町田康氏の処女作「くっすん大黒」に感動したのだ

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何だかんだありながらも「町田康」という存在はとても気になる作家である。

駄作や傑作を産み出しながら、最近の作品にはなかなか満点をあげることも出来つついたのだった。だが先日は彼の処女作「くっすん大黒」を目にして衝動買いし、あらためて読んでみることにしたのだった。

酒浸りになり顔かたちも醜く変わってしまった主人公は、妻からも逃げられ、生活を立て直そうとしてかごみの整理をしていたところ、大黒様の処理に困ってしまって、あたふたとしてしまい、逍遥の旅に向かう、と云うのがストーリー。だが物語は一筋縄ではいかずに、はちゃ滅茶の展開を取りつつ進行していく。

パンク作家の処女作らしきアナーキーな展開はドラマツルギーに溢れており、好感度を加速させていく。最近の町田康氏作品に見るようなワンパターンの構成や落ちの白々しさは無く、見事である。芥川賞作家の処女作品ならではの力作なり。

パンク作家でなくても多くの現代人が経験しているであろう日常の倦厭や拒否感からワープして導かれるドラマ仕立てのストーリーは荒唐無稽であるが、感情移入もし易くあり、高感度的パンク作品に相応しいといえるだろう。

リニューアルした新宿思い出横丁の「つるかめ食堂」を訪れ唖然

新宿思い出横丁の「つるかめ食堂」がリニューアルしたと聞いて訪ねてみた。

ところがどっこい期待とは裏腹に、久しぶりに暖簾とやらを潜って入ってみた新制「つるかめ食堂」は、小ぎれいにすっきりしたものの、かつてのつるかめらしさがまるで無くなってしまい、いとがっかり。何と云うこの不条理な光景なのかと、しばし唖然としていたくらいであった。

まずは「コの字型」のカウンターが無い。客(ほとんどが飲みに来客する呑兵衛たちだが)が店舗の人間と向かい合い、注文やら世間話やらを談笑していた空気はそこには無くなっていた。1階の敷地面積は変わっていないはずだが、ゆったりして小ぎれいになっただけで、店舗は狭く感じられた。

客層のことを述べる前に、客足は少ない。おいらが居た時間帯に出入りしていた客は10名に満たなかった。通りすがりと思しき4~5人の客が丼や定食やらに箸を付けて飯を食らっていた光景に遭遇し、時の流れのうつろいを淋しく感じていた。つまりはその場所は、かつてあった呑兵衛たちの憩いの場所とは様変わりしていたのである。

同店の名物「そい丼」を注文した。大豆が主役の丼であり、ひき肉と共にカレー味で煮込まれた具が御飯にのっている。そして隠れた主役がハムであり、この昭和的ハムの風合いが何とも云えない郷愁をそそる。味噌汁付きで、昭和の頃の食生活のままかのごとき500円と云う安さにも、回顧の気分をそそらせる。確かにそそらせたのだったが、かつてのあの元気だった頃の「そい丼」とはどこか違っていた。「バカはうまいよ」の幟が無くなっていたし、それより以上に、当時の調理していた人たちが亡くなってしまっていた。利口な人間にはうまいのか? 不味いのか? そんな突っ込みを受け止めてくれる人達が居なくなってしまったのだから淋しさもひとしおに積み上げられていくかのようだ。

かつては「つるかめ食堂」といえば思い出横丁のへそとも称されシンボル的存在だったが、今は違っていた。他の店舗は昭和の風情を残しているのに、この店ばかりがリニューアルして、得たものは何だったのだろうかと考えた。もしかして同店主は横並び的店舗のスタイルから脱皮しようしてリニューアルを敢行したのだろうかと? だがそんな試みはもろくも崩れ去ってしまったと云うことが見て取れるのだ。

2階も無くなっていた。仮店舗としての許可しか出なかったと云うのが理由らしいことを知った。2階が食堂として機能していた頃には、おいらは何回もその場所で遅い夕食を摂っていた。会社の同僚とはそこで一緒に食事と酒を摂っては会社や社会への愚痴や批判を口にしていた。そしてそんな愚痴や批判を「つるかめ食堂」の店舗の人達や店舗の壁や柱やその他諸々の空域の全てに吸収してもらっていたという気持ちを強く持っていた。そんな特別な場所空間が、小ぎれいな食堂にリニューアルしていたのを見ては、残念に思うしかないのである。

