い驚きであった。だが幹事をやった若手某女史によれば、他人が箸を突いた鍋など食したくはないとのこと。う~む、なるほど一理ある。冬忘年会にて鍋料理が無かったことがあったであろうか? という訳にて先日の忘年会では鍋料理が出なかったから蓄積していたマグマが噴出したのかも知れないのです。

魚料理専門の居酒屋が提供する鍋であるからして、魚介類が豊富な味噌仕立てなり。近頃は一人鍋も億劫がらずに注文できるのだからそれは嬉しいのだ。

先日は家鍋をしたのだが、そのときは初めてハウスの「カレー鍋」のもとを使ってみた。悪くは無かったが、所詮子供の食べる料理である。大人がこんなものを鍋料理だと云って憚らないとは看過しがたいものがあるのだ。であるからして今度「カレー鍋」を作るときには、ハウスのカレー鍋は使わずにやってみるぞと内心誓っていたのであった。

立ち呑み考現学

♪この道は~ いつか来た道~♪

詰まるところ旬なネタがなくなるとまたリカーの話題に立ち返るのは、当ブログの宿命であるからしてご注意無用。あ~あ、また馬鹿やってら~、てな具合に大目に見とって欲しいのであります。

さて銀座にも立ち呑み酒場はあるのですが、今日行ったのは地元の立ち呑み屋。そこは初めての場所だった。街の商店街に軒を並べるそこそこ規模の酒屋の一角に、その立ち呑みコーナーは設けられていて、酒屋の入り口と立ち呑み酒場とのそれがひとつであることから、入った瞬間、とても気まずい立場に置かれる。

「あの~、立ち呑み屋はどこですか?」

我ながら余計な愛想を振りまいて入ると、「あ、そこそこ」という店員の横柄な受け応え。まずはここで、あ~、来るんじゃなかった! と後悔するのだ。まあ人生における後悔のひとつや二つはどうってことないやと気を取り直して、お飾りくらいに小さな暖簾をくぐって、それからいつものホッピーを注文。

「普通のでいいですか?」
「うん。いいよいいよ。白い普通のやつね」

とまあ、素人店員に対して玄人ぶってみたわけではなかったが、多少ここで溜飲を下げることが出来た。

さておつまみはと、メニューを探したのだが、それらしきものはない。そうなのだ、純粋立ち呑み屋のおつまみはといえば、缶詰と相場が決まっている。そう思って見渡したらあった。さばの水煮缶にさばの味噌に缶に、あと二種類くらい。「さばの味噌煮が人気ですよ」と、いつの間にか店員が説教を始めている。「おんどりゃ~そのくらい知ってるら~!」と怒ってみるのも情けないので、「うん、それにする」とまあ、さばの味噌煮缶詰とホッピー二杯でその店を出たのでありました。

地元のもっとましな立ち呑み屋をもう二軒は知っているので、こんどはちゃんとした立ち呑みレポートをお届けしたいと思いますです。

フランスの文化に対する考現学

代官山の「COLORS」は終わってしまったが、フランス大使館ビルのアート展示会は来年1月末まで続く。昨日は時間もなかったことで詳細やら何やらについて触れることが出来なかったので、改めてこんばんはこの稀有な展示会について紹介していきたいと思うのである。

入場料は無料である。だから少なからずに興味関心を持った人ならば絶対に訪れるべしなのである。ただし、入場の受付にて100円也のガイドブックの購入を薦められる。これは素直に購入したほうが良い。おいらもこのガイドブックの有り難味は身に染みたのだ。それからはもう見たい放題、写真に撮っても全然お構いなしなのである。おいらのように未だに実験写真に興味津々のものにとってはこれはすこぶる有難い。そのガイドブックの表紙には「創造と破壊@フランス大使館 最初で最後の一般公開」との文字が躍っている。たしかにコンセプトの意義をまんいつさせた空気が会場のあちらこちらで散見されるのである。おいらがもし仮の話でキャッチコピーを担当したとなれば、たぶんこの順序を逆にして「破壊と創造@」などというものを提示してしまったのだろう。おフランスさんの文化には、このような順序が似合わないことをここで改めて認識させられたというわけなのである。

我が国日本にとってみれば、予定調和というのが文化の基本にあるようであるが、おフランスにとってそのようなものは文化の邪道である。創造して、破壊させた物語は、決して予定調和にはそぐわないであろうが、それこそがおフランスの心意気なのかもしれないのだ。我々島国の日本国民にとって、それは重くのしかかった文化の扉を開くことの大切さを暗示してもいるのだ。日本に閉じこもっていたらば何も創造できないばかりか破壊もままならぬ。そんなこんなを感じた昨日の展示会也。

日本とフランスとその他の國の気鋭作家たちが、いわゆるレヴィストロースのブリコラージュし合う、実験場の趣である。作家たちはまるでレヴィストロースの子供たちのように振る舞っているように見えてならないのである。レヴィストロース先生は、こと文化人類学のジャンルにとどまらずに、予定調和的な近代主義に対して大いなる創造的心意気にてノンを延べつつ、未来に対して熱く語っていた。それを忘れてはいないのである。

心躍らせるアートに遭遇

代官山で「COLORS」という企画展覧会が開催されている。(12/1~12/6) 旧知のアーティスト、サバコさんから案内葉書をもらっていたので久しぶりに代官山へと足を運んだのでありました。

神話的モニュメントを想起させるサバコさんの新作。

神話的モニュメントを想起させるサバコさんの新作。

お洒落な代官山にあってさらに人目を引く現代建築「ヒルサイドフォーラム」という建築物の内に、大きくスペースをとった展覧会会場が設置されている。よくある公募展会場のような重苦しさはなく、割り当てられた展示スペースに作家がおのおの工夫を凝らして展示を行っていくという参加型のスタイルである。展示作品のほとんどが平面か半立体であったのに対し、サバコさんの作品は立体作品であり、2つめの会場に足を踏み入れたらすぐにそれと判った。これまでにないスタイルの新作であったが、一見してフォルムがサバコ風であり、遠目にも強烈にアピールしてくるものがある。存在感が他の作品を圧倒していたのだ。アフリカの土着絵画や神話的イメージを連想させるが、プラスαこそがサバコ風なのであった。今回の作品は実用的な家具(椅子)として利用が可能であり、どっしりと黒光りするさまが特徴的である。はじめ木材家具だろうと思っていたのだが、話を聞くにつれ、素材がプラスチックの一種であることを知った。やはり家具ではなくアートだったのである。少しばかり座らせてもらったりもしたのだ。こんな家具ならぬアートと暮らしたら、さぞ毎日ウキウキするだろうなあ。

久々の昔話にも花が咲いたのだが、近くの広尾のフランス大使館にて、ちょうど面白いイベントが開催中という話を聞いて、次はフランス大使館へと向かったのです。一度も踏み入れたことのなかったフランス大使館内を、アートの展示場として一般公開されるとあって、来訪者の姿も多くみられた。こんな機会は滅多にあるものではない。お奨めです。

村上春樹「1Q84」が今年度の一番だそうな

やはりというのか、純文学作品が入ったことへの驚きというのか? どちらとも取れるこの村上春樹さん現象。今年度の出版された書物の中で、村上春樹「1Q84」がもっとも売れた本だったというニュース。

「報道ステーション」ではゲストの鳥越俊太郎がこのニュースを受けて、実用書流行りの出版業界にあって文芸作品が読まれたことの意義や活字文化の重要性なりについて述べていた。同感である。実用書、ビジネス書の類いを買って読んでもそれを「読書」とは云わない。云ってはいけないのである。

勝間和代なんたらの書いた本がよく売れているようだが、こんな本を読んで騒いでいる人間の気が知れないのだ。世の中の馬鹿野郎どもが、ちょっとばかり頭が良くて要領も良くて、時流に乗っただけの某おばさんの書いた本など読んで何が面白いのだろうか? さっぱりわからんのである。こんな時流ビジネスおばはんの書いた本など読むなと云いたいのである。まあこんなことを書き連ねていたら、世に蔓延る勝間マニアなどの攻撃など受けるかもしれないのでこの辺で止めときます。

村上春樹さんの「1Q84 BOOK3」発売。「BOOK4」も既定の路線か?

村上春樹の短編集にみる都合の良い女性観

村上春樹「1Q84」が今年度の一番だそうな

村上春樹の「めくらやなぎと眠る女」

村上春樹のノーベル賞受賞はありや否や?

青豆と天吾が眺めた二つの月

リトル・ピープルとは何か? 新しい物語

青豆と天吾が再会叶わなかった高円寺の児童公園

「1Q84」BOOK4に期待する

リトル・ピープルとは?

村上春樹「1Q84」にみる「リトルピープル」

銀座のネオンもまた見頃です

なんと百獣の王ことライオン様がお迎えする銀座三越店。

なんと百獣の王ことライオン様がお迎えする銀座三越店。

銀座の四丁目にそびえる由緒正しい三越デパートにもリストラの嵐だそうなのである。

株価も暴落しており、やはりといっていいのだろう、光あるところに影があるのだ。今宵はそんな「三越の影」を訴状に、おっと違った俎上に上げてみようかとも企んだのであるが、眠気(睡魔とも云う)が襲撃なのでありまして、この項はまたの日に持越しするのです。

納得しない方々は、銀座のネオンなど鑑賞なさってくださいませ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091202-00000534-san-bus_all

R0012746

オパール寸前のアンモナイト

先日もレポートした「奥野ビル」内の某ギャラリーにて、アンモナイトの土器を発見したのです。燻し銀のごとく妖しい輝きを発するその土器は、宝石のオパールに変化する寸前のアンモナイトのものだという。モナッコ産なり。

okuno04

アンモナイトが妖しい輝きを発していたのである。

銀座一丁目の由緒正しき奥野ビルは別名で「骨董ビル」とも称され、十数軒のギャラリーが軒を並べているのであるが、それかあらぬか、ビル内ギャラリーには、陶器関連、時代物関連、高齢者関連、等々の展示でこれでもかと云うくらいに骨董関連に溢れている。そんな中で今日遭遇したのが「土器」を専門に扱っている展示室であった。信州をはじめとする国内産の土器から、欧州、アメリカ大陸産のものなど多様に渡る。世界中を駆け回って収集しているマニアによる展示会であった。骨董の中の骨董とも云える「土器」専門展示。流石に「骨董ビル」に棲まうギャラリーの名に恥じないものである。

今日もまた当ビルの探索を決行したのであった。有り難いことにこのビルには骨董エレベータと呼ぶに相応しい文明開化の利器が設置されているのである。まずはビル最上階の7階へ登るのである。鉄格子と見紛うエレベータの扉は、がっしりとしたドアノブを手にして回さなければならない。手動式である。降りるときにも二重に設置された扉を開いて、手動で閉じなくてはならないのである。かりに手動扉を閉じ忘れたらば、エレベータ自体が動くことを止めてしまうのだから、このビルの住民、利用者にとっては死活問題なのである。

骨董品だろうが天然記念物であろうが容赦なく破壊する、我が国の非常識にかんがみれば、早晩の間に取り壊されること必至なりの奥野ビルなのである。このエレベータに乗るだけでも奥野ビルを探索する価値がある。小声ではあるがここで断言しておきたいと思うのであった。

okuno03

二重に設置された鉄製の扉がいかついのである。

村上春樹の「めくらやなぎと眠る女」

mekurayanagi01

今日、村上春樹の短編集「めくらやなぎと眠る女」を書店で見つけた。米国で出版された春樹先生の短編集の逆輸入バージョンだそうである。ピンクの装丁が洒落ている。半透明なカバーを被せるなどして手が込んでいる。ペラペラめくって少し考えたものの結局買ってしまった。

早速帰宅電車の中で表題作を読んでみる。20頁程度の短編だから丁度よい長さである。普段何もすることなくウォークマンの音を聴いているより小気味よい緊張感、充実の予感である。そんな心積もりだったのだが、4~5頁読み進めたところで上の空。目は確かに活字を追っているのだが、一向に物語りに入り込むことかなわぬ状態。失態である。こんなことはしばしばあるのだが、こと春樹先生の作品でこんな事態になろうなどとは予想だにしなかったのだから自分自身びっくりなのである。眠気が襲ったわけでもないのに何だろうこの弛緩した感情模様は…。

たぶん以前にもこんな体験はあったのだろうと思うのだ。春樹先生の初期作品といえば、短編作品については特にそうなのであるが、このようなだるい気配を物語の要素としていたことをはっきりと思い出すのだ。だるいというのが不穏当であるならば、ゆるいのである。ゆるい物語の、結末もはっきりせぬような展開を追いながらも、この想像力のユニークさは特筆される。春樹マニアは現在の春樹先生の姿をもまた予想していたのだろうと思うのである。

村上春樹さんの「1Q84 BOOK3」発売。「BOOK4」も既定の路線か?

村上春樹の短編集にみる都合の良い女性観

村上春樹「1Q84」が今年度の一番だそうな

村上春樹の「めくらやなぎと眠る女」

村上春樹のノーベル賞受賞はありや否や?

青豆と天吾が眺めた二つの月

リトル・ピープルとは何か? 新しい物語

青豆と天吾が再会叶わなかった高円寺の児童公園

「1Q84」BOOK4に期待する

リトル・ピープルとは?

村上春樹「1Q84」にみる「リトルピープル」

銀座四丁目を俯瞰する 昼の銀座散歩 [2]

銀座四丁目を眼下に見渡せる場所なのだ。

銀座四丁目を眼下に見渡せる場所なのだ。

昼時になるとたまに足を向けるのが、銀座四丁目交差点に隣接するDOUTORなり。サンドイッチが五百数十円にコーヒーを付けてしめて八百数十円なりと、チェーン店舗の喫茶店にしてはかなりの割高である。なんでまたこの様な割高な店舗へと足を向けるのかと云えば、地価日本一と云われ続ける銀座四丁目交差点の一等地を眺め渡すことのできる場所だからであり、この場所で、かつての一時期文化人類学の手法として風靡した路上観察を行なうためである。世の中を風靡した路上観察の対象はと云えば、石ころやガラクタのたぐいであったと記憶しているが、おいらの観察対象はと問われれば、交差点をぶらつき歩くおのぼりさんやら海外から遥々おいでましたる観光客だということになる。銀座の達人でもないおいらが銀座人を見下し観察するのであるからたちが良いわけが無い。吾ながらお恥ずかしい趣味のカミングアウトなのであるが、我慢し通し持ち堪える自信などないのである。

路上観察のことを横文字の別名で「フィールドワーク」と云う。こう云い換えると多少高尚な響きも有してくる。今日はしかるにフィールドワークのテーマを立てて、路上観察を敢行したのだ。題して「銀座四丁目スクリーン広告の考現学」である。銀座四丁目の三越本店には巨大なスクリーンが掲げられ、日夜行きゆく人々にスポット広告を流し続けている。その広告をフィールドワークしてみたのだ。不況の只中にあって、地下日本一の巨大スクリーンに広告を流していその広告主とはいかなるたぐいか?

・フジテレビ
・産経新聞ニュース
・ニンテンドー
・ブリジストン
・ミキハウス
・赤い羽根募金
・GMアジアパシフィック
・東京メトロ
・創価学会
・すしざんまい

とまあ、この様な広告主が並ぶのである。知名度だけでは計れないゲンダイの世相が見て取れるのだ。光あるところには影がある。不況下においても明るくスポットライトの当たる一等地でスポット広告を流し続ける広告主たちの、異様なる華やかさ志向、明るさ志向に接しながら、おいらの興味関心は、それらの影の部分に向いていたのであるが、そのあたりの考察についてはまだ少々時間がかかりそうである。

夢を記述することの難しさ

夢を語ることは誰でも出来るが、夢を記述することはとても難しいものだ。おいらが十代青春期にシュールレアリズム宣言に出会い、傾倒するに伴い、自身の夢の記述が如何に難題であるかを思い知った。自身の夢の世界を描こうと思えば思うほどにその難しさに遭遇していたものである。それだけ「睡眠」と「覚醒」との距離が大きかったのだろう。

昨日購入した「EDGAR ENDE & MICHAEL ENDE」で父エンデが描いている世界はまさしく、夢の記述なのだが、父エンデの個人的な夢というよりも時代に抗う人類の姿がそのリアリズムの筆にて詳細に描かれている。まさに象徴化された世界像である。微細な夢の記述が人類すべての姿かたちを象徴しているとも見えるのだから、天晴れというしかない。父エンデが実はシュールリアリストと呼ばれることを嫌っていたというエピソードにも納得である。

ミヒャエル・エンデの父子の作品集

ende

ミヒャエル・エンデの父子の作品集を古書店で見つけて、あわてて買い込んだのでありました。「EDGAR ENDE & MICHAEL ENDE」という、朝日新聞社から出版された美術作品集なり。

エンデ父子といえば、その昔には諸事情にていさかいの日々を送っていたという物語が耳に聞こえてきておりまして、父子の不仲などに興味が集中してしまいましたことあり。でも今日この時にては、おいらにはいささかなりともエンデ父子に対する不純な詮索など全くなく、実に純粋に、読み進めることが出来たのでありました。

銀座の神社巡り 昼の銀座散歩[1]

実は「銀座七福神」巡りが出来るくらい、銀座は神に溢れている街である。

左写真は「あずま稲荷大明神」。三原小路と呼ばれる一角に隠れるようにして佇んでいる。夜にもなると料亭がこの辺りで七輪を出して魚を焼く。その風情が良いのだ。

asahi

 「朝日稲荷神社」も、裏町のビルの隅に棲まうさまが又良い。

WordPressは難儀なり

これが2冊目の参考書なり。

これが2冊目の参考書なり。

インターネットと付き合うには様々な苦労に直面するものだが、中でもとりわけ難儀なのが、ITの知識技能の習得である。通常一般社会における知識技能というものは、若い時分に一度身につけてしまえばそれでほとんど事足りるものだが、ことIT、ネットに関することとなればそうはいかない。元来、プログラムというものに縁の無かったおいらでさえ、やれphpがどうの、javascriptが機能しているのいないのといった分野に首を突っ込む羽目に陥るのである。

今回このブログをスタートさせるに当たって採用したのが「WordPress」というシステムである。誰でも無料で利用でき、オープンソースとなっているためユーザーのコミュニケーションも盛んで、ブログソフトの定番となっている。おいらがこの名前を目にしたのはつい半年くらい前のことだったが、自分のブログを設置するならこれしかないと、いつの間にか思い込んでしまった。商用サイトが提供するブログシステムに比べれば、その自由度、広告の無いすっきり度はこれだけでも拍手ものである。魅力はそれに留まらない。群を抜く可能性を秘めたもののようなのだ。

だが利用するに当たっては、cgiなりMySQLなりといったサーバー設置の知識に加えて、php、javascriptの基本知識は必須の条件のようなのだ。設置しスターとさせたはいいが、仲々デザインのカスタマイズが進まない。HTML、cssといったページデザインの知識では太刀打ちできないことを思い知ったのである。そのため昨日は「WordPress2.7ガイドブック」という2冊目の参考書(1冊目は「WordPressでブログサイト構築入門」で、この初級レベルは何とかマスターした)を買い込んで、受験生さながらWordPressを学んでいるしだいなり。これがマスターした日には、ブログのデザインも機能も意のままに操れるようになり、そんな暁には当ブログも今とは別の顔を見せることができるかもしれないのである。

レヴィストロースの遺言 [2]

先日当ブログでも紹介したかもめさんのブログ「新平家物語」では、おいらが引用した五十嵐茂さんの「自己テキスト論」について述べられていた。やはり想像したとおりにかもめさんも「自己テキスト」を駆使してネットの世界を闊歩しているようだ。さらに彼の論の後半はといえば、いつもの独自の「言葉は私語につきる論」で占め尽くされていており、おいらの引用は其処でも又前書きに利用されているかのようである。我田引水の力をまざまざ見せ付けられたごとくに天晴れであった。「小林さんもそうなのだろうが、われらには、言葉なしには、一日たりとて過ごせない。」といういささか買い被り的評価もいただいたようである。

自身を振り返ってみれば、おいらは「言葉なしには一日たりとも過ごせない」といった自覚はないのだが、言葉にかかわらずに表現することへの欲求は一日たりとも欠かして過ごしたことはない。ブログによる「自己テキスト」の発信は、その一つであると自覚するものなのである。

さて本題である。先日触れたレヴィストロースの「ブリコラージュ論」では、人間の知的活動をコラージュになぞらえて展開されているのだが、身の回りの素材を駆使して、創造活動を行なっていく様が、まさに人間活動の原点であることを示しているようで興味深いのだ。マスメディアが膨大な量の情報を垂れ流しにし、まさに小市民をマッサージさせつつ魂を奪い去っていくこの現代という時代に抗って、コラージュ=創造活動を継続させていく重要性をレヴィストロース先生は示しているのである。

ところでレヴィストロースによれば、前髪を前面に垂らすことが仮面の第一歩であるという。市橋容疑者が整形逃亡の果てに逮捕されたニュースは真新しいが、その逮捕の報道に取材陣が殺到して写された彼の姿には垂れ下がった前髪が特徴的でもある。この垂らした前髪に胸キュンして熱いラブコールを送っていたのが、いわゆる「市橋ギャル」であることは当ブログでも指摘した。メディアがマッサージとして猛威を振るった結果でもある。その件についての考察は後日にまわすことにしたい。

http://blog.goo.ne.jp/kakattekonnkai_2006/e/471a1d100fe4f247e62aaa00ef283d67

お馬鹿グルメ本のとほほと僥倖

昨今のように、西欧流似非近代的グルメ本が蔓延ってくると、昨日までグルメ本で通っていた書籍類がいきなり「お馬鹿グルメ」の本に変質していたりしておりまして、おいらもいささか警戒しないではいられないのである。その際たると云いたいのが、「中央線で行く東京横断ホッピーマラソン」(大竹聡著・筑摩書房文庫)である。その本に示されているのは、ただ単にホッピーを飲んで中央線を横断しようというもので、その実態はといえば、中央線をホッピー片手にマラソンしながら走り続けるという凄いものでは毛頭無く、さらに日々刻々連続して中央線を横断するという真面目なものでもなく、しかも1日の最低限のノルマを定めることなく、ただただお馬鹿な呑み芸が披露されていくのである。まともなグルメ酒本を期待していたおいらはじめ読者にとっては、ほとほとお馬鹿な飲み芸に付き合わされる羽目になってしまうのだからたちが悪いのである。

とはいいつつも、おいらはここ数日来、この馬鹿の見本、おっと失礼変換ミスでした、「馬鹿呑み本」で紹介されていた酒場に出没したので、レポートしたいと思います。名付けて「文化人類学」ならぬ「酒飲み人類学」であります。

まずはとほほなネタから参ります。お茶の水駅を降りて辿り着いた神保町の某店舗には、自慢の一品「チリホッピー」というメニューが無かった! これはもう、あるある詐欺にも等しいのではないか! またどこにでもあるチェーン店舗など紹介するのはほとほとやめてもらいたいのである。そして僥倖と云えるのが中野の「やきや」。ひたすら焼くメニューが並んでいるのだが、これが古き良き立ち飲みの風情をかもしていてGOODである。ここならば行きつけにしたいと思えるB級名店なり。まあこのように、お馬鹿グルメ本に書かれてある本の内容は確率1~2割と考えて居たほうが宜しいようでございます。1~2割の店に当たったら僥倖と心得るべしなのです。

中野のやきやはよかった。

中野のやきやはよかった。

レヴィストロースの遺言 [1]

おいらは学者ではないので、いわゆる「構造主義」を詳細に学んだこともなければ、文化人類学の概要についてさえ覚束ない知識しか持ち合わせていない。レヴィストロースの思想的立場が奈辺にあるのかさえ疑わしいのだ。しかしながら彼の著した書物に目を通していると、常に強烈に訴えかけてくるものがある。それは思考のしなやかさである。

私事になるが、かつておいらが美大の4年生であったころ、教育実習とやらで実家に近い母校の高校に2週間ばかり通っていたことがあった。指導教官との打ち合わせでおいらが教育実習のテーマとして主張したのが、「コラージュ」である。このとき、レヴィストロースのコラージュ理論(「ブリコラージュ理論」ともいう)が頭の中にあった。指導教官にはレヴィストロースの「レ」の字も漏らさなかったが、レヴィストロースの影響下にあったことは隠しがたい事実である。2週間という時間は中途半端な時間であり、生徒達によるコラージュ作品はほとんど完成を見なかったと記憶しているが、日常から抽出された素材を彼らがどう扱うかに、おいらの関心はあったのだろう。つまり、おいらが知らない素材を、若い生徒達がどのように持ち寄り組み合わせるか、実験してみたのである。

その後、「コラージュ」という概念はおいらの中で展開されることなく、おいらの関心はジャン・デュビュッフェらによるアンフォルメル絵画に移っていった。美術、音楽に対する造詣も深かった彼のコラージュ理論は、西洋近代主義の垢を払い落とすことにとても役立ったのである。