「離婚は卒業」と強弁する悪女、沢尻エリカの新たな芸能戦略

 

スポーツ紙上ではまたぞろ、沢尻エリカの離婚騒動の記事が踊っている。先日の「たかの由梨」が設定したマスコミ会見場にて沢尻エリカは記者団の質問に答えるかたちの受け答えの中で、高城剛氏との離婚を「離婚は卒業」だと語っていた。夫の側としてはかなりの屈辱的なコメントなのだが、エリカにとってはこんな男の扱いは極めて日常的な行為でしかないようなのである。

スポーツ紙、芸能マスコミの報道内容をざっくり眺めてみるならば、「聖女と悪女」というのが今回の、たかの由梨CMのテーマだそうである。そして、聖女よりも悪女というのが、沢尻エリカに対する多数派の評価なのだというのである。

「悪女」論については当ブログでも過去に述べたことがあるが、今回はそれについては控えよう。

芸能マスコミ界では一段とスター扱いのエリカではあるが、過去のスターとの違いは歴然としている。例えば、松田聖子、中森明菜、ピンクレディー達のようなビッグヒット曲を持つわけでもないし、山口百恵のように、カリスマ的な存在感を示している訳でも残念ながらないのである。

彼女のプロフィールの中で唯一強調されるべきものは、井筒和幸監督による映画「パッチギ」に主演したときの演技力が秀逸であったということである。否、そのことでしかないと云ってよい。確たる実力が無いアイドル・タレントの末路は悲惨であることを、はてな沢尻エリカは自覚しているのであろうか?

時は折りしもSoftbankのCMでは、加藤清史郎君が「ちやほやの法則」についての講義を行なっている。初めはだれもがちやほやする。ちやほやされる度合いが強ければ強いほど、それだけ高く高くと持ち上げられて、ついには落とされるのである。芸能マスコミが一旦持ち上げた対象を落とすことは初めからの約束であり、約束に従ってジャリタレは落とされては泣きを見る。これこそ芸能マスコミ鉄板の法則の一つである。

彼女はたぶん、高をくくっているのだろうか? いつか落とされることは自明であり、それから井筒監督に救いを求めても遅いのである。早く井筒監督の下でもう一度、しっかりとした女優の修行に励むしかないのである。