■つるかめ食堂
東京都新宿区西新宿1-2-7

「うまいもの市」で山形郷土食「だし丼」を食した

秋葉原では「うまいもの市」を開催していた(8/16~18)。

http://bellesalle.net/umaimono/

ぶらりと会場をのぞいてみると、1階は北海道から沖縄県までの地域の特産品の見本市の様相。そして地下会場は大震災で被災した東北各県の特別なスペースが設けられていた。

ちょうど昼食時であったことから、テイクアウトで食べられる処と食べものとを探していたら「ポレポレ食堂」という全車緑色で塗り込められた車を発見、派手派手な車体に山形郷土食の「だし丼」という看板に惹かれて、早速食べてみることにした。

キュウリ、茄子、大葉、茗荷、オクラ、山芋、等々の夏野菜を細かく切り刻み、醤油ベースのタレに漬け込んで冷やしたものが御飯に乗っている。一口食べればひんやりと冷たい野菜の食感が口の中で刺激的に踊っている。御飯の温かさと具材のひんやりした味わいのコントラストがとても食欲をそそっていたのだった。

郷土食でありながら、もっと全国的にポピュラーなメニューになってもよさそうな料理である。漬け込んでいけば日持ちもするし、家庭でも比較的容易に出来る料理なのかとも思う。今度機会があったら家でも作ってみようと思ったのだ。

西荻窪南口は、居酒屋「戎」の縄張りだった

西荻窪駅の南口という地帯一帯は実はおいらにとっての鬼門であった。そのむかし、西荻窪駅近くの「ほびっと村」にて写真展を行なった際、打ち上げ二次会パーティーをこの辺りのどこかの店で行なったのだが、その日その時間での小便タイムで場所を離れたのが最後で、二次会会場の店には戻ることが出来ずに慌てふためいていた。そしてついにはそのまま駅に辿り着いて中央線に飛び乗り、当時の我が家のある武蔵小金井まで帰ることになっていた。二次会会場には大量の酒等の贈答品物を詰め込んだバッグを置き去りにしてきたため気になってはいたのだった。なんとその置き去りにした忘れ物を、20数年ぶりに高校の同窓会で再会したばかりの同窓生が届けてもらいいたく感激していたというほろ苦い記憶が心の片隅にこびり付いて離れることが無い。行きはよいよい、帰りは怖いの、云わば鬼門的とおりゃんせ通りとおいらの胸中では呼ばれていて、長く近づくことは御法度となっていた。

さてそのような鬼門的界隈に何故足が向かったのかは判らないが、西荻窪駅を降りて少々右に行った界隈一角は、まるで「戎」の看板が何軒もの軒先にかけられてあり、云わば此処が「戎」の縄張りであることを知らしめされたのだった。人が肩をぶつけ合いそうなくらいに狭い通行路地の左右を挟んで4〜5軒の「戎」の店舗が、それも昔ながらの屋台店舗風の出で立ちで立ち並んでいたのである。

炭火を焼く串焼き屋台風店舗の暖簾をくぐると、中のカウンター席は相変わらずにむしむしとして暑苦しかったのだが、プーンと香る焼き物の香りに魅了されてもいたのだった。

豚の串焼きを頼んでビールで(ここはホッピーが置いていないのが最大の欠点なのだ)一服の喉を潤した後、「レンコン肉詰め」「ピーマン肉詰め」を注文。レンコンは塩で、ピーマンはたれでという店主らしき親爺のおすすめの通りに注文していた。生ではカサカサのレンコンが炭火で焼かれてジューシーな味わいになり、口に運ばれていた。レンコンの穴に程よく詰まっていた豚ひき肉の出汁がよくレンコンの身に絡まっていて美味であった。ピーマンの方は云わば普通の焼き物であった。おすすめのたれが良かったのか否かは判断が尽きかねているところだ。

汗をかきながらの「担々麺」はとても良い

暦は既に立秋を過ぎて秋だというのに猛暑の季節は一向に収まる気配もない。昼食のタイムにはおいらも蒸し暑いコンクリートのジャングルの中を彷徨いながらあれやこれやと食事と散策に励んでいるのではあるが、只単に冷たい納涼のメニューを求めているかと問われれば断乎として「否!」の姿勢は貫きつつ在るのだ。そんなこんなの気負いも多少あってか、満天火のごとくの昼の日に、「担々麺」を食することになっていたのでありレポートをしてみたい。

場所は台東区内の繁華街からは多少外れたところにある「蒼龍唐玉堂」。昼の時間帯には地元のOLや会社員達で満席になってしまう繁盛店だ。誰もがここの「担々麺」を目当てにやつてくるのだが、黒いもの、白いもの、赤いもの、等々があって戸惑うかもしれない。

本日注文したのは「白担々麺」。白胡麻の風味が食欲をそそるとともに、スープに口を付けるとともに中華山椒の辛みが舌を刺激する。じわ〜っとしてまとわりつく様な緩い感じの辛みであるが、しつこいという訳ではない。唐辛子が子供の辛さならばこれは大人の辛みとでも云っておこうか。

涼しい昼食をとった時とを比較すれば、その後の汗だらだらの仕草はまことにみっともなかったというへせきものであろう。店を出てからコンクリートの歩道を歩いていく時の暑苦しい思いは筆舌に尽くしがたいものがあった。だがおいらは夏には夏の汗をかくことを、夏季の生活スタイルの作法であるとも心得ていたのであり、特別な習いも無くして汗っかきの夏に突入しているという訳なのであった。

かつおの土佐造りとトマトはとても相性が良いのだ

あぶらが乗って美味そうなカツオの刺身を仕入れて土佐造りをつくった。玉葱のスライスに茗荷、大葉を細かく刻んでポン酢であえる。カツオはたたきよりも断然に刺身が上だが、それに薬味をくわえることで特に夏の季節の季節料理の有力メニューに昇華されたのだ。

そして今回のポイントは「トマト」を加えたことだ。イタリアンだろうが四国の郷土料理であろうがスパニッシュだろうがカツオとトマトは好相性であり、その真実を今更ながらに体験的に享受したのである。

この取り合わせは国際的な夏の定番と云っても過言ではない。無駄な火を通さずに涼しくあえるのが涼しく味わうコツ。猛暑の季節が途切れるまでに何度でも食べたい逸品メニューとなったのである。

八王子美術連盟のデッサン会に参加

今年3月の「八王子画廊散歩」に出品したことがきっかけとなり、地元の美術イベント等に参加することが増えてきた。本日は、八王子美術連盟が主催するデッサン会に参加したのだ。

会場は八王子市芸術文化会館、別名「いちょうホール」と呼ばれる4階建てからなる立派な会館。地元作家の作品展をはじめ色々なイベントが目白押しの会場だ。会場となっている最上階の「創作室」は高い天井から天窓が設けられており、天然自然光が室内に行き届いており制作活動の場所としては理想的なつくりである。

改めて基本的なことを述べて云えば、美術制作等の行為は極めて個人的な行為に属するのだが、かといって独立独歩で美術的創作活動の全てが実現するかと問えば、それは不可能であると答えるしかないし、独立独歩の精神と、地元作家・関係者達との交流とは共存させ得るものである。そう考えつつ、最近はよくこうしたイベントに足を運ぶことが増えているのである。

かつておいらは、デッサンやクロッキーと云うものを写実派的制作スタイルの強要とも捉えていたことがあり、美術学生の頃には出来るだけに、デッサン授業と云ったものには敬遠したがっていたものだ。だが改めてデッサン会等にてデッサンやクロッキーを行っていくことにより、個的な独立独歩的限界を拓いていくごときものであることを認識しているのだ。

彫刻家・佐藤忠良氏のアトリエを訪ねたある人物は、彼の描きかけのスケッチブックに興味を覚えてそのスケッチブックを譲って欲しいと頼んだところ、「舞台裏を見られるようで、それは勘弁してくれ」という答えだった。代わりに何も描かれていないスケッチブックを貰い受け、その後は大切な宝物にしている。つまりはそのくらいに、制作者は「舞台裏」を表に出したがらないということ。確かにこの思いの基本的心情は強く理解でき得るところだ。

だからと云う訳でもないが、おいらもデッサン会での描画等については写真に撮ってアップすることは控えることにした。いずれネットギャラリーやリアルギャラリーでの個展等では昇華した作品としてアップさせたいと考えているところなのです。

暑気払いだけではない「イカそうめん」の不思議な食感と効能

暑気払いの料理については当ブログでも様々述べてきたが、「イカそうめん」というメニューについては未だかつて扱ったことが無かったと記憶している。イカをそうめんのように細切りにして提供するだけの調理レシピであることから、暑気払いに効くとは考えてもみなかったのであるが、ここへ来てそんな考えがある種偏見的要素を含んでいるなと感じ取ったのである。つまりは、イカそうめんは暑気払いに効くのだ、ということを把握することが出来たので、ここで開陳していきたいと思うのだ。

注文して出てきた「イカそうめん」は、1~2ミリ程度の細かな包丁の手捌きを見せてくれていてまるで工芸品を目にするようだったが、それだけではただのイカ刺しの1バリエーションでしかなかったのだろう。だがしかしそのイカ刺しは、イカそうめんへとたしかにワープしていて立派な料理だったと感じ取ることが出来た。

まずは一口、箸ですくって頬張ってみたところ、とろけそうな甘い感触が口腔を満たしていた。そして出てきた「そうめんつゆ」にくぐらせてから後に口にした。そうめんとは大分違うが、そうめんのような食感を味わうことは出来たと思う。そしてその後には、小麦粉等の炭酸化物に接したときの食感とはかなりに異にした独特の食感を口に含んで味わっていたのだった。

この味わいは特別なものであろうと直感した。夏の猛暑のパワー減退に対して、イカの持つ特別なタウリンを豊富に含んでいるのだ。イカとタコとに共通して豊富に含まれる栄養素であり、この猛暑の時期を乗り越えていくには必須の栄養素だと云ってよいのだ。

上野アメ横の「文楽」の美味いもつ焼きで一息

仕事帰りに上野のアメ横に向かった。週末の金曜日とくれば近くの会社員、観光客、及び秋葉原から流れたおたくヤングらでアメヤ横丁通りはごったがえしている。人ごみを掻き分けるようにして向かったのはアメ横の「へそ」とも呼ばれる、居酒屋「大統領」の店だった。ところが満員の客で席に付けずに、道を隔てた隣の「文楽」という店舗のカウンターに腰を降ろしていた。

初めての店だったが、違和感は無い。いつものホッピーとと共にもつ焼きの盛り合わせを注文。隣の先客の親父も同じようなものをつまんでいたのが視覚に入ったとき、大統領の隣のこの店の売りももつ焼きだと合点。看板メニューだけあり鶏の肉質も新鮮であることを確認したのだ。

さてTVを付けたところ、香港だかの日本料理店に日本海側で採れた「のどぐろ」の鮮魚が24時間くらいで届けることが出来、現地の日本料理店が儲けている等ということを、大々的に取り上げているのは、違和感の塊となって本日の記憶に刻まれることになってしまった。財部誠一というコメンテータの解説が如何わしさに拍車をかけていたのである。

日本人の胃袋を賄うための食材は基本的に国内で、できるだけ近場で調達され提供されていくべきなのであり、そんな基本が崩れているところにこそには、財部をはじめとする如何わしい経済マフィアたちの動きが関係しているのである。確認のためにHPを検索してみたところ「経済ジャーナリスト」を名乗っていることを知り唖然としたところである。

詰まらない余談で稿を汚してしまったが、財部のいかがわしさについててはいずれ纏めて論じてみるつもりだ。

暑い夏の暑気を払うトマト&茄子の効能抜群的レシピ

昨年に続いて今年も猛暑の夏が続いている。地球温暖化の影響だろうことは最早明らかであるが、我々日本人も温暖化に対応した生活術を身に付けていかなくてはならなくなったのだ。

まずは食生活の徹底した吟味が必要である。暑い夏には夏の食材を、と云うのは鉄則である。この鉄則鉄板的に当て嵌まる食材は、トマトと茄子と云うことになる。

日本人にトマトのリコピンが足りないと、つくづく感じていたおいらだが、しかしながらそうは云っても年々トマトの国内需要は高まっている傾向にあり、杞憂に終りそうな気配ではあり、良い傾向である。

トマトは生野菜として生で食するのは一番であろうが、それだけでは食欲や食生活の充実と云った観点からは不充分であり、そんなことからもトマト&茄子を食材としての料理法の充実が望まれているということになる。ここではそんな中からのお勧めレシピを幾つか紹介してみます。


■トマトとジャコの冷奴
主としてイワシの稚魚を乾燥されて出荷される「ジャコ」とトマトは意外だが相性が良いのだ。少量のサラダ油で丁寧に炒めて、それを冷やした豆腐に掛ければ「トマトとジャコの冷奴」の出来上がり。写真は最初においらが食した居酒屋のメニューだが、家でもよくよくついついと作ってしまう、夏季の定番料理なのだ。

■トマトと卵、木耳の中華風炒め
トマトはまた卵とも相性が良い。卵と共に中華食材の木耳を炒めてトマトを加えれば、これだけで簡単で本格的な料理の完成である。


■茄子の一本漬け
漬物には「糠漬け」「浅漬け」等々様々あるが、茄子の漬物はそのままに一本、強めの塩で漬け込んだものが夏向きである。そして冷蔵庫で冷やしたものを和辛し等を添えてみれば、夏の絶品つまみの出来上がり。

大竹昭子さんの「図鑑少年」に嵌ったのだ

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「大竹昭子」という名前はとても気になる名前である。過去何度か、写真評論の文章に接していたが、作家や作品への洞察を通して時代の息遣いが渦巻いており、それを濃厚で香り高い料理を口にした時の様な刺激とともに感じ取ることができたのだ。

昨年10月に文庫本として出版された「図鑑少年」は、雑誌「SWITCH」と「フォトコニカ」に掲載されたものを纏めた小品集で、初出は1999年3月、小学館発行とある。小説も書いているんだなという興味で読み始めたが、久々にのめり込むことができた1冊であった。

決して新しい作品ではないが今読んでも色あせることの無い、現代人の息遣いが横溢している。大都会とそこに蠢き漂流している人間達との関係性が、まるで都会からの視点で描かれている様な不思議な感覚に包み込まれるのだ。何気ない日常と不可思議なストーリーを結びつけるのは希有な作家の想像力だが、それ以上に深い非日常性の魅力に嵌ってしまうのだ。傑作小説集と云うべきである。

福島産こしひかりが、5kg、1,780円なり

先日帰省していたら実家の親は既に昨年度(10年度)の米の予備米買い置きを既にしていた。おいらも今日は帰宅途中に昨年度(10年度)米の買占め、否、買い置きに走っていた。地元のスーパーでは未だ米は陳列棚に置かれていたのでほっとした。職場の千葉県内首都圏に居住する女性の話では、スーパーには既に米は無く、しかも値段が高騰しているのだということだ。おいらの地元スーパーには米が並んでいたのであり、ラッキーだったと感じ取るべきなのかもしれない。

おいらが購入したのは2kg入りのもので2千円前後のもの。そして隣に目に付いたのが、「福島産こしひかり」として大袋にて販売されていたもの。売りの値段は何と「1,780円」なり。おいらが購入した2kgのものと大差ない価格であったのだった。安すぎである。5kgと2kgとは倍以上の(正確に述べれば2.5倍もの)違いがあるのにこの差は何なのだっ! おいらは風評被害と云うものの実態をこの場所で感じ取っていたのだ。風評被害ある場所の農産物は不当に安い値段にて買い叩かれているのだ。

王子の「飛鳥山」&「平澤かまぼこ」を探訪

先日、町田康氏の「東京飄然」を読書していたら、王子の町の飛鳥山公園やその周辺のことなどがぼろくそに書かれていて気になって気になって仕方がなかった。いつしか自然と足が北区王子方面へと向かっていたのも故あることなり。王子周辺と云えば、かつておいらの生活エリアだった大塚から、都電荒川線にて繋がれていて格好の散策エリアであった界隈である。それをパンク作家の兄ちゃんだかがたかだか1回くらい、飄然として訪れて「失敗だった」と決め付けていたことにはとても釈然としないものを感じていたのだ。たかが公園の料理屋でうどんを食べて店員その他に冷たくされたとしても、或いは黙殺されて虫の居所が悪かったとしても、その旅が「失敗だった」と書き記すことの大人気なさを当のパンク氏はどのように捉えているのか? 考えるたびに益々解せない思いは強まってくる。いっその事現場に出向いて解析しようかという英断に突き当たったという訳だ、たぶん。

王子の飛鳥山は春の桜の花見時期以外はそう来園者も多くなく、児童公園には過去の栄光を無理して形にしたような「SL(D51)」やら「王子電車(荒川線の前身)」やらがまるで主役のような風体でドーンと立ち並んでいるのを見れば、ある種の子供騙し的プレイスだという感は拭えないだろう。そうかといってこの都内で最低標高の山の憩いの里的要素も漂ってくる。今年に入って都内で初めて蝉の声の合唱曲を聴いた気分になったし、或いは小高い山から都会の光景を俯瞰してみる様も、この場所ならではの特別な代物ではある。ただ単に1回の思い付きの飄然旅行の作家の目は恐らく節穴であったという結論が導き出されることになるだろう。

飛鳥山を降りて王子駅に向かう途中には「平澤かまぼこ」という立ち飲み名物おでん屋があり、地域の呑兵衛たちの憩いの場となっている。隣に立っていた初老カップルは映画関係者なのだろう、盛んにお勧め映画の講評等を口にしていて耳障りではあった。それでもそんな初老的団塊世代の胃袋の充溢や社交の場としてのプレイスが存在していることにある種の畏れの気分を抱かざるを得なかったというべきだろう。町田康はまだまだ甘ったるいし大人になりきれていないのだろうなぁ。

詐欺師跋扈の世の中をどうにかできないのか

上州の実家に帰省して親の話を聞いていると、「オレオレ詐欺」「振込め詐欺」紛いの電話や勧誘やらが増えているのだという。少し前には町内会から注意するようにという告知があったのだが、その前後にはしつこい電話の勧誘が続いていたので、なるほどこのことかと合点していた。どこからか入手した個人情報リストを元に高齢者宅を狙って電話を掛けめくるパターンの様であり、特に独居高齢者が狙われていることが見て取れる。

我が両親は幸い呆けてもおらず独り暮らしでもないのでそのような電話は何度も撃退してきたが、今後のことを考えるとこのままでは居られる訳も無く、地域の生活相談所や警察関係の連絡先を調べておいたりと、何らかの予防的対策をとる必要が生じているようだ。

人を騙し騙されることをまるでゲームのように捉えて放置し続けてきた金融市場主義、新自由主義的風潮のつけが、ここへ来て破裂しそうな社会不安を煽っている。これも元をただせば、小泉・竹中らによる金融市場主義的新自由主義の過ちの帰結である。こんな主潮は逸早く断ち切っておく必要があることは明らかである。

余談になるが米国によって今まさに押し付けられようとするTPP等は、断然として即刻拒否の態度を示すべきなのだが、現民主党政権は優柔不断で何とも頼りない。第二の自民党と云われる所以でもある。菅直人総理には、脱原発のみならず、アンチTPPにおいてももっと決然としてリーダーシップを発揮してもらいたいものだ。

この時期の金目鯛の握りは絶品だ

昨日書いたイワシは血液サラサラの成分「EPA」「DHA」が豊富で美味い魚だが、それ以上に美味い魚はまだまだ沢山在るのであり、そんな美味い魚のトップを狙う位に美味いのが「金目鯛」なのである。この魚、見た目も赤々として派手ではあり、派手好きな親爺などの人気のツボをキャッチすることは容易であると推察する。更には身の味わいも一流であるとくれば鬼に金棒と云ったところであろう。白身魚でありながらその身は甘みとこくとが充溢していて、とても白身魚の淡白なイメージとはほど遠いものである。

本日はこの「金目鯛」を握り寿司で頂くことになったのだが、期待に違わずにこくも甘みもそして魚のエキスも充溢していて満足だった。

今こそ「いわし(鰯)」を食べて日本を元気にするのだ

福島原発事故の影響で東北を中心とした農畜産物の売り上げはさっぱりである。牛肉、農産物をはじめとしてこれから注目が集まる「新米」についても、果たして例年並みの流通が可能となるのかとても不安が広がっている。先日の栃木の旅では美味しい「岩魚」「鱒」等の川魚を味わったが、東北の、なかでもとりわけに福島近辺の川魚は全て出荷停止の処置がとられている。当たり前のように享受すべき川の恵みを、福島はじめ東北の人々が得ることが出来なくなっていると云うことをもっと深刻に捉えるべきである。怒りは収まる気配も見られないが、前向きに向かっていく心意気も至極重要なことなり。

と云う訳で、ここでは「いわし(鰯)」に注目。鰯と云う海魚は身体形が小さいことや陸上げされるとすぐに弱ってしまう、腐りやすい、等々のことからこういう呼び方をされてしまった魚である。同じ位の体長の鯵に比べても、何となく弱いイメージが付きまとってしまう。う~む、鰯の個性とは果たして何だろうか…?

以前にも書いたはずだが、鰯には青魚特有の「EPA」「DHA」という、血液をさらさら状態にする成分が豊富に含まれている。牛肉等の「アラキドンサン」に比べて、血液の健康状態を維持するのは鰯成分が何倍も勝っているのだ。同じ魚類のカツオ、マグロも、鰯の健康成分を吸収して大海を回遊している。もし鰯の身から摂取する「EPA」「DHA」等の成分が取り込めなかったとしたら、カツオ、マグロ、その他の魚介類は大海を回遊するほどのパワーを持ち得たのかと考えてみれば、とても難しかったと云うべきである。カツオやマグロを食している日本人にとっても同様のことが云えるのだ。

贅沢な味覚を追求することは一旦止めて、今こそ「いわし(鰯)」をはじめとする海魚の恵みにあまえて行こうではないか。

町田康氏の「東京飄然」は煎じ詰めれば詰まらない1冊だった

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おいらは現在、読書進行中の書籍が数冊在る。別段改まってのたもうような事柄で無いことは重々承知なのだが、今日は改まって記したくなってしまったので、何とも面映い心持ながら個人的事情も鑑みて寛大な評価をいただきたいとも思いつつ、それでは次の章に突入するのだ。

実は我が国の栄えある芥川賞、直木賞、あるいはそれ以上に人気抜群のカリスマ作家達を含んでいるのであり、これまで軽々に話題にすることさえ憚られていたのである。つまりはこれらの書籍を読了できずに中途半端に放っているという状況とはすなわち、読書のスピードが上がらずにもたもたしている様を示しており、煎じ詰めればつまりは該当の著書が面白くない、詰まらない内容だということを意味しており、そんな様を、ブログという半公共的な媒体にて表明してよいモノかと悩んでもいたのだ。だが悩みは人を廃人にかすことあれども人を強くすることもままありなんなのである。そして本日おいらは半分くらいのところを読み終えたところで「飄然」と悟ったのだ。「詰まらない本を詰まらないから読んだりしないで他の時間に費やしましょう」というメッセことージを堂々として発信することにより、我が国の文学愛好家たちの役に立つことが出来るのではないかと。そうしなないことには我が国の文学愛好家達は何時かはこの「東京飄然」を読むことになるし、そしてその延長として他の有意義な書物に接する機会を逸してしまっているということになるのだ。ここは腹をくくって、いかに立派で厳かな芥川賞作家の先生の本を読んでも詰まらなかったということを、公開することに決めたのだった。

半分以上のところまで読み進めていたのでこの本のスタイルやポリシー、今時の言葉で言えばマニュフェスト的なる代物といった代物については把握している。「飄然」として東京都内を旅することをテーマにして、作家町田康氏が独りあるいは友人を引き連れて飄然と旅に出るのだが、この「飄然」の意味や風合いやその他諸々をこの芥川賞作家は少々はき違えており、なかんずく「飄然」が「漫然」の対語である等というしゃらくさい薀蓄を述べたり、王子近くの飛鳥山公園や江ノ島・鎌倉旅行を「失敗だった」と書き記し、そんなことしながら1万円以上のディナーに耽ったりという、作家風情を肩に切って歩いている様子には辟易したものであったのだ。

実はこの先を読み進めるべきかどうかは未だ迷っているところだが、素読みしていたところ、中央線沿線の旅も似たかよったかの様であるのでこの辺で止めに入るのが妥当であろう。

「だし奴」にみる美味い「冷奴」の条件

昨晩は「だし奴」に触れながらもその詳細について書き記すことをしなかったのは、睡魔に襲われていたからと云うのが主原因だが、然しながらそればかりではなかった。冷奴の中の筆頭メニューとも云うべきだし奴というものが、はてな通常の冷奴こと比べてどうなのか? そうした思いを整理する必要が在ると感じていたからでもある。

「だし奴」の「だし」というのは、山形県の郷土料理として名高いものであり、胡瓜、茄子、葱などの夏野菜を醤油ベースのタレに漬け込んだものだ。それを冷やして保存食とする。御飯に掛けて食べるのが定番だが、豆腐に掛ければ「だし奴」となる訳である。葱+生姜+鰹節といった通常の冷奴の具材に比べて夏野菜が主要具材であることから、夏のほてった身体を冷ます効能が発生する。鰹節を使わないで天然の野菜から生じる「だし」が隠された味わいの決め手なのだ。野菜出汁が主役なのだから美味くないはずが無かったのである。

御徒町ガード下の「佐原屋」で美味いホッピーを呑んだ

上野アメ横に接する御徒町界隈には数多くの居酒屋が乱立するが、長きに渡って営業し続ける店舗は極めて少ない。毎年のようにその街並みの光景は替わっていくし、季節の移り目とともに看板の貼り替えはひきもきらない。だがそんな中でも古くから呑兵衛達に愛されてきた繁盛店も存在する。そんな店の代表格が、御徒町駅ガード下の「佐原屋」なのだ。

本日は2番目の土用の丑の日であった事から何かを期待して訪ねてみた。鰻のメニューは何も無く、さりげなくその事を訊ねたところ、2、3軒隣の鰻屋さんへ行ったらどうかというようなそっけない応えであったが、隣に陣取っていた兄ちゃんがその鰻専門店の常連だとかで話がはずみ、ホッピーも普段以上に美味しく味わえたのだった。

ちなみに当店のお勧めはといえば、とんぶりメニュー、中でも「山かけとんぶり」は絶品なり。まぐろの切身と山芋の相性は言わずもながらだが、そこに山のキャビアこととんぷりの鮮烈なプチプチ感が加わることにより、3つの素材が3倍ならず3乗にも掛け合わされた程の濃密な味わいを放つのだ。このメニューは佐原屋以外で食べたことは無く、多分家庭でも食されることは無いものであろうから、佐原屋のオリジナルなレシピとして表彰してあげたい、それくらい嬉しい感動的なつまみなのである。その他、「だしやっこ」等のオリジナルメニューもうまかった。機会があったら「だしやっこ」のこともレポートしたいのだが、今宵はこれまで。

青々としたこの「枝豆」の青春期のエキスを味わう悦び

枝豆が美味い季節になった。今年も既に何度か食しているが、今年は何やら不作で市場価格も高騰していると聞く。特に直前の新潟・福島地方を襲った豪雨の影響によって、同地域の枝豆畑は甚大な被害を被ってしまった。上手いビールならぬホッピーに枝豆は欠かすることなどできず、多少の市場価格高騰にも目をつぶって良いものを手に入れて味わいたいと思っていたところであります。

改めて書くのもなんなのであるが、「枝豆」というのは「大豆」が成長する前の、云わば未成熟のときのものを収穫しているものを指す。未成熟とは云えどボリュームも味わいも充分に一人前の体裁はとられており、何故に未成熟等と称されねばならないのかという、当事者達からの不満や異議などが噴出するかと思えば現実は決してそんなことは無く、極めて友好的な、枝豆と大豆との棲み分けはげんとして存在している。外野風情が余計な心配などすることもなかったという訳なのだ。

居酒屋でホッピー(昔はビールだったが今は通風対策でホッピーなのだ)を注文し、つまみとして出された鮮烈なる黄緑色の枝豆を見る度に、このシンプルな取り合わせの妙には心を動かさせたのだった。つまりはこの未成熟期の枝豆は呑兵衛のために完熟後のライフを犠牲にしてこうして我国において最大ポピュラーな酒のつまみとなってここに居てくれるのかと、特別な感慨を抱かざるを得なかったのである